感動を生むド演歌ファイターの「心の袖をまくる」という生き方/越中詩郎【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第75回 感動を生むド演歌ファイターの「心の袖をまくる」という生き方/越中詩郎



あの日、越中詩郎は泣いていた。
どんなに苦しくても悔しくても嬉しくても決して涙を流さない男が泣いていた。
しかも試合前からである。

2007年5月2日、新日本プロレス・後楽園大会で永田裕志が保持するIWGPヘビー級王座に11年ぶりに挑戦することになった大ベテラン・越中詩郎はファンからの試合前からの熱狂的大声援に心を打たれて、入場時から泣いていた。

「とにかくその日の会場は異様な雰囲気だったんですよ。出ていく瞬間に今までやってきて苦しかったことが走馬灯のように脳裏に浮かんできたんです。みんなの声援や拍手を聞いてね。それで思わずウルッと…。その後、自分がシャキッとなれたのもお客さんの声です。『泣いてたら勝てないぞ』と言われた瞬間に我に返ったんです。その通りだと、試合前から泣いている場合じゃない。あの時、僕が出ていた新日本はあまりよくない時期。なのに超満員のお客さんが入ってくれて本当に有難かったです。」

この頃、越中はお笑い芸人のケンドーコバヤシがテレビ朝日系人気番組「アメトーーク!」で越中詩郎(大好き)芸人をプレゼンしたことを契機に越中公式サイトは、一時期アクセスが集中して閲覧できない事態に陥るほど反響を呼び、人気が爆発していた。
越中人気に乗った新日本は越中のタイトルマッチを組んだった。

 そして試合前の煽りVTRのナレーターを務めたのがケンドーコバヤシだった。
越中はそのVTRで名言を残している。

「若さとか、馬力とか、力だけじゃないんですよ、プロレスっていうのは。確かに俺自身も髙田延彦との抗争や平成維震軍の頃に比べれば、体力は落ちていると思いますよ。でもね、プロレスって、それだけじゃないですから。僕には熱いハートがあります。」

思えば越中詩郎ほど観客が声援しがいのあるプロレスラーはなかなかいない。
彼のテーマ曲「SAMURAI」がかかれば、自然とファンは越中コールを叫ぶ。
どんな試合会場でも越中が出てきただけで空気は変わるのだ。
185cm 105kgの肉体はリングで生き様を語り続けた。

今回はド演歌ファイター、孤高の侍と呼ばれるプロレスラーが歩んだ波乱万丈のレスラー人生を追う。

越中詩郎は1958年9月4日東京都江東区に生まれた。
少年時代からプロレスと野球が好きだった。
しかし、彼が入学した中学校には野球部がなかった。
そんな中で彼がはまったのがビートルズだった。
ビートルズのコピーバンドを組むほど心底大好きになった。

高校進学後、越中は野球部に入るとレギュラーを獲得し、キャプテンも務めた。
しかし、高校球児の夢・甲子園に出場することはなかった。

高校卒業後、越中は電力会社に就職する。
しかし、ある想いが去来するようになる。

「俺はプロレスラーになりたい」

その夢を諦めたくなかった。
越中は高校野球部の顧問に相談した。
するとその顧問からレスリング部の監督を紹介された。
監督はこう言った。

「俺も体がもう少し大きかったら絶対プロレスをやっていた。生徒からそんなことを言われたら、俺は黙っていられない。やれよ、頑張れよ!」

越中はレスリング部監督からの紹介で数日後、全日本プロレス社長・ジャイアント馬場と面談し、越中は練習生として採用された。
そこで馬場は全日本プロレスの若大将・ジャンボ鶴田を呼んだ。
鶴田が今後、越中の面倒をみることになった。
鶴田は越中にこう語りかけた。

「越中君、まだ入門じゃないよ。シリーズ終わったら練習をやるから通うように。それも2~3ヶ月我慢できてから、また考えよ。道場も入れないから通いだよ、毎日ね。まずは練習からだよ。」

格闘技経験がない越中にとってはプロレスは本当にきつかった。

「ジャンボさんが稽古つけてくれるんだけど、他の人からすれば子ども扱いですよ。朝7時から道場に来てから掃除、洗濯から始まって練習して帰るのが夕方で、それが毎日。体重は70kgしかないから、すっ飛ばされてましたね。全日本は相撲上がりの人が多いから。大熊元司さん、伊藤正男さん、桜田一男さん(ケンドー・コバヤシ)、戸口さん(キム・ドク)とかに稽古つけられるんだけど、毎日青アザだらけで顔は腫れていて、全身筋肉痛でなんの楽しみもない。でも一日も休みませんでした。」

「リングは硬いし、ロープだって、まさかあんなワイヤーが入っているとは思ってないじゃないですか。そんな中で受け身を300、400回取らされました。当時の全日本はベテランが多かった。だから新日本のような合同練習より、各自で調整して試合に備えるケースが多かったんですよ。」

