海馬之玄関amebaブログ


高橋哲哉さんは<哲学者>を名乗っておられる。確かに勤務先大学でも「哲学」を講じられ、そして、若い頃から廣松渉さんのサークルに属しながら、ほぼ一貫してフランスの現代思想を中心に<哲学>を研究してこられたのだろうから、まあ、彼が<哲学者>を名乗っても経歴詐称ではないだろう。


しかし、「哲学と言ってもいささか広うござんす」である。そして、他の科学や政治的な言説に「論理的な正しさの根拠を提供することが哲学の役割の一つである」ことは高橋さんであれ誰であれ認めることだと思う。ならば、この1点において<高橋哲哉の哲学>は哲学とは無縁ではないか;高橋さんが書かれたおびただしい社会評論はこの意味での哲学に定礎されてはいないし、それらはご本人が『靖国問題』の「はじめに」で標榜されているようには、社会的な解決が求められているあまたの紛争についてその問題の問題性を「論理的に明らかにする」ことには必ずしも成功しているわけではない、と常々私は感じている(★)。


而して、高橋さんの近著、『国家と犠牲』(日本放送出版協会・2005年8月)を読んでその感を一層強くした。


★註:<高橋哲学>批判のためのKABUのベースキャンプ
高橋哲哉さんに対する私の基本的な批判点については下記の拙稿を参照いただきたい。このブログの記事を読んでいただいている方の中には、以下の記述を言いたい放題の罵詈雑言と受け取られる向きもあるかもしれない。それらが少なくともこれら拙稿を踏まえた上での「罵詈雑言」であることは是非ご承知おきいただきたい。



・高橋哲哉『歴史/修正主義』
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11141599885.html


・高橋哲哉『靖国問題』を批判する(上)(下)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11141603697.html


・高橋哲哉『歴史/修正主義』
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11141599885.html



哲学(の少なくともその一部)を論理や言明の正しさを担保するルールの提示とそのルールの根拠を究明したものと捉える場合、高橋さんの言説は哲学ではなく単なる文芸評論である。それは、事実と論理を踏まえた社会思想ではなく単なる社会的事件や紛争の評釈にすぎない。それは、心の空虚を埋める短歌や俳句や川柳の評論ではあっても、その言明を基礎にして具体的な政策が具体的に批判され提起されるような、政策と科学にダイレクトに接続する類の言語行為ではない。


大東亜戦争後の日本で哲学教師としては岩崎武雄先生と並んで一流だったと思う(しかし、そのオドロオドロシイ漢語表現を剥ぎ取るとき、あるいはそれを英語やドイツ語に翻訳するとするならば、その著述にはほとんど何のオリジナリティーも見出せない)廣松渉さんとは違い、高橋さんの言説はほとんど哲学とは無縁の領域で展開されている(★)。問題は、彼が様々な著作で述べている主張に哲学が発行する<論理的な正しさというお墨付き>が貼られているかのごとくに彼が振る舞い世間もそう受け取っている節が見られることだ。


その主張の出鱈目さとは別にその誠実な人柄を誰しもが称賛する高橋哲哉さんが、まさか詐欺行為を行っているとは思わない。けれど、彼の著作や著述は羊頭狗肉というかいわば不当表示である。それはほとんど「不当景品類及び不当表示防止法」違反ものである。それは同法第4条1項が禁じる「商品又は役務の品質、規格その他の内容について、一般消費者に対し、実際のものよりも著しく優良であると示し、又は事実に相違して当該事業者と競争関係にある他の事業者に係るものよりも著しく優良であると示すことにより、不当に顧客を誘引し、公正な競争を阻害するおそれがあると認められる表示」ものの<商品>であることは間違いないだろう。


★註:<高橋哲哉哲学>の非哲学性の萌芽
高橋哲学の文芸評論性がクッキリ浮かび上がっているものとして、『新・廣松渉を読む』(情況出版・2000年12月)所収の「現象学の臨界」(廣松渉・野家啓一との対談)の一読をお薦めしておく。



もっと厳密に言えば、高橋さんの主張は<クラインの壷>である。それは三部構成をなしており;(甲)誰しもが(少なくとも、多くの人が同意する)事実や命題を積み上げる作業;(乙)高橋さん特有の(あるいは、高橋さんと価値観・歴史観・国家観・人間観・世界観を共有するグループ内部でのみ通用する)価値観による事実認識の加工の作業;そして、(丙)現実の政治や紛争に対してある特殊な政策提言を行うものである。そして、高橋さんの主張を<2次元と3次元の両義存在=メビウスの帯>ではなく<3次元と4次元の両義存在=クラインの壷>と私が表記したのは、この(甲)→(乙)と(乙)→(丙)の二箇所に非論理的な跳躍が組み込まれていると考えるからである。


『靖国問題』に例を取れば、戦死した身内の死を「本当は悲しいのに、無理して喜ぶことをしないこと」などの主張は前者の適例であり、また、「国家が国家権力の発動としての武力行使の死没者を「無宗教」で「追悼」しようとしたとき、そこには靖国の論理が回帰してきてしまう。そこに残るのは、軍隊を保有し、ありうべき戦争につねに準備を整えているすべての国家に共通の論理にほかならない」のだから、戦争放棄を謳った日本国憲法を戴く日本国民は(戦争を放棄した以上)、国立追悼施設も含む戦死者を顕彰するための施設を持つべきではない、などの主張は後者の適例と考えられよう。


