劇団 でん組 旗揚げ公演  『僕のともだち』 | 落語・ミステリー(もしくは落語ミステリー)・映画・プロレス・野球・草バンド活動のよもやま話、やってます。好きな人だけ寄ってって。

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鎌田善和です。売れてない分時間はありますので、遅まきながらブログ始めました。記事は落語やミステリーが中心ですが、映画・野球・プロレス・草バンド活動(野球でいう草野球の事)もリストアップしておきます。気になる、興味がある、と思う人にだけ伝われば。

 と、題名に書いてしまいましたので、今日はこの記事を書こうと思います。ただ、今書くかどうかを、直前までとても迷っていました。というのもこれ、現在公演中の舞台ですからね(中野のテアトルBONBONにて、今日の19時から、明日の14時からと19時から、明後日の13時から、の4公演があります)。これからこの舞台を初めてご覧になる方がいらっしゃるのは間違いありませんよね、楽しみにして。他方、僕としては、この舞台について、出来るだけネタバレにならないように気遣って書くつもりではありますが、それでも、書くとなれば、どうしてもある程度は内容に踏み込まざるを得ません。僕自身、演劇や映画や落語の高座はまっさらな状態で体験したいという思いが強いですから、これからご覧になる方にとってこういう記事は、まさに”百害あって一利なし”。だから、これからご覧になる方は、ここから先はお読みにならないで下さい。という縛りをしましたよという、まさにPL法対応的なご注意を申し上げましたので、それを念頭に、それでも出来るだけネタバレにはならないように頑張って書きますね。来週の月曜日、この公演が終わってから書けばこんなお断りは必要ないのですが、でも、この劇が再演されるかも知れませんからね。そう考えれば、いずれにしてもアカラサマに書けないのなら、今日書けば、ひょっとしてこの記事に喰いついて、予定はしていなかったけれどこの公演に足を運ぶ方が出るかもしれません。映画や落語と同じで、想いの共有は同じ体験からしか産まれませんからね。それを共有出来た方は1人でも多い方が楽しいじゃないですか。それを支えにして書くことにします。
 冒頭から言い切ってしまいますが、まずこの劇は、お芝居として二重構造になっています。もちろん、物語の後半に”そうであること”が明かされますが、しかしそれ、あまりにも大胆に、開始直後に観客には提示されてしまっています。ただ、それが、物語が進まないとそれが、”そうであること”のサインであるとの確信が持てないままで話は進むのですが(もっとも、僕が鈍いだけなのかもしれませんが)。
 そしてこれ、ほぼ80分の間、ほとんど2組のご夫婦の会話で終始します。子供同士が小学校の同級生で、1組はイジメる側の子供の両親(これからこっちをAと表記しますね)で、もう1組はイジメに遭った側の子供の両親(同様にBと表記します)です。この辺りの設定はチラシに書かれていますので、書いても問題ありませんよね。そしてその2組の会話が、Bさんの家のリビングルームでのみ行われる劇なのです。つまり、80分間ほぼ1シーンなんです。ここで”ほぼ”と書いたのは、舞台の装置も設定も変わらないのに(それでも終演近くには、大掛かりな変化がありますが)、観客の心象風景の中には、会話の中に出て来る様々な場所が投影される仕組みになっているからです。その意味では、舞台装置上の変化はなくても、まるで退屈はしません。
 さて、物語の前半部分で観客は、2組の会話に、ずっと変な違和感を覚え続けます。唾を飲み込むのに、なんだか喉に何かが引っ掛かったような(魚の小骨のようにはっきりしたものではありません。ただザラついているだけで”噎せそうな”とでも言えばいいのでしょうか)感じがして、首を傾げたくなります。2組の(というか、本当は3人の、なんですが)取って付けたような起伏の大きい感情と、一貫してそれになじまない1人との齟齬がその正体です。でも、それこそがこの劇の骨子だったと、あとで分かる。すると、そもそもAの2人がこの家を訪ねる前にした会話すら、別の意味を持っていたことに気付かされます。日本語の会話というものは、時として、ダブルミーニング(トリプルもしくはそれ以上かも)になっていたりしますよね。しかも割愛された主語を取り違えた2人が、それぞれ違う主体を思い浮かべながらも会話としては成立してしまう(それによってお互いが捻じれた感情を持ってしまいますがね)などというのもありがちですよね。