死ぬのはガンに限る? | 朝倉新哉の研究室

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http://news.ameba.jp/20120504-279/

からの引用です。

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医師が驚きの提案「死ぬのにはがんに限る。ただし、治療はせずに」

「細く長い人生」と「太く短い人生」、
どちらが良いかと聞かれても、そう簡単に答えることはできません。
誰だって、「太く長い人生」をおくりたいのが本音でしょう。

 しかし今、太さ・細さ関係なく「長く生きる」ことが重要視されている風潮があります。
年寄りに対する「若さ」や「健康」の重圧はかなりのものがあると
警鐘を鳴らすのは、医師であり書籍『大往生したけりゃ医療とかかわるな』の著者・中村仁一氏です。
確かに、健康食品やサプリメントの売れ行きの凄さが、それを物語っていますし、
「健やかに老いなければいけない」といった空気も感じ取ることができます。

 「本来、年寄りはどこか具合の悪いのが正常なのです。
  不具合のほとんどは老化がらみですから、医者にかかって薬を飲んだところで、
  すっかりよくなるわけではありません。
  昔の年寄りのように、年をとればこんなものと諦めることが必要なのです。
  ところが、『年のせい』を認めようとせず、『老い』を『病』にすり替えます。
  なぜなら、『老い』は一方通行で、その先には『死』がありますが、
  病気なら回復が期待できますから」(中村氏)

あまり医療に頼りすぎず、老いには寄り添い、病には連れ添う、
これが年寄りが楽に生きる王道だと中村氏はいいます。
そして、少し驚くような言葉ですが、
「死ぬのには"がん"に限る。ただし、治療はせずに」といった持論も展開しています。

その理由は2つ。
まずは、周囲に死にゆく姿を見せるのが、生まれた人間の最後の務めであるから。
そして、比較的最後まで意識清明で意思表示が可能なのが、がんなのです。
きちんと身辺整理をし、お世話になった人に感謝やお別れを伝えることができる死に方だといえるのです。

ただ、日本ではがん死はあまり歓迎されていません。
それについて中村氏は、
「がんイコール強烈に痛むと連想される。けれども、すべてのがんが強烈に痛むわけではありません」
と説明しています。
さんざんがんを痛めつけても、痛むのは7割程度。
つまり、3人に1人は痛まずに亡くなることができるのです。
むしろ病院での治療は、放射線を浴びせたり、猛毒の抗癌剤を投与するので、
大変な苦しみがともないます。

最後まで点滴注射や酸素吸引もいっさいしない、
数百例の「自然死」を実際に見届けてきた中村氏は、
人生の終え方として、「自然死」をおすすめしています。
そして、それは「がんに限る」と確信しています。
丁寧に自分の人生を終えることができるからでしょう。

最後に、「逝き方」は「生き方」。
つまり、今の生き方をはじめ、周囲への関わり方、医療の利用の仕方、
これらが死際に反映されるというのです。
少し体調がすぐれなければ、すぐに「医者」「薬」「病院」となる人には、
自然死は少々難しいのかもしれません。

太くも細くもある人生です。
納得できる死の場面を迎えることができるよう、元気なうちから準備しておく必要がありそうです。

『大往生したけりゃ医療とかかわるな (幻冬舎新書)』
著者:中村 仁一
出版社:幻冬舎
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>「細く長い人生」と「太く短い人生」、
>どちらが良いかと聞かれても、そう簡単に答えることはできません。
>誰だって、「太く長い人生」をおくりたいのが本音でしょう。

そうですかね?

