第32話 | 臨時作家

第32話


 老舗旅館を彷彿とさせる造りだった。中庭を囲むようにして各部屋が配置され、右奥には池を足下に渡り廊下も見えた。
 桂介の乃木坂のマンションが脳裏に浮かんだ。無性に桂介が不憫に思えてきた。
 忍壁のおじさんが、室士弥隅を目の仇にするわけだ……。
 素朴を貴び浮華を戒めたと形容したくなる、枯れた佇(たたず)まいの庭だった。この時代にあって、むしろそれは贅を極めた道楽だと言えるだろう。ひときわ目を惹く梅の木は空を切って枝を張り、庭全体をやわらかな印象にしていた。中ほどにある石灯篭の豊かな灯りは、夜になると、さぞかし趣きのある複雑な陰影をつくりだすことだろう。
「心の塵をなと散らすらん……」
「は?」
「いえ……。見事な庭ですね」
 一堂は柔和な面差しで「ええ」と、答えた。
「前の持ち主がそれは大切になさっていたとか」
「前の持ち主と室士会長とは、どういう……」
「さあ、私もあまり詳しくは知りませんが、かなり親密な関係だったと聞いています」
「……そうですか」
 一堂は喋りすぎたと思ったのか、小さく咳払いをすると「トイレは、そちらです」と言って、応接室に引き返した。
 別にトイレに行きたかったわけではない。周一郎はぐるりと周囲を見渡した。中庭は各部屋のガラス戸に囲まれている。知ろうと思えば各人の動きを見張ることも可能だ。部屋と廊下を仕切っているのは普通の襖で板襖の類ではない。住人は嫌でも物音に敏感になるだろう。惨劇の事件当夜、この屋敷には本当に関係者以外、誰もいなかったのだろうか……。当日、弥隅は食道がんの手術を受け、親族も病院につめていた。
 いや、ちがう……。
 室士美弥子、河勝彩子、河勝仁志、そして、室士建吾も屋敷にいた。ここまで考えて、周一郎は、あと一人いるはずの人物が不在であったことに気がついた。
 室士建……、あいつは、どの新聞にも名前がなかった。
 その時、奥のほうで襖のひらく音がした。周一郎は、とっさに踵をかえしたが数歩あるいて足を止めた。
 現在、この屋敷に住んでいるのは、室士建、河勝仁志、室士滋子、そして、室士弥隅……。
 好奇心が勝(まさ)ってしまったのだ。背後から板間を擦るような足音が近づいてくる。さりげなく振りかえると、着物姿の老人が周一郎を窺っていた。
 室士弥隅……。
 弥隅は周一郎が想像していたよりも、ずっと小柄な男だった。



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