「練習が終わっても飯もないんです、当時の全日本は。チャンコは合同練習の最終日だけなんでね。これもまた嫌なんですよ。必ず酒盛りになって、僕が浴びるほど飲まされた。酔っぱらってぶっ倒れていると『この野郎!』って殴られる。後片付けは自分がしなきゃいけないから、しっかりしてなきゃいけないんです。この世界は年功序列じゃないですか?でも、そこで唯一ジャンボさんだけポーンと飛び越えていっちゃった。飛び越された人達は当然面白くない。『なんでジャンボだけが?』と思うわけですよ、中堅の人達は。その八つ当たりも全部、僕に来るわけ。」

練習生時代を経て越中は1978年7月に全日本プロレスに入門できた。
どんなに苦しくても、彼は自分を紹介してくれたレスリング部監督と野球部の顧問を裏切ってはいけないという一念で耐えることができた。
1979年3月5日、園田一治(ハル園田)戦で越中はデビューを果たした。

新人時代の越中にプロレスのイロハを教えてくれたのが、当時は高千穂明久のリングネームでしていたザ・グレート・カブキと佐藤昭雄だった。

「デビューしたての僕は何も分からないから、なんとしても第1試合目から頑張ろうとしますよね。そこでカブキさんが口を酸っぱく言うことは、『1試合目には1試合目の内容がある。沸かせるのはメインで出てくる馬場さんやジャンボであって、1試合目で大技や場外乱闘やったら、ジャンボや馬場さんが大技やった時に沸かないだろ?だからお前達は相手の腕を攻めるなら腕を攻めなさい。それだけでいい。あとはグラウンドをしっかりやりなさい』と。」

「僕はずっと3年も馬場さんの付き人をやっていて、馬場さんは僕がお世話をすることで居心地がよかったと思う。そういうときに一生懸命に馬場さんに意見を言ってくれるのが昭雄さんだった。『馬場さん、越中や三沢は早く海外に出して勉強をさせた方がいいですよ』って。でも、そんな話をしても馬場さんは右から左ですよ、居心地がいいんですから。」

越中にとって、技術面ではカブキに教わり、佐藤から精神的フォローを受けたことはプロレスラーとしてお手本になったという。

越中は馬場の付き人を3年間務めた。
越中にとって、付き人生活は何だったのか?

「ずっと馬場さん中心の生活でした。ホテルについたらまずは馬場さんの部屋のベッドを直して消毒する。着いたら必ず馬場さんは休んで、それを数時間後に起こしに行くんです。体調がいい時は馬場さんはゴルフ場にいくんです。でも馬場さんはキャディをつけずに僕が全部バッグを担いて歩くんです。もちろん朝起こすのも僕の仕事。だけど調子がいい時の馬場さんは夜中の1時、2時までホテルのロビーでくつろいでいるんです。僕はその間も待ってなきゃいけない。たまに出発時間直前になって、電車で行くと言うときもあるんです。もう慌てて支度して自分の荷物はバスに積んで、馬場さんの荷物は僕が持って…。馬場さんがいつもグリーン車。これが座り心地がいいから、僕もついウトウト寝てしまうんですよ。そういう時に限って、ファンからのサインをねだられて。『起こされたじゃないか、お前は何のために一緒に乗っているんだ!』って。」

ちなみに越中の初勝利はデビューから2年後、対戦相手はその日がデビュー戦の後藤政二(ターザン後藤)だった。

越中にとって転機になったのは1980年以降に入門する後輩の存在だった。
特にアマレス国体優勝の三沢光晴とは若手時代において、数々の好勝負を展開する。
越中にとって三沢とは?

「性格は大人しかったけど、器用だったよね。三沢のデビュー戦の相手は僕が務めたけど、入門してから半年かからないデビューだったから当時としては本当に異例。あと新弟子の練習というのは受け身が中心で、試合の練習なんか一切教えないんですよ。でも、彼はデビューしてすぐに教えなくても試合になってたんだよね。ああいう人間は、他にいなかった。デビューまもなくちゃんとプロレスができるっていうのはジャンボさんと三沢くらいでしょうね。」

「三沢達が入ってきてから、それまでも俺と渕さんしかいなくてシーンとしていた悲惨な道場の雰囲気は変わりましたよ。当時の全日本には若手を育てるという発想はなかった。若手っていうのは、自分の世話をする使用人みたいに思っているから。そのリズムを変えてくれた昭雄さんがいなかったら、僕も三沢もメキシコ遠征はなかったよ。」

ちなみに三沢にとっても佐藤昭雄は恩人だという。
三沢の盟友だった仲田龍氏は以前、このように証言している。

「佐藤さんの後押しがあったから、今の越中さんと三沢さんが上がっていったんですよね。当時の全日本は体の大きな人じゃないとなかなかチャンスはもらえなかったし、上下関係もきつかった。その時にアメリカから帰ってきて、風穴を開けました。当時は若手が使える技は決まってたんです。ところが佐藤さんは若手にいろんな技をやらせて、全部受け止めてくれたんですよ。口だけ言う人はいっぱいいるわけですが、身をもって示しましたからね。佐藤さんがそこまでやるんだから、他の人もやらないわけにはいかないだろうみたいな。当時は佐藤さんがマッチメイクやってたんです。だから常に自分は一歩引いてましたね。」

