「医療裁判で真実が明らかになるのか」 都立府中病院産婦人科部長 桑江千鶴子(2)
(2) 医療とは何か
仰々しくこのような命題を持ちだしたのは、本来の医療という仕事を考えた時
に、その本質を理解しないと、やはり深い溝が埋まらないと思ってのことである。
例えば、癌を治すために使う抗がん剤は、本来は人間の体にとっては毒である。
癌を治すために使うものといっても癌を発生させる発がん物質ですらある。放
射線治療も同じことで、癌も治すが、二次的に癌を発生させることもある。薬と
いうのは、主作用と副作用という人間の体にとっては相反するような作用を持つ
ものであるが、副作用のない薬はない。また他の病気では重大な副作用であって
も、他の病気ではその副作用が主作用であることもある。例えば、サリドマイド
という有名な薬は、本来は睡眠薬であるが、この薬を服用した妊婦さんから生ま
れた赤ちゃんに四肢の奇形が発生することがわかって、今は妊婦さんへの使用は
禁忌である。しかし、その薬の副作用と考えてもいいであろうが、多発性骨髄腫
という血液癌の一種への有効性が1990年ごろに確認されて以来、患者さんを救っ
ている。そういうこともある。サリドマイドが発売されてから、服用している妊
婦に四肢の奇形の赤ちゃんが多く生まれるということに気がついた医師がいたが、
まさにそのサリドマイドが胎児に奇形を起こすことを証明することが難しく、当
時大論争になった。学者の中には、サリドマイドが原因ではないという自分の学
説を証明するために、妊娠している自分の娘か妻に服用させて、大丈夫であると
証明したという話もある。かくの如く、サリドマイドですら妊娠中に服用しても
生まれた赤ちゃんが必ず奇形になるとは限らないので、予見性が困難であるのが
医療である。医療は、人間を器械を修理するように治療するわけにはいかない。
理屈通りにはいかないし、良く分からないことはたくさんある。
手術にいたっては、刃物を持って人を傷つけたらだれでも障害罪を適応されて
しまうが、医師が手術でメスを用いることは許されている。医学生ですら死体を
解剖するすなわち傷つけることが許可されている。医師免許を持っているあるい
は医師になる者だけに許されている特権である。しかし、このような仕事のため
の特権を許可されているばかりに、権力を持っていると勘違いしたり、患者側も
医師を生殺与奪権を持つ権力者と思う人もいる。しかし、薬という毒を使えたり、
人の体を刃物で傷つけたりできることはすなわち医療という仕事の内容であり、
それ以上でも以下でもない。しかもそれを行うのは不完全な人間であり、受ける
側はこれも予見が不可能な自然性を持った人間であることが、困ったことに医療
の本質であるといえる。
薬の使い方や量について不適切であったり間違えれば、人間の体に悪影響を及
ぼし、障害を与えたり死亡させたりすることもあるが、適切に用いていても予測
できないアレルギー反応や副作用がおこり障害を与えたり死亡することもある。
しかしうまく用いれば病気を治したり、苦痛を緩和することができる。手術にし
ても、病気を治すために行うものであるが、治すことばかりではなく、目的とす
る治療効果が必ずしもあがらなかったり、合併症で予期せぬ結果が起こり悪くな
ることも死亡することもある。検査でも同様のことは起こりうる。こういうこと
は医療という仕事の性質上あり得ることである。人間は不完全であり、間違える
こともあるが、仕事が医療であるということと、不完全な人間が医療を行うとい
う現実は変えることができない。医療提供者は、医療を仕事とすることで、間違
いをしなくなったり、神と同じような完全な人間になれるわけではない。そもそ
も人間が人間を治そうとして、薬にしても手術にしても、そういう害を及ぼす可
能性がある手段を用いて生業(なりわい)をするということに、医療の根源的な
問題がある。
我々医療提供側の人間は、現在の日本では、完全に病気や怪我を治すことを求
められるが、そのようなことは神でもない人間にできるわけはないので、「どん
な状況でも絶対に間違えずに病気を治せ、怪我を治せ」「手術・検査・投薬で思
