織田水軍対毛利水軍 | 朝倉新哉の研究室

朝倉新哉の研究室

全ては日本を強くするために…

やあ、みなさん、私の研究室へようこそ。

またぞろ大河ドラマネタです。
長くなりますが、お付き合いください。

本日放送分のあらすじ。(http://www1.nhk.or.jp/kanbe/story/story19.htmlから)

>>>
村重が信長に謀反を起こし、
高山右近ら摂津の諸将も反信長包囲網に加わった。
秀吉の説得も物別れに終わるなか、
官兵衛のもとに主君・政職まで毛利方に寝返ったという知らせが入る。
政職を翻意させるには、まず村重を説得しなければならない。
官兵衛は周囲の反対を振り切り、
決死の覚悟で単身、村重の籠もる有岡城へ向かう。
官兵衛にとってそれは人生最大の苦難の始まりであった。
>>>

ちょっとわからないのは、
毛利に寝返った政職を、再度織田方につかせるのに、
まず村重を説得しなければならない、
というところです。

『秀吉ではなく家康を「天下人」にした黒田官兵衛』 跡部 蛮 双葉新書
には、以下のようにあります。
>>>
「ダブル謀反」
 (天正六年二月に、別所長治が、
  同年十月に、荒木村重が、織田から毛利に寝返ったことを指す)

によって小寺家内部が激しく動揺し、
ついには「志を変じ毛利家に従ふ」ことになった。
秀吉の陣中にいた官兵衛は、
父・職隆が留守居する姫路へ戻り、
家老たちを集めて対応を鳩首する。
このとき家老たちは
「(小寺政職からの呼び出しがあっても)御着へ行き給ふ事あやうく存じ候間、
 この城に御引き籠り、虚病(仮病)を御かまえ、
 御着へ節々使を遣され、家老共を御あひしらひ、
 わざはひ(災い)を御のがれ(逃れ)しかるべく候」
といった。
御着城内では黒田家を敵と考えているはずだから、
いったら危ないというのである。
それより病と偽ることが得策だという。
しかし、官兵衛は、病と偽っても必ず仮病だとばれるはずだし、
「小寺殿に叛き、合戦に及ばん事不義の至りなり」
といって反対した。
また父・職隆もそこまで忠義を貫いて殺害されるようなことになったら天命であり、
どうしても政職や小寺家の重臣らを説得できなかったときには、
潔く「切腹すべし」という。
こうして官兵衛はわずかな供廻りで御着城の政職を説得することになるが
>>>
(緑字はブログ主による補足)

このように、まず村重を説得するのではなく、
小寺政職を説得しに行っているのです。
さらに、
『秀吉ではなく家康を「天下人」にした黒田官兵衛』
には、こうあります。
>>>
御着城内では
「毛利家に同心し、信長に叛かんとの議定一同に決しける」状況にあった。
天正六年十一月のことになるが、
毛利の小早川隆景が
奉行衆の粟屋元種に宛てた書状(「毛利家文書」)によって、
小寺家がこの頃、
毛利方に転じていたことが一級史料でも確認できる。
御着方では当然、
敵方の官兵衛を殺害する選択肢もあったであろう。
しかしながら、そうしたら、
必ずや父・職隆が姫路で籠城することになると考え、
ある計をめぐらす。
政職は官兵衛に、
「荒木もとのごとく再び信長へ心を属せば、
 我等も信長に属すべし。
 貴殿(官兵衛)はまず荒木が許へゆきて、いかにしても彼をいさめ、
 信長方へ引き入れ候」
といった。
自分たちの手で官兵衛を殺害したら姫路と合戦となるのは必定。
そこで、それを避けるため、
官兵衛を伊丹へ遣わし、
村重に官兵衛を殺させようとしたのである。
>>>

この部分は、
黒田家の歴史を記した『黒田家譜』という文献に基づいて書かれています。
『黒田家譜』が100%事実を書いているか、というと、
そうとも言えないのですが、
官兵衛が、村重説得に行かざるを得なかった理由としては、
頷けるものがあります。

官兵衛を殺せば、御着対姫路の合戦になる。
御着城主の小寺政職、姫路の前城主黒田職隆、
将として優秀なのは、どちらか。
史実でも、職隆のほうが優秀だったろうと思います。
ドラマでも、小寺政職は、優柔不断な人物として描かれているので、
「戦えば不利」
と判断した御着方が、
村重に官兵衛を殺させようとして、
「村重を説得すれば我等も織田につく」
と言った、
というのなら、よくわかります。


http://www2.harimaya.com/akamatu/html/ak_tyuse.htmlより転載

村重が裏切ったことによって、摂津国は全てが、反織田になったようなものです。
別所氏の拠点は三木城です。
荒木、別所の”ダブル謀反”によって、東に超強力な敵が出現し、
さらに、御着城までもが、毛利方についたわけです。
また、西の上月城は、毛利に取り返されています。