越中にはこの時点で明確なプロレスラー像があった。

「当時、リング上には馬場さん、鶴田さん7、マスカラス、ファンクスとかがいるわけじゃないですか。これぞスーパースターって人たちが。だけど僕が見ていたのは違うんです。本当のプロレスラーは、腕一本で生きていく職人レスラーだろうと。僕はそういう本物の人達、カブキさん、戸口さん、昭雄さん、桜田さんを一番下から憧れの目で見ていたんです。海外に出ていって、日本からはお声が掛かるまで帰れない状況で、いろいろなテリトリーを渡り歩く。そういう逞しい先輩を見てきているんですね。これがプロレスラーのお手本だなと。この人達を見ながら逞しくならなきゃいけないなと。」

腕一本で生きる職人レスラーになるためにはまずは実績だった。
1983年の若手選手によるルー・テーズ杯争奪リーグ戦で越中は三沢を破り優勝を果たし、1984年3月に三沢とともにメキシコEMLL(現CMLL)遠征に旅立った。
メキシコでの生活も越中にとっては苦しいものだった。

「三沢と二人でメキシコに行くんですけど、全日本から向こうに全然話が通ってないんです。空港には誰もいない、なんとかタクシーでEMLLオフィスに行っても、何も話が通ってない。誰も何も教えてくれないし、誰もケアをしてくれないから、すべて自分でやらないといけないんです。毎週月曜日、オフィスにスケジュールが貼り出されるから、一週間の日程を自分でメモして。地方も行き方がわからないから、教えてもらって、バスターミナルの場所だけ教えてもらって。僕らの行った頃は携帯もない、コンビニもない、ミネラルウォーターもない時代ですから。これで三沢がいなくて、一人だったら心細かっただろうけど、なんとか二人で苦労を共にして、やっていけたんです。」

「メキシコ行って、水が合わなくて100kgあった体重が85kgまで落ちてね。下痢というかもう赤痢になってたんです。朝、歯を磨いたときにうがいをした水が原因でね。僕はこんな状態なのに、三沢はピンピンしているんです。飯も『うまい、うまい』って平気に食っているし。」

「日本を出る前は二人とも前座だったんです。それがメキシコに来たら、毎週二万人の前でメインイベントに出られるんだから、夢みたいでしたよ。」

しかし、三沢とのメキシコ生活は突然終わりを告げた。
二代目タイガーマスクに白羽の矢がたった三沢に帰国命令が出たのである。

「ある日、馬場さんから連絡があって、『三沢を日本に帰せ』って言われたんです。しかも三沢はその数日後にすぐ帰らないといけなかった。本当は彼も挨拶したい人がいたし、仲良くしていたレスラーもいたし、お世話になった人もいたのに、そういう人達に挨拶ができずにすぐ帰らなきゃいけなかった。それで慌ただしく三沢を空港まで送ったね。」

一人残された越中は馬場に電話で直訴する。

「もうメキシコにはいたくありません。リングのコンディションは悪いし、体重もどんどん減るから不安なんです。アメリカに行かせてください。」

馬場は「おう、分かった」と返事したという。
しかし、その後、馬場からは一切連絡がなかった。
一か月、二ヶ月、三か月待っても…。

越中は全日本を辞める決意を固める。
そんな越中に連絡してきたのが、当時大量離脱もあり選手層が薄くなっていた新日本プロレスだった。
当時新日本の北米支部長だった大剛鉄之助氏が段取りをつけて、1985年2月にハワイ遠征中の新日本のアントニオ猪木、坂口征二らと会談した。
ハワイで坂口に奢ってもらったタヌキそばの味があまりにも美味しくて心にしみた。

4月にはロサンゼルスで会談した。新日本は航空チケットも手配してくれた。
越中はこの時についてこう振り返る。

「結局、ロスで三回、ハワイで二回ぐらい坂口さんと会ってるんです。僕からしたら、自分で言うのもなんですが、たかが全日本の若手でメキシコで修業した程度のレスラーですよ。そんな自分が新日本に移ったところで大したことじゃないと。それよりもメキシコにだって観光ビザで入って勝手に試合していたわけだし、アメリカにいきたくもビザがなかなか取れない。それでもアメリカに行きたくて、そっちを坂口さんに相談したい気持ちが強かった。でも坂口さんはあの人柄で、時間をかけて僕を説得するんですよ。最後は折れました。そこまで必要としてくれるんですから。それに全日本出身の人間をリングに上げてだめだったら坂口さんの顔も潰れるわけだし。今考えるとよくあそこまでしてくれたなと思いますね。」

越中は新日本プロレス移籍を決断する。
坂口征二の心遣いに、恩義を感じたんだ。

そして1985年7月に帰国した越中に坂口は「馬場さんに筋を通してこい」と言われ、全日本が遠征している青森を訪れる。ホテル代、空港チケットは新日本が手配してくれた。八戸市のホテルに滞在中の馬場を越中は訪れた。ロビーで越中は先輩の天龍源一郎と遭遇する。
そこでほとんど接点がなかったという天龍からこう声をかけられた。

