例えば、この世の中に嫌いなタイプの人間がいるとしよう。
否、人間というのは、社会的動物であると同時に好き嫌いがある動物でもある。
ちょっと考えたらわかると思うが、人間というのは感情の動物でもあるんだ。
外見・性格・生育歴…等滲みでた何かで好き嫌いを決めれるのが人間という情けない動物なのである。
故に、如何しても「こいつ、死ねばいい」と凡人は心の何処かで思うのである。
だからこそ、学校という閉鎖空間ではいじめということがおき、中には餌食となった人間が生物学的に死ぬところまで追い詰めるのである。
(※1つ1つのいじめの事例を分析すると行われた内容は、犯罪と呼べる行為が多数を占めるのだが、便宜上「いじめ」と書いておく)
他には、大人が差別をしている層。例えば、ホームレスの襲撃は大多数が、「ストレス発散のサンドバック」的な理由であり、彼らが選択されたのは「死んでもいい人間だから」と言う大人のある種の常識とも言えるところからきているのではなかろうか。
性犯罪における被害者軽視もそうである。
昔から、性犯罪においては加害者より被害者の方が何かと冷遇されてきたのである。
それは今も現実として存在しているからこその被害者吊るし上げ言論も横行している。
その極端事例は「従軍慰安婦問題」ではなかろうかと思う。
従軍慰安婦問題における暴言・暴論はほとんどが性犯罪被害者にも向けられたものなのである。
また、生活保護行政における「水際作戦(書類受け取り拒否)」が横行し、男女共同参画会議の関係者ですら、嫌いなDV被害者を助けないと公言する場合もある。
彼らは【仕事で助けてやってる】という部分と、【命の選別】【理想の被害者像か否かの選別】を心の奥底にあるのである。
「好き嫌いで態度を変え、支援をするしないを決定プロセスの中にない」ということはいろいろな視点での非差別者経験をしてきた「ひねくれ者」と散々言われてきた、私には絶対に言い切れないんですよね。
個人的には、「聖人」たる支援者よりも「理想の支援者像から外れたら容赦無く切り捨てる」人間を幾多に渡って見てきたからにすぎない。
政治家だってそうだ。
だから、いとも簡単に「生命の仕分け」「誰が本当の弱者か否か?」と簡単に言えるのである。
もしも、「《弱い人は皆か弱いのです。》か弱い人々を仕分けることなんてとんでもない事です」と心の底から、思い、【人間の仕分けをしません】という人がいれば、本当の意味で精神的に強く、そして清らかな人物なのである。
あの聖人とも呼ばれた、マザーテレサとて、「目の前のイエスに愛を傾けられない時がある」的な発言をしているのである。
私は滑舌なニヒリストなのかもしれない。
ある人の獄中詩集タイトルからすれば「死ね!」と言われかねないだろう。
だが、人が人間不信・虚無主義(ニヒリズム)に陥る理由なんてないはずがない。
これも断言できる。
何故なら、この世に産まれさせられて、ある程度迄成長するには如何の環境下においても、人という動物は母親を始め、周りの人間を信用し頼らなければ死ぬのである。
そして、人は会得してゆく動物である。
周りがどう考えどう自分を扱っているのか会得し、心で人を求めていても求め方、信頼の仕方を学習できなければ、そのように行動することは不可能である。
努力をすれば報われることを学習出来れば、努力で乗り切れる。
しかし、「学習された無力感(学習性無力感)」という概念も存在する訳で、どういうことなのかといえば、「いくら努力しても報われない」という事を学習するのである。
人は学習をする動物であると私が言い続けてるのはまさにここ。
「無力感」や「人間は信用できない」「自ら助けてみたけれど搾取されるだけである」と学習してしまった人を責めることは、私たち人間にできるだろうか?
アルコールを飲んでる時だけが、嫌なことを忘れ切ることが出来る。そう学習した人にアルコールをやめろと言えるだろうか?
パチンコだけが孤独を癒してくれる。パチンコ屋さんはこの世で一番自分に優しい空間である。そう学習した人にパチンコをやめろと言えるのだろうか?
孤独を紛らわす手段は読書だ!と声高らかに言える人は幸いなのではなかろうか?
働きたくても、自分が社会に必要とされている感覚を得られない経験ばかりを積んできた人に働け!と鞭を振れば働けるの?
昭和後半以後の中卒者にとっては我が国は完全なる学歴社会である。
好きで「中卒」を選んだわけでもない人にとっても受難でしかない。
努力で私は100%解決できることがあるとはとても思えない。