感想06「当事者という意識」★発想ワークショップ | かめおかゆみこの≪表現するからだとことば≫塾

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かめおかゆみこ  です。  

 

ピエロ2019/女たちは表現する★記事リンク一覧

 

 

先にお知らせです。
 

義理チョコワークショップ星表現・はじめの一歩!義理チョコ

日時/2019年6月17日(月)13時30分~16時30分

   (開場13時15分)

会場/UraraStudio横浜 うらら 黄金町店

    京急本線黄金町徒歩3分

   (横浜市南区前里町3-64-4 ライブピア前里102号室)

参加費/3000円

   (400字以上の感想を書いてくださるかたは、半額!)

お申し込み/こちら

お問い合わせ/かめおか

 

4月26日、横浜チームで、発想ワークショップを開催しました。
その感想です。
 
深い海を感じた… (K・Tさん)
見える世界が変わる (曽根光一さん)
予測不可能な展開にワクワク (A・Tさん)

楽しかった! ((K・Hさん)

 
 
今日は、えんのまどかさんの感想です。
 
 
ヒヨコヒヨコヒヨコ
 
私は2006年から表現倶楽部「言の葉」という市民グループ
で、虐待を受けて育った人の手記『静かな慟哭』という作品
の朗読活動をしている。
 
グループの代表が当事者と接点があり、書簡のやりとりで聞
き取った「虐待を受けた体験とその人生」を台本にし、多くは
人権勉強会などの場で朗読してきた。
 
今回はその『静かな慟哭』の中からワークショップの一環と
うことで 作品を一つ読ませていただいた。
 
叔母さんに育てられ、虐待を受けた12歳の少女が、自殺未
遂をする。そこに至るまでと、それからのお話である。
 
 
 
何故、今回のワークショップでそれを読むことにしたのか?
 
ひょんなことから、かめおかさんのプロデュースで、パフォー
マンスをやることに決まり、 11月に会場も予約してしまった
のだが、自分が何を表現したいのかが見えてこない。
 
考えても考えても、出てくるのものはどれも、どこかで誰かが
言っていたことのような気がする。
 
どれが自分の考えだったのか? どれが自分の感覚だった
のかわからないということに気が付いた。
 
 
そもそも私は自分の意見を強く主張しないで生きてきた。誰
かと揉めるくらいなら、黙って身を引いた方が楽だと大好き
だったボーイフレンドと別れたこともあるくらい
 
・・・ だから誰かと喧々諤々議論したり、闘ったりしないでその
場を降りてしまう。だってその方が平和だから。
 
だけども腹の中は本当にそうだったんだろうか?
 
 
朗読の後、かめさんは「このお話に出てくる赤ちゃんになって」
と言ってきた。 「え?」
 
赤ちゃんを置き去りにして若いママが出ていくシーンの再現を
させたのである。
 
再現を一緒にしてくれるママ役に男性。その後自殺をしてしま
うパパ役には女性。その二人は私が選んだというよりは、な
ぜだか引き寄せられるように決まった。
 
 
そして再現シーンが始まった。
 
「赤ちゃんは部屋の何所にいたのかな?どんな様子だった?」
私は部屋の隅っこに移動し、うずくまった。
ママ役は少し離れたドアの近くに立ってもらった。
 
その途端、さっきまで声を出したり、即興の物語を作ったり、
れ合ったりして和やかに笑いに満ちていたワークショップ
間が、急に暗く感じられた。
 
 
ママは赤ちゃんを一人置いて、出かけようとしていた。
 
「その時の気もちは?」かめさんが静かに聞いた。
 
赤ちゃんを演じている私は、出ていこうとするママにすがりたく
ても体が動かない。
 
 
ママと入れ替わり、夜遅くに仕事から疲れて帰ってきたパパ。
 
自宅のドアを開けた時、 真っ暗な中に赤ん坊が泣き疲れて眠
っているのを見ているのに駆け寄ってくれない。
 
私もパパが帰ってきたのに気が付いたのに、そばに寄れない。
 
 
お互いの存在を認識しているのに、どろどろとした重たい、冷
たい泥沼にはまったような、何かに足をとられているような感
で動けない。
 
その感覚は赤ちゃん役の私だけでなく、ママ役パパ役をして
た二人にもあることに、その場にいた全員が気が付いた。
 
DarkWorkXによるPixabayからの画像です。
 
自分の中にある感情を伝えることに疲れ、諦め、悲しいとか、
だと泣き喚いたり、叫んだりできない、そんな寂しく心が冷
くカチコチに金縛りにあっているような感覚に襲われた。
 