「お前ひとりじゃ言いづらいこともあるだろうから、俺も一緒に行くよ。」

越中は馬場の部屋を訪ねた。
馬場は越中に背中を向けたままだった。
越中は馬場に頭を下げた。

「いろいろお世話になりました。今後は新日本でやりたいと思いまして、遅くなりましたがご挨拶に来ました。」

しかし、馬場からは予想外のことを言われた。

「これからジャンボと天龍と俺で会場に行くからお前も来い。リングに上がって、今のジュニアヘビー級の王者の小林邦昭に向かって挑戦するとマイクで言えばいい。新日本だろ?坂口だろ?俺が全部ケツ拭くから、後のことは心配するな。」

何を言っているんだ、この人は。
去年、電話でアメリカに行かせてほしいと直訴して、「わかった」と返事したのに何の連絡もない。俺は捨てられたんじゃなかったのか?
越中は「それはできません」と言ったものの、長い沈黙が続く。
そんな状況で天龍が馬場にこう言ってくれた。

「越中には大変ありがたい話ですけど、それをコイツがやっちゃったら取り返しがつかないですよ。」

しかし、馬場は…。

「お前、何か上がらない理由は何だ?何の心配があるんだ?全部、俺の力で飛ばせる話だろ?だから今日は私服でリングに上がって小林に挑戦すると言え。それだけだ!」

天龍は越中のためにこう食って掛かった。

「越中の気持ちを汲んでやってください。今になってリングに上がれって…。越中がそんな行動をとれるわけないじゃないですか。越中の言っていることが正しいじゃないですか!」

越中は「今日は本当に挨拶に来ただけで申し訳ないんですが、帰ります」と言って部屋を出て行った。馬場はずっと越中に背を向けていた…。

ホテルを去ろうとする越中に天龍が声をかけた。
天龍はなんと、越中の背広のポケットにごそっと自らの札束を押し込んだ。

「メキシコで苦労してきて、どうせ金持ってないんだろ!」

越中は天龍の心遣いが嬉しかった。
天龍がいなければ、あの時馬場の言うとおりに私服でリングに上がることになっていた。
でもそうすれば今度は誘ってくれた新日本の坂口副社長の顔を潰すことになる。
さすがに越中にはそれができなかった。

1985年8月1日両国大会で越中は新日本入団挨拶を行った。
そこに現れたのは前座の力道山と呼ばれたドン荒川だった。
荒川は笑顔で手をさす出し、越中もそれに応じようとするが直前に荒川はその手をひっこめた。それは全日本出身者を受け入れないという意思表示だった。
越中の新たなる闘いが始まった。

新日本プロレスと全日本プロレスの違いについて越中はこのように語る。

「全日本は完全に縦社会、年功序列が厳しいんです。試合会場で先輩よりも先に風呂入るとか、道場で先輩達よりも先に飯食うとか、そういうのはあり得ない。新日本はそういう厳しさはないんです。2~3試合目に出たら、『早くシャワー入れ!』と。道場では『練習終わったやつから、どんどん飯食え』とか。練習もそうで、全日本はとにかく受け身。『自分を守るためにしっかり受け身を練習しなさい。どんな技でもどんな角度から来ても受け身が取れるように』って。新日本は受け身の練習はもちろんするんだけど、そういうことよりスパーリングをやったり、教え方も『どんどん攻めていきなさい。受けちゃだめだ。後輩からでもどんどん攻めていけ』って。」

1985年8月25日の東村山大会でのブラック・キャット戦で新日本移籍第一戦を闘った越中はしばらくは新日本に慣れるために若手相手に試合をすることが多かった。

相手の技を受けることを最優先した全日本とは違い、新日本では受けるより攻めることを重症視された。そのカルチャーショックを解消するには実戦しかなかった。

山本小鉄からは「相手と対したら、とにかく攻めなさい。闘いなんだから」とアドバイスされ、星野勘太郎からは試合で毎回、パンチを殴られ口を切られた。新日本の重鎮である二人から言葉で、実戦で新日本のスタイルを教えられた越中は1986年2月にザ・コブラ(ジョージ高野)を破り、初代IWGPジュニアヘビー級王座を獲得する。
しかし、そんな越中の前に立ちはだかったのがその年から参戦していたUWF勢だった。
キック&サブミッションを主体として格闘プロレスは異彩を放っていた。
越中はUWF勢との対抗戦の最前線にいた。

越中は髙田延彦(当時は伸彦)との初対戦で、こめかみにキックをもらい失神。
その後も髙田を始めUWF勢のキック&サブミッションの餌食となり、越中は人間サンドバックと評されるようになった。

しかし、これが転機となる。
全日本出身者として周囲に馬鹿にされてきた男の意地が爆発する。
UWF勢には名前もエッチューと間違えて呼ばれた。
ならば、お前らの攻撃も全部受け止めてやる!
越中のそんな心意気は次第のプロレスファンにも伝わるようになった。

髙田VS越中は「ジュニア版名勝負数え歌」と呼ばれるほどのファンの支持を受けた。

越中にとってUWFとは何だったのか?

