ジャスト日本のプロレス考察日誌

プロレスをもっと広めたいという思いブログをやってます。新旧洋邦のレスラーを取り上げた「俺達のプロレスラーDX」を連載中!
ご愛読よろしくお願いいたします。
※コメントは大歓迎しますが、ご返信できませんのでご理解のほどよろしくお願いいたします。

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新日本プロレスのスター・中邑真輔が米マット界席巻!〈AERA〉

※元週刊プロレスの市瀬英俊さんの書いた記事に、元ゴング編集長の金沢克彦さんと長年週刊プロレスで連載を持っていたプロレスライターの斎藤文彦さんが登場する呉越同舟な作品です。
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俺達のプロレスラーDX
第142回 グッドレスラーになりたくて…~国際プロレスが生んだ職人~/マイティ井上



伝説のプロレス団体・国際プロレス。
その功績は実は計り知れないものがある。
国際プロレスが打ち出した数々のアイデアが今日の日本プロレス界の基盤となった。

崩壊して30数年。
今なおオールドファンの心に残り続けるプロレス団体・国際プロレス。
日本プロレス界においての国際プロレスの功績は計り知れない。
レスラーとの契約書の作成、巡業バスの導入、日本人マスクマンデビュー、日本人同士の世界タイトルマッチ、金網デスマッチ、外国人留学生の受け入れ、日本初の選手テーマ曲の導入…。
国際プロレスは現在の日本プロレス界の基盤となっているあらゆる事例のパイオニアだった。
また国際プロレスの選手は他の団体から関心されるほど練習の虫とも言える真面目な選手は本当に多かった。
【俺達のプロレスラーDX 第41回 堅忍不抜の男~国際プロレスが生んだ静かなる偉人の生涯~/ラッシャー木村】

国際プロレスの魂は今なレスラーズや数多くのオールドファンの中で生き続けている。

国際プロレスの人達は妙に真面目でしたね。ラッシャー木村さんとかもホテルについたら腕立て伏せを毎日、100回何セットをやったとか。全日本プロレスから見ると、「こいつら、なんてクソ真面目にプロレスをやってるんだ」って、そんな感じでしたよ。吉原さんがレスリングやっていた関係かもしれないけど、ホント練習してましたよ。
【天龍源一郎】

自分は国際プロレスの人達が結構好きだったですね。あの頃、アニマル浜口さんと長州力さんが組んでタッグマッチで絡むと、一回つかまったらコッチばっかりやられて、向こうは全然受けないんですよね。一回、浜口さんのアゴにバゴーンって入れたら、二発返されましたから。凄いな、この人はって。浜口さんなんか効いていても、効いていないふりをしてましたからね。ホント頑丈。あと自分ら若手にとっちゃ、剛竜馬さんが国際プロレスの語り部でね。いろんな話をしてくれるんですよ。吉原さんとラッシャー木村さんが国際プロレスはこれで終わりだっていうとき、浜口さんの店で、二人で一言もしゃべらんと、一晩延々と飲んでたとか。なんて渋いお男の世界なんだ、高倉健さんの世界だって。
【前田日明】

最近日増しに国際プロレスへの郷愁の念にも誓い思いが自分の胸にフツフツと湧き上がってくるのを感じる。そのたび私は国際プロレスのビデオを再生するのである。そこに映し出されるのはパンチパーマのラッシャー木村、長髪のアニマル浜口、そしてサイケデリックなタイツのマイティ井上である。井上というレスラーは国際プロレスの中にあって、独特の雰囲気を持つレスラーであった。ドロップキック、フライングヘッドバット、サンセットフリップなど、空中殺法を得意としていたのだが、それらはいずれもユーモラスといおうか、独特の「井上テイスト」がプンプン漂っていた。中でも彼の使うサンセット・フリップ(サマーソルトドロップ)にはなんともいえぬ魅力があり、それを支持する少年ファンも多かったのである。
【ミック博士の昭和プロレス研究室/マイティ井上のサンセットフリップ】

マイティ井上は国際プロレスが生んだ職人レスラーだ。
和製マットの魔術師、テクニカル・ソルジャー、小さな巨人の異名を持つ技巧派。
175cm 105kgという豆タンクのような肉体と吉原イズムを継ぎ、持ち前のテクニックとラフファイトにも対応できる気性の激しい性格であらゆるポジションで活躍したオールラウンダー…それがマイティ井上だった。
今回はテクニシャン・マイティ井上のレスラー人生を追う。

マイティ井上は1949年4月12日大阪府大阪市に生まれた。
本名は井上末雄という。
学生時代に井上が打ち込んだのは柔道。
そんな柔道少年にとってプロレスは憧れだった。

「俺達の子供の頃は力道山が全盛期だったからね。小学生の時、オヤジに連れられて大阪でプロレスを見に行ったんだよ。力道山の試合を生で見て、『やっぱりすげぇなぁ!』と思ってね。あの頃は日本中がプロレスブームだったから、力道山がカッコよくてね」

井上は高校の授業が終わると、ボディビルのジムに通い肉体を鍛錬していた。
このジムの会長が当時旗揚げしたばかりの国際プロレスの吉原功社長の知り合いだった。
井上はジムの会長に思い切って直訴する。

「プロレスをやってみたいんです」

ジムの会長はこう言ったという。

「俺が吉原さんに話してやるから、入門テストまで毎日スクワットを1000回やれよ」

それから半年間毎日、井上はヒンズースクワットを1000回やり続けた。
井上は当時、高校二年生で高校卒業するまであと一年待たなければいけなかった。
そんなに長く待てなかった。
井上は1967年3月に高校を中退し、国際プロレスに入門する。
柔道経験者だった井上はマティ鈴木のコーチを受け、4か月後の1967年7月21日の仙台強との一戦でデビューを果たす。

