「八重の桜」をめぐる会津若松への旅
私はNHK大河ドラマ「八重の桜」を毎週楽しく観ています。
また、この夏には、京都文化博物館で開催された「八重の桜」展を訪れて
強く感動しました。
これは一度、新島八重という人物の礎を築いた会津若松という地を
訪れてみたいと思っていたところ、先日たまたまチャンスがあって
「八重の桜」ゆかりの地をいくつか訪れてきました。
まずは、会津藩のランドマーク、
新島八重が戊辰戦争での明治政府軍との戦いにおいて、
戦士として籠城した鶴ヶ城です。
明治政府軍の砲撃によってボロボロになった写真が有名ですが、
現在はもちろん再建され、優美で端正な姿を見せてくれています。
大変美しい城だと思います!
ここで近代日本の曙となった義の戦いがあったことを考えると、
ひたすら尊崇の念が高まるのを感じました。
土井晩翠はこの鶴ヶ城を含めたいくつかの城にインスパイアされて
名曲「荒城の月」を作ったということで歌碑が設置されていました。
城の入り口付近には、
籠城戦の指揮をした照姫(藩主松平容保の義姉)の稲荷神社があります。
さて、鶴ヶ城の駐車場には、
会津藩のフィロソフィーを表現した什の掟が書かれた看板があります。
この什の掟は、城のすぐ西にある合津藩校の日新館で
藩士の子弟に教えられたということです。
本当に素晴らしいことなんですが、会津若松で道を歩いていると、
すれ違う小学生達が「こんにちわ」と挨拶をしてきてくれます。
これは、日新館の精神が今なお教育に生かされているからと考えます。
本当に感動します。
八重の兄の山本覚馬はこの日新館で学び、後に教授となりました。
残念ながら、日新館の施設は現在では天文台が残るのみです。
山本家がまさに生粋の会津の民であったことが推察されます。
さて、戊辰戦争における鶴ヶ城籠城戦においては、
有名な悲しいエピソードがあります。
それは、日新館で学んだ少年兵の白虎隊が、鶴ヶ城に退却する際に
政府軍に責められている鶴ヶ城に煙が上がっている様を
飯盛山の中腹から目撃し、切腹して果てたというものです。
(鶴ヶ城から眺める飯盛山)
まさに当時の会津のスピリットを具現した誇らしい最期でした。
ここでも近代日本の礎を命を賭けて築いた先人の方々に
強い尊崇の念を感じられずにはいられません。
山の中腹には、この時の様子を勘案して製作された少年兵の像があります。
飯盛山には後に作られた白虎隊の墓所もあります。
ちなみに白虎隊が切腹したのは、籠城戦が始まる前でした。
政府軍の圧倒的な戦力に降伏を決意した会津藩は鶴ヶ城を開城しました。
そして、このときにも最も会津藩士らしい会津藩士が
会津藩の最後を飾る見事な働きをしました。
藩士の萱野権兵衛が藩主の命を助けるために
以前[記事] にも書きましたように、萱野権兵衛は切腹する前に
藩主の松平容保と照姫から率直な謝罪の手紙を受け取りました。
極めて悲しく美しいエピソードと言えるかと思います。
萱野権兵衛の墓は鶴ヶ城東方の山中にある天寧寺にあります。
なお、この天寧寺には、新撰組の近藤勇の墓もあります。
・・・というわけで、
会津若松には、維新期の悲しい歴史の爪痕が残されているとともに、
今なお、当時の美しい義士の精神がしっかりと刻まれていると言えます。
バスの運転手をはじめとして観光に携わっている人達もとっても親切で
会津若松の大ファンになりました。
最後になりますが、
もともと、第10代崇神天皇が東海道と北陸道につかわした軍隊が
この地で合流したということで「会津」という名前がついたと言われています。
ちょうどその頃に作られたと考えられている前方後円墳が↓こちらの
会津大塚山古墳です。
悠久の歴史が流れている素晴らしい場所である会津に、
また別の機会に訪れたいと思っています。