「当時は13時頃に巡業先のホテルに着いて、14時とか15時ぐらいに会場入りするんです。各自練習して、16時から合同練習なんだけど、何しろキックを打つ乾いた音が14時過ぎから館内に響いてましたから。異様でしたよ。試合会場も異様で、後楽園なんかは特にシーンと静まり返って。蹴りをブロックできなかったり、関節技をやられたりしたらものすごい野次が飛んできたりして。殺伐としていました。それだけ熱狂的な彼らのファンが来てたんですよ。プロレスは八百長とか言われて、彼らは本物で、革命的に変えてくれるんじゃないかという期待があったんじゃないですかね。」

「当時はどんな町にいっても、連日対角線上には髙田がいました。リングに上がれば、向こう側に必ずいた。みんなUWFとはやりたくないんだから。自分にはしがらみがないし、彼らを知らないから。ここのリングで生きていくんだから何でもやらなきゃいけない。だから『なんでもやりますよ!』と腕まくっていったよ。UWFだってプロレスですよ。でも実際は本当にヤバかった。蹴りまくられて、頭が飛んでしまうっていうか、試合中に目がいっちゃってるみたいだね。」

「他人よりも早く会場に行って、彼らの蹴りの練習もよく見てたし、試合でやっているのもよく見てましたから。それから坂口さんがみんなをリングに集めて、関節技の実技指導をしてくれたこともありました。かみ合うとは思ってなかったし、彼らもこっちのことをバカにしていただろうしね。それがどこからか分からないけど、蹴りとか関節技だけじゃなくて彼らの心情も伝わってくる感じでしたね。だから気持ちと気持ちのぶつかり合いでしたよ。ちょっとでも目を逸らしたらけりがアゴでも何でも入っちゃいますから。しかも彼らも馬鹿じゃないから同じ蹴りは打たないんです。フェイントしてきたり、毎日のように変えてきてましたね。アゴに入ったら一発で終わっちゃうから、緊張感しかなかったですよね。」

どんなに蹴られても越中は「もっと蹴ってこい」と胸を突きだした。
UWF勢に「あんな技が効くのか」と馬鹿にされてもジャンピング・ヒップアタックを意地でも彼らに繰り出していった。
越中の心意気はUWF勢、そしてライバルの髙田には十分伝わっていた。
また重鎮・星野勘太郎から「いつも大変だな、頑張っているな」と声をかけてくれた。
UWF勢との闘いによって、越中の新日本でのステータスは上がっていった。

当時、髙田は越中についてこう語っている。

「僕の蹴りは一流のキックボクサーや空手家に比較したら、まだまだ下手ですよ。だけど100kg近い人間が無防備の相手の顔面なんかを思いっきり蹴ったらどうなります?大怪我か再起不能ですよ。それなのにエッチューさん(越中)はこんな凄い顔して『蹴れるものなら蹴ってみろ!』って胸じゃなくて無防備に顔を突き出してくる。そんなことをされたら僕の蹴りも寸前でカーブしちゃいますよ。顔とか表情で反撃してくる人は初めてですよ。」

髙田には越中との試合には自信があった。
だから、ある時、越中とのタイトルマッチが数分のダイジェストでしか放映されなかった時、怒りのあまりに「もうプロレスを辞める」と言ったほどである。

1986年の「ジャパンカップ争奪タッグリーグ戦」に、越中と髙田はライバルタッグを結成し、リーグ戦を大いに盛り上がった。
しかし、終盤戦に髙田が右手人差し指骨折という怪我を負った。
12月9日のリーグ最終戦。
越中&髙田はヘビー級強豪チームであるディック・マードック&マスクド・スーパースターと対戦した。

周囲は欠場を勧めたが髙田は強行出場した。
右手には大きなギブスを装着していた。
越中は髙田に一度もタッチすることなく、外国人コンビの猛攻を受け続け、壮絶に散った。

試合後、髙田は越中の控室を訪れた。

「本当にすいません…」

髙田は泣いていた。悔しくても、自分が不甲斐なくて越中に対しても申し訳ない気持ちで気持ちだった。
越中は髙田を責めずに怪我を気遣ってくれたという。
ライバルタッグはその年のプロレス大賞の最優秀タッグチーム賞を獲得した。
当時、ジュニアの選手がプロレス大賞に絡むことは少ない時代での受賞は異例だった。

越中にとって髙田は特別な存在だった。

「髙田との試合は快感だったのかな…。とにかく夢中になっていたよね。あのピリピリ感が何ともいえないんですよ。リングで会う以外は彼とはほとんど話したことがないわけだし、一度タッグを組んだからって仲良くなったわけじゃない。僕が髙田から一番感じたのはオーラなんです。まず男前じゃない? それだけで自分の描いているプロレスラーのイメージを覆している。最初からこの野郎って思えるんですよ。これは誰からも感じなかった、僕だけに見えるんです、髙田のオーラが。多分、髙田とはリング上だけの関係だったからそれを感じたんでしょうね。」

越中は1987年3月に後輩の武藤敬司とのコンビで前田日明&髙田延彦を破り、第4代IWGPタッグ王座を獲得した。
しかし、その一か月後に右足腓骨骨折及び靭帯断裂の重傷を負い、長期欠場に追い込まれた。