国際プロレスの選手達のベースはアマチュア・レスリングにあった。代表の吉原功は、日本人初のレスリング出身の元プロレスラーだったため、彼の信念は明確だった。

「アマチュア・レスリングの技術を基礎として本格的なプロレスの確立」

例え金網デスマッチなどの流血戦が多くなっても、柔道、相撲、ボディービル、ラグビーなど他業種からの転身が多かった日本人選手の礎になる技術はレスリングだった。
【俺達のプロレスラーDX 第29回 炎の応援団長~いつも心に国際プロレス~/アニマル浜口】

柔道出身者だった井上はマティ鈴木のコーチと明治大学レスリング部OBでリングアナを務めた長谷川保夫氏の指導も受け、レスリングも学んだ。
これは井上はに限ったことではないが、国際プロレスで生まれ育ったレスラー達が展開する序盤の攻防戦には必ず片足タックルの掛け合い、バックの取り合い、首投げ、巻き投げ、ケサ固め、飛行機投げといった技が飛び出すアマチュア・レスリングがあった。
そこに国際プロレス代表であり、元アマチュア・レスリングの猛者だった吉原功イズムがあった。

井上は吉原イズムの申し子だった。
井上にとって吉原功とは…。

「気のいい人でした。新日本、全日本と三団体があった時代にも国際が天下を取れそうな時期があったんだ。でも、吉原さんはあんな人だから、どこか遠慮してた。普段は無口で酒を飲むとちょっと陽気になって。俺が海外に行ってる時も何だかんだで2回も顔見に来てくれたからね。当時は気付かなかったけど、今思えばそういうところがあの人の優しいところだったよね」

そんな井上に自身が中退した高校からある日連絡があった。

「卒業式に来てほしい。君はプロレスで頑張っているから卒業ということにしてあげるよ」

こうして、中退ではなく井上は1968年3月に大阪学院大学高等学校を卒業した。

1970年8月、井上は同期のストロング小林と共にヨーロッパ遠征に旅立った。

「1970年の始めにフランスから清美川さんが来ましてね。あの人はフランスやドイツで試合をしているから、『一人若いヤツをよこしてほしい』ということで、1970年の夏に私とストリング小林はドイツのハーノーバーのトーナメントに行ったんです。アメリカのスタイルもやりたかったけど、いろんな国にみ行けたし、いい経験になりましたよ。ヨーロッパのスタイルが自分に合っているとは思わないけど、こっちも合わせますよね。俺のプロレススタイルは反則とかしてメチャクチャやるようなものじゃないから、基本的なプロレスの技を使って闘うという意味では合ってたかもしれない」

ちなみにこのヨーロッパ遠征で出会ったのがあのアンドレ・ザ・ジャイアントだ。
当時アンドレはモンスター・ロシモフというリングネームで国際プロレスに来日していた頃だ。
井上とアンドレは友人関係を築き、この関係はアンドレが天国に召されるまで継続されていった。

「不思議なんだけど、俺はフランス語は全然分からないのに、アンドレの言うことだけは全部理解できた。アンドレはいいヤツでしたよ。日本が好きでね。彼は国際プロレスでプロレスに開眼した人間だから。彼がWWE(当時WWF)に行った関係で新日本に出るようになってからもよく会いましたよ。アンドレの紹介でカナダ・モントリオールに行った時に、吉原社長が来てくれたんだよ。それでアンドレも交えて飯を食ったら、彼は吉原社長の飯もホテルも全部払ったんだよ。『俺が日本に行った時は吉原さんが全部払ってくれた。だからこっちでは俺が払うんだ』って。そんなヤツいないよ」

ヨーロッパ各国、ニューカレドニア、レバノン、カナダなど世界各地を転戦した井上は1972年10月に凱旋帰国を果たし、緩急のあるプロレススタイルとテクニックでトップ戦線に参入していく。
井上は"リングの魔術師"エドワード・カーペンティアの影響を受け、彼の十八番であるサマーソルト・ドロップ(サンセット・フリップ)を日本に持ち帰り、日本での第一人者となった。

当時この技を使う日本人はタイガーマスクが登場するまで井上一人だったと記憶する。ということはこのワザは井上の専売特許的技だと他のレスラーも認めていたということだろう。このワザはダウンした相手めがけて宙返りして背中からボディプレスを見舞うという単純なワザである。しかし井上のサンセット・フリップには独特のテイストがあった。というのは回転する前に一種のダンス(?)のような独特の動作と「あ~あ~あ~」といったような奇妙な掛け声を発したのである。これが少年のハートをがっちり掴んだのである。あの独特の動きはマネようとしてもマネのできるものではなかった。井上のあの不思議な動きをおみせ、掛け声を発すると、ファンは「来た来た、サンセットフリップ!」と胸躍らせたのである。ワザに入るまでの動き・・・これもファンを魅了するプロの技なのである。
【ミック博士の昭和プロレス研究室/マイティ井上のサンセットフリップ】

井上が海外から持ち帰ったストマック・バスターやコークスクリューシザース、フライング・ショルダータックルといった技には他のレスラーにはまねできない「井上テイスト」が詰まっていた。
また花柄、サイケ調、モザイク柄といった風変わりなタイツや他のレスラーならまず身に着けないカラーのガウンなども独特な「井上テイスト」と溢れていた。
恐らく、井上はプロレスでの自己表現を20代で心得ていたのかもしれない。

そんな井上にとって転機となったのが1974年。
同期で国際プロレスのエースとして団体を支えてきたIWA世界ヘビー級王者ストロング小林の離脱である。
小林はフリーに転向し、新日本プロレスのアントニオ猪木との"昭和の巌流島決戦"を実現させるため一匹狼となったのだ。

