「男ともだち」千早茜 (文藝春秋) | かんちくログ

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1発屋どころか、まだ1発も打ち上がってませんが。勝負は、これから。

いま、これを読んでいる。



舞台が京都で、主人公はようやくイラストの依頼で食べていけるようになり始めたイラストレーターで、日々の締切に追われてぼろぼろになりながらも仕事があることに感謝しているのだけど、あとに残らない注文仕事ではなく、本当に描きたい作品を描いて絵本を出したいという夢があるのに、気がつけば「器用できれいな絵」を量産している自分がいる。

何だか自分のことみたいで、笑ってしまった。笑ったあとに苦しくなって泣いてしまった。

高校生の時、江國香織や山田詠美やよしもとばななや松浦理英子に出会ったときの衝撃を思い出した。ひりひりして切なくて赤裸々で不道徳で、こんなことまで書いていいのかとおどおどした。そして、そういう小説を書きたいと思った。
そのことを、この本を読んで思い出した。

読まないと忘れたままだった。そのことが恐かった。
本を読むということを忘れたら、わたしはたぶん小説を書かなくなってしまうだろう。うまいこと小説家という座席に座ることが出来たら、お金のために、小説のようなものを量産し続けるだろう。

わたしの中には、世間とうまいことやっていく自分と、世間とうまくやっていけない自分がいる。恐らく誰だってそうだと思う。世間とうまくやっていけない自分を表に出すのはしんどいから、押し込めて、なかったふりをして、世間とうまくやっていく自分ばかりがにこにこと外へ出ていくのだ。そのうちに、ないがしろにされたほうの自分は腐っていき、世間とうまくやっていくことばかりを考える自分が残ってしまう。

ときどき、わたしには小説を書く資質がないのかなと考えることがある。世間とうまくやっていけない方の自分に光をあてるのが小説なのに、わたしは、放っておけばすぐに世間とうまいことやっていくからだ。小説を書くとか表現をするとか、それは一種のポーズのようなもので、本当は書かなくてもやっていけるんじゃないかと思う。もしそうだとしても、わたしは小説というものが好きすぎて、小説家という仕事にしがみついていきたい。

日々に流される。生活をすることや人と関わることも必要なんだと自分に言い聞かせながらも、両立できず、人々の優しさを八つ当たりみたいに憎く思ったりする。

全部断てばいいのか。そういうものではないだろうし、そんなことはできないだろう。

どうしたらよいのか分からなくて、そんなふうにずっとうろうろと考え続けていたのだけど、ひとつだけ試してみようと思うことが見つかった。

毎日小説を読むこと。

自分でも何を今さらそんなこと…と、笑ってしまうけれど。
わたし、小説家なのに、日々に追われて本を読んでいなかった。
小説を読むことは、世間とうまくやっていけない方の自分と向き合うことだ。向き合えば書くことは生まれてくる。日々に追われて周囲を見失っても、遠くの岸の灯台のように、進むべき方向だけは見失わないで済むのかもしれない。

毎日小説を読む時間を作る。今のわたしには、そんなことが結構な大仕事で、その事実が今のうろうろした状況を作っているのだと思う。