初再呈示。もう五年前か。そのくらいは経ったろう。もっと以前だった気さえする。  

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b) 何として信仰はあるのか。

信仰は、合理的に強制されて確信されると、私の手から滑り落ちてしまう。私が根拠を呈示されて知る とき、私は信仰する のではない。客観的に妥当するものを承認することは、いかなる実存の存在をも必要としない。すなわち、信仰が客観的に確かなものとして与えられる場合、信仰は非真理(Unwahrheit)なのである。〔真の〕信仰は、敢行(Wagnis)である。完全な客観的不確実性こそは、本来的信仰の培養基(Substrat)である。神性が可視的で証明可能であったなら、私は信仰する必要はないであろう。むしろ、信仰のあらゆる客観的源泉が涸れるのを視ることこそ、実存の自由が、超越者と関係する自らの根源を意識する経験となるのである。
 知識行為(Wissen)は、世界の内における有限的なものに関係する〔のに対し〕、信仰行為(Glauben)は、本来的存在に関係する。知識行為は、どんな確実性においても、無限な過程をたどる批判的懐疑に服する。〔それに対し、〕 信仰は完遂されて実存の力であることを証する。
 私が信ずるもの、それは私にたいし、対象的なものにおいて語りかけてくるのだが、私は自分の自己存在によって(durch mein Selbstsein)、この私が信ずるものなのである。すなわち、私が私の信ずるものであるのは、受動的にでも客観的にでもない。つまり、単にそれを受け取る者としてそれであるのではない。私がそれに責任を負っていることが自分でわかっている私自身の本質として(als mein Wesen, für das ich mich verantwortlich weiß)、私は私の信ずるところのものなのである。私は信仰を、意志や悟性によって自分に強いることができるのではない。

〔訳者(ぼく)が青で彩色した原文の一段落は、うならせる感無量の感触がある。ヤスパースもここまで言っていたかと、その本質理解に感嘆する。〕

〔備考: 「悟性」はVerstand の訳。カント哲学の術語としては、「理性」(Vernunft)すなわち形而上的知性よりも哲学的には下位の、単なる分析的(形而下的)知性を意味する。但し、二種の知性があるわけではなく、そう思うこと自体、思弁的な錯覚であるとぼくは思っている。カントの主旨もそこにはないはずであり、本来、「理性の批判的吟味」のための方法的視点からの区分であると見做すのが妥当である。〕

 私の信仰の真理性を、信仰を客観的に視ることによって、私の良心は、歴史的状況を顧慮しながら吟味する。これに対して、あらゆる合理的な吟味というものは、信仰を、根拠づけられない根源として顕わにするだけである。
 信仰は、破壊することのできない希望としての信頼(Vertrauen) である。信仰のなかで、「現象するあらゆるものは不確実である」という意識は、存在の根拠への信頼となって解消される。信仰のなかで自分を貫く存在確信は、〔こうして〕 自らが超越者に面している(angesichts der Transzendenz)ことを知るのである。その場合、超越者への何らかの感性的実在性をもつ関係が真理として与えられるといった欺瞞は、ありえない。

c) 能動的信仰。

信仰は、無制約的行為の根源における存在確信としてある。信仰は「歴史性」(Geschichtlichkeit)としてあるのである。
 行為が、単に刹那的な目的のために偶々為されるのではなく、〔刹那的・合理的次元での〕目的意識に縛られることなく(zweckfrei)拘束し導くような或る根拠の深みに不動に根ざしている(ruhen)かぎり、このような行為において、信仰は、あらゆることを担い耐えようとする準備(Bereitschaft, alles zu ertragen)なのである。〔ここで必当然的に、ぼくは、終戦時、強制的抑留先のドイツからフランスへの単独帰還を、自分の生死問題を超えて決意実行した高田先生の内に働いていた根源的意識としての「信仰」を想起している263 フランスへ(手紙百四十六・ランス大聖堂薔薇窓) 〕 信仰の行為においては、種々の具体的目的へ差し向けられている活動性は、「確信」と一つとなって、たとえ一切が挫折しても(auch wenn alles scheitert) 真なることを為すことが能うようになるのである。神性の測り難さは、安らぎと、「可能である限りは私が出来ることを為そう」 とする衝動を与える。即ち:

〔カントの実践理性における神信仰の在り方が、実存哲学的な仕方で復活しているという観がある。 尚、『哲学』第三巻「形而上学」に、つぎのようにある(III.225):「挫折の意識から、無価値さ〔一切無常〕の受動的意識が生じるのは必然的なことではなく、〔却って〕 本来的な能動性が可能となるのである。没するものは存在したのでなければならない。」 存在意識の逆転というべきである。〕

 〔即ち、〕 現存在においては いかなる確かな予測も 存在しない。一切は、「ひじょうに大きなまことらしさ」と「〔同様程度の〕ありそうもなさ」との〔この二つの〕限界の間に在る。現存在する生としての我々は、確かさ(Sicherheit)を求める。我々は「不可能なこと」に懐疑的である。しかし信仰は、現象の次元での確かさを断念することができる。信仰は、どんな危険においても可能性を把持する。信仰は、世界のなかで、「確実さ」も「不可能さ」も知らない。
 このような能動的信仰が、自らの最高の証を持つのは、こういう場合である: すなわち、自らの歴史的一回性を活動的に実現すること が、これと一見矛盾する意識、つまり、窮極的には一切が没落する という意識、私の隣人、私自身、私の民族、あらゆる客観的具現が、窮極的には没落してしまうという意識と、共に見出される、そういう場合に、能動的信仰は最高の証を持つのである。この意識が純粋に保たれ、「彼岸世界」(ひとつの国として存立している)や「現世」(自民族の生の永続、理念実現の際限なき前進 〔等〕)を、けっして固定化することがないならば、その場合こそ、「超越してゆく存在確信」の信仰が、いかなる利害関係によってももはや濁らされない神性との結束において可能となるのである。



〔「信仰」の項ここまで〕