小林の離脱とベルト返上に揺れる国際プロレス。
吉原社長はスーパースター・ビリー・グラハムに渡ったIWA世界王座の第一コンテンダーに指名したのがなんと井上だった。

「怪力のグラハムに対して、体格で互角のラッシャー木村、グレート草津を起用しない方が王座奪取が可能と考え、ここは奇策かもしれないが井上を抜擢した」

井上は1974年10月7日にグラハムを破り、IWA世界ヘビー級王者となった。
25歳、キャリア7年で世界王者並びに団体のエースとなった井上は国際プロレスを去った小林への怒りを覚えていた。

「」IWAのベルトは自分の実力だけではなく、会社全員のバックアップがあって初めて巻けるものだった。王者だった小林が団体を離脱するということは、国際所属のレスラー仲間ばかりではなく、会社のために貢献してくれた社員、その家族に対する裏切り行為だった。自分はそれが許せなかった」

井上は1975年4月10日にマッドドッグ・バションに敗れるまで半年間に渡り王座を守った。
その後の国際プロレスはそのバションを木村が破り、6年に渡る長期政権が誕生し、結果的に井上のIWA王者時代は不動のエースラッシャー木村への見事な中継ぎになったと言えるかもしれない。

「バションに獲られたベルトを木村さんが取り返した時は正直せいせいした気分だった。悔しいというより、肩の荷を下ろしたような、『やれやれ』という感じでしたよ。やっぱりチャンピオンだといつもみんなに注目されるじゃないですか。プレッシャーというか、俺も当時25歳ぐらいで、キャリアもみんなよりなかったからね。負けた後は、これはそんなに注目されないでのびのびプロレスができるなと思いましたよ」

もしかしたら井上はこの頃から悟っていたのかもしれない。

「自分はエースになれる器ではない」

トップなるよりもナンバー2,ナンバー3というポジションでのびのびと仕事をこなすのが井上の性に合っていた。

井上はシングル戦線から一歩退くとタッグ戦線で活躍するグレート草津、アニマル浜口、阿修羅・原とのコンビで何度もIWA世界タッグ王座を戴冠した。
特に浜口とのコンビは「和製ハイフライヤーズ」、「浪速ブラザーズ」と呼ばれた名コンビだった。
このコンビでグレート小鹿&大熊元司を破り全日本プロレスの至宝・アジアタッグ王座を獲得したり、新日本との対抗戦では”ヤマハブラザーズ”山本小鉄&星野勘太郎と壮絶な名勝負を残した。

浜口にとって井上は先輩で自分にないものを持っているレスラーだった。

「井上さんはものすごく動きがシャープだからテクニシャンの印象が強いけど、実はパワーが凄かった。ベンチプレスでは当たり前に200kgを挙げていたね。木村さんと並んで力が強かったんだ。そういう部分を試合でjはあまり見せずにテクニックを売り物をしていた。そういう見せ方を考えられる人だったということだよね。俺なんか、ただ暴れるだけだったけど。だから井上さんと組むと好きなようにやらせてくれて、本当に試合がしやすかった」

井上にとって国際プロレス時代のベストパートナーは浜口だったという。
そして、対戦相手で印象に残っているのが"放浪の殺し屋"ジプシー・ジョーである。

「国際時代の忘れてはいけない宿敵というか、僕のプロレス人生の中でも最高にタフな人間のひとりです。頭も胸も背中も硬い…もちろん鍛えたというのもあるんでしょうけど、やはりナチュラルな頑丈さがあったんんでしょうね。ジョーだけは、遠慮なしに殴れるんですよ。パンチで顔を思い切り殴っても大丈夫だし、こっちの手が痛いんです。胸にチョップ打っても、常にこっちの手が腫れてましたからね。背中にイスで叩いたら、イスが簡単にバラバラになっちゃいますからね。女性客の脱げたハイヒールで頭を殴ったけど、カカトが折れて飛んでいって。ジョーは何事もなかったような顔をしてました。木の長いテーブルに叩きつけても、テーブルの方が割れちゃうし。でも、あいつは性格のいい男だから文句は言わなかったですよ。平気な顔をしてました」

しかし、国際プロレスは当時、中継していた東京12チャンネル(後のテレビ東京)のテレビ中継が打ち切りとなったことを機に経営が悪化し、1981年8月に崩壊した。

社長の吉原功は新日本との提携や対抗戦を模索したが、これに反対したのが井上だった。
井上はどうしても新日本が好きになれなかったのだ。

「解散になった時、吉原さんに『みんな新日本に行ってくれ』って言われたけど、その時初めて俺は吉原さんに逆らったんだよ。『社長、新日本には行けません』って。カナダに行こうかと思ってたんだけど、ゴングの竹内宏介さんと話していたら『じゃあ馬場さんのところに行きなよ。俺が話してやるから』って言ってくれてね。それで馬場さんに会って、『できれば若手も何人かお願いします』って頼んで」

こうして井上は1981年10月に阿修羅・原、菅原伸義、冬木弘道と共に全日本プロレスに移籍した。

全日本移籍後はジュニアヘビー級に転向し、NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座に戴冠したり、石川孝志(当時は石川隆士)とのコンビでアジアタッグ王座に輝いたり中堅レスラーとして活躍する。
1989年1月にジョー・マレンコを破り、世界ジュニアヘビー級王者となった。

だが徐々に井上は活躍に機会を失われていく。
中堅から前座に降格し、悪役商会の一員となり、ジャイアント馬場やラッシャー木村のファミリー軍団とお笑いプロレスを展開していった。

そんな井上は一種の自己主張をしたことがあった。
1994年、ダニー・クロファットが小川良成を破り世界ジュニア王座を防衛に成功した際にリングサイドに現れたのが井上だった。井上は無言で王座挑戦の意思表示だった。
しかし、井上の願いは通らず、次の挑戦者に指名されたのが菊地毅だった。
この行動は会社からの指示なのか、井上の単独行動だったのか、謎だけが残った。