>>>
播磨全土はほぼ毛利陣営に組み入れられたとみてよく、
官兵衛は難局打開の一縷の望みを託し、
奸計と知りつつ、一か八かの覚悟で伊丹へむかったのではなかろうか。
>>>

『秀吉ではなく家康を「天下人」にした黒田官兵衛』 跡部 蛮 双葉新書 から引用。

まさに、黒田家存亡の危機、官兵衛絶体絶命のピンチです。

ところで、秀吉が、村重の説得に行く、というのもわからないですね。
ドラマの中では、
村重は、秀吉の下につかされたことを不満に思っていたはず。
その秀吉の説得など、耳を貸すはずがない、と思うのですが…。

このあたりは、素直に『黒田家譜』に従って描いたほうがいいように思います。


信長が主人公でも、秀吉が主人公でも、官兵衛が主人公でも、
播磨を舞台にした織田対毛利の戦い、
織田対石山本願寺の戦いは、
必ず描かれるわけですが、
どのドラマでも小説でも、”ある要素”を過小評価していると思います。
それは、
鞆幕府(足利義昭の亡命政権)
と、
瀬戸内海の制海権
です。


正義は義昭の側にあり?

>>>
天正六年の時点で義昭は毛利領内の備後鞆ノ津(福山市)にいる。
義昭は信長に京を追われたとはいえ、征夷大将軍を辞しているわけではない。
「公儀」としての威光は保っていた。
義昭が槇島城を退去した元亀四年七月十八日をもって
室町幕府が滅亡したとみるのが通説である。
たしかに、幕府に仕えた奉行衆・奉公衆の多くは京にとどまり、
信長の扶持を受けるようになった。
しかし、信長が義昭を京から追い出して半年後、
奥州の伊達輝宗(政宗の父)に書状をしたため、
すべては、甲斐の武田家や越前の朝倉家ら
「公儀(義昭)を妨げる侫人」らによって
義昭が「御逆心を企てられ候」結果だとしている。
義昭追放後も、信長自身、
「公儀」としての義昭の存在を認めざるをえなかったのである。
さらに、
信長が家臣の明智光秀に討たれた本能寺の変の一年後に至っても、
当時、日本に滞在していた南蛮人宣教師のルイス・フロイスは
「内裏(天皇)の次位にある日本の君主たる公方様(義昭)」
(『イエズス会日本年報』)という表現を用いている。

義昭は天正四年(1576)、
毛利家に招かれる形で備後鞆ノ津に入った。
以降、その義昭の政権は「鞆幕府」と呼ばれる。
鞆幕府は
毛利家当主の輝元を副将軍に、
信長に従わなかった奉行・奉公衆らを擁していた。
また、京都五山(幕府管轄下にある禅宗寺院)の住持を任命するという
幕府機構としての体裁も保っている。
さらに、毛利家内部では義昭を「将軍」と呼び、
幕府の目的が「織田上総介御退治」にあったことが、
毛利家家臣の手紙から判明している。

義昭が将軍である以上、
名目上、公儀は義昭の手にあり、
「公儀=正義」であるとすると、
正義は「信長・秀吉・官兵衛」より
「義昭・毛利・別所」側にあるといえる。
>>>

『秀吉ではなく家康を「天下人」にした黒田官兵衛』 跡部 蛮 双葉新書 から
抜粋して引用。

ドラマなどでは、信長や秀吉の側に正義があるように描かれますが、
当時の価値観としては、
将軍=公儀=正義を擁している毛利のほうが、むしろ正義であったのです。
この点を、ドラマ制作者も小説家も、見落としているのではないでしょうか。


織田水軍 対 毛利水軍

天正四年の”第一次木津川口の戦い”は、
『軍師官兵衛』でも描かれています。

織田水軍の総大将は、九鬼嘉隆。
戦いに参加した武将の名が、『信長公記』に載っていますが、
ウィキペディアに、その武将たちがどうなったかが、書かれています。

真鍋七五三兵衛(討死)
沼野伝内(討死)
沼野伊賀(討死)
沼野大隅守
宮崎鎌大夫(討死)
宮崎鹿目介(討死)
尼崎の小畑氏(討死)
花隈の野口氏(討死)

