f) 良心の声と神の声

私が良心において超越者に面して立つのであっても、しかしそれは超越者に傾聴することではない。私は、もうひとつの別の世界からの声に従うように超越者に従うことはできないのである。良心の声は神の声ではない。良心が語るということ、それはまさに神性が沈黙するということである。神性は良心においても、どこでもそうであるように、隠れたままにとどまっている。良心において私は自分が超越者に向けられているのを見るのであるが、しかし依然として自分に立脚しているのである。神性は、みずから自身を私に示すことによって私から「自由」と、それとともに「責任」とを奪うことをしなかったのである。

〔理性信仰(Vernunftglaube)の立場のカントも、神が我々から隠れていることについて、同様のことを言っている。ここでヤスパースが「神」と言いたいはずのところで「超越者」あるいは、殆どその換言である「神性」(Gottheit)と言っているのは、高田博厚の、「ぼくには神という言葉を使うのがまだ怖ろしい。ぼくにはまだまだ禁断の言葉だ。とても力(自信)がない。だから宗教的とか、メタフィジックとか言っている。」(以上、記憶のまま)という態度を想起させる。「力(自信)がない」と言いながら、高田は、じつは同時に、カトリック教徒の、安易なというのが高田の本心だろうが、その信仰態度から、自分を対峙的に区別したがっているのである。この点、ヤスパースの、キリスト教的啓示信仰に対峙する姿勢と同じものをぼくは感じる。ヤスパース自身は、「神」(Gott)という人格神の観念を、超人格的な本来的存在たる超越者のひとつの「暗号」(Ciffre)のかたちとして観じようとしているが、高田の場合は、あくまで全魂を挙げて、己れの存在の時熟の果てに、遂に「神」を感得するに至ろうとする志向を貫いている。両者のこの「相異」は、しかし、両者の形而上的根本態度の根源的相異をしめすものではないとぼくは思っている。直截に言えば、ヤスパースは「思惟」に傾いており、高田は「感覚」に傾いている、そこのところの「相異」が、両者が異なる外見となっている〔ヤスパースの「存在の思惟」は、その「包括者論」もふくめて、存在を思惟することにおける思惟そのものの挫折を示し、まさにこの思惟の挫折を通して、思惟をして「本来的存在への開放的態度」を得させることを意図しているものであると理解すべきである。そのかぎりで、対象的に思惟された超越者をその都度揚棄するのは当然であり、それは、真に決定的な実存的現実において最も深く純粋に超越者に当面する経験が生じる可能性にこそ、場を開けておくためなのである。そのための、逆理的に主題的な「思惟への傾き」であり、謂わば「挫折という限界への関心とこの限界経験への情熱」に基づいているものである。すなわち、ヤスパースと高田の両者は共に、「具体的で純粋な超越者経験」をこそ窮極的なものとして志向しているのであり、ヤスパースが「思惟から生じる存在展望の諸様態の確認とその思惟された限りでの諸様態各々の限界の確認」(これが「包括者論」の、簡潔に言表しうる本義である)のために不断に、謂わば哲学的義務感から、改めて「存在の思惟の挫折」を説き続けるからといって、この哲学者が「東洋的無」に接近すると見做す向きには、最大級の疑問の眼差しを向けざるを得ないのである。〕のだが、これは、マルセルが「間主体性」(他者関係)の問題を重視するのにたいし、高田があくまで「孤独」の「主体性」を己れの核とする態度を貫くことの、その相異と類似的なものである。これについてはすでに言ったからここで繰り返すことはしない。言っておくべきは、ヤスパースが「本来的存在の超人格性」を思惟するからといって、それを〈仏教思想への接近〉ととらえる日本の学者達の態度は、きわめて甘く観念的で、一種の学問的御都合主義だとぼくは思うということである。そういう態度の者達よりも、ヤスパースと高田博厚こそ、その根源的に自立的な、「実存」の信仰態度において、深く親和的であり、この方向において両者を辿ることが、ぼく自身の探求姿勢でもある、という、このことを言っておきたい。日本のヤスパース学徒は、実存を思惟しはするが、その現実は、きわめて通俗的に日本的であり、どこか実存揮発的である。〕