わぬ悪い結果が出たら罰を与えるし、責任を取って罪として償うべきだ」という
ことを個人として要求されていて、苦しくなっていたたまれず、医療現場から兆
散してゆく。これが医療裁判の形をとっている医療崩壊の実態である。医療提供
者は、医療受給者と同じ人間である。まったく変わるところはない。しかるに、
医療を仕事とした途端に、神として振る舞うことを要求されるのである。こんな
人間性を無視した仕事の仕方や体制が、今後継続してゆけるわけはない。その結
果が医療崩壊である。こういった根源的な問題が理解され、共通認識とされては
じめて、国から免許を与えられた普通の人間が、少なくてもその時の医療レベル
で実力を発揮して全力を尽くせば結果に関しては問われない、という対策や体制
を構築する、という話し合いのテーブルに着くことができる。人間なので間違う
こともありうるが、それを最大限に防ぐにはどうしたらいいのか、という体制の
構築についても話し合うことができる。
特に産科医療は、分娩あるいは妊娠中でも患者は急変する。予見できないのに
重篤な状態になり、母子ともに死亡することがある。これをすべて救うことはで
きないのに、専門家でもない裁判官に医師の過失と判断されるのである。これで
は、誰も産科医になろうとはせず、せっかく産科医としての技術を習得しても辞
めてしまう医師が後を絶たない。
現在のこの状態は、本当に国民が望んでいる状況なのだろうか。
ごく当たり前の人間が行っている医療という仕事を、なるべく良い状態で受け
られるようにする、あるいは提供できるようにすることは、どちらにとっても望
ましいことである。医療提供側は忙しくて過労死する状態で休みもなく、しかも
完全な医療を要求されているのが現状である。少し冷静に考えれば、そのような
ことが普通の人間に可能であるわけがない。医療の本質を理解して、より良い体
制を構築し、ごく普通の人間が行っても間違いが起こりにくいような条件のもと
にできるような医療体制にしなければ、誰でもどこでも、良好な質と量の医療を
受けられるようにはならない。このことを真剣に議論すべき時だと考える。
仰々しくこのような命題を持ちだしたのは、本来の医療という仕事を考えた時
に、その本質を理解しないと、やはり深い溝が埋まらないと思ってのことである。
例えば、癌を治すために使う抗がん剤は、本来は人間の体にとっては毒である。
癌を治すために使うものといっても癌を発生させる発がん物質ですらある。放
射線治療も同じことで、癌も治すが、二次的に癌を発生させることもある。薬と
いうのは、主作用と副作用という人間の体にとっては相反するような作用を持つ
ものであるが、副作用のない薬はない。また他の病気では重大な副作用であって
も、他の病気ではその副作用が主作用であることもある。例えば、サリドマイド
という有名な薬は、本来は睡眠薬であるが、この薬を服用した妊婦さんから生ま
れた赤ちゃんに四肢の奇形が発生することがわかって、今は妊婦さんへの使用は
禁忌である。しかし、その薬の副作用と考えてもいいであろうが、多発性骨髄腫
という血液癌の一種への有効性が1990年ごろに確認されて以来、患者さんを救っ
ている。そういうこともある。サリドマイドが発売されてから、服用している妊
婦に四肢の奇形の赤ちゃんが多く生まれるということに気がついた医師がいたが、
まさにそのサリドマイドが胎児に奇形を起こすことを証明することが難しく、当
時大論争になった。学者の中には、サリドマイドが原因ではないという自分の学
説を証明するために、妊娠している自分の娘か妻に服用させて、大丈夫であると
証明したという話もある。かくの如く、サリドマイドですら妊娠中に服用しても
生まれた赤ちゃんが必ず奇形になるとは限らないので、予見性が困難であるのが
医療である。医療は、人間を器械を修理するように治療するわけにはいかない。
理屈通りにはいかないし、良く分からないことはたくさんある。
手術にいたっては、刃物を持って人を傷つけたらだれでも障害罪を適応されて
しまうが、医師が手術でメスを用いることは許されている。医学生ですら死体を
