kawanobu日記/没後59年の1人の天才少女画家と作家・渡辺淳一、そして戦場カメラマン・岡村昭彦;ジャンル=青春 画像1

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 信じられないことが起こった。
 昨夜、数日分の書きためた日記の1つを本日アップしようとPC上で文を推敲していて、途中で固まってしまった。何とかしようと焦っている最中、うっかりしてすべて消えてしまった。
 ゴミ箱の中まで探したが、書きためた文書が見つからない。
 せっかく着想し、肉付けをしていた書きためた日記の復元ができなく、徒労感と喪失感にいっぺんに襲われ、復元作業の意欲を失った。

札幌南高での加清純子と渡辺淳一の出会い
 そこで、5年前の今頃に別のブログにアップした日記を再編集して本日の日記とすることにした
 今頃――そう、間もなく没後60年となる1人の天才少女画家と作家にまつわる話である。
 その少女の名は、加清純子といった。作家は、渡辺淳一である。
 加清純子を思い出したのは、5年前の3月11日付け朝日新聞朝刊beで、渡辺淳一の小説『阿寒に果つ』の背景をルポした記事を読んだからである。
 小説は、作者渡辺淳一自身の青春体験を作品化したものだ。かつて読んだ時、清冽なリリシズムを基調に描かれた、奔放な愛に生きた小悪魔的な天才少女画家「純子」に強い印象を受けた覚えがある。ヒロイン純子は、15歳で北海道画壇に流星のごとく登場、高校生にして著名画家となっていた。その純子と、道内トップの進学校である札幌南高2年生の時に同級生になった作者の渡辺自身である「俊一」は、その純子から「酒から煙草、接吻……(中略)果ては倦怠から孤独まですべてを知らされた」のだ。

永遠の若さと美しさを凍結した
 その実在した純子、本名加清純子は、18歳の厳冬の1952年1月23日に宿泊していた阿寒湖畔のホテルから、自室に描きかけの絵2点をイーゼルに残したまま、突如、失踪した。その1週間ほど前の阿寒に発つ前夜には、交際していた画家、新聞記者など何人もの男性の札幌市内の自宅前に一輪の赤いカーネーションを置いて去った。もちろん渡辺淳一も、その1人だった。
 遺体が発見されたのは、それから2カ月半もたった4月13日(実際は14日)。59年前の3日前である。
 雪に閉ざされた釧北峠の道がやっと開こうという時だった。遺体の周りにアドルム(睡眠薬、今と違ってかつては簡単に手に入った)のビン、マッチ、煙草などが置かれていた。小説は「死に顔の最も美しい死に方はなんであろうか」という書き出しで始まるが、厳冬の山中での睡眠薬を飲んでの凍死は、純子らしい死に際の選び方だった。まるで永遠の若さと美しさを凍結保存したかったかのような意思をそこに感じる

忘れられた天才画家は作家の手で永遠の生を授けられた
 実在した加清純子の自死は、才能に行き詰まりを感じたからとも、交際していた男性関係のもつれからとも言われる。遺書はなかった。作者の渡辺淳一は、若さの輝きのまま自らを封印したかったのだ、と推定する。
 失踪時と遺体発見時には道内の新聞各紙に大きく報道されたその純子も、時とともに忘れられていったが、死の20年後に医師にして直木賞作家となっていたかつての恋人の1人である渡辺淳一の手で小説に描かれることで、永遠の生を授けられたのである。
 そしてさらに23年たった95年、実姉加清蘭さん(日野原冬子)の手で、遺作画集・文集「わがいのち『阿寒に果つ』とも」(青娥書房)が刊行された。この遺作集の存在についてはbeの記事で初めて知った。

多くの絵は散逸
 さっそく図書館に行って、借り出した。作品は、印象派的な絵とともに、シュールレアリスム画風にまで及ぶ。絵画のことはよく分からないが、素人目にもこれが十代の少女の絵かと思った。一部の絵には、無残なヒビが入っていた。蘭さんによると、絵は200枚ほど描かれたというが、もはや40作品ほどしか行方がつかめていないという。純子の記憶が風化し、残した絵の散逸をくいとめるために、遺作集が編まれたのだ。
 純子との1年弱の幼い恋にひたり、その死に深い衝撃を受け、小説の形で鎮魂歌を奏でた渡辺淳一は、彼女との関係がなかったとすれば作家になっていなかったかもしれないと述懐する。その渡辺淳一との出会いがなければ、純子の生と死が伝えられることもまたなかった。その数奇なめぐり合いの妙に、人生の不可思議さを感じる。

最後の恋人は後の戦場カメラマン
 純子とめぐり合い、その出奔と死に決定的に重要な役割を果たした男を、もう1人、あげておこう。
 すでに鬼籍に入った、世界的に著名な戦場カメラマン、没してもう26年になる岡村昭彦である。常に戦争の犠牲となる弱い民衆の側からカメラを向け続け、後の多くのフォト・ジャーナリストに大きな影響を与えた人だ。
 乱雑なままになっている書棚の奥を探して、やっと見つけ出した。岡村の書いた『続南ヴェトナム戦争従軍記』(岩波新書)だ。75年まで続いた南ヴェトナム(現在のヴェトナム)でのアメリカ・南ヴェトナム政府軍対北ヴェトナム・解放戦線との戦争で、岡村はフリーのフォト・ジャーナリストとしてアメリカ軍に従軍して写真を撮っていたが、途中で単身、解放区に潜入し、解放戦線側を内部から取材した。当時、誰もが果たせなかった快挙だった。
 ここで解放戦線副議長との単独インタビューに成功し、世界を驚かせた。ヴェトナム戦争終結後も、アフリカの内戦や北アイルランド紛争を取材、そうした一連の活動で、悲惨な戦争の実態を写真として切り取り世界に伝えた。その岡村こそ、敗戦直後の北の都で奔放な愛を奏でた天才的少女画家、加清純子の最後の恋人だった。

共産党の「五全協」極左方針に従い渡道
 現在、演出家として活躍する実弟の岡村春彦氏と純子が同じ札幌南高に在籍したことで、2人は知り合った。今にして思っても、それはいかにも1950年代初頭にふさわしい出会いだったと言える。
 マルクス主義にかぶれ、東京医専(現東京医大)を中退して共産党の活動家となっていた岡村昭彦は、活動の場を求めて札幌にやってきて、純子や実弟の春彦氏らが始めた同人文学雑誌サークルに現れ、純子と交際を始める。ただその交際は、純子の他の男との交際と異なり、岡村の側の都合で終わった(純子は、すべての男を結果的に自分からふった)。
 51年の初冬、岡村は道東の辺鄙な村に移り住む。同年10月、日本共産党の第5回全国協議会(五全協)の決定に従った行動だった。中国の毛沢東戦略に習い、共産党は五全協決定で、山村工作対という農村部への非公然の武装宣伝隊を組織し、党の拠点作りを始める一方、都市では過激な火炎瓶闘争を展開した。岡村は、その一員として参加したのだ。そして道東のある村の診療所で、無資格医療行為を行ったかどで警察に逮捕される。

六全協で極左暴力闘争を清算したが
 それを知った純子は、52年1月18日の夜、前述したように、かつての恋人たちに一輪の赤いカーネーションを残して出奔、釧路刑務所に拘留中の岡村に面会に行き、釈放のための保釈金を支払った後に、阿寒湖の見える山中にわけ入って自死した。すべてをやり遂げ、それだけをやり残したからであったかのように。
 その五全協の極左方針は、多くの犠牲者を出しつつ失敗、4年後の55年の六全協(第6回全国協議会)によって全面的に放棄された。しかし岡村もそうだったように、五全協決定による山村工作隊と武装闘争には、共産党の無謬性を信じた無垢な多くの学生たちが参加していたのだ。今では信じられないが、当時の学生(同世代に占める数は少なく、いわゆるエリートだった)のかなりは左翼かぶれで、そのうちの少なくない人数の学生たちが共産党員となって活動していた。

ヴェトナムの戦場で岡村は何を思ったろうか
 親も学業も恋人も捨てて党の方針に忠実に従った多くの学生たちは、六全協による突然の転換でアイデンティティーを失い、深い絶望感・挫折感を味わったとされる。
 後に、作家柴田翔による芥川賞受賞作『されどわれらが日々』は、そうした学生たちの深い挫折感を描き、一躍ベストセラーになった。
 60年代の南ヴェトナムの戦争取材の最中、岡村が農村解放区に潜入した折りに、きっと若き日に携わった山村工作隊の日々を思い、純子のことも思い出したに違いない。『従軍記』にそれが触れられることはなかったけれども。
 写真は、若き日の純子と渡辺淳一、そして純子の遺作の1枚、さらに戦場の岡村。

昨年の今日の日記:「電車内優先席での携帯使用禁止圧力の不条理:ペースメーカー、mova」