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ぼくは純粋な人間だ。この純粋さが何か ぼくは痛いようにじぶんのうちで実感している。よく、〈自分は寛容だ〉と言う者がいる。これは何の徳でもないとぼくは思っている。むしろ自認寛容は俗物のしるしだ。そしてこれこそ自惚れである。これとは違う、ぼくが自分は純粋だと言うときは。偽りでも通用する〈寛容〉に比して、何人のひとが自分は純粋だと偽りなく言い得るだろうか。ここでは偽りは通用しないのである。寛容そのものが偽りでも通用するような、そういうことはここではない。そして純粋こそは至高の価値である。なぜなら寛容が美を生むことはないが、純粋のみが美を生むからである。〈世間〉が意図すれば、最も純粋な者も不純であると言いくるめられるだろう。そういうとき、判断をくだすのは何であるか。自分の実感のみである。〈自分は寛容である〉と言う者が得々と外的人間関係におぼれているとき、ぼくは純粋だ と言うぼくは ひたすら自分のみの自己実感に密接しているのだ。自分のみが判断をくだしうる。ほかのひとの自己判断は知らない。ぼくは自分のみを判断しうる。感動するとき、美に接するとき、ひとは自分の実感に忠実なのと同様である。そこには偽りがない。そのようにぼくは自分の本心を判断する。そして ぼく同様に純粋なひとの純粋さを その美を 感じるのにぼくは敏感であり この自分の実感を明証的に確信するのである。このような純粋なひとは必然的に自分のこころのなかに不可視の祭壇をもっている。けがしてはならない聖なるものの、魂美的に聖なるものの感覚をもっている。それをぼくは知っている と言い得る。ぼくがそうなのだから。〔そういうものをひとつでも抱いているひとをぼくは認める。それいがいの者 聖なるものをなにひとつもたない者は何をするか分らない。狂信者と結果的にあまり違わない。〕
 
 「内なる祭壇」は高田博厚が莫逆の友 高橋元吉を語る際にかならず筆にする言葉である。いまここでは普遍的な意味で語った。



《〔・・・〕これは結局相手を語って「自分」を見ているのであった。私たち〔高田・高橋〕は心の奥底に共通する祭壇を持っていた。この同一性は二人の生いたちや境遇や性格が似ているためのものではなかった。しかし「これ以外に自分の在りようがない」という点で通じ合い、それは私たちの精神態度を「宗教」的にした。〔・・・〕信仰的とか一つの宗教に帰依するとか、「観念」が「人間感情」に依存し得るものを越えて、「自分」の中に一つの「存在」を感じていた。「神」・・・。》

 高橋元吉詩集1遠望 「彼と私」高田博厚 (一九七六年六月一五日発行)

全文を本来紹介すべきだろう。

06「あなたに帰りたい」(六枚目)の神秘な調べを聴きつつ

きみのなかにも「神」は「存在」している でなければこの真剣さは生れない

十七日一時




過去節紹介(繫がるようにしてあります):


313 収容所経験[総集]
491 高田博厚・森有正 重要文紹介 
Suite 『薔薇窓』第二部  612
『薔薇窓』第二部  613 〔補〕
182 ガブリエル・マルセル影像
suite  602 リルケ「秋」
628 ヴァレリー「海辺の墓地」訳・註解あるいは随感 ( ヴァレリー「海辺の墓地」全訳完成 )
Suite 真実とは (sans numéro)
627 affirmation・impression
報告 〔重大〕 12日付(13日加筆)



美の創造と現出のために知性を使い鍛えることが最良とおもわれる。理屈のために知性を使うべきではない。ぼくはいま 表現が かんがえていることに追いつかないが、不徹底な理屈は感覚のみによる判断の無限下方にある。徹底した知性は つねに 感覚に最終同意をあたえるよりほかの窮極意図をもたない。知性をそこまで鍛えなければ 百害あって無益である。




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精神と身体は不可分であるというのは一応認めてよい。ただし単一であるということではない。精神と身体というのは人間の方向性の意味であって、現代人と大衆化した知識人は、この方向性の感覚を無くしている。精神性への方向を忘れ、精神性の感覚すら無くしている。だから精神的愛の方向へ心身ともに高めてゆこうという意識が失せている。この方向が本来人間の故郷であるのに。これでは過去の偉人たちの境位は解らず、自分達の禽獣以下の次元(人間として全うでないことは禽獣並を意味せず禽獣以下しか意味しない。人間固有の意識性は放棄しないのだから)でしか人間性を解釈しえない。こういう連中は本来粛清の対象であるというのが わたしのかんがえである。石臼を首にかけられ魚の餌食になるほうがよいと言われる類である。もっともそんな連中を食べた魚が水揚げされるのは御免だから 悪魔の餌食がよい。