この劇の作者は、そういう会話の曖昧さやダブルミーニングを意図的に初めから使っています。それを敢えて意識させた上で、それ自体を終盤でもう一捻りする仕掛けを用意している。だからこそ、その一捻りがより一層効果的だし(少なくとも僕にはそうでした。そういう手こそ、僕が自分で使いたがるくせに、見事に嵌められました)そこからの展開は圧倒的にスピーディーになります。そう、これは、観客に、かなりの読解力や思考力(想像力や空想力ではありませんよ。大団円を迎える前の一捻りで二重構造の仕掛けが明らかにされてから、この劇を最初から反芻すると、全ての台詞や行為にはそれへの矛盾がありませんし、観客が抱く違和感の正体にも、キチンと納得出来る合理的な回答が用意されています)を強います。そういう意味ではこれ、茶の間で気楽に観るテレビ番組の中の陳腐とも言える設定の1つという姿を借りて、その実、かなり観客に緊張を強いる上質な心理劇です。最初からそんな風に意気込んで観なくても、観客はどうせそうなっちゃいます。というのも、この劇に出て来る皆さんのお芝居が、とても巧みだからです。
 1例を上げますと、先述した前半部の違和感の中に、Aさんお2人の”携帯電話”の扱いがあります。かかってきた電話に出るそれぞれの指示的会話が、いかにもこの2組の話し合いにとってはご自身たちの不利になりそうな言葉のオンパレードなんで,作者の狙いがそこにある(軽妙に笑わせる)と思ってしまいそうなんですが、よく考えると、その時点で、そもそも携帯電話の電源を入れているのが、その場に臨むAさんたちの立場にはそぐわない。それによってAさんたちの”不遜さ”を(イジメる側を描くのに、そういうステレオタイプを持ち込めば、観客からの共感を得やすいですからね)表現しているのかとも思いましたが、Aさんたちをみているとそうばかりとも思えない。後でその不思議な感覚の正体が明かされた時、「なるほど、だからか!」と唸らされました。それもこれも、お2人のお芝居が巧いからこそ成立するんですね。
 もちろん、Bさんたちも巧い。母親はこの劇中、ずっとある感情を貫き通さなくてはなりませんし、父親たるや、そんな母親を案じながら、ある時には敢えて明るく、ある時にはシリアスに、2組の会話をある方向に引っ張って行こうとするのですが、それが物凄く巧みです。これも、劇中では時として「それ、父親としておかしいだろ。そうはしないよ」と思わされるのですが、それも劇自体が二重構造だと分かってしまうと、それらのすべてに意味があったのだと理解できます。これ、お芝居が下手な人がやったら、ただの茶番になりかねません。少なくとも、作者の意図は表現されなかったと思います。
 そしてエンディングですが、ここには、この舞台では唯一といってもいいほどの大掛かりな仕掛けが施されていますが、それは、ハッピーエンドを感じさせるためのものなんでしょうね。でも僕には、かなり厳しくて残酷なファンタジーだと思えました。まあ、一貫したテーマである”イジメ”というものが、そもそもそういう性格のものだからでしょうか。だからこのシーンで、イジメに遭っていた少年が熊のぬいぐるみを抱いて「僕の(唯一の、本当の)ともだち」という台詞が用意されたんだと思いますし、それをこの劇に題名にしたんだと思いますが。また、このエンデイングで、Bさんたちはちゃんと抱き合って再生を感じさせますが、Aさんたちには微妙な距離が空いたままでした。それも”忘れ去ることこそが再生に必要な”被害者の側と”今後の長きに亘る将来を考えると安穏としてはいられない”加害者側という立場の差を表しているといったら穿ち過ぎでしょうか。
 僕が演劇について書く時には、お決まりのように「是非ご覧になるべき」とか「百聞は…」とか書いて締め括りますので「またかよ」と言われそうですが、それでもこの『僕のともだち』についても、そう言わざるを得ません。特に、あまり観劇されない方にこそ、この劇で、役者さんのお芝居の巧さというものを実感して欲しいと思います。というのもこれ、先ほどから申し上げておりますように、かなりそれ(役者さんの演技の巧さ)を信頼して、そのお芝居に劇そのものの成否を委ねた演出になっていますから。観劇というものをそれなりに経験していないと、目の前で繰り広げられている”現時点”の場所や時間の設定がよく分からない、という舞台も多いですからね。これにはそういう心配がありません。あっという間に80分経ってしまいますよ。ただ、観終わった後には、ドッと”疲れ”を感じるかもしれませんがね。