「ずっと走ってきて初めての一休みだったんだろうね。僕はそのあと、二回アキレス腱を切っているけど、あれが初めての大怪我だった。焦りもあったし、気が付いたら髙田がいなくなっていて。あれだけ遠慮なしにやって、やられてきた相手がいなくなった。それは心にぽっかり穴が開いたような感覚になりましたね。スランプではないけど、新日本の流れも変わってましたね。」

そして越中が右足を完治させて約10か月後に復帰すると、新日本の風景が変わっていた。全日本を離脱した長州力率いる元ジャパン・プロレスの面々が新日本にUターンしていた。そして、UWF勢は木戸修を除き、新日本を離脱し、第二次UWFを設立した。
1989年、新日本は坂口征二が猪木に変わり社長となり、長州力が現場責任者となった。

その頃に越中はヘビー級転向を果たした。
しかし、越中はヘビー級で前座戦線で燻り続けた。

ある日、こんな試合があった。
越中は6人タッグマッチで長州軍団と対戦した。
そこで、長州らは越中の攻撃を受けず、15分やられまくった。
お前なんか認めないという意思表示だった。

後輩レスラーの後塵を拝したこともあった。
現場責任者の長州とは何度も衝突した。
いつの間にか長州と越中は犬猿の仲になっていた。

「もし天龍さんが旗揚げしたSWSから声をかけられたら、俺はすぐにSWSにいきますよ!やってられないよ!」

当時、越中はこう語っていたという。
ちなみ、越中のニックネームである「ド演歌ファイター」はこの頃に、実況の辻よしなりアナから命名された。
まさしく越中のレスラー人生とは演歌である。

しかし、当時の長州の姿勢は今になってみると理解できるようになったという。

「先輩というのはそれくらい壁を高くしないといけないだと。やっぱり高い山が必要なんですよ。その時はコンチクショーと思ったけど、それはプロレスにおいて大事なことなんです。」

越中は耐えに耐えた。
明らかに手を抜いた試合をしたこともあったというが、団体は辞めなかった。
藤波辰爾率いるドラゴン・ボンバーズ入りするもなかなかチャンスが巡ってこなかった越中に、再び転機が訪れた。

1992年1月から始まった空手道場・誠心会館との抗争である。
1月の大田区大会で藤彰俊に敗れた小林邦昭のセコンドには越中がいた。
越中は試合後、長州からは「次はお前だ!」と指名され、齋藤と対戦するも敗れた。

越中、小林、齋藤、青柳政司…。

男達は異種格闘技戦という果し合いで生き様をぶつけた。
それが熱狂を生み、リングには興奮と感動が生まれた。

小林は血だるまとなるも、プロレスの意地と誇りをぶつけ、凄さを見せつけた。
齋藤は時には眼球を痛め片目が見えなくなっても闘い続けた。
青柳は新日本との板挟みに悩み、最終的に誠心会館館長としての責任を取り、新日本に立ちはだかった。
越中は相手の打撃をとことん受け続け、熱すぎる魂と試合でプロレスラーとして全うした。
この抗争の結末は、越中と小林が新日本プロレス退団と誠心会館の看板をかけたものへの発展し、小林が齋藤を血だるまにしてリベンジを果たし、越中が青柳をスープレックスでKO勝ちをし完全決着した。

しかし、越中と小林は誠心会館の自主興行に、新日本に無断で参戦したことにより、選手会から追放された。
越中は己の生き方を貫くため、反体制へ。
小林が胃がんに倒れひとりぼっちになった越中に手を差し伸べたのは抗争相手の誠心会館の青柳と齋藤だった。
さらにベテランの木村健悟が越中達に加勢し反選手会同盟が結成された。
のちに「平成維震軍」と呼ばれ、自主興行シリーズが組まれるほどの人気アウトロー集団の誕生である。

平成維震軍はアウトローにも関わらずファンからの声援を浴びた。
弱小集団への判官びいきや同情なのか…。
弱小集団の奮闘はファンの心を掴んていた。
平成維震軍とは何だったのか?

「小林さんから始まったんだから小林さんが戻ってくるまでは辞められない、守らなくてはいけないっていうのはあったんです。だって粒がそろっていた当時の新日本で続くとは思わないじゃん!ハッキリ言って青柳と彰俊はド素人なんだよ。受け身一つも取れなかった。当時ド素人二人と組んで、長州、藤波、三銃士とやるんだから。だから本当に2日で終わると思っていた。」

「小林さんが戻ってきた時に、青柳や彰俊が消えてたら、小林さんに申し訳が立たない。俺だって消えているかもしれない。木村さんが力を貸してくれて随分助かったけどね。酷い言い方したら、ド素人と窓際だったロートルの集団だよ。」

さらに越中は天龍源一郎率いるWARとの団体対抗戦に反選手会同盟として出陣した。
新日本とWARのシリーズを往復する日々。
越中は「疲れすぎて、昼寝すると起きられなくなる。だから昼寝を我慢する。そうすると疲労で飯も喉を通らない」という目の回るような生活をしていた。

