海馬之玄関amebaブログ



◇はじめに
高橋哲哉『靖国問題』(ちくま新書・2005年4月)を俎上に載せる。高橋さんは東京大学大学院教授にして二十世紀西欧哲学を研究しておられる方。「あとがき」によれば、本書は新書ながらも高橋さんが「この間(10年以上もの間)もっとも書きたかったテーマ」(同書237頁、以下同じ)にタックルされた果実らしい。


本書の「はじめに」にはこう書かれている。「靖国神社の歴史を踏まえながらも、本書では、靖国問題とはどのような問題であるのか、どのような筋道で考えていけばよいのかを論理的に明らかにすることに重点をおきたい」(8頁、文字の強調は著者ご自身によるもの、以下同じ)、と。確かに、太い線で一気呵成に書かれたという印象を受けた。ある意味、好著だと思う。


戦後民主主義の代表的な論者の高橋哲哉さんのしかも靖国問題を扱った本が、何で「好著」なのかって? それは、平成の御世も17年目頃までは、日本を代表するような大学の教授さえ(いかにそれが専門分野ではないとしても)この程度の社会思想の理解しか持っていなかったという事実を示す<証拠>として便利、と言う点においてである。


それほど、「靖国問題・・を論理的に明らかにする」という意図で書かれたにしては、全238頁、400字原稿用紙にして400枚足らずの本書には著者の妄想と願望と誤謬が随所に炸裂している。それは著者とその仲間内にしか通用しない<論理>に満ちており、泥酔客が「俺達は酔っていない!」と新宿のゴールデン街や京は四条寺町あたりで叫んでいるような印象を読者に与える作品である。


それは、国内法的にはとっくに解決済みであり、外交関係においても(中韓両国に対して、日本の外交当局と時々の政権が世界の外交の慣例にそって淡々と処理していれば)、本来、何ら問題になりえない<首相の靖国参拝問題>を「問題解決の糸口」も見えない「袋小路に入った靖国問題」ととらえる妄想である。また、それは日本国憲法が日本のあるべき姿として非戦国家を想定しているという願望。更に、日本は戦争責任をいまだに果たしていないという戦争/戦後責任論の基盤の上に立てられた謬説の蜃気楼にすぎない(★)。


私は、『靖国問題』を読んでむしろ、高橋さんの一種の<焦り>を感じた。


それは、日々、改憲派が勢いをます現状のためなのかどうかはわからないけれど、「平和」「民主主義」「人権」「個人の尊厳」等々、その呪文を唱えれば対抗する保守派も国際経験豊かな実務家もモーゼの前の紅海のごとく左右に道を開けるもとばかり思ってきた戦後民主主義のイデオロギーが、その神通力を失いつつあることに対する焦りなのかもしれない。急いては事を仕損じる。本書には靖国神社に否定的な勢力にとって「オウン・ゴール」に等しいほどの致命的な瑕疵が含まれている。私にはそう思われた。


戦後民主主義を信奉する輩にとって平成17年の今の政治を巡る風景は、そう、サッカーをしていたつもりだったのにいつの間にかラクビーに変わっていたようなものか、あるいは、囲碁に喩えればコミは5目半と思って勝負していたら、いつのまにかコミ6目半のルールに変わっていた。そんな心象風景に近いかもしれない。そのような不愉快さと不安を感じつつ本書は書かれたのかもしれない。


★註:高橋哲哉『靖国問題』批判のためのKABUのベースキャンプ
高橋哲哉さんの歴史認識と戦争/戦後責任論、および、首相の靖国参拝問題と歴史認識、ならびに、現行憲法が戦争を否定していないという事柄に関する私の基本的な考えについては下記の拙稿を参照いただきたい。加えて、非生産的な空中戦を少しでも避けるために、「歴史」と「国家」という言葉を私がどんなふくらみにおいて使用しているかをまとめた用語集もご参照いただければ嬉しいです。


・定義集-「歴史」
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65233711.html


・定義集-「国家」
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65233689.html


・左翼にもわかる歴史学方法論☆沖縄「集団自決」を思索の縦糸にして
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/de904bb825d57504c4e9d52348a9982a  




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◆高橋哲哉『靖国問題』第1章:「感情の問題」
子安宣邦『国家と祭祀』を引用して高橋さんは「祀る国家とは戦う国家」(205頁)と規定される。そして、そのような戦争する国家にとっては「何よりも、戦死者が顕彰され、遺族がそれを喜ぶことによって、他の国民が自ら進んで国家のために命を捧げようと希望することになることが必要なのだ」(44頁)と述べ、この悲しみから歓喜への遺族感情の転換のメカニズムのことを「感情の錬金術」と呼ばれる。靖国神社は(特に、日露戦争後においては)日本における感情の錬金術の「中心施設として決定的地位を確立」(45頁)した、と。この認識を受けて高橋さんは自問自答される。


靖国信仰から逃れるためには、必ずしも複雑な論理を必要としないことになる。一言でいえば、悲しいのに嬉しいと言わないこと。それだけで十分なのだ。まずは家族の戦死を、最も自然な感情にしたがって悲しむだけ悲しむこと。十分に悲しむこと。本当は悲しいのに、無理をして喜ぶことをしないこと。(中略)とりわけ国家が提供する物語、意味づけによって「喪」の状態を終わらせようとしないこと。このことだけによっても、もはや国家は人々を次の戦争に動員することができなくなるだろう。戦争主体としての国家は、機能不全をきたすだろう(51頁)。


私も「祀る国家とは戦う国家」だという認識は正しいと思う。戦死者を祀るから戦争が起きるとは言わないが、国家が戦争を遂行するには祀るメカニズム(それを表現するのに「感情の錬金術」というタームが適当かどうかは別にして)が不可欠であることは確かであろう。しかし、高橋さんは次の問いに答えずに議論を進められているのではないか。それは、国家が戦う国家であってはならない理由は何ですか、である。


国家が戦う国家であってはならない根拠は何か?


