映画「ルック・オブ・サイレンス」 平成27年7月3日公開 ★★★★☆

 1960年代のインドネシアで秘密裏に行われ、およそ100万人もの命が奪われた大量虐殺。
眼鏡技師の青年アディさんは、自分が生まれる前に兄が惨殺されたことを知り、
さらに加害者たちがインタビュー映像でその模様を喜々として語る姿にショックを受ける。
加害者たちがどのような思いで殺りくに手を染めたのか、そして罪を犯したことを自覚させたいと
考えたアディさんは、ジョシュア・オッペンハイマー監督と一緒に彼らと会うことを決意。
視力検査を行いながら、加害者たちからさまざまな言葉や真実を引き出そうとするが……。(シネマ・トゥデイ)

1965年9月30日、インドネシアの軍事クーデターに端を達して、国中の「共産党狩り」が行われ
スカルノ元大統領の信望者や共産党員でない人もふくめ100万人といわれる人たちが虐殺され
そのときに手を下した民間人たちは村の有力者となって英雄視されているという事実があります。

オッペンハイマー監督は虐殺の被害者への接触を当局から禁止されていたので
加害者を取材し、その時できた映画が「アウト・オブ・キリング」でした。
(私は未見ですが)カメラの前で加害者たちが喜喜として殺戮シーンを再現するシーンは衝撃的。
カメラの前だからこそ、サービス精神を発揮して、コントよろしく具体的に生々しく再現してくれちゃうのです。

実は共産党一掃を陰で指示したのはアメリカで「自分たちはアメリカのためにやった」と思っているから、
アメリカ人監督のカメラの前ではなんの抵抗なくもやれたのでしょう。
この作品はアカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞にノミネートされましたが、
実は彼は同時にもう1本、被害者側からの映画を撮っていた・・・それが本作です。

事件から今年で50年たつので当事者たちはもう高齢になっていますが、
本作の主人公アディはまだ40代。クーデター後に生まれた世代です。
殺されたのは年の離れた兄で、100歳を超えた両親は、息子を殺した人たちに囲まれて
今も生活しているという不条理を嘆いています。
あの世での罰を望み、この世ではガマンするしかないと言います。

一方、アディの子どもたちの通う学校の授業では、
「共産党員は野蛮で残酷で署名を拒んだ将軍たちの目をくりぬいた。」
「彼らを退治したおかげで今の民主的な世の中がある」と教わり
「目をくりぬかれたら痛いだろう?どうだ、やられたいか?」
「共産党員は悪い奴だから殺されてあたりまえ。
その子どもたちも公務員にも警察にも軍隊にも入れないけど当然だ」
といった明らかに間違った善悪の判断材料が与えられるのです。

私は小学校の授業で、「大化の改新では蘇我入鹿が悪者」と教えられたけれど
その理由も納得いかず、「いきなり襲う方が卑怯じゃん!」と思ったのを思い出しました。
「ももたろう」だって、鬼が島まで遠征して宝物をかっぱらってきたのは略奪行為で
「めでたし、めでたしか?」って思いましたけど。

アメリカでは「広島長崎への原爆投下は戦争を早期に集結させた正しい行為」
と教えるらしいけれど、「え?それ、おかしいんじゃないの?」って思う子どもは沢山いたと思いたいです。

あの授業風景は私には充分ショッキングでしたが、間違った歴史教育については言及することなく
本作は被害者遺族であるアディの「加害者訪問記」に費やされます。

↑の画像の赤メガネの老人は兄の殺害を指示したリーダーのひとりで、
このヘンテコなメガネはレンズをいれて視力を計るときの検眼用メガネで、
アディの仕事はメガネ屋だから、検眼作業中のおしゃべりの中でいろいろ聞き出す、という流れ。
カメラが回っていることは承知の上で、撮っているのがアメリカ人だから得意げにしゃべるのですが
アディの兄が被害者だとカムアウトすると、みんな一様に不機嫌になり、でも謝罪の言葉は無し。

証言をまとめると、
ヘビ川でアディの兄をふくめ収容所から連れてこられた囚人たちが虐殺されたのは事実。
政府や軍は直接手を下さず、地域のギャングとか民間のグループに殺害をアウトソーシング(?)した。
そしてその見返りに殺人者たちは金や特権が与えられた・・・・
ということらしいです。

「共産党員は信仰心がなく、夫婦交換してセックスしてる」とかの間違った情報をアディが否定し
「あなたは無実の囚人を殺すのを手伝ったのですよ」というと
彼らはそれそれに言い訳をはじめます。
「過去は過去。今更騒ぎ立てると、また同じことが起きる」
「私は上官の指令に従っただけ。責任は感じていない」
「我々が勇敢な闘争を行ったから今の平和な世の中がある」
「被害者の多く住む地区でたくさんの票を集めているということは
私は議員として多くの人に支持されているということだ」・・・

言葉が途切れたあともカメラはまだまわり続け、けっして謝罪しない加害者たちの
「素に戻る瞬間」を捕えます。
今まで「真実」は隠しカメラや防犯カメラのような「無人カメラ」の前にさらされるもの、と思っていましたが、
カメラのまわっていることを意識して演技しようとする気持ちと、
(演技を終えて安心して)素に戻ったときの表情の違いから
その人の本当の気持ちがわかるんだ、ということを知ることができました。
なにも編集していないからジャッジするのは「見ている私たち」ということになります。

膨大なフィルムを(都合のいいところだけ繋ぎ合わせて)編集することで
ドキュメンタリーなんてどうにでも作れるものだと思っていましたが、
こういう撮り方もあるんですね。

加害者、その中でも実行犯たちは、そろって
「殺しすぎて気が狂いそうだったから、人の血を飲んで正気を保った」といいます。
人の血にそんな効果はないと思いますが、そうすることで苦痛から逃れようと必死だったのでしょう。
生来の殺人鬼みたいな人もなかにはいるでしょうが、いくら命令だとはいえ、人を殺してなんとも思わないわけない。

一方、リストに署名して、手を下さなかったリーダーたちは、
ハンナ・アーレント」に出てきたナチスSSのアドルフ・アイヒマンのようです。
裁判に出廷してきた彼は驚くほど小心者の小役人で、
ユダヤ人であるハンナをして彼を「根源的悪」ではなく、「悪の凡庸」と称したほどです。
もちろんアイヒマンの罪が軽くなるわけではないですが、
戦争やクーデターなどの事態に陥ったら、誰にも起こりうることだというのが恐ろしいです。

撮影のなかで、ひとつ、誰もが予想していなかったことが起こります。
アディの実の叔父と話をするなかで、実は彼は囚人たちを見張る看守をやっていたことがわかります。
彼はアディの兄を救おうとすればできた立場にありながらそれをしなかった。
こんな「知りたくなかった事実」までもが明らかになるのはドキュメンタリーの罪なところ。
「映画的に作りこんでない」作品のなかでのサプライズで、
「傍観者」の責任をいやでも感じてしまいます。
私たち日本人こそが、こういう映画をもっと見なければいけないんでしょうね。