1998年6月、井上は31年に及ぶレスラー人生に幕を下ろし、引退した。
引退セレモニーで井上は周囲の関係者の助言により、事前の了解を取らずに引退後はレフェリーをすると宣言する。
これは引退した井上はお払い箱で、排除しようとした馬場元子夫人の考えがあることを踏まえた上での先手だった。
井上は引退セレモニー時に会社からリング上で分厚い封筒をもらった。
これまでの功績を踏まえた上での慰労金だと思った井上は中身を見てみるとそこには金など入っておらず、新聞の切れ端で膨らませただけだった。

ショックを受けた井上に、伝説の名レフェリーであるジョー樋口はこう声をかけた。

「気にするな。俺もそうだった…」

そこには「明るく楽しく激しいプロレス」の裏側にある闇と非情さが垣間見えた。

引退後レフェリーとなった井上は2000年6月に全日本プロレスを退団し、三沢光晴率いる新団体プロレスリングノアに参加した。
井上はレフェリー、テレビ解説、外国人の世話役を務めた。

しかし、一時期は業界の盟主となったノアだったが経営難に直面し、リストラという苦渋の決断をしなくてはならないほど追い込まれた。

2008年12月、井上は社長の三沢に呼び出された。

「井上さん、今回、こういうことになりました…。井上さん、申し訳ありません」

それはリストラ宣告だった。
1年間の猶予期間を経て解雇になる事前通告だった。

井上は三沢にこう言った。

「まぁ、しゃあないな」

三沢には「社長なんだから自分の好きにやればいいんだ」と言っていた井上には苦渋の選択をした三沢の気持ちは理解できた。だが、やはりこれでプロレス界を去るとなると寂しさが募る。

あと一度だけ三沢と腹を割って話さなければいけないと思っていた井上はまさかの悲報が届く。
2009年6月13日、三沢がリング渦に巻き込まれたこの世を去ったのだ。

創設者が去ったノアはますます迷走していった。
そして、井上はノアを去った。

2009年12月までノアに在籍していたマイティ井上レフェリー(61)の引退セレモニーが22日、ノア後楽園大会で行われた。メーンでレフェリーを務めた後、リングサイドにレスラーが集結する中、リング上で引退セレモニーに臨んだ。サプライズで良子夫人から花束を贈呈されると感無量の表情。同レフェリーは「レスラー31年、レフェリー11年。43年間の夢のような時代にプロレスがあったことを感謝します」とあいさつしていた。
【マイティ井上氏引退式「プロレスに感謝」2010年5月23日 日刊スポーツ】

井上は二度目の引退セレモニーのフィナーレを次のような言葉で締めくくった。

「私が生きたこの時代にプロレスという素晴らしいスポーツがあったことに感謝します。プロレス、ありがとう」

プロレスに恨みはない。
感謝しかない。
リストラをしたノアにも恨みはない。
プロレス界を去った井上は宮崎県に移住した。
それは本人曰く、「都落ち」だった。

「プレーン、シンプル、グッド・レスラー」

1990年代に磨き上げられたテクニックでアメリカンプロレスのスーパースターとなったブレット・ハートは自身のアイデンティティーにしたのがこれだった。

明らかで分かりやすいいいレスラーであり続けることでエンターテイメント路線のアメリカン・プロレスで異彩を放ち、カナダ人のブレットは頂点を獲得した。

思えば井上にはあらゆる異名の中でこんなニックネームもあった。

「ミスター・グッドマン」

グッドマンとは呼んで字のごとくいい人という意味だが、井上は確かに立ち位置で長い間ベビーフェースとして闘ってきたが、彼自身がなりたかったのはグッドマンではなく、グッドレスラーではなかったのではないだろうかと私は考えている。

彼が考えるグッドレスラーとは実にシンプルでどんな対戦相手でも試合を成立させ、相手の攻撃を受け、相手の良さを引き出した上で、自身の良さも出して、試合といういい作品を残し続ける匠だったのではないだろうか。

タッグ屋として、職人レスラーとして井上の関係者からの評価は高い。

「本当にいいレスラーだ」
「タッグを組んだから好きにやらせてくれて、組みやすかった」

もしかしたら井上にとっては、団体のエースよりも世界ヘビー級王座よりも、プロレス界最強の男といった称号よりも、これらの評価の方が尊かったのではないだろうか。

国際プロレスが生んだ職人レスラー・マイティ井上はグッドレスラーになれたのか…。
その答えは彼の足跡を振り返れば自ずと答えは見えてくるのだ。

今こそ、マイティ井上というプロレスラーに触れてほしい。
今こそ、彼を生んだ国際プロレスに触れてほしい。

2006年に発売された国際プロレスのDVD-BOXのサブタイトルにはこんな一文がある。

「プロレスファンは皆、最後は必ずここに戻ってくる。"魂のふるさと"国際プロレスに…」

それは世代や時代を越えて生き続ける"魂のふるさと"。
そして、"グッドレスラー"マイティ井上は我々を魅了する"魂のふるさと"の歴史上人物であり続ける…。


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俺達のプロレスラーDXを更新しました。

国際プロレスや全日本プロレスで活躍したマイティ井上選手を取り上げました。

グッドレスラーになりたくて…~国際プロレスが生んだ職人~/マイティ井上【俺達のプロレスラーDX】


是非ご覧ください!

