応仁の乱(第二話) | 西陣に住んでます

応仁の乱(第二話)

浄土院


今日は、応仁の乱の第二話です。
話は少しだけ展開を見せます。


バックナンバー:[第一話]


[第二話]


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足利義政「そうだ。浄土寺で坊さんしている弟がいた。」
義政は弟の義尋(ぎじん)に今すぐ将軍を継いでくれないか尋ねました。
義政「将軍やってみない?」
義尋「兄さんはまだ29歳でしょ。これから息子ができてもおかしくないし、
    そうなったら立場がかなりビミョーになるからやめとく~。」
義政「大丈夫、大丈夫。息子ができても坊さんにするから」
義尋「それ、まじ?」
(続く)


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足利義政義尋は、室町幕府第6代将軍足利義教(よしのり)の息子です。足利義教は、くじ引きで将軍になった人(ホントに)ですが、かなりの切れ者で通った名将軍でした。ところが、飲み会の最中に家来の赤松満祐に暗殺されてしまいます。そこで、長男の足利義勝がわずか9才で将軍を継ぎますが、1年後病死し、結局、弟の義政が8才で将軍を継ぐことになります。この義政、社会の教科書には東山文化を創ったということで結構名前が売れていますが、政治は全くできないアンポンタンです(笑)。彼がしっかりしていれば、応仁の乱は起こらなかったかもしれませんし、戦国時代にもならなかった可能性もあります。この人なんですよ~、すべての原因は(笑)。


義尋は、現在の銀閣寺の場所にあった浄土寺門跡にいました。よく間違える人がいるのですが、浄土寺問跡というのは、「浄土寺の門があったところの跡(あと)」ではなく、「門跡(もんぜき)という役職をもった人がいる浄土寺という寺院」を意味します。お寺の門の前で「なんで門があるのに門跡って書いてあるんだろうはてなマーク」と素朴な疑問をもった経験がある方、私も仲間です(笑)。青蓮院門跡とか御室門跡仁和寺)が有名です。
当時、天皇家公家将軍家などでは、跡継ぎ以外の子供が生まれると、権威がそれなりに高い寺院に出家させていました。なぜなら、こうすれば、(1)経済的に大変となる分家を作らなくてもすむ、(2)跡継ぎのスペアとして温存できる、(3)お坊さんなので子供ができることはないからです(クールすぎドクロ)。

このときに彼らが就任する寺の役職が門跡で、門跡がいる位の高い寺院のことを門跡寺院といいます。足利義教もくじ引きで将軍になる前は青蓮院門跡の門跡でした。


青蓮院門跡


少々ネタバレですが、後の応仁の乱で浄土寺門跡は跡形もなくけてしまいます。その浄土寺門跡跡(もんぜきあと)に義政によって東山山荘が建立されます。そして、浄土寺の名前を継ぐ寺院として、銀閣寺の門のすぐ隣に浄土院(一番上の写真)という寺が建立されました。銀閣寺を訪れる時って、たいがい銀閣寺のことで頭がいっぱいなので、ほとんどの人はこの寺の存在に気がつきません(私も初めて知りました)。この寺、大文字の送り火を管理していることから、通称大文字寺と呼ばれています。ちなみに拝顔料タダです。銀閣寺を訪れる際にはちょっと立ち寄ってみましょう。


最後に、[第三話]の予告編です。


「あなたって人は!・・・」


第三話、お楽しみに(笑)。