モーリヤック 「シャルル・デュ・ボスの『近似値』」 より:

『我々をシャルル・デュ・ボスの『近似値』に向かわせるのは・・・ シャルル・デュ・ボス自身が読書の目標なのである。彼は、その全生涯を通じて、定評ある批評家というのではなくして、熱烈な読者あるいはむしろ熱烈な芸術愛好家であった。・・・ この作品は文学批評の労作というよりもむしろシャルル・デュ・ボスの『日記』と言う方がふさわしく、これは確かに特別の本ではあるが、彼の読書日記であり、直接の打ち明け話を書く日記と同じ目標を持った作品なのである。
 熱烈な読者であるシャルル・デュ・ボスがヨーロッパのあらゆる文学のなかに探し求めるもの、それは自分の内面のドラマに対する応答であり、もし魂が存在するのならば同時に神も存在するということの証言である。彼が表面的には宗教から遠く離れていた時代でさえ、またおそらくそういう時代にはよけいのこと、批評家シャルル・デュ・ボスにとっては、研究対象に選んだ作品のなかに、それが無信仰の作者の手によるものであったとしても、魂の存在を明示するあのひめやかな精神的生命が宿っているということを検証すること、これ以外の問題はありえなかっただろうと私には思われる。
 デュ・ボスは自分の魂を信じていたが、しかし魂とは一体何なのか、またこの魂という言葉は、ヨーロッパ半島からあの驚異的な交響曲が沸き上がってくるというようなことがないのならば、一体何を意味するのだろうか。その交響曲においては、音と色とが思考になり、愛が一度ならず無限の「存在者」を抱き締めたのであった。』

傍線引用者。モーロワに次いでモーリヤックがデュ・ボスを論じている。
ぼくには親しい内実の確認であるが、これだけ明瞭にはっきりと言ってくれているのは さすがだと思う。 魂という個が、汎ヨーロッパ文化という普遍と直結している。こういう精神伝統は、他と比べるまでもなく貴重なのである。



「工夫」(知)ではなく、「創造」によって 内心問題を克服する。 悟りではなく、愛によって。




知に秀でる者は知に己惚れる。そういうことはもうほんとうにやめたほうがよい。人格の正しい方向とは逆である。知を有用としている人為社会で受け入れられているにすぎない。連中のいう実力は魂の実力ではない。なのに日本はそのことを自覚する精神伝統に欠けている。哲学も神学も無いからである。





〔思いついたから これは別件として書いておく。ぼくは人間に関して性悪説が正しいのか性善説が正しいのかなど かんがえたことがない。簡単に言えば、人間への態度としてどちらも必要という、ごく当たり前な感覚からであって、たとえばカントの人間観が性悪説だなどという見解は、カントを正しく読んでいたら言えないことである。カントの「根本悪」の議論を踏まえたつもりなのであろうが、カントは同時に「理性信仰」を言っているのである。そしてこの二つは相即不二である。彼の批判主義の意味をまずよく理解すべきである。信念(そういうものは水掛け論になる)の問題ではなく、知性秩序の問題であり、それを通らなくては真の信仰は自覚されない(この場合「自覚」でよい)。〕 




2016-09-15  23:58:33
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(*) 参照: 説明付加 

テーマ:


絶対的意識・ 良心(Gewissen) f) 〔ヤスパース『哲学』原典訳〕 の文中につぎの説明を付加した:

〔ヤスパースの「存在の思惟」は、その「包括者論」もふくめて、存在を思惟することにおける思惟そのものの挫折を示し、まさにこの思惟の挫折を通して、思惟をして「本来的存在への開放的態度」を得させることを意図しているものであると理解すべきである。そのかぎりで、対象的に思惟された超越者をその都度揚棄するのは当然であり、それは、真に決定的な実存的現実において最も深く純粋に超越者に当面する経験が生じる可能性にこそ、場を開けておくためなのである。そのための、逆理的に主題的な「思惟への傾き」であり、謂わば「挫折という限界への関心とこの限界経験への情熱」に基づいているものである。すなわち、ヤスパースと高田の両者は共に、「具体的で純粋な超越者経験」をこそ窮極的なものとして志向しているのであり、ヤスパースが「思惟から生じる存在展望の諸様態の確認とその思惟された限りでの諸様態各々の限界の確認」(これが「包括者論」の、簡潔に言表しうる本義である)のために不断に、謂わば哲学的義務感から、改めて「存在の思惟の挫折」を説き続けるからといって、この哲学者が「東洋的無」に接近すると見做す向きには、最大級の疑問の眼差しを向けざるを得ないのである。〕