そんな越中にまたも強力な助っ人が現れた。
WARにフリーで参戦していたザ・グレート・カブキだった。
越中の新人時代にテクニックを叩きこんだコーチで、腕一本で生きる職人レスラー。
カブキは維新軍入り後、越中に「さん」付けで呼ぶようになった。

「あの怖かったカブキさんが維震軍に入ったときは最初はやりにくかったです。こんな形でメンバーとして自分の下に入ってもらって。何とかカブキさんをケアしてあげたい部分とあの頃の怖いカブキさんを知っているから、ここに溶け込んでくれるかなと不安がありました。でも、見事にやり切ってくれました。プロですよ。やっぱり俺が昔憧れたプロのレスラーですよ。」

越中が齋藤を叱りつけると、その後に齋藤のフォローに入り慰めていたのはカブキだったという。立場は逆転していた。

越中の心意気と覚悟に胸を打たれたのはWARの天龍だった。天龍は越中にとっては恩人である。天龍がいなければ全日本を辞めることなどできなかった。そんな天龍の前に敵として越中は対角線に立った。

天龍率いるWARが新日本に初上陸した時、迎え撃ったのが越中達だった。彼らは壮絶に玉砕した。天龍に敗れた木村は頭部を強く打ち起き上がることはできない。会場が静まり返ると、天龍は「彼らに拍手としろよ」と言わんばかりに、マイクアピールするために持っていたマイクを叩いたのである。

そして1992年12月、新日本プロレス最後のビッグマッチとなった大阪大会のメインイベントに組まれたのが天龍と越中のシングルマッチだった。反体制と外敵の一騎打ちをメインに組むマッチマイクは斬新だった。そして二人は激闘を演じて見せた。試合には敗れた越中だったが、生き方を貫くことで新日本で立ち位置を築いたのである。

越中は実はG1CLIMAXの名勝負製造機である。
これは私感なのだが、越中は1990年代の裏G1男だったと思う。
それだけ越中は数々の名勝負を毎年、真夏になると量産していった。

初出場は1993年。この年はリーグ戦ではなくトーナメントだった。
1回戦で越中は当時WARと協力体制を取っていたレイジング・スタッフのリーダーであるスパー・ストロング・マシンと対戦した。マシンの実力を最大限に引き出すものの、逆転負けを喫する。

翌年のG1に、予選会から勝ち上がりエントリーした越中。
この年はリーグ戦だった。
越中は数々の名勝負を残した。

ジュニアヘビー級時代のライバルだった馳浩戦では「まるで決勝戦」のような大激闘を見せた。
パワー・ウォリアーに変身していた佐々木健介にも越中は真っ向勝負で立ち向かい、受け止めた。
「越中」コールの雨が会場には振り続けた。

最終戦。優勝戦線から脱落していた越中は優勝候補筆頭の当時IWGP王者・橋本真也と対戦した。そして、試合が組まれていないのにも関わらず、平成維震軍の仲間達がセコンドについてくれた。

橋本はこの試合に勝たなくては優勝の望みはない。

越中は発奮した。橋本の攻撃を受け切り、チャンスを図ると一気呵成の攻撃をたたみかけた。

得意のパワーボムは135kgの橋本を四度もキャンバスに叩きつけた。
きれいなブリッジワークが定評があったジャーマン・スープレックスホールドで橋本を見事に投げ切った。
丸め込みで勝利の執念を見せた。

しかし、その後、この試合に勝って優勝への望みをつなげたい橋本は終盤で驚異のラッシュをかけた。ニールキック、DDT、爆殺シューターと形容される強烈な蹴り、ダイビング・エルボードロップ、関節技…。

橋本の猛攻をいつしか受けることで精いっぱいとなった越中。
しかし、ギブアップ、3カウントだけは許さなかった。

実況の辻よしなりアナウンサーはこのように実況した。

「まるで越中が橋本に人生を教えているかのような…」

沸きあがる「越中」コールの嵐の中で、もぎ取った30分時間切れ引き分け。

悔しさのあまりにマットを何度も叩く橋本、大の字になって動けない越中、その姿を拍手で迎えに行く維震軍のメンバー達…それは余りにも壮絶で感動的な光景だった。

1995年のG1には越中の姿があった。
開幕戦で当時IWGP王者の武藤敬司を破って見せた。試合後、越中は齋藤から肩車で担がれた。小原道由は大歓声の中で維震軍の旗を降っていた。
G1の数々の歴史において屈指の名シーンである。

平成維震軍はその後も新日本でしぶとく生き残り、1999年2月に解散を発表した。
世田谷の焼肉屋だった。越中はどうしてもけじめとして挨拶がしたかった。

「けじめをつけたかった」

そう語る越中と維震軍のメンバーは報道陣に握手を求めた。
報道陣からは温かい拍手が待っていた。

「謙虚だったからやってこれたんだろうね。小林さんにして木村さんにしても、みんな集まった人間が『これがいつまでも続くとは思ってない』っていう謙虚な気持ちを根底に持っていたから。だから必死になれた。」