次回から四回に渡り、シリーズ連載を開始します。

テーマは「キャッチレスラー」。

プロレスの源流とも言われているキャッチ・アズ・キャッチ・キャンを追い求める猛者やキャッチと呼ばれたヨーロッパのプロレススタイルの強豪の総称としてこの連載では「キャッチレスラー」と定義させていただきます。

第一回はかつて新日本プロレスに参戦し、MMAの世界でキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの使い手を自認している異端児ジョシュ・バーネット選手を取り上げます。

かなりの異色回になると思いますのでよろしくお願いいたします。

お楽しみに!!
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俺達のプロレスラーDX
第141回 悪のプロデュース学~シーク様の徹底的ヒール主義~/ザ・シーク



「俺はレスリングというものを知り抜いている」

65歳を迎えたザ・シークはこう語った。
人呼んで"アラビアの怪人"。
アメリカ・デトロイトを席巻した凶悪ヒールレスラー。
183cm 110kg(一部では175cm 106kgとも言われている)の肉体と凶器と頭脳でプロレス界をのし上がっていったデトロイトの帝王。
日本のプロレス界ではアブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シンと共に"外国人三大最凶ヒール"として恐れられている存在だ。

“アラビアの怪人”ザ・シークに対し「雰囲気は一流、試合は二流」との印象を持つファンは多いだろう。実際、試合では凶器攻撃と場内徘徊ばかり。何らプロレス的テクニックを見せることなく短時間で反則やリングアウト決着となることがほとんどであった。
 だが、20代のシークがドリー・ファンク・シニアと闘うのを幼いころに見たというテリー・ファンクは「動きが素軽く、グラウンドのテクニックもあった」と評している。かつてのアメリカでは、ヒートアップしたファンが悪役レスラーに襲い掛かることも多かったというが、シークはそんな中にあっても堂々と場内徘徊をしていた。そうした姿からは「ファンごときにやられはしない」との自信の程もうかがえよう。米軍兵士として第2次世界大戦にも出征した経歴はダテではないのだ。
 ただ、日本のファンがシークの本来の力を知らないのも無理はない。初来日の時点で既に46歳と全盛を過ぎていたのだから…。
【俺達のプロレスTHEレジェンド 第28R 凶器&場外戦の悪役スタイルを確立〈ザ・シーク)/週刊実話】

今回はどこまでもプロに徹した最凶ヒールのレスラー人生を追う。

ザ・シークは1926年6月9日アメリカ・ミシガン州ランシングに生まれた。プロフィールではヨルダン・アンマン出身を自称していたが、実はレバノン系アメリカ人である。
11人兄弟の10番目として生まれたシークの本名はエドワード・ジョージ・ファーハット。
ちなみに11人兄弟の末っ子として生まれたのが"空飛ぶアラビアン・ナイト"サブゥーの母である。
サブゥーの母によるとシークはどんなことでも守ってくれる優しい兄だったという。

学生時代はアメリカン・フットボールで活躍したと言われているが、その一方でアメリカ陸軍に入り、第二次世界大戦には二度も出兵している。二度ともシークは体に銃弾を受けた。

そんなシークがプロレスラーになるきっかけとなったのはバート・ルービーというプロレスラーにスカウトされたからである。1947年、ブラックナイトというマスクマンとしてプロデビューしたシークはその後、素顔に戻りシーク・オブ・アラビアというリングネームで中西部や北東部、テキサスを転戦。

私はデビューして数年後、26歳のザ・シークの映像を見たことがあるが、この頃のシークはあの場外徘徊や凶器攻撃をするシークではなく、素早いロープワークや強烈なエルボーを駆使するスピードレスラーだった。

リングネームをザ・シークに改名すると彼は、当時全米で放映されていたプロレス番組「レスリング・フロム・マリゴールドガーデン」でレギュラーとして出演し試合を続けた。
1955年には"鉄人"ルー・テーズが保持するNWA世界ヘビー級王座に挑戦、その後ディック・ザ・ブルーザー、ドリー・ファンク・シニア、ウイルバー・スナイダー、エドワード・カーペンティア、ドン・レオ・ジョナサン、バーン・ガニアといった強豪と対戦している。

シークはただのヒールキャラクターではない、肝っ玉が違うのだ。

かつて"プロレスの神様"カール・ゴッチと対戦したシークはゴッチに寝技で極められそうになった際に突然、シューズ゙の中に手を突っ込んで、「俺は、この中にナイフを持ってるぜ。それ以上やったら刺すぞ」と脅したという。困惑したゴッチはその寝技を外してしまったらしい。
シークはモノが違うのだ。

20代でヒールサイドのトップレスラーにのし上がっていったシークの功績について甥のサブゥーはこう語っている。

「シークは従女(ジョイス夫人)を連れてリングに登場した。女子マネージャーのはしりと言えるだろう。夫人が妊娠中にはヘビを使い、ヘビが死んだ後にはアブドーラ・ファルークというマネージャーを従えた。ブーツの中に凶器を隠し、それを使って相手を流血させたり、火炎攻撃を使った。イスでもなんでも手当たりしだいに物で殴り、場外乱闘では会場の外まで出て暴れ、デスマッチも考案して行うなど、とにかくそれまで誰もしていなかったようなことをしてきた。当時は『そんなことをしても認められない』と非難されたが、自分のスタイルを貫き通した結果、史上最悪のヒールとして大人気になったんだ。ハードコアと呼ばれるレスリング・スタイルがブレイクするずっと以前に本当のハードコアを実践していたんだよ」


1964年、シークはデトロイト地区のプロモート権を買い取り、新会社"ビッグ・タイム・レスリング"を設立、オーナー社長となった。しかし、シークは英語を話せないアラブ系ヒールだったためシークの義父が表面上は"社長"と名乗っている。
自分の団体でシークは看板レスラーであり、トップヒールだった。
1965年にジョニー・バレンタインを破り、USヘビー級王座(デトロイト版)を獲得する。
このベルトはシークの代名詞となった。
この時、シークは40歳を迎えようとしていた。