生き残ったのは、一人だけ。
大敗北です。
この事実と、”鞆幕府”とを合わせて考えると、
織田から毛利に寝返る武将が続出するのも、当然ではないか、
と思えてきます。
”将軍”を擁しており、なおかつ、海戦では圧勝したわけですから。

毛利水軍は、焙烙火矢(ほうろくひや)という武器を使いました。
>>>
焙烙火矢とは、
料理器具である焙烙、ないしはそれに似た陶器に火薬を入れ、
導火線に火を点けて敵方に投げ込む手榴弾のような兵器である。
手で直接もしくは縄を付けて遠心力を使った投擲が行われ、敵兵の殺傷を主目的とした。
付随して周辺の木造部分へ引火することもある。
現代でいう焼夷弾に似た兵器。
火矢と名前がついているが、丸い爆弾状のものが多く、そのため焙烙玉とも呼ばれた。
>>>

ウィキペディアから引用。


http://ninjawarriors.ninja-web.net/ningu.htmlより転載

この焙烙火矢のために、織田水軍は、壊滅的打撃を受けたのでした。
しかし、これで終わらないのが、信長のすごいところです。

>>>
織田信長は、
九鬼嘉隆に命じて、
大筒・大鉄砲を装備し、焙烙火矢が効かない鉄甲船6隻を伊勢国で建造させた。
『多聞院日記』によると
その大きさは縦22メートル・横12メートルあったとされ、
当時としては空前の巨大さと防御力を持っていた。
>>>

ウィキペディアから引用。

NHKの番組で、”鉄甲船”が取り上げられたことがあります。
番組では、”鉄甲船”の母体となったのは、
安宅船(あたけぶね)であろうと言っていました。












http://blog.goo.ne.jp/ryuzojiryuzoji/e/89a039560d4806ca345699f97cc93fe9より転載

ご覧のように、木造船なので、このままでは、焙烙火矢の餌食になってしまいます。
この安宅船の外板に、薄い鉄板を張り巡らせたのだろうと、
番組では言っていました。













http://blogs.yahoo.co.jp/mvbzx0147/25418264.htmlより転載

天正六年十一月六日、”第二次木津川口の戦い”が始まります。

>>>
11月6日、毛利水軍が木津川付近に姿を現した。
九鬼らが迎え撃つと、毛利水軍は彼らを囲み、南下。

午前8時頃から戦闘が始まる。
九鬼の6隻の鉄甲船は、敵を引きつけて、
大将が乗っていると思われる船を大砲・大鉄砲で集中攻撃するという戦術をとった。
これを恐れた毛利水軍・村上水軍はそれ以上近づくことはできず、
数百隻の船が退却していった。
戦闘が終了したのは正午頃であった。

結果

この戦いの結果、大坂湾の制海権が織田方のものとなった。
これにより、石山本願寺への兵糧や武器の搬入は無くなり、
織田方は本願寺に対する勝利に大きく近づいた。
約2年後、顕如は織田信長に降伏し、石山本願寺は織田信長に明け渡されることとなる。
>>>

ウィキペディアから引用。
















http://bushoojapan.com/tomorrow/2013/09/29/6632より転載

天正四年の”第一次木津川口の戦い”では、
毛利大勝利となり、
本願寺は、毛利からの兵糧を受け取り放題となり、
織田方は、形勢不利となりました。
しかし、”第二次”の戦いにより、
本願寺への兵糧補給は断たれ、
本願寺の孤立は決定的となりました。
このことの持つ意味も、過小評価されてると思うんですよね。

『秀吉ではなく家康を「天下人」にした黒田官兵衛』によると、
信長は、
天正六年の十月二十一日までに、
荒木村重の裏切りを、知っていたことがわかります。
黒田家の家臣が、
”官兵衛の不在中も黒田家に忠誠を誓う”起請文を出したのが、
同年の十一月五日。
よって、官兵衛は、
十月二十一日から十一月五日の間に、幽閉されたということになります。
そして、
第二次木津川口の戦いが、十一月六日。
村重目線で見ると、
説得にやってきた官兵衛を幽閉した直後に、
”毛利水軍敗北”
の知らせを受けることになります。
十一月九日には、信長が4万の軍勢を率いて出陣します。
村重は内心「しまった」と思ったのではないでしょうか。
黒田家の目線で見ると、
官兵衛が幽閉され、起請文を提出した翌日に、
”織田水軍勝利”の報を聞いたわけです。
これ、非常にドラマチックな展開だと思うのですが、
このあたりをどう描くのか。
楽しみです。

長くなりましたが、
歴史に興味がある方なら、読んでいただけるのではないかと思います。

お読みくださった方、ありがとうございます。
読んだついでにクリックをお願いします。

人気ブログランキングへ