維震軍解散後新日本本隊に戻った越中はかつて犬猿の仲だった長州や会社サイドからの信頼が厚かった現場副責任者としてマッチメイクにも関わっていく。

その中で猪木オーナーと現場責任者・長州との対立が表面化。
2002年、新日本を離脱した長州はWJプロレスを旗揚げする。
越中は2003年1月を持って新日本を退団しWJプロレスに移籍する。

「僕が契約更改で新日本を退社するとき、新日本は止めてくれたんです。なんでWJに行くことを決めたかというと長州さんが『一からプロレス団体を作っていくんだ』って聞いて、それをやってみたいと思ったんです。縁の下の仕事も経験してみたいという想いが強かったんです。」

「たった三ヶ月で給料がゼロになったよ。例えば後楽園で興業をやると、ガソリン代、高速代金は自前だからマイナスだよ。あの時は悲惨だったけど、勉強になりましたよ。今日はこれくらいお客さんが入ったからトントンでいけるからと。興業全体を考えるようになりましたね。」

2003年10月にWJを離脱した越中は半年間、アルバイトで知人の店でバーテンダーを経験した。
そして越中はノアの会場に乱入し、なんと三沢光晴に挑戦状を叩きつけた。

「約束を果たしにきたぞ!」

ちなみに約束とは1984年に二人の運命を分けたメキシコの地で交わされた「お互いに離れてもいつか再会し二人で熱い闘いをしよう」という内容だった。

三沢は珍しくマイクで応戦し、越中のノア参戦が決まった。

「なんかこう嬉しいというか。メキシコからの別れから本当に長い期間たって、お互いにやれるようになって良かったな。それにしても…変わってないですよね。」

三沢との19年ぶりにシングルで対戦することになった越中は、三沢にホテルに呼ばれ、松茸のフルコースで食べさせてくれた。性格は変わらず飄々としていた三沢だったが、越中には三沢の背中から重いものを背負っているという雰囲気を感じた。

三沢と越中はベーシックな攻防と、メキシコ以降に互いが培ったテクニックの応酬となった、三沢は越中に変型エメラルドフロウジョンを決めて、越中とのシングル41戦目にして初勝利をあげた。

試合後、越中は銀行口座を確認したてみると驚いた。
なんとファイトマネーは「1試合300万円」だったのだ。
30万円だと勘違いしていた越中は唖然とした。
三沢の越中への感謝の気持ちがファイトマネーとなって現れていた。

2006年、新日本にフリー参戦するようになった越中は真壁刀義と組んで、矢野通&石井智宏と半年間にわたって連日タッグマッチで抗争する"地獄の抗争"に発展する。
この4人と天山を加えて、GBH(グレート・バッシュ・ヒール)を結成する。

その後、越中は新日本を離れて、ハッスルに参戦する。
ファイティング・オペラと呼ばれるプロレスとは異なるエンターテイメントでも越中は越中だった。

ハッスル崩壊後、越中は団体の大小問わずあらゆる団体に上がり続けた。
越中は自らが理想とした腕一本で生きる職人レスラーとして

越中は語る。

「高い壁が今のプロレス界にはいないんです。うまい、強い、かっこいいだけで人気は出ますか?ファンは気づいている。『こいつは頑張っている』、『苦労しているな』とか。苦労して落ちた人間がどうやって這い上がるのかということをファンは見ているんです。今のリングに上がって『こいつ、いい背中しているな』っていつやつは見たことはないですね。」

「天龍さん、長州さん、三沢、武藤、高田もそうなんですが、背中に会社を背負っているんです。」

そういえば天龍源一郎は越中をこう評する。

「越中詩郎は世間が右と行ったら左、左にいったら右に向いて生きていた。反骨の生き方というか。」

越中が長きのレスラー人生のなかで、見続けた会社や時代を背負う男達の背中。
それを越中はにらみつけて、肥やしにして発奮することで反骨のアイデンティティーを武器に闘い続けた。

「お客さんはお金を払って見に来る。プロレスラー同士がぶつかり合う内容を期待しているのに、張り切らないヤツがどこにいるんだ!って意味で『心の袖をまくれ』ってことですよ。」

心の袖をまくる。
それは越中の人生と心意気が表現された名言だった。
周囲が対戦を拒んだUWFとの抗争を越中は、腕をまくって挑んでいった。
誠心会館、その後の平成維震軍に発展させるために男はピリピリさせながら、奮闘し続けた。
どんな困難や試練があっても、越中はいつも火中の栗を拾うかのように『心の袖をまくって』リングに上がり続けた。

その姿に多くのファンは共鳴し感動を生んだ。
ド演歌ファイターの『心の袖をまくる。』という生き方は、「誰もやらないことでも自分が何でもやってやる!」という勇敢な特攻精神だったのもしれない。

越中には多くの恩人がいた。
支えてくれるファンがいた。
彼はあらゆる困難も本人の絶え間なぬ努力と情熱と数々の出会いによって、プロレス人生を生き抜いた。

どんな時にも逃げず、立ち向かい、ファンに生き様を歌い続けた越中。哀愁と郷愁、情念に満ちた魂のプロレス演歌は、我々が生きるために鼓舞する人生の応援歌である。