シークのついてプロレスライター斎藤文彦氏はこう評している。

「典型的なヒールのシークがUSヘビー級王者で、シークのベルトを狙ってベビーフェースのチャレンジャーが次から次へとデトロイトにやってくる。タイトルマッチはレフェリー失神、シークの反則負けという結果に終わるが、タイトルマッチ・ルールのためシークが王座防衛に成功。リターンマッチの定番パターンはシークの反則攻撃に怒って暴走したベビーフェースが反則負けを喫するか、シークが場外乱闘から一瞬のカウントアウト勝ちをスコアするというものだった。レフェリー2名起用、レフェリー3名起用というサイドストーリーを使いながら定番カードを使いながら定番カードによる因縁ドラマを何か月もひっぱりつづけた。シークと試合をするということは、それがだれであっても大流血戦を意味していた。技らしい技はキャメルクラッチだけで、トレードマークの火炎殺法は年に数回のビッグショーのために温存された。シークは隔週土曜のデトロイト定期船、隔週日曜のカナダ・トロント定期船にコンスタントに1万人以上の観客を動員しつづけた。ブルーノ・サンマルチノもアントニオ・ロッカもディック・ザ・ブルーザーもジョニー・バレンタインも、アンドレ・ザ・ジャイアントも、ジャック・ブリスコも、シークの凶器攻撃も火炎殺法の餌食になった。そういうプロレスを15年以上も繰り返された。凶器攻撃と場外乱闘だけのプロレスがどうしてそれほどの観客動員力を持っていたかというとそれはシークがほとんど絶対といっていいほどフォール負けをしないレスラーだったからだ。観客はシークが完敗するシーンを待ち望んでいたが、どんなビッグネームのスーパースターがやってきてもデトロイトではシークから3カウントを奪うことを"規格外"のできごとになっていた」

そんなシークにとっての最大のライバルは"黒い魔神"ボボ・ブラジルだった。
この二人は1950年代から1990年代にかけて実に40年にも長い間にかけて抗争を続けたという。
カナダ・トロントでは、あのタイガー・ジェット・シンがライバルだった。カナダではシンはベビーフェースだった。

またWWE(当時WWWF)のエースだったブルーノ・サンマルチノともMSGで抗争し、一度もフォール負けをしたことはなかった。

世界で92人の一般人をショック死させた大ヒールであるフレッド・ブラッシーと対戦しても、シークはヒールとなり、あのブラッシーがベビーフェースになるほどだった。

シークはどこにいってもヒールだった。
ヒールになるために生まれたプロレスラーだった。

全米で売れっ子になったシークだが、日本への来日はなかなか実現しなかった。
1972年9月ようやく日本プロレスに初来日を果たしたシークは坂口征二とUNヘビー級王座を争った。一度は坂口を破り、UN王者にもなった。

1974年11月には一度だけ新日本プロレスに参戦している。
この時の事を元新日本プロレス営業本部長・新間寿氏はこう振り返る。

「こいつが一番嫌いなんだよ。新日本に一度だけ来たが、シリーズ参戦の契約をして、沖縄でアントニオ猪木と試合をしている。だが、途中でアメリカに帰ってしまった。なんで帰ったかと訊くと『自分のテリトリーが乗っ取られそうになっているから』と。しかもそれでギャラを払えときた。自分で逃げたやつのギャラを何で払わないといけないんだ。それでシーク欠場の挨拶を私は各会場でリング上で謝罪をするはめになった。"自分が闘うのはリングの中ではない"ということを初めて教えてくれたのはシークですよ。シークだけは本当に頭にきている。私にとっての本当のヒールはこいつですよ!」

過激な仕掛人と呼ばれ、数々の奇抜なマッチメイクとレスラー掌握に長けた新間氏でもシークを操縦できなかった。シークはプロモーターに媚びないプロレスラーだった。
この生き方は後にブルーザー・ブロディが継いでいった。

「こちらが嘘をつかないかわりに、相手にも嘘をついてほしくない。こちらも相手を利用しないかわりに、むこうにも利用させない。こちらは自分の仕事に絶対的な自信を持っていて、ビジネスとしていい結果を作り出すのだから、相手もこちらにベストなものをオファーしなければならない。だから俺にとって敵は対戦相手ではなく、常にプロモーター達だった」

実はシークは数多くのプロレスラーを指導したり、アドバイスをしていたと言われている。
ハーリー・レイス、ダスティ・ローデス、ブルーザー・ブロディ、ランディ・サベージ、グレッグ・バレンタインといった大物レスラーはシークの薫陶を受けている。
またアブドーラ・ザ・ブッチャーはシークのスカウトでプロレス入りし、タイガー・ジェット・シンは日本でヒール像を築く際にはシークのスタイルに大きな影響を受けた。

そんなシークはしばらく日本に来ることはなかったが、1977年の「世界オープンタッグ選手権」(後の世界最強タッグ決定リーグ戦)で久しぶりに来日、アブドーラ・ザ・ブッチャーと地上最凶悪コンビを結成し、ザ・ファンクスと共にシリーズの主役となった。
最終戦でのザ・ファンクスとの大流血戦は日本プロレス史上屈指の名勝負となった。

全日本でのブレイクにより50歳を過ぎたシークは来日する機会が増えた。
ブッチャーとは後に仲間割れし、血みどろの抗争を繰り広げ、実況アナが血祭りにあげられる事態にまで発展した。
そんなシークにとって日本は因縁があった。