私は太く短いほうを選びますけどね。

私のような考えは、一般的には受け入れられないだろうとは思います。

>しかし今、太さ・細さ関係なく「長く生きる」ことが重要視されている風潮があります。

一般的には、”太くなくていいから長く生きたい”と考える人が多いのでしょう。

「死ぬのはイヤだ」「死ぬのは怖い」と思う人が多いでしょうから。

しかし、何の実績も残さないで、ただ長く生きるだけの人生というのは…。

少なくとも私はイヤですね。

人間は、誰でもレゾンデートル(存在理由)を求めて生きているのです。

自分が確かにこの世に生きた、という証を求めているのです。

あるいは、「自分は○○で世の中に貢献した」という事績を残したい、

と心のどこかで思っているものです。


私の人生に最も大きな影響を与えた本

『増補改訂 極真への道 私の空手哲学』 大山倍達 日貿出版社

の中に、こんな言葉がありました。

志立たざれば
      舵なき舟
          轡(くつわ)なき馬のごとし

大山先生は、志とは、

”そのために自分の生命を失っても惜しくないと思える人生目標”

という意味で使っているようです。

前掲書に、こういう一節があるからです。

>自分の道に立ち生命と替えることのできる目標をもったとき、
>はじめて男は男の強さをもつことができる。

私は、この本を読んだので、

「志を遂げることができたなら、別に長く生きられなくてもいいじゃないか」

そして、

「男の人生は、何の事績も残すことなく、ただ長く生きるより
 志を遂げることができたかどうかのほうが重要だ」

と思うようになりました。

前掲書には、こうも書いてあります。

>>>
男ならなぜ、より大きな勝負、より大きな戦いを求めて、自分の志を述べようとしないのか。
生命が惜しい、負けるのはこわいというのは、だれしものもつ心情である。
人間はみな等しく臆病なものだ。

私は実戦を通じて、死を覚悟しきっていることの強みを学んでいったが、
後日、武将物語や兵法までも、しばしばこれが兵法の一つとなっていることを知った。

斬り結ぶ 太刀の下こそ地獄なれ
 一足進めば あとは極楽

これはたしか沢庵禅師の歌である。
また、孫子と並ぶ中国古代の兵法書、呉子にも、
「死を必すれば則ち生き、生を幸(こいねが)えば、則ち死す」
という一節がある。

人は、敗北をおそれず、どんどん難事にぶつかってゆくべきであり、
いずれ避けられぬ戦いには、積極的にはいってゆくべきである。
死んでしまえばいいのだ。
一度死んで、まだ生きておれば、もう一度死んでしまえばいいのだ。
こうして、何度も何度も死地に挑戦してゆくのが、実は一つの修行ともなる。

「死ぬことを恐れてびくびくして生きているより、ひと思いに死んだ方がましだ」
ジュリアス・シーザーはつねにこういっていたという。

拳はこわい。蹴りもこわい。しかし、こわいのはお互いさまで、自分だけがこわいのではない。
だから、あえて一歩前進する。
つまり、「一歩進めばあとは極楽」の極楽組手なのである。
極真の組手をやっていれば、かえって、敵におそれを抱かなくなる。
反対に敵はおそれを抱き後退する。従ってまた一歩進む。
この極真の組手が、勇気の組手であり、勇気の組手であるがゆえに、
不敗であることがよくわかっていただけると思う。
極真の道場生は、接近組手の恐怖を乗り越え、練習しているうちに、
組手に必要な勇気をも獲得してゆくのである。

たんに勇気、勇気というだけでなく、このように、勇気をもって挑戦したのちに、
どんどん戦いの結果から、その自信と勇気を技術化してゆかなければならない。
一歩近づいたら、さらにもう一歩近づくことを考え、練習するのである。
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”死の恐怖を乗り越える”

普通の人からすると、考えられないかもしれませんが、

何度も死地に飛び込むようなことをしていると、

どんな困難にも立ち向かえるようになるものです。

何も成し遂げずに死ぬとしたら、その人の人生は何の意味があるのでしょう。

”この世に生きた意味”がないのではないでしょうか?

”ただ長く生きることよりも、何事かを成し遂げることのほうが大事”

少なくとも私はそう思います。

国家戦略研究
大山先生の著書に影響を受けた人は多いはず


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