放課後のセンチメンタル
ショートショート×トールトール・ラバー【5】
やる気の欠片もない挨拶で職員室から抜け出して、やけに薄青い空をぼんやりと眺めた。渡り廊下から、下級生の小猿みたいな声がきゃいきゃい楽しそうに聞こえる。
手に持った掲示物を意味もなくぱらぱらとめくってみた。どれも同じ印刷物だ。分かりきっていてもやってしまうのが人間である。
「上谷のヤツ、俺のこと三年だと思ってねぇだろ」
もちろん、そんなことはあり得ないに違いないが、それでも言ってしまうのが人間である。受験モード全快の周囲から一足先に脱却した俺に教師が仕事を頼みやすいのも分からなくはない。
受験勉強も不要、部活動ももう引退済みですることも無いから、用事を頼まれること自体はそう嫌でもなかった。もともとじっとしているよりも動き回るほうが好きな男なのである。
光圀に「お前の前世は虫だ」と言われたことがある。中でも「働き蜂か働き蟻」らしい。俺は働きものである蜂にも蟻にも敬意を払っているので、例えられるのは不愉快ではなかったけど、人間様である以上、昆虫に例えられて愉快でもなかった。
兎にも角にも彼が言いたかったのは「忙しない」とか「カサカサちょこまか落ち着きが無い」ということに尽きたわけで、俺が敬意を払った「働き者」という部分は切り取って捨てられていた。愉快であるはずも無い。
俺は図書委員であり、上谷は顧問だ。図書の仕事を頼まれて当然といえば当然で素直に仕事を頂戴した。わりと真面目な男なのだ。
「ったく。一年にやらせろよなぁ」
けれど俺の言い分ももっともなはずだから小言くらいで神様も地獄に落としたりはしないはずだ。十数枚の掲示物を持って一年、二年と校舎を回る。とりあえず下級生分は後輩を呼びつけ押し付けた。
運動部というのは縦社会がくっきりはっきり鮮やかで、引退しても先輩風を吹かすことができる。たとえ身体的な理由で見上げなければならない相手でも、絶対的な歳差の前には「分かりました、先輩」と言わなければならないのである。
「んじゃ、頼んだから」
「ウッス」
けれども彼らが快く引き受けてくれたのは、俺の人徳に他ならない。思うくらいは自由だろう。
仕事とは名ばかりのプリント配布係を気分よく続けながら、三年の教室を覗く。後輩ばかりでなく、わりと顔の広い俺はさくさくと知り合いにプリントを手渡して、もう残り一枚になっていた。三年ともなれば放課後の教室は人もまばらだ。みんな塾やなんやでいなくなる。
残っているのは俺と同じ専門学校組みや推薦ですでに進路が決定して暇を持て余しているやつらぐらいだ。
少しだけ温度の下がったように感じる廊下で、じきに皆ばらばらになって行くんだろうなと珍しくセンチメンタルに心を染めながら息をついた。
「誰もいないじゃん」
静か過ぎる教室は別世界のように感じさせて、少し寂しい。妙に感傷に浸っていたからなおさらかもしれない。
「変なの」
強がりみたいな意味のない言葉を吐いて、掲示板でお役御免となっている画鋲を抜き取った。「図書室からのお知らせ」と風船を膨らましたようなポップな文体で描かれたそれを壁にあてがいながいながら押しつぶされた怪獣みたいな唸り声を上げた。
「むぐ…… と、とどかねぇ」
我がクラスの掲示板は不必要なほど掲示物が多く、自分の頭ふたつ半程上の高さに唯一空きスペースがあるだけだ。
背後に並ぶ椅子のどれかを持ってきて踏み台にすればよいのだが、俺はそれをしなかった。別に俺が阿呆だから道具を使うという案が浮かばなかったわけではなく、何故かそうしたくなかったのだ。
横着者と言われれば否定しようがないが、そのとき何故か踏み台を使うという行為が人生最大の汚点になるように感じて、俺は足がつる思いをしながら背伸びをしていた。
筋という筋すべてが引っ張られ、あわやプツンと音を立てて、自分を引っ張る糸のようなものが切れてしまうという時だった。
視界が薄暗くなったかと思うと、俺の手から掬うように画鋲が奪われた。そのまま流れるように俺の届かない先へと細い指が画鋲を押す。とても容易く、プリントは掲示板へときれいに収まった。
その間、俺は身動きもとれずに四隅を止めていくその所作を眺めていた。
■■■Copyright (C) 2010 カラム All Rights Reserved.■■■
上のボタンをポチポチっとやってもらえると、とってもうれしいです☆