 



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評価というものはいいものなのかそうでないのか。自分が最も純粋な本音、真実を書いているのは、評価されないうちであるとも言い得る。ゴッホが感動させるのはその孤独なエネルギーによる。生前に評価されている彼などかんがえることもできない。最高の傑作は、本人にしか見えない星のようなものだろう。

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媒体の性能にもよるのかもしれないが、現今のクラシック演奏に感銘をうけるものなど本当にめったにない。本質本位がクラシックだとして、現今、この「本質」の質が問題なのだ。ぼくがここであらためてくどくど言うようなことではあるまい。


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有益かどうかじゃない。自分の根源から離れるような雰囲気の欄には訪問したくないんだよね。かならず気分的に後悔するから。


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この節を評価できなければぼくの理解者としては失格だというのがぼくの正直な気持。ぼくのほうも無関心が表面化してきた。


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ぼくは小説家のように創作はしない。思想家のように理論構築はしない。「真実」にのみ関心がある。そして真実は「志」なくしてありえないことを知っている。「志の籠ったありのまま」。事実、意志の能動性がはじめて人間の内面性を現出させるとメーヌ・ド・ビランは認めた。「人間の真実」は内面的なものであり、主体の意志(志)の上に展開されない歴史すなわち真実は、歴史あるいは真実に価しない。




とくに相手が志のあるひとの場合、そのひとの惨状を前に、〈あなた自身の責任だ〉と言う輩は殺してよいと思う。〈原因・結果〉の信奉者が結局言うのはそれである。それがどんなに傲慢で残酷なことか、旧約ヨブ記を繙け。神から罰せられるのは常にこの偽善どもである。スピリチュアリストはそれを繰り返しているから普通人より地獄に落ちる。





 澄んでいること、透明感、これの感じられるひとは この俗界(どんな〈本道〉もその中で歩まれる)にはめったにいない。よほど自分の内に強固な「孤独」を生きているひとでなければ。






高橋元吉についてはわたしは語るべき秘話がある。わたしがフランス滞在中、高橋の詩と彼に関する研究書を読み、この書の著者を介して愛子夫人に書簡をフランスから送った。この著者の依頼によってである(はじめ彼に読後感を書き送った)。このことは後日にしよう。〔18日〕




直ちに同意できないというのは かんがえさせるからである。ほんとうのものはすべてそうだ。ほんとうはぼくの言葉は、その瞬間に解らなければ 一生かかって納得できるかできないかだと言えるぐらい理解に時間がかかるもののはずだ。己れの全存在で読み解かなければならない。

アランは〈読者の存在を忘れさって〉書く。

しばらくこの節を動かさない。


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ぼくのために言うのではないが、「成長」や「感謝」ということばをそれ自体として一般的に言うのなら感心しない。標語主義は権威主義と、故に世俗主義と結びついている。結局思考の甘さなのである。甘い思考は高慢に直結している。人間精神に関して、「進化」という言葉のみならず、「成長」という言葉もぼくは使わない。「進化」は戯語であり論ずるに値しないが、「成長」という言葉は自他に高慢であることは言っておく必要がある。「人類」は成長などしていない。「個人」においては「深化」のみがあるべきだ。「深化」は自分の過去にたいして謙虚であり、「成長」の意識は自分の過去(歴史)に対し傲慢である。「成長」という意識は軽薄だと言い換えてよい。「感謝」は、何に感謝するのかをその都度厳密に反省規定すべきである。すべてぼくが繰り返し言ってきたことだ。〈成長はすべてに感謝できるようになること〉という〈結論〉を〈自覚〉したつもりになった瞬間から、「人間」は止む、と極論していい。それはまだ幸運な者が自分の幸運の上に胡坐をかいた傲慢にすぎないと繰り返しぼくは言った。もう繰り返さない。これを以って「深化」の糧となるよう。人間の魂に相応しいのは「深化」のみだ。


