応仁の乱の勃発までの対立構造を簡単にツカむ | マスメディア報道のメソドロジー

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応仁の乱の勃発までを簡単にツカむ



呉座勇一氏著の中公新書「応仁の乱」が異例のベストセラーになっているということです。西陣に住んでいた私にとって、応仁の乱は非常に大きな興味の対象であり、多くの史料や書籍を愉しんできましたが、大和を切り口にして様々な史料から導かれた史実を地道に紹介する当書の表現は新鮮であり、発売直後の段階で大変興味深く読ませていただきました。

「BOOK」データベースにおける当書の内容は次の通りです。

室町幕府はなぜ自壊したのか―室町後期、諸大名が東西両軍に分かれ、京都市街を主戦場として戦った応仁の乱(一四六七~七七)。細川勝元、山名宗全という時の実力者の対立に、将軍後継問題や管領家畠山・斯波両氏の家督争いが絡んで起きたとされる。戦国乱世の序曲とも評されるが、高い知名度とは対照的に、実態は十分知られていない。いかなる原因で勃発し、どう終結に至ったか。なぜあれほど長期化したのか―。日本史上屈指の大乱を読み解く意欲作。


応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)/中央公論新社

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[BIGLOBEニュース]によれば、呉座勇一氏は、応仁の乱について次のような認識を持っているようです。

「応仁の乱には、通説にあるような“単純な対立構図”はありません。むしろ『わかりづらいこと』が最大の特徴で、そこに面白さがある。実は、なぜ戦乱が広がったのかもはっきりしないし、最終的に誰が勝ったのかもよくわからない。また、足利義政が無能だったとか、日野富子が稀代の悪女で我が子可愛さに乱を起こしたといったイメージも、後の時代の軍記物の内容に引っ張られたもので、正確とはいえません」


呉座氏の徹底的な調査に基づき本書を取りまとめられたことに関して、素直に大きな感謝の言葉を贈らせていただきたいと同時に本当にご苦労様と労をねぎらいたい次第です。

さて、呉座氏が「通説と異なる」と述べられていることは、応仁の乱におけるイヴェントの「事実関係」というよりは、主として応仁の乱に関係した人物の「行動の根拠」であるといえます。当書を拝読した限り、イヴェントの事実関係については、これまでの通説と大きな差があるとはいえません。

ただ、何といっても本書のハードルが高い点は、多くの複雑な事情が詰め込まれているために大局をしばしば見失ってしまうことです。応仁の乱においてメインキャスト間でどのような事実関係があったのか、応仁の乱の大ファンである私ですら、何が何だかわからなくなってしまうことが何度もありました(笑)。そんな中で助けとなったのが、私が10年前に整理しておいた御家騒動の対立図です。[記事]

呉座氏は応仁の乱には「単純な対立構図はありません」と記されていますが、イヴェントの大きなフレームワークは通説と変わらず、事実、今回の呉座氏の著作を拝読させていただくにあたっても、頭を整理する上で十分に有効であったと言えます。以下に10年ぶりに微修正した実物を紹介させていただきます。メインの御家騒動は次の4つです。

(1) 足利家の御家騒動

世継ぎの実子がいなかった将軍の足利義政は、出家(俗人が僧になること)していた足利義視を還俗(僧が俗人にかえること)させて足利家の嫡男(跡取り)としましたが、その後妻の日野富子義尚という実子を生みます。そして、応仁の乱が勃発すると、義政は義視を廃嫡(跡取りを解かれること)し、義尚を嫡男としました。

応仁の乱 足利家お家騒動

(2) 山名家と細川家の御家騒動

世継ぎの実子がいなかった細川勝元山名宗全の養女の春林寺殿を妻とするとともに宗全の実子の勝豊を養子にして嫡子としました。しかしながら、実子の政元が誕生すると勝豊を廃嫡して政元を嫡子としました。その後、山名宗全と細川勝元の対立は深まっていきます。

応仁の乱 山名家&細川家お家騒動

(3) 畠山家の御家騒動

畠山持国は弟の持富を嫡子としていましたが、これを廃嫡し、実子の義就を嫡子としました。足利義政は義就の家督を認可しましたが、その後、義就の形成が不利と見るや細川勝元が支持する持富の子の弥三郎および政長に家督を認可し、さらに山名宗全が義就を支持してまた形勢が逆転すると、義就の家督を認可しました。はっきりいってハチャメチャです(笑)。将軍側近の伊勢貞観も暗躍します。

応仁の乱 畠山家お家騒動

(4) 斯波家の御家騒動

家督を相続した斯波義敏と斯波家執事の甲斐常治が対立します。甲斐常治は将軍側近の伊勢貞観に賄賂を贈り足利義政に斯波義廉が家督相続することを認めさせます。その後、斯波義敏も伊勢貞観に賄賂を贈り足利義政に自分が家督相続することを認めさせます。そして足利義視の失脚工作まで企んだ伊勢貞観に対して、山名宗全と細川勝元がついに怒り追放してしまいます。

応仁の乱 斯波家お家騒動

以上の御家騒動を年表で書き表すと次の通りです。

応仁の乱 簡略年表

応仁の乱は以上のような御家騒動の敵対関係者が次の図のように集合した争いと言えます。

応仁の乱 対立図

そもそも山名宗全と細川勝元の自宅は徒歩3分程度の距離しか離れていません。応仁の乱の対立は日本全国に渡りましたが、そもそも当初は御家騒動から発展した近所喧嘩の様相であったと言えます。

応仁の乱マップ

以上、応仁の乱の概略的な対立構造について図示しました。応仁の乱の登場人物が、あからさまにエゴイズムをエクスプリシットに発揮しているのがわかるかと思います(笑)。このような「世も末」の人間関係によって首都を焼き尽くしたという行為は終末論を当時の京都人の記憶に強烈に植え付けたと考えられます。このことが時代を超えたトラウマとなって「戦前」「戦後」というエポックを区分する言葉が成立したことは合理的です。

以上、皆様の応仁の乱の解釈に少しでもお役に立てれば幸いです。なお、応仁の乱の短いあらすじ・解説・図説・資料をエントロピー最小となるようにブログに書いています。ヒマな方は是非お読みください(笑)。

[応仁の乱 第一話]
[応仁の乱 第二話]
[応仁の乱 第三話]
[応仁の乱 第四話]
[応仁の乱 第五話]
[応仁の乱 第六話]
[応仁の乱 第七話]
[応仁の乱 第八話]
[応仁の乱 第九話]

[登場人物]
[登場人物の自宅]
[年表・対立図]
[ブックス]