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評価というものはいいものなのかそうでないのか。自分が最も純粋な本音、真実を書いているのは、評価されないうちであるとも言い得る。ゴッホが感動させるのはその孤独なエネルギーによる。生前に評価されている彼などかんがえることもできない。最高の傑作は、本人にしか見えない星のようなものだろう。
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媒体の性能にもよるのかもしれないが、現今のクラシック演奏に感銘をうけるものなど本当にめったにない。本質本位がクラシックだとして、現今、この「本質」の質が問題なのだ。ぼくがここであらためてくどくど言うようなことではあるまい。
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有益かどうかじゃない。自分の根源から離れるような雰囲気の欄には訪問したくないんだよね。かならず気分的に後悔するから。
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この節を評価できなければぼくの理解者としては失格だというのがぼくの正直な気持。ぼくのほうも無関心が表面化してきた。
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ぼくは小説家のように創作はしない。思想家のように理論構築はしない。「真実」にのみ関心がある。そして真実は「志」なくしてありえないことを知っている。「志の籠ったありのまま」。事実、意志の能動性がはじめて人間の内面性を現出させるとメーヌ・ド・ビランは認めた。「人間の真実」は内面的なものであり、主体の意志(志)の上に展開されない歴史すなわち真実は、歴史あるいは真実に価しない。
とくに相手が志のあるひとの場合、そのひとの惨状を前に、〈あなた自身の責任だ〉と言う輩は殺してよいと思う。〈原因・結果〉の信奉者が結局言うのはそれである。それがどんなに傲慢で残酷なことか、旧約ヨブ記を繙け。神から罰せられるのは常にこの偽善どもである。スピリチュアリストはそれを繰り返しているから普通人より地獄に落ちる。
澄んでいること、透明感、これの感じられるひとは この俗界(どんな〈本道〉もその中で歩まれる)にはめったにいない。よほど自分の内に強固な「孤独」を生きているひとでなければ。
高橋元吉についてはわたしは語るべき秘話がある。わたしがフランス滞在中、高橋の詩と彼に関する研究書を読み、この書の著者を介して愛子夫人に書簡をフランスから送った。この著者の依頼によってである(はじめ彼に読後感を書き送った)。このことは後日にしよう。〔18日〕
直ちに同意できないというのは かんがえさせるからである。ほんとうのものはすべてそうだ。ほんとうはぼくの言葉は、その瞬間に解らなければ 一生かかって納得できるかできないかだと言えるぐらい理解に時間がかかるもののはずだ。己れの全存在で読み解かなければならない。
アランは〈読者の存在を忘れさって〉書く。
しばらくこの節を動かさない。
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ぼくのために言うのではないが、「成長」や「感謝」ということばをそれ自体として一般的に言うのなら感心しない。標語主義は権威主義と、故に世俗主義と結びついている。結局思考の甘さなのである。甘い思考は高慢に直結している。人間精神に関して、「進化」という言葉のみならず、「成長」という言葉もぼくは使わない。「進化」は戯語であり論ずるに値しないが、「成長」という言葉は自他に高慢であることは言っておく必要がある。「人類」は成長などしていない。「個人」においては「深化」のみがあるべきだ。「深化」は自分の過去にたいして謙虚であり、「成長」の意識は自分の過去(歴史)に対し傲慢である。「成長」という意識は軽薄だと言い換えてよい。「感謝」は、何に感謝するのかをその都度厳密に反省規定すべきである。すべてぼくが繰り返し言ってきたことだ。〈成長はすべてに感謝できるようになること〉という〈結論〉を〈自覚〉したつもりになった瞬間から、「人間」は止む、と極論していい。それはまだ幸運な者が自分の幸運の上に胡坐をかいた傲慢にすぎないと繰り返しぼくは言った。もう繰り返さない。これを以って「深化」の糧となるよう。人間の魂に相応しいのは「深化」のみだ。
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夜中に書くのをとりあえずやめよう。身体がつぶれないように。
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きみへの愛があまりに強いので苦しくてたまらない ぼくはそれからの解脱なんてかんがえない 死さえ欲するだろう これはぼくの自由なのだ 死のなかに存在を見るということは きみが演奏しているとき此の世をこえて在るように 愛とはそういうものだときみの仕事と存在でおしえてくれた 絶望ではなく充溢としての死があるのだよ 生きているのがまどろこしい
書留
イデー(思想)の言葉を書き留めるのは、多分作曲家が心に湧いた旋律を書き留めるのとおなじだ、それよりなまぬるいかもしれないが。…そこで書き留める ぼくの性(さが)のように 「死」の問題を抱えるのは、「生きる」ことの意味がわからないからである。「生」そのものの探求と実践のなかに「死」は解消されてゆく。〈悟り〉などによってではない。湧いてきた思いはそのように告げた。 「生きることなのだ」と先生は簡潔に言っている。
モネのアルジャントゥイユの一風景を描いた画の小さな小さな複製写真をわたしは中学生の時見て、その示現する形容できないゆたかな感覚に魅了され、自分の部屋の壁にずっと貼っていました。いまもそのままです。さすがに退色しましたが、上の画像はそれを写したものです。いまでもぼくにとって最も魅力的なモネです。中学生で見たときの「感覚の夢」がいまでも宿っていますから。パリのサント・シャペルに象徴される「フランスの魂」(ロマン・ロラン)、魂の夢、をぼくはコローの画とともに、そのときはじめて経験したのだな、と、いま思っています。ぼくのこころに生涯「在る」絵として ここに載せました。さいわいなことに最初のパリ旅行の際、原画と、大きな原画と、対面することができました。
検索でやっとでてきました。「アルジャントゥイユの帆走」と題されています。あまり知られていないのでしょうか。ぼくがたぶん最初に見て完全に魅了された このモネの絵の複製画(画像)がどうしても欲しくて ずっと いまでも トラウマになっています。
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ぼくはドイツとフランスという本質の反する欧州二国を経験している。経験は真実を得させると同時に観念的平等主義を消尽させる。フランスはぼくの第二の故郷であるが、ドイツはぼくの感覚とは絶対的に異質であり、理念次元でのみ反響しうる。ぼくは個々のドイツの文化偉人は敬するが、ドイツ国自体は窒息させる処でしかなく、絶対に住めない。スイスとオーストリアはけっしてドイツではない。経験すればわかる。モーツァルト、マーラー、楽器ベーゼンドルファーはオーストリアである。ヤスパースはドイツを出、バーゼルで没した。ドイツ系を学ぶ者はドイツを経験しないがよい。続けられなくなるか自他に嘘つきになる(本音を隠して虚勢を張らなければならない)。ぼくは自分の愛するものをけっしてドイツとむすびつけない。ヤスパースやドイツ語自体をすら自分のなかでドイツと引き離している。そうできるまでにはドイツ経験から長年月を要した。偏見と思われても構わないから、ぼくの感覚と意識はドイツ自体に否定的である。そのために他者には気難しい迷惑と思われる言動もするかもしれない。経験がある故であり、御寛恕をねがいたい。
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理解者とは、自分の真実に信頼し、志に共鳴してくれる者のことである。
理解の本質は、信頼と共鳴である。それは本質において〈共創造的〉であることである。