 「良心の声」と「神の声」とを同一視することは、この同一視が、あたかも神がひとつの「汝」(Du)として私に向き合って私に語り掛けるかのように見做す態度に、私をみちびくならば、私自身と神性とを、混同紛糾させるものである。その場合、良心における「自己との交わり」は、客体的に構成されて、ただ憶測で直接的なものと見做されるところの、「神との交わり」となるのである。
 このことは、その帰結として、まず、実存から実存への事実的な交わりを、廃棄してしまうであろう。神と直接に交際する者にとって、他の単独的個人が、なお絶対的意義を有するなどということが、どうしてあり得よう! 〔ここで感嘆符を打っているのはヤスパース自身であり、きわめて異例である。この彼の殆ど義憤的な感情には、ぼくも同感である。特に日本のプロテスタント系キリスト教信徒の内的態度には、高慢なる偽善が最もよく感ぜられるというのが、ぼくの経験の殆どである。ああいうことでは「人間」としてもだめである。ほんとうに「意識系」の連中には嫌な思いが多い。「美であるような愛」のみが大事なのである(それが絶対的意識である)。〕 私が「汝」としての神と交際できるとするならば、他者の良心は私とは疎遠なものとなり、この良心に対して私は不寛容に自分を閉ざすことになろう。この場合、「汝」としての神は、私が自己閉鎖する手段になっているのである。あらゆる「神との関係」は、即座に実存的交わり――これを通してはじめて「神との関係」は真であり得る――として自分を実現しないならば、この「関係」なるものは、ただそれ自体において疑わしいものであるのみならず、「実存への裏切り」(Verrat an der Existenz)でもあるのである。
 しかもその場合、「良心の声」と「神の声」との同一視により、良心そのものと、私にとっての神性とが、ともに失われるだろう。神性は良心のなかで「狭さ」に呪縛されているかのようであり、良心はもはや、運動において自らを見出す自由な根源性ではないであろう。
 良心は、結局、歴史的形態においてその都度「ひとりの」人間の良心なのである。〔つまり、〕良心が良心に対立するのである。「ひとつの」普遍的良心なるものは存在しない。それでは、「ひとつの」良心の真理が「他のひとつの」良心の真理に反対して闘うとき、「神」に対し「神」が反対するのであろうか? 神性をただ自分だけのために要求し、他者には認めないのは、自分自身を打ち砕く傲慢というものであろう。
 神が世界の内ではいかなる客観的現実でもなく、自分を示すこともなく、そして良心の内においても自ら語ることがないとしても、それでもやはり、神は良心において間接的に自らを告知することがあるのではないのか。しかも、良心が神性と格闘する(ein Ringen mit der Gottheit)に至る場合にこそ最も決定的に、神は自らを告知しうるのではないか。それはつぎのようなことである: 私は、良心において、私自身として、私の不断に自らを問い直す無制約的意志の、根源に臨んでいるのである。この意志によって、私は、諸々の限界状況のなかにある現存在の暗闇の只中で、私自身へと回帰するのである。この〔自らを不断に問い直す私の〕意志において、私は〔同時に〕謂わば、神性〔そのもの〕を、応答を得ることなしにも、詰問しているのである。そして私は、神性を信頼することによって、洞察によることなく、現実に服従するか、あるいは〔逆に〕、神性のために(zur Gottheit)「問い」のなかに立ちどまることによって、現実と和合しないのである。したがって、良心においては、「神のために在ること」(das zu Gott Sein)は、同時に、「良心に基づいて神に逆らう」という可能性を意味するのである。〔こういう根本態度が根底に存するヤスパースは、けっして仏教の根本態度と和合しない。「超越者」が放棄されることはありえない。〕 良心において神を探求することは、同時に、最も甚だしい「反抗」(Trotz)をもって「神を拒絶すること」(ein Gott Verwerfen)として言表されるような可能性なのである。

〔Gewissen(con-science:共に知る)を慣用的に「良心」と訳しており、それは間違いではないのだが、ここで展開されている思想は、通常の意味の底を深く突破してしまっている。また、『哲学』第三巻「超越者への実存的連繫」で主題的に論じられる「反抗」の奥ゆきの深さは、いまのぼくの深刻な経験からの「神の理念」の再把握の態度にも、ついてくるものであることを、いまここで確かめた。甚だ意義深い。〕


〔f) ここまで: II. 272-273〕