有王と俊寬僧都 | 辻村寿和Collection「寿三郎」創作人形の世界

辻村寿和Collection「寿三郎」創作人形の世界

創作人形作家辻村寿三郎の作品を皆様にご紹介いたします。

皆様こんばんわ、ただいま群馬県の

日本絹の里にて「辻村寿三郎人形展 VOL.Ⅸ」が開催中です。

本日は展示作品のなかの鹿ヶ谷の陰謀に登場する俊寬と
その稚児である有王のその後の運命を調べてみました。

有王
ジュサブロー館の創作日記
2010年制作(左が有王)
撮影 Canon EOS 5D Mark II
EF24-105mm F4L IS USM

写真をクリックすると大きいサイズで見ることが出来ます。
細かいディテールをご覧ください。

有王
法勝寺執行俊寛の侍童。

1177年、俊寛は鹿ケ谷の陰謀に連座して鬼界ヶ島(薩摩国)へ配流された。

俊寛僧都が大事にしていた、有王という童がいました。

鬼界が島の流人が恩赦で都に帰ってくると聞き、
有王は鳥羽へ向かいますが、俊寛の姿がありません。

人に聞くと、三人のうち俊寛だけは罪の深さゆえ、赦されなかったとのこと。
有王は鬼界が島に赴くことを決意します。
俊寛の姫君の元へ行き、文を預かって、商船に便乗して、
途中衣服を剥ぎ取られながらも、鬼界が島にたどり着きます。
そこは田畑も村もなく、言葉も通じないような場所でした。

有王は島の者に俊寛のことを聞きますが、知っている者は誰もいません。
ある朝、有王は海辺で一人の乞食を見かけます。
元は法師のようですが、ボロボロの酷い格好です。

有王がその乞食に俊寛のことを尋ねると、
乞食は「我こそその俊寛よ」と言って、バッタリと倒れ、気を失います。
しばらくして意識を取り戻した俊寛は、有王に島での生活の苦労を語り、
棲家としているあばら屋へ招きます。
かつて法勝寺の寺務職として多くの従者を従えていた人の住まいとは思えない、
それはひどいあばら屋でした。


俊寬僧都
ジュサブロー館の創作日記
2009年制作
撮影 Canon EOS 5D Mark II
EF100mm F2.8 マクロ USM
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この島へ流されて後は、暦もなければ、月日の変わり行くをも知らず。

ただおのづから花の散り、葉の落つるを見て、春秋をわきまへ、
蝉の声、麦秋を送れば夏とおもひ、雪のつもるを冬と知る。

白月・黒月のかはり行くを見て三十日をわきまへ、
指をおってかぞふれば、今年は六になるとおもひつる幼き人者も、
はや先立ちけるござんなれ…

ジュサブロー館の創作日記
撮影 Canon KissX
EF100mm F2.8 マクロ

身内の消息を尋ねる俊寛に、有王は若君も北の方も
既に亡くなったことを告げ、姫御前の手紙を差し出します。

俊寛は、その手紙の年のわりに幼稚な書きように、姫の行く末を案じます。

しかし嘆きながらもなんとか生き延びてくれるだろうと、食を断ち、
有王が鬼界ケ島に到着してから二十三日目に有王に見守られながらその命を終えます。

有王は俊寛の遺体を荼毘に付し、都へ帰り、姫御前にこのことを報告します。

姫御前は十二歳で尼になり、奈良の法華寺で父母の後世を弔いました。

有王は俊寛の遺骨を首にかけ、高野の奥の院に治め、蓮華谷で法師になり、
諸国を修行しながら俊寛の後世を弔いました。


有王の墓は、和歌山県かつらぎ町にある。

俊寛が流された鬼界ヶ島の場所については、
鹿児島県大島郡喜界町の喜界島、鹿児島県鹿児島郡三島村の硫黄島、
長崎県長崎市の伊王島など諸説ありはっきりしていない。

また、ひそかに島を脱出したという説も多く、鹿児島県阿久根市や出水市、
佐賀県佐賀市などにも俊寛に関する言い伝えが残っている。

このお話は世阿弥の「俊寬」や、
近松門左衛門の人形浄瑠璃「平家女護島」
など後年いろいろな戯曲として書かれています。

ただいま開催中です!

特別企画展「辻村寿三郎人形展 VOL.Ⅸ」

日本絹の里
ジュサブロー館の創作日記
1月22日(土)~3月6日(日)

開館時間 9:30~17:00
入 館 料 :400円(320円)
大・高生:250円(200円)
中学生以下及び身体障害者手帳等をお持ちの方とその介護者1名様は無料
※( )内は20名以上の団体割引料金 入館料は税込です。
休 館 日 毎週火曜日(但し、祝祭日の場合は翌日)
お問い合わせ先
〒370-3511
群馬県高崎市金古町888-1
群馬県立日本絹の里
電話 027-360-6300
FAX 027-360-6301