自分やご自分の仲間内ではこの問いは問われるまでもなく自明なことかもしれない。しかし、これを明示せずして、「靖国信仰から逃れる」方途を伝授しても、その説法は「間にあってます」ものの内容である。それは<高橋哲哉さんの価値観の押し売り>にすぎないだろうから。


同様に、「本当は悲しいのに、無理をして喜ぶことをしない」などは他人に指図されることではない。また、今は「本当は悲しい」はずだとかの認定を他人から受ける筋合いもないだろう。人間が社会的な動物であるとするならば、愛する大切な人が戦死した悲しみもはかり知れないだろうけれど、戦死したその愛する人がかつてそこに属した社会の人々に賞賛され崇敬されることに随喜するのもまた本当の自然な感情ではないか。


要は、人間の感情は、国家が捨象された真空状態や国家からその意識をも切り離された個体がビーカーの中で抱くものではないだろう。それは、近代主権国家の住人にとっては社会における人間関係と意味連関の中で生起するものであろう。ならば、その喜びが「無理をして」引き起こされたものだ、などと他人が断定できることではない。



◆高橋哲哉『靖国問題』第2章:歴史認識の問題
次に靖国神社が孕む問題として歴史認識と戦争/戦後責任を高橋さんは挙げられる。それは、所謂「A戦犯」に代表される1928年以降大東亜戦争終結までの戦争責任とサンフランシスコ講和条約で受け入れた歴史認識の再検討であり、そして、大東亜戦争期間を含む日本の植民地支配、ならびに、大東亜戦争後の海外の戦争被害者への責任と歴史認識を靖国神社を契機としてどう考えるかという問題である。特に後者に関しては、「「戦争責任」という言葉、あるいは「戦争責任論」というパースペクティブそのものが、歴史認識の深化を阻んでいる」(80頁)という問題意識からか、自国の兵士をひたすら追悼する営みを超えて「戦争そのものの性格を問う」(63頁)ことの必要性を高橋さんは訴える。


なぜ、戦死者への哀悼を超えて、戦争そのものの性格を問わなければならないのか。それは、まず第一に、日本軍の戦争によって生じた膨大な数の死者・被害者が、日本国民の外にもいるからである。(中略)これらの死者・被害者との関係抜きに、日本国民だけの追悼の共同体、「哀悼の共同体」にとどまるならば、その追悼や「哀悼」の行為そのものが、外からの批判を免れないことになるだろう。(中略)とりわけアジア諸国に、また、日本の植民地支配下にあった諸民族に、どれだけの死と被害をもたらしたのか。それを問うことができなければ、自国の戦死者への追悼や哀悼も、他者からの批判に耐えられず、その正当性は根底から瓦解してしまうだろう(63-64頁)。


高橋さんの筆法を借りれば、これこそ<他者性の錬金術>とも言うべき論理のマジックだろう。所謂「A戦犯」に関する考察(64-80頁)には特に目新しい主張はなく(★)、本章の見ものはこの<他者性の錬金術>の炸裂である。


一体、国民に限定した英霊祭祀が「他者からの批判に耐えられず、その正当性は根底から瓦解してしまう」とされる論拠は何なのか? 英霊の祭祀は他者からの批判など受ける筋合いも、その批判を斟酌する必要もないと考える者にとって、「他者からの批判」など痛くも痒くもない事柄である。ここでも高橋さんは、ご自分が勝手に創作された<あるべき非戦国家>とその国家の正当性の根拠を、(自分とは異なる歴史認識と国家のイメージを持つ者も含まれる)世間一般を対象とした議論に密輸している。


高橋さんご自身、東京裁判について「米英仏蘭などの植民地宗主国でもあった戦勝国に、日本の植民地支配責任を裁く意図も能力もなかった」(69頁)と述べておられるのである。つまり、大東亜戦争の責任も植民地支配の責任も、少なくとも当時の実定国際法では問えないことをご自身自覚しておられるわけである。ならば、実定法と異なるどのような論拠でもって<他者性の錬金術>を基礎づけられるのか。本書を読む限りその根拠はどこにも書かれてはいない。これが<他者性の錬金術>と言い「密輸」と表した所以である。


★註:戦争責任とサンフランシスコ講和条約
このポイントについては下記拙稿を参照いただきたい。


・サンフランシスコ平和条約第11条における「the judgments」の意味(上)(下)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11137301351.html


・戦争責任論の妄想:高木健一『今なぜ戦後補償か』を批判の軸にして(上)~(下)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/df613c9e50e4d96c875145fbcc4eaf8a


<続く>