米国ミシガン州デトロイト地区の大プロモーターだった〝アラビアの怪人〟ザ・シーク(本名=エドワード・ファーハット)。デトロイトは言わずと知れた自動車の街。米国の自動車産業の発展とともに栄えてきた。それが低価格、低燃費の日本車の米国進出でデトロイトの自動車産業は斜陽化、それに1970年代のオイルショックが重なりデトロイトは失業者で溢れ、それまでドル箱だった同地区のプロレス興行は見るも無残な状況。シークは興行活動を断念、他地区へ出稼ぎをせざる得なくなり、その第一のターゲットに選んだのが憎っき日本だった。日本への怨念の塊となったシーク。それがエネルギーとなって爆発、日本マットで悪の限りの破壊活動をし尽くしていく。日本人を人と思わず記者・カメラマンを震えあがらせた。そして驚かせたのが金銭感覚だった。「憎っき日本には一銭の金も落とさないぞ」シークが食事に出かけるのは米国資本のファミレスやドーナツ屋さん。それも最低限のオーダー。お代わり無料のコーヒーを何杯も飲み続ける。ある時、その町には米国資本のファミレスがなく、シークは仕方なく低価の焼き鳥やさんに飛び込んだ。焼き鳥を3本頼みビールをチビチビ。そしてサービスン品のキャベツをバリバリ。その後はキャベツだけを食べ続けていた。当時のシークのギャラは外国人選手の中にあっては超一流の証である1万ドル(当時のレートで約250〜260万円)。外国人の場合、週給で1試合であろうが、2試合であろうが、逆に8試合でも9試合でも1週間のギャラは保証される。当時は1週間で5〜6試合が普通。単純計算だが、シークの場合1試合約50万円のファイトマネーとなる。それが1日使う金は1000円にも満たない。見事というしかない。田舎町では試合後に食事をするところも限られ、よくシークや他の外国人選手とバッティングすることがある。他のレスラーが豪快にプロレスラーらしく飲み食いをする。当然、記者の存在に気がつくと豪快な差し入れがある。しかし、シークは薄気味悪い笑顔をニーっと送ってくるだけ。なんとも気持ちが悪かった。
【日本にカネは落とさない!徹底していたザ・シーク 東京スポーツ 2010年02月22日】

実際にシークが日本を憎かったのかどうかは分からない。
ただ、ヒールとして憎まれるためには社会情勢も何でも利用し、リアリティーあるストーリーラインを作り上げるのがシークのやり方だった。ここでは「憎い」、「殺す」、「嫌い」と相手や観客に印象付けることが彼にとっては大切なのだ。ギミックがギミックではなくリアルだと思い込ませたらシークにとっては勝利であり、彼の術中にはまることを意味するのだ。

シークに転機が訪れたのが自身が社長を務めていた団体ビッグタイム・レスリングは1980年に経営悪化によって活動停止に追い込まれた。フリーとなったシークはヒールの大物として全米各地を転戦していった。そして、日本から来日する機会も再び失ったシークは彷徨う。

「マレーシア、シンガポール、香港、ギリシャ、イギリスなどをツアーしてきた。もちろんアメリカでも気が向けば試合をやっていた。俺は金のためにリングに上がっているわけじゃないぞ。レスリングは、あくまでも趣味だ。アメリカのプロモーターは俺を使いたがらんのだ。安いギャラではファイトをしないからだ」

シークがフリーとしてリングに上がっている頃、甥のサブゥーが1985年にプロレス入りしている。サブゥーを指導したのが伯父のシークだった。
当初はサブゥーのプロレス入りを反対していたシークだったが、自分の身の回りの世話係が必要と感じるようになるとサブゥーのプロレス入りを認めた。
シークはこうしろ、ああしろと指示するだけであまり指導してくれなかった。芝生の上でひたすらサブゥーは身を取り続けた。

1991年、シークが久しぶりに日本にやってきた。
すでに65歳を迎えた老人となっていたシークは甥のサブゥーを伴い大仁田厚の団体FMWに来日した。主にサブゥーとのコンビで参戦していたシークのファイトについてプロレスライターの鈴木健氏はこう振り返っている。

「シーク&サブゥーのプロレスはテンプレのごとく決まっており、入場するや相手に襲いかかり場外戦へと持ち込みます。この時点でシークは五寸釘を出して額をメッタ刺しに。グロッギー状態となった相手をリング内へ投げ込むと、もう一方で暴れ回っていたサブゥーも入り、ここでようやく開始のゴングが鳴らされます。あとは流血している相手をサブゥーが料理するのみ。試合タイムが短いのはそのためでした。ただし負ける時も同じで、先に襲撃するもサブゥーが捕まり、シークが場外で好き放題暴れる間にしとめられてしまうわけです」

シークがプロモーターとして特別扱いしていたのが大仁田だった。

「大仁田が俺の力を信じたからやってきた。FMWが俺の力を信じたからやってきた。ザ・シークは信じる者を騙すことはない。FMWのボスは大仁田であり、ボスが『帰れ』といえば、俺は明日にでもスーツケースをまとめて帰るだろう。俺と大仁田は、ただ単にビジネスの関係を結んだわけじゃない」

1992年5月に行われたサブゥーと組んで大仁田厚&ターザン後藤とファイヤーデスマッチでシークはそのプロ根性を見せつけた。

リング周囲のロープが燃え上がり、マット上が計算外の酸欠状態に陥ったとき、まずシークはレフェリーに対し「俺がお前を場外へ投げるからそのまま逃げろ」と伝えると、自身は最後までリングに残った。そうして主役の大仁田が場外にぶっ倒れているその脇で、シークは観客を追い回し、最後まで会場内を沸かせてみせたのだった。
【俺達のプロレスTHEレジェンド 第28R 凶器&場外戦の悪役スタイルを確立〈ザ・シーク〉/週刊実話】

「ザ・シークのファイトはライブでしか観ることができない。しかし、一度でもザ・シークの試合を体験したら、必ずまたアリーナに運びたくなる。そもそも、レスリング・ビジネスとはそういう性格のものなのだ。その場にいた者だけが、ザ・シークを理解することができる」