解剖するすなわち傷つけることが許可されている。医師免許を持っているあるい
は医師になる者だけに許されている特権である。しかし、このような仕事のため
の特権を許可されているばかりに、権力を持っていると勘違いしたり、患者側も
医師を生殺与奪権を持つ権力者と思う人もいる。しかし、薬という毒を使えたり、
人の体を刃物で傷つけたりできることはすなわち医療という仕事の内容であり、
それ以上でも以下でもない。しかもそれを行うのは不完全な人間であり、受ける
側はこれも予見が不可能な自然性を持った人間であることが、困ったことに医療
の本質であるといえる。
薬の使い方や量について不適切であったり間違えれば、人間の体に悪影響を及
ぼし、障害を与えたり死亡させたりすることもあるが、適切に用いていても予測
できないアレルギー反応や副作用がおこり障害を与えたり死亡することもある。
しかしうまく用いれば病気を治したり、苦痛を緩和することができる。手術にし
ても、病気を治すために行うものであるが、治すことばかりではなく、目的とす
る治療効果が必ずしもあがらなかったり、合併症で予期せぬ結果が起こり悪くな
ることも死亡することもある。検査でも同様のことは起こりうる。こういうこと
は医療という仕事の性質上あり得ることである。人間は不完全であり、間違える
こともあるが、仕事が医療であるということと、不完全な人間が医療を行うとい
う現実は変えることができない。医療提供者は、医療を仕事とすることで、間違
いをしなくなったり、神と同じような完全な人間になれるわけではない。そもそ
も人間が人間を治そうとして、薬にしても手術にしても、そういう害を及ぼす可
能性がある手段を用いて生業(なりわい)をするということに、医療の根源的な
問題がある。
我々医療提供側の人間は、現在の日本では、完全に病気や怪我を治すことを求
められるが、そのようなことは神でもない人間にできるわけはないので、「どん
な状況でも絶対に間違えずに病気を治せ、怪我を治せ」「手術・検査・投薬で思
わぬ悪い結果が出たら罰を与えるし、責任を取って罪として償うべきだ」という
ことを個人として要求されていて、苦しくなっていたたまれず、医療現場から兆
散してゆく。これが医療裁判の形をとっている医療崩壊の実態である。医療提供
者は、医療受給者と同じ人間である。まったく変わるところはない。しかるに、
医療を仕事とした途端に、神として振る舞うことを要求されるのである。こんな
人間性を無視した仕事の仕方や体制が、今後継続してゆけるわけはない。その結
果が医療崩壊である。こういった根源的な問題が理解され、共通認識とされては
じめて、国から免許を与えられた普通の人間が、少なくてもその時の医療レベル
で実力を発揮して全力を尽くせば結果に関しては問われない、という対策や体制
を構築する、という話し合いのテーブルに着くことができる。人間なので間違う
こともありうるが、それを最大限に防ぐにはどうしたらいいのか、という体制の
構築についても話し合うことができる。
特に産科医療は、分娩あるいは妊娠中でも患者は急変する。予見できないのに
重篤な状態になり、母子ともに死亡することがある。これをすべて救うことはで
きないのに、専門家でもない裁判官に医師の過失と判断されるのである。これで
は、誰も産科医になろうとはせず、せっかく産科医としての技術を習得しても辞
めてしまう医師が後を絶たない。
現在のこの状態は、本当に国民が望んでいる状況なのだろうか。
ごく当たり前の人間が行っている医療という仕事を、なるべく良い状態で受け
られるようにする、あるいは提供できるようにすることは、どちらにとっても望
ましいことである。医療提供側は忙しくて過労死する状態で休みもなく、しかも
完全な医療を要求されているのが現状である。少し冷静に考えれば、そのような
ことが普通の人間に可能であるわけがない。医療の本質を理解して、より良い体
制を構築し、ごく普通の人間が行っても間違いが起こりにくいような条件のもと
にできるような医療体制にしなければ、誰でもどこでも、良好な質と量の医療を
受けられるようにはならない。このことを真剣に議論すべき時だと考える。