繋ぐ体温、見えない先
嘘恋シイ【12】
例えば、難解な問題ほど解けたときの達成感は大きく清々しい。思いがけず告白してしまって、気恥ずかしいはずなのに、それでも胸を占める満足感の方がずっと大きかった。
前日の寝不足のせいもあってか、唐突の一大イベントを終えたばかりのその夜、自分でも信じられないくらいにぐっすりと眠れた。そのくせ、目覚めて急に怖気づいた。今日からどんな顔で小波さんに接すればいいのかが分からない。
尋常ならざる動悸を連れ立って登校した。それなのに、校舎前で一定のリズムで揺れる、彼女の後ろ髪を見て、何故だか妙に落ち着いた。明らかに目の前の彼女の足取りは重い。空を仰いでは何度も肩を落としている。
思わず笑みが零れて、自分でもいい性格してるよと肩を竦めた。彼女の足取りを重くしているのは間違いなく自分なんだと、変に喜んでしまう。そんなことで喜んだって仕方ないのに、心っていうものは本当に不思議だ。
「小波さん」
声をかけた瞬間の振り向きざまに見せた彼女の笑顔に心臓が、体中が跳ねた。
「上谷君、おはよう」
なのに目の前で、その輝かんばかりの笑顔が、しゅるしゅるとしぼんでいく。誰も気がつかないスピードで、誰も気がつかない程度の変化。知るべきではないその変化に俺は気づいてしまった。
……兄貴と勘違いしたんだ。
だけど彼女は素知らぬふりで、挨拶を返してくる。これは嘘にはならないのだろうか。淀んだ感情が沸いてくるのを感じた。自分はこんなに嫌な人間だったのかと思い知らされる。彼女を傷つける為だけの言葉が勝手に心に沸いてくるのだ。
小波さんは馬鹿だ。兄貴がこんな場所で声なんて掛けるわけがないのに。
苛々を必死に隠してなんとか笑い返した。しばらく俺の顔を見ていた小波さんは、何故か急に不機嫌になった。少し、ほんの少しだけ見せる、可愛い眉間の皺。そして寝不足そうな顔。色白の顔にうっすらと隈が見える。
「眠れた?」
相応しい台詞は地底で息を潜めてしまった。わざわざ言わなくてもいい言葉だけが生き生きと零れてくる。彼女を前にすると俺はいつも大馬鹿だ。
「うん、まぁ」
曖昧な返事は肯定だけど、多分眠れてないのだろう。少しだけ心配になって、少しだけ嬉しかった。
ちゃんと俺のことを考えた?
彼女と会話がしたくて、気がつけば一番触れたくない話題を口にしていた。俺たちの間にあるもの、それは 「兄」 だ。
あくまで生徒としての会話。あくまで兄弟としての会話。それなのに小波さんが嬉しそうに笑うから、もう仕方が無いと諦めるしかない。笑顔に誘われるように手が伸びた。彼女の頬に触れてしまったかもしれない。触れていないかもしれない。無意識の行動の先で指が小さく震えた。
「小波さん、笑うとえくぼできるね」
可愛く生まれた笑窪は、困ったような顔に上塗りされて潜んでしまう。触れてみようか。小さな願望は彼女の言葉で揺さぶられる。少してれているような、困り顔の彼女は呟いた。
「上谷君だってできるでしょ」
ぐらりとした。足元が自分を支えるには不十分な強度になる。小さく心が悲鳴を上げた。彼女の台詞。それは 「兄に出来るから」 が理由の台詞だ。
ちくりと刺さるような痛み。心はどうして、透明無色の言葉なんかで簡単に怪我をするんだろう。彼女に伸びた手は力なく落ちた。
「出来ないと思うけど」
出来ない。俺には。
耳鳴りがする。暴風みたいな感情が渦を巻いて耳に留まる。とても言葉に出来ないような黒いそれに名前をつけるなら嫉妬なのだろうか。
逸らしていた彼女への気持ちをはっきりさせたら、今度はこれだ。自分でも呆れる。ふわふわと心地よい眠りから醒めて、待っていたのは目も当てられない淀んだ感情。
助け舟を出すようにチャイムが響いた。遅刻間際の生徒たちが、二人の両脇を早足で通り抜けていく。
小波さんはほんの少しだけ視線を泳がせた。気になっているのはチャイムなのか、二人の間の気まずい沈黙なのか、困ったような表情は変わらない。
小さく息を吐いた。胸から腹にかけて、長くゆるく痺れる。不安定な感情を押さえ込むように、重石でゆっくり蓋をした。
「走れ」
急かすような二度目のチャイムに背中を押されて、俺は小さな手をとった。冷たく白い手のひらが俺の手の中で一瞬、縮こまる。
だけど、逃げなかった。彼女も俺も、繋がったそこから離れようとはしなかった。彼女は無言で、俺も無言で、ただ二人で走っている。その先に何があるだろう。まだ何も見えやしない。
……だけど。
彼女の腕を引きながら、もう引き返せないのだと、徐々に熱を持っていく手のひらで確信した。
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