実際には、「本当に悲しいかどうか」などは他人が判定できることでも/云々すべきことでもなかろうし、現行憲法が主権国家が構成する国際秩序を前提に起案されたものである限り、現行憲法が謳う「戦争の放棄」なるものが、国際紛争の存在と戦死者の発生を<思想的には評価されない=法的には存在しない>と憲法が考えている証拠だなどと言うのは論理の飛躍以外の何ものでもなかろう。整理しておく。


◇高橋哲哉の著作の構造
(甲)穏当かつ公平な事実や命題の紹介
(乙)高橋さん特有の価値観による事実認識の加工
(丙)ある特殊な政策提言


◇高橋哲学の非論理性の病状
(α)(甲)→(乙)の論理の飛躍:事実認識の無謬性の詐称
(β)(乙)→(丙)の論理の飛躍:導出された政策の絶対性の詐称


『国家と犠牲』は全12章のうち最終章を除く11章が<前置き>である。確かに神は細部に宿るのかもしれないが前置きの部分が長すぎるという感は否めない;靖国とホロコースト(「戦死」の問題を扱う第1章・第2章・第4章);ヒロシマとナガサキ(民間人の戦争犠牲者を扱う第3章);そして、ヨーロッパでは戦死がどう社会的と思想的に扱われてきたかのレポート(第5章~第9章);最後に、マイケル・ウォルツァー『正戦論』("Just and Unjust Wars,” Basic Books, 1977)の主張と戦死者を扱う韓国の現状を取り上げ戦争と戦死を正当化する近時の動向のレポート(第11章)は確かに少々難渋ではある。


しかし、この「前置き」はそう出鱈目ではない。上の分類で言えば(乙)の「価値観による事実認識の加工」も散在してはいるものの、記述のボリュームとしては(甲)の「穏当かつ公平な事実や命題の紹介」がその大部分を占めており、(扶桑社の『新しい歴史教科書』を批判するプロ市民のグループが常套するような)揚げ足取りとか重箱の隅を突くようなサモシイことを考えなければ十分に購入した貨幣価値(920円+消費税)の元は取れると思う。


問題は最終12章:「デリダと「絶対犠牲」」の最後の最後、第12章の後半に大どんでん返しが仕掛けられており、そこに本書と<高橋哲学>の問題が結晶している。最初の11章で、誰かが富貴で安逸な生活を送るために他の誰かが犠牲になる不条理なケースが巷に溢れている歴史的な事実とそれを正当化してきた思想の歴史を淡々と著者は描く。そして第12章前半、著者はデリダの議論を敷衍しながら、どんなに犠牲が不条理であり正義に反するとしても社会や世界から犠牲はなくならないことを認める。それは、<犠牲>の存在を根拠にして国家やグローバル化する資本を倫理的に批判することができるとしても、その体制の中で生きていくしかない人間はそれらを否定することはできない、という至極当然の帰結である(尚、この犠牲から人類が逃れられない構造(=諦観)を高橋さんは「絶対犠牲」という言葉で表現されている)。


けれども、高橋哲哉は読者の期待を裏切らない。第12章の最後に彼はこう書いている:「私たちは「絶対犠牲」の構造のなかで、しかし、あらゆる犠牲の廃棄を欲望しつつ決定しなければならないのではないでしょうか」、と。文脈から見て、これが「絶対犠牲」の諦観の単なるパラフレーズではないことは明らかなのだ。諦観を超えた主張をこの命題に高橋さんは込められている。いったいこの提言で彼は何を言いたいのだろうか? 何を「決定しなければならない」と彼は言っているのか?


私の言葉で換言すればそれは「犠牲は絶対になくならへんねんけどな、そやけど、犠牲は悪いこっちゃいうことをやな、人間は片時も忘れたらあかんねん」という絶対犠牲の諦観。而して、これに加えて、彼はこう主張しているのではないか;即ち、「絶対犠牲の諦観からやな、常に同時に犠牲を強いてくる国家やグローバル化した資本主義、あるいは、民族や宗教のドグマに対して少しでも犠牲が少のうてすむようにやな、人間は現実政治的な行動をとらなあかんねんやんか。人間にはなそれを行う倫理的な義務があるんやで」、と。


ここに、「高橋さん特有の価値観により加工された事実認識」から「ある特殊な政策提言」への論理の飛躍が看守されないだろうか。


ここで展開されているのは「私はこれこれの根拠に従ってこう行動する。よって、君もこの根拠前提を容認するならかく行動しなさい」という「正しさの根拠」に裏づけられた論理ではない。ここで展開されているのは自己の願望から密輸された擬似論理(=論理の紛いもの)ではなかろうか。それは、哲学の素人に対して哲学の権威を援用しつつ、ある特定の政治的な行動を促す怪しげで姑息な擬似論理である。いずれにせよ、第12章の後半を削除しない限り、『国家と犠牲』は社会思想とか国際関係、あるいは国家論や憲法論とは無縁な文芸評論の書であることは確かであろう。と、そう私は考えます。