それを一言で言うなら「遠慮」。きれいな言葉だけど、かなり
くて冷たい壁を瞬時に作り上げる言葉だな。
 
 
『静かな慟哭』は、虐待された子どもだけでない、
 
そこに一緒に生きた人それぞれが、家族という人間関係の中
で、一歩踏み出せず、心の中の叫びを出せず、伝わらない想
いにもがき苦しんでいる様を描いた作品だったのだ
 
と改めて感じることができた。
 
と同時に、私は平和主義でも、すべてを悟ったにこやかなおば
さんでもない、私は、私自身が「静かな慟哭」をあげ続けてきた
当事者なんだと改めて実感した。
 
 
さてさて、『表現する女たち』の一員としてこれから私はどうなっ
ていくのか?
 
私は、深い海の底からどうやって浮上してゆくのか? それと
深い海の底になじんで生息していく様をお見せできるのか?
 
行き先のわからない自分を楽しみたいと思います。
 
 
朗読は、そこに書かれた言葉を読む。 舞台で生で行う劇の
者と違い、 紙と文字、つまり台本の壁が聞き手との間に常
ある。
 
朗読者として、台本に書かれた人の言葉に共感し、その内容
寄り添いつつも、
 
台本を手にしている間は、それがプロテクターとして 「私」をさ
らけ出すことなく、守ってくれている気がしていた。
 
さらけ出すことのない意識は、 社会的にも許されることのない
出来事には 怒って怒りの言葉と思いをぶつけるのが正しいん
だと そんな気持ちで朗読を長い間してきた。
 
 
しかし、その台本を朗読し始めて10年が過ぎたころから 自分
の中で、何かが違うと気が付き始めた。 人の人生を語ってきた。
 
被虐待児が生き延びて大人になり、手記を寄せてくれた。
 
れを脚本に作り上げたのは、朗読の会の代表だったから、
からすれば、普通の本になった作品を読んでいるのとなんら
変わりなく 読めばいいのかと最初は思っていた。
 
だけど、朗読の台本として読み始めると、 内容が暗くて厳しく
て、なんでその場から抜け出す努力をしないんだ?といらいら
して 逆に当事者に対し怒りすら覚えたりした。
 
また、当事者に寄り添ったつもりで、 なんで私ばかりこんな目
に合うんだよ、誰か助けてよ、社会はどうして無視するんだよ!!
とこみ上げる怒りをぶつけるように読んでいた。
 
 
何度読んでいても、脚本を書いた代表からはOKが出ない。
「そんな読み方じゃ、伝わらないよ」と。
 
酷く悲しい人生を送ったきた虐待児。 何度も立ち上がろうと努
力するけど、そのたびに上手くいかなくて、もう誰も信頼できな
くなる。
 
叩かれる度、意識を乖離させて「これは自分じゃないんだ」と思
い込もうとする。 そうじゃないと痛みをまともに受けていたら、気
が狂ってしまう。
 
だけど、そこを12年なぞってきたおかげで、いろんなものは見え
るようになった。
 
ヒヨコヒヨコヒヨコ
 
 
まどさん、ありがとうございます。
 
>私自身が「静かな慟哭」をあげ続けてきた当事者なんだ
 

この感覚は、とても大切だと思います。

 

まどさんが、何を表現するか。その根底にこの「当事者意識」

があることが、その表現をホンモノにしてくれるからです。

 

これらかがますます楽しみです!

 

 

 

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