プロレスで大切なことは記憶だと考えているシークには忘れられないエピソードがある。
ある時、フィラデルフィアで試合をした時、リングサイドにいた中年のファンがシークにこう叫んだという。

「シーク、いまにブルーノ・サンマルチノがお前をこてんぱんにしてくれるぞ!」

60歳を越えていたシークは減益だったが、サンマルチノはリングを下りていた。
シークとサンマルチノの抗争は20年以上前の話だ。シークの徹底したヒールのアティチュードによって、ファンの脳裏には今でも残虐非道なシークの姿とサンマルチノとの抗争が現在進行形として動いていたのだ。
これこそ、シークがシーク様たるゆえんだ。

シークはどこか独善的で誰がに支配されることを嫌い、自らが描くヒール像をとことんセルフ・プロデュースしていき、場外乱闘や凶器三昧の凶悪レスラーというスタイルを確立していった。
凶悪レスラー達の道はこのシークの道程に繋がっているのだ。

1998年12月、シークは大仁田厚の自主興行で引退セレモニーを行った。
72歳を迎え、心臓マヒで倒れていたシークは試合をできる状態ではなかったという。
この引退セレモニーがシーク最後の来日となった。

スーパースターとなり、インディーの帝王にまで成り上がった甥のサブゥーは晩年のシークについてこう語っている。

「日本での引退セレモニーの時は、だいぶ足が悪くてよく歩けなかったけれど、会場では驚くほどの勢いで観客を追い回していたよ。大仁田から記念のベルトを雑誌社から写真パネルを贈られたが、大きなナイフでみんなをリングから追いやっていったね。引退後はミシガンの自宅で家族と元気に幸せに暮らしていたよ。しかし、2000年の夏に夫人と一緒に外出しようとしたときに突然、足に激痛が走り、立てなくなって救急車で病院に運ばれ、長い入院生活を送った。原因は今でも不明なんだが、心臓や肝臓などの機能も落ちていき。、腎臓も悪くなって血液透析も受けていた。少しよくなって自宅療養していた時期もあったが、肺炎を起こしてたりして入退院を繰り返しだった」

そんな状態になってもシークはシークだった。
瀕死の状態になっても、ベッドの中ではこうつぶやいていた。

「死ぬ前にもう一度試合をしたい」

サブゥーは最後にシークに見舞いに行ったのが2003年1月16日の事だった。
翌日にニューヨークで試合をしてから、日本で試合をするサブゥーにこの年になってかr意識のない状態だったはずのシークはしっかり目を開き、手を差し伸べた。
サブゥーはこう語りかける。

「日本に行きます」

するとシークは「頑張って来い」と言うようにウインクをした。
それが二人の最期の会話だった。

”地上最凶悪レスラー”ザ・シークは2003年1月18日に心不全でこの世を去った。
享年76歳。

シークの訃報を知ったサブゥーだったが、試合をキャンセルせずに日本に向かい試合を優先した。喪章をつけて試合に挑み敗れたサブゥーは自身の代名詞ともいえるテーブルへの自殺ダイブを敢行した。それはサブゥーなりの供養の儀式だった。

サブゥーはシークから人生のすべてを教わった。

「レスリングにハートを注ぎ、ベストを尽くせ」
「近道をしては大物になれない」
「どんなにつらくても怠けるな」
「どんな時でも自分自身であることで成功を収めろ」

サブゥーが語ることによって、シークがこの世を去ってから明かされたシーク哲学の根本。
徹底的なヒール主義の中身には相手に痛めつける前にまずは自分を律するストイックさだったのかもしれない。

「スープレックスを20回やっても、それ自体にはロジックはないのだ。人々は意味のない物理的な動きからメッセージを受け取ることはできない。レスリングは技を見せることではなく、メッセージを伝えることだ。スープレックスやパイルドライバーは物質であり、精神ではない」

ザ・シークはこれまでの功績が認められて2007年にWWE殿堂入りをはたいた。
そのプレゼンターを務めたのが甥のサブゥーと弟子のロブ・ヴァン・ダムだった。

ヒール一筋半世紀を生きてきたシークはこんな言葉も残している。

「家族を大切にする。健康に暮らすこと。これがわかっていれば、人生はもっともっと素晴らしいものになる」

嫌わることを生業にしてきたザ・シークだからこそ、この発言は余計にリアリティーがあった。
凶悪レスラーほど、レスラーの人格が問われるポジションがない。

「ヒールは相手の痛みが分かる紳士でなければいけない」

プロレスは人生の縮図。
"憎悪をビジネスにした悪のプロデューサー"ザ・シークの徹底的ヒール主義は我々は何かを感じ、何かを学ぶ、生かしていく何らかの"道しるべ"になるようなメッセージがあったのかもしれない。

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俺達のプロレスラーDXを更新しました。

"アラビアの怪人"ザ・シーク選手を取り上げました。

悪のプロデュース学~シーク様の徹底的ヒール主義~/ザ・シーク【俺達のプロレスラーDX】

是非ご覧ください!

次回は国際プロレスや全日本プロレスで活躍したマイティ井上選手を取り上げます。

お楽しみに!!
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私は「俺達のプロレスラーDX」という連載をしていて、新旧洋邦のプロレスラーを取り上げているのですが、流星仮面二世さんの「名レスラー伝」を読んだときに、感じたのは…。


「これはレベルが違う!!」

リッキー・スティムボート選手を取り上げるための資料集めの際に見つけた流星仮面二世さんの「名レスラー伝」。

何が凄いって、取り上げるレスラーに対する愛情もそうですが、豊富な写真、どこかの引用した文章じゃないオリジナリティー溢れる文章。そして、話のもって行き方。

冒頭の文章も毎回、変わっていて意表をついていたりするんです。

流星仮面二世さんの「名レスラー伝」、私のおすすめ記事です!!
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GK金沢克彦コラム連載第108回!! