黒田官兵衛と宮本武蔵 | 朝倉新哉の研究室

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今年の大河ドラマは、黒田官兵衛です。

ウィキペディアより転載

この黒田官兵衛が、宮本武蔵と一体どんな関係があるのか。
大河ドラマでは、おそらく全く描かれないと思いますが、
官兵衛と武蔵の関係について考察してみたいと思います。

黒田藩分限帳』には、宮本武蔵の父と考えられる新免無二の名前があります。
   ↓
  こちらのサイトにあります

「組外」という扱いで、石高は百石。
播磨人古御譜代、武州師父(武蔵の父ということ)という注記があります。
黒田藩では、豊前中津入国後に家臣になった者を、古御譜代衆と呼び、
      筑前入国後に家臣になった者を、新参衆と呼んでいました。

黒田官兵衛の豊前入国は、天正十五(1587)年7月3日。
      筑前入国は、慶長 五(1600)年12月11日です。

武蔵の父、新免無二は、1587年から1600年までの間に、
黒田家の家臣になったということになります。
1600年9月には、関ヶ原の戦いがありましたから、
無二は、その直前までには、家臣になっていたと思われます。

『黒田藩分限帳』には、
元々の無二の主君、新免宗貫(しんめんそうかん、官職名は伊賀守)が、
新参」と記され、石高は2千石、
慶長六年正月には、黒田家家臣になっていたことが記されています。
新参ということは、関ヶ原の戦いが終わり、黒田家が筑前に入国したあとに
家臣になったということです。
新免宗貫は、宇喜多秀家に仕えており、西軍として参戦しています。
宗貫は、敗軍の将の一人なのです。
黒田家は、そんな人物を合戦の直後に召し抱えているわけです。

これは、新免家存続のために新免無二が動いた結果だと考えるとすっきりします。
新免宗貫は、宇喜多秀家配下なので、当然、西軍につきます。
西軍が負けた場合に備えて、無二が黒田家の家臣となり、
敗軍の将となった場合の宗貫を召し抱えてくれるように働きかけたのではないでしょうか。

真田昌幸も似たような動きを見せています。
昌幸は、次男の信繁(*)とともに西軍につきましたが、
長男の信之は、東軍につきました。
こうしておけば、東西どちらが勝っても、真田家は存続させることができます。
 
 (*)
  真田昌幸の次男は、幸村という名前で知られていますが、
  自筆の手紙のような信頼のおける史料には、信繁という名前しか出てきません。
  幸村という名前が初めて現れたのは、軍記物語『難波戦記』で、
  この『難波戦記』が広く読まれたためか、
  幕府編纂の系図資料集である『寛政重修諸家譜』や
  兄・信之の子孫が代々藩主を務めた松代藩の正史にまで「幸村」という名前が載っており、
  間違いが定着してしまっています。

宮本武蔵は、寛永十五(1638)年、55歳のとき、島原の乱に参加します。
その直前の様子が、庄司甚右衛門という人物が記した『青楼年暦考』に出ています。
「宮本武蔵は
 雲井という女郎の相方にして遊ばれけるが、
 寛永十五年島原一揆の時、
 黒田様の御陣へ見舞に参るとて、
 暇乞いながらかの雲井が許に来られ、
 かの女にさし物を縫はせ、勇々敷出立、直に騎馬にて肥前へ参られけるよし」
(一部省略して引用)

『青楼年暦考』が、どのくらい信頼のおける史料なのかわかりませんが、
この記述が事実だとすれば、
55歳になった武蔵が、黒田家の陣中見舞いに行っているのです。
何のつながりもなければ、陣中見舞いになど行くはずがありません。
父の主君であった新免宗貫を、
敗軍の将と知りながら召し抱えてくれた恩義をずっと忘れなかったからだ、
と考えてもおかしくはないでしょう。