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夜中に書くのをとりあえずやめよう。身体がつぶれないように。
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きみへの愛があまりに強いので苦しくてたまらない ぼくはそれからの解脱なんてかんがえない 死さえ欲するだろう これはぼくの自由なのだ 死のなかに存在を見るということは きみが演奏しているとき此の世をこえて在るように 愛とはそういうものだときみの仕事と存在でおしえてくれた 絶望ではなく充溢としての死があるのだよ 生きているのがまどろこしい




 









書留
イデー(思想)の言葉を書き留めるのは、多分作曲家が心に湧いた旋律を書き留めるのとおなじだ、それよりなまぬるいかもしれないが。…そこで書き留める ぼくの性(さが)のように  「死」の問題を抱えるのは、「生きる」ことの意味がわからないからである。「生」そのものの探求と実践のなかに「死」は解消されてゆく。〈悟り〉などによってではない。湧いてきた思いはそのように告げた。 「生きることなのだ」と先生は簡潔に言っている。





 モネのアルジャントゥイユの一風景を描いた画の小さな小さな複製写真をわたしは中学生の時見て、その示現する形容できないゆたかな感覚に魅了され、自分の部屋の壁にずっと貼っていました。いまもそのままです。さすがに退色しましたが、上の画像はそれを写したものです。いまでもぼくにとって最も魅力的なモネです。中学生で見たときの「感覚の夢」がいまでも宿っていますから。パリのサント・シャペルに象徴される「フランスの魂」(ロマン・ロラン)、魂の夢、をぼくはコローの画とともに、そのときはじめて経験したのだな、と、いま思っています。ぼくのこころに生涯「在る」絵として ここに載せました。さいわいなことに最初のパリ旅行の際、原画と、大きな原画と、対面することができました。

 



検索でやっとでてきました。「アルジャントゥイユの帆走」と題されています。あまり知られていないのでしょうか。ぼくがたぶん最初に見て完全に魅了された このモネの絵の複製画(画像)がどうしても欲しくて ずっと いまでも トラウマになっています。

 

 

 
 

 

先生の生涯は、生きた 愛した 仕事した 思索・勉強した だろう。これいがいになにもなかった。ぼくは自分への自己同意として言っているのである。単純で一元化している。これいがいに何も欲さない。「生きた 愛した 仕事した」 である。いまでも「生きる 愛する 仕事する」を継続しておられるだろう。「天国に行ってもなお欲する」。「死ぬ」暇は無かった。先生の告白では先生はふしぎと親友の死には立ち会っていない。脈絡はともかくぼくは先生の葬儀を識って会場の近くまで来たが「ぼくが行ってどういう意味があるんだ」と想い会場直前で引き返した。そのときだったか、講演も聴いた矢内原伊作氏のような人物がその会場があるはずの方向に歩いていくのとすれちがった。その細い長身の 前方の天をみつめているようなかれの印象がぼくのなかに鮮明に保たれているが、いまおもった、ああ あれがジャコメッティの感じたかれだったのだろう。
 



 








 

 




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ぼくはドイツとフランスという本質の反する欧州二国を経験している。経験は真実を得させると同時に観念的平等主義を消尽させる。フランスはぼくの第二の故郷であるが、ドイツはぼくの感覚とは絶対的に異質であり、理念次元でのみ反響しうる。ぼくは個々のドイツの文化偉人は敬するが、ドイツ国自体は窒息させる処でしかなく、絶対に住めない。スイスとオーストリアはけっしてドイツではない。経験すればわかる。モーツァルト、マーラー、楽器ベーゼンドルファーはオーストリアである。ヤスパースはドイツを出、バーゼルで没した。ドイツ系を学ぶ者はドイツを経験しないがよい。続けられなくなるか自他に嘘つきになる(本音を隠して虚勢を張らなければならない)。ぼくは自分の愛するものをけっしてドイツとむすびつけない。ヤスパースやドイツ語自体をすら自分のなかでドイツと引き離している。そうできるまでにはドイツ経験から長年月を要した。偏見と思われても構わないから、ぼくの感覚と意識はドイツ自体に否定的である。そのために他者には気難しい迷惑と思われる言動もするかもしれない。経験がある故であり、御寛恕をねがいたい。




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理解者とは、自分の真実に信頼し、志に共鳴してくれる者のことである。
理解の本質は、信頼と共鳴である。それは本質において〈共創造的〉であることである。