日本を堅苦しい世の中へ方向転換させるきっかけは「唐人お吉」での政府の失敗。 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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開国後、明治政府は欧米諸国への体面をつくろうために、それまでの日本

の自由奔放な歴史と文化を隠蔽し、強引に堅苦しい社会を作り上げた。こ

れに関しては、私が声を大にして言っているだけでなく、大多数の研究者が

言い始めていることで、社会全体もそういう見方に向かっていると見て良い

でしょう。何しろ証拠が多数明らかにされているのですから。


そして、日本をそうした方向転換に走らせた最も大きな出来事が、俗に言う

「唐人お吉」の一件だと、私は思うのです。


唐人お吉、本名は斉藤きちといいます。鶴松という恋人との仲を裂かれて、

アメリカの初代駐日総領事タウンゼント・ハリスに、妾として差し出された

下田の人気芸者です。


彼女には、支度金25両の他、月手当10両という破格の待遇も約束されて

いました。しかし、「腫れ物ができた」という理由で、1週間ほどで暇を出され

てしまいます。


これ、原因はひとえにお上の勘違いにあったのです。ハリスが求めたのは、

日本文化の案内役、地理などのガイド役であり、いわば秘書のようなもの

だったそうです。それを、日本の上層部が勝手に「性的サービス係」と勘違い

して、お吉を送り出してしまったのでした。


お吉も、周囲に散々説得されて承知したのだから、性サービスは覚悟。そ

れがお国を救うのなら仕方がない、くらいに思っていたのでしょう。しかしハリス

にすれば、「どうも様子が違う」ということになります。


そしてすぐに事情を知り、彼女をクビにしたのです。恥をかいたのは、日本の

お上。慌てて、とぼけまくったため、責任は全てお吉にあったような評判が

立ってしまいます。それで、「唐人お吉」などという呼ばれ方が生まれてしま

ったのでした。


一方お上の方は、この一件で危機感を感じたことは確かでしょう。そして、そ

れまでの性に関してゆるやかな考え方を変えないと、外交が出来なくなる。

そう思ったのだと、考えられます。これが、後の明治以降の日本歴史上なか

ったほどに堅苦しい社会をつくるきっかけのひとつになったのは、間違いな

いでしょう。


尚、お吉ですが、10年後、かつての恋人の鶴松改め又五郎と結婚しますが、

うまくいかず、離婚。又五郎は急死。彼女も1890年、身を投げて死んでおり

ます。


お吉がハリスのもとへ送られた時代、まだ明治になっていないので、お上の

呼び名は「幕府」でしょうが、幕末でほとんど力を失っていたこの時代、その

呼び名はどうもピンとこない。でも、政府というのは、まだ早い。ということで、

呼び名はそのまま「お上」で統一させてもらいました。