ではなぜ、官兵衛は新免宗貫、新免無二を召し抱えたのか。

黒田官兵衛は播磨で生まれ、42歳まで播磨に住んでいます。
新免無二も”播磨人”です。
宮本武蔵も、五輪書の中で、自分のことを「生国播磨の武士」と言っています。

同郷だからというだけでは、理由として弱すぎます。
実は、出自が関係している可能性が出てきたのです。

宮本武蔵の養子、伊織が建立した小倉碑文には、

播州赤松末流新免武蔵玄信二天居士 
播州の英産、赤松の末葉、新免の後裔、武蔵玄信、二天と号す。

という記述があります。
末流も末葉も後裔も子孫、末裔という意味で、
武蔵は、播磨国の生まれで、赤松氏の子孫であり、新免氏の子孫でもある、
という意味になります。

  武蔵が書いた五輪書の最後の部分の署名は「新免武蔵玄信」となっており、
  これが武蔵の本名と考えられます。
  読みは、「しんめんむさしげんしん」または「しんめんむさしはるのぶ」

黒田官兵衛は、宇多天皇を祖とする宇多源氏の系統である、
というのが通説ですが、
近年、発見された系図には、
赤松円心の弟、円光が黒田家の祖である、と記されています。

この系図が正しければ、黒田官兵衛も宮本武蔵も赤松氏であり、同族だということになります。
(新免宗貫は、赤松氏の一族宇野政頼の三男)

同族だから助けてやった、という可能性もありますが、
それだけでは弱いような気もします。

新潮文庫の『宮本武蔵』巻末付録には、以下のようにあります。

>>>
天正六年(1578)と考えられる11月22日付羽柴秀吉書状によると、
秀吉はこの宗貫に対して
吉野郡、佐用郡(播磨国)、八頭郡(因幡国)を与える旨の
織田信長朱印状を整えたことを報告している。
その際、宗貫の使者として役割を果たしたのが、新免無二斎であった。
>>>

天正三(1575)年6月の御着会議で、黒田官兵衛は、小寺家重臣たちを説き伏せ、
小寺家を織田信長につかせることに成功した、
と伝えられています。

このころ、播磨国の武将は、織田につくか、毛利につくかで揺れていました。

官兵衛は、播磨の武将たちに織田につくことを説いて回っていたことでしょう。
その中に、新免宗貫や、宗貫の使者を務めた新免無二がいたとしても、
おかしくはないでしょう。
(新免宗貫の本拠地は美作国ですが、その本拠地は播磨に隣接しており、
 官兵衛からの説得工作を受けていても不思議ではありません)

官兵衛と無二は、このときの接触で信頼関係を深めた、という可能性もあります。

さらに、
前掲の羽柴秀吉書状が、天正六年11月22日付だとすれば、
面白い想像ができます。

官兵衛は、天正六年10月から1年ほど、有岡城に幽閉されます。
(肖像画の官兵衛が右ひざを立てているのは、
 幽閉が原因で足を悪くしたためだという説があります)
秀吉の書状は、その直後に発せられたことになります。
普通に解釈すれば、秀吉は、宗貫に対して、
「信長様から、
 吉野郡、佐用郡、八頭郡を与えるぞ、というお許しをもらったよ
 (だから宗貫さん、味方についてくれよ)」
と言っていると考えられます。

しかし、この書状が官兵衛の幽閉直後に発せられているので、
普通に、味方についてくれよ、という意味ではなく、
吉野郡などを与える許しをもらったから、官兵衛の救出に協力してくれないか、
という意味だとしたらどうでしょう。

実際に官兵衛救出に動いたのは、官兵衛の家臣、栗山利安などですが、
無二や宗貫が、なんらかの形で間接的に協力していたとしたら…。

官兵衛はその恩義を忘れず、救出から21年後、
関ヶ原で敗軍の将となった宗貫を召し抱えた、
という大変な美談が成立します。

まあ、大河では、武蔵の「む」の字も新免の「し」の字も出てこないでしょう。
赤松氏も、黒田家の同族とは描かれないでしょう。

結論も何もありませんが、今日はこれで終わりです。

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