2016-09-16 14:55:50
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『 「近似値」の中では「接近」が試みられる。この『近似値』という書物が我々読者に語りかけるのは、デュ・ボスの愛するさまざまな作品を通じての、彼の魂や彼の神へのこのゆるやかな接近である。・・・

・・・

『近似値』の著者は、・・・ 私もよく知っている孤独に苦しんでおり、・・・ そうした欲求を秘めたキリスト教徒(彼の回心以前には)であり、また生涯の最後の十年間には神秘家になっていったが、彼の知っていたあらゆる文学のなかに、人間の魂のそしてそれ故に神の保証人と証人とを求めて止まなかった。しかし、彼が悦楽に、しかも読書の悦楽と会話の悦楽という二重の悦楽にまず自らを委ねていたということを否定すれば、彼の姿を歪めて伝えることになってしまうであろう。彼は自分の読書体験に、我々を魅了したあの談話のなかで、管弦楽法を施した。多彩な文学的テーマに基づく変奏と即興、これこそこの批評家の作品のタイトルにふさわしい(近似値というタイトルよりはずっと優れている)と言えよう。・・・ そして、彼の人生の劇は、書物を離れたところでは、彼が書物から受けたこの二重の悦楽を離れたところでは、彼が完全に無防備で、この厳しい世の中にまったく適応できない人間だったというところにある。彼ほど無防備でこの世に不適応な人間に私は出会ったことがない。・・・』

 

『 四半世紀が経過したあとも、『近似値』と『日記』のなかでデュ・ボスは生きながらえているが、それは奇跡的であるとしか言いようがない。私の意味するところは、哀れなシャルリが彼の時代に適合していなかったのと同様に、彼の作品も現代に適合しているわけではないということである。しかしながら、この作品は今でも一層不可思議なものに見え、まるですでに死滅してしまった惑星から落ちてきたかのような印象を与える。それは現存しており、ソルボンヌで先生たちやその弟子たちによって研究されているのだが、そうした研究者たちは生前のシャルリの魅力を我々のように味わったことはなかったし、彼の書物を開いても友情に譲歩するわけでもないし、愛すべきシャルリの声の反響を私自身がするようにそこに追い求めたり苦い快感を感じつつその反響を確認するというようなこともない。・・・ きわめて少数の忠実な精神と心情のなかで生き残るだろうということを彼は知っていたが、そうした人々のことしか気にとめておらず、彼が書いたのはまさしくそういう人々のためであった。それ以外の人間は、彼の呼び方を借用すれば「異邦人」でしかない。彼がまだこの世にいたとき彼は我々友人をあの会話というよりもむしろあの独白で魅了してくれたのであったが、そうした会話もしくは独白を今日の読者を相手に彼は語り続けているのである。』


モーリヤック「シャルル・デュ・ボスの『近似値』」より




宗教的・魂の生 


どうするかもなにも 生きているかぎりなにかをしなければならない。
行動しなければならない。
人間の欲する行動は創造である。
創造とは、内なる魂的欲求と一致する行動により、魂を証するものをつくることである。
それが芸術の本質である。
それは最も内的な思想の実践である。
思想が形を得ることである。
日々実現しつつ探求することである。
それが魂の生なのだから。



魂の生、メーヌ・ド・ビランはこれを≪vie de l'âme≫と言った。
その内容の定義はぼく独自のものである。
宗教的であるということでは一致している。それが本質である。



宗教的とは、外部にひれ伏すことではない。自分の内部に、美の欲求にしたがうことである。美の欲求は愛の欲求に等しい。


みずからすすんで背徳者となることである


「異端でなければ精神にはなんの意味もない」 


この世が神のものだろうが悪のものだろうが関係ない


神は自分の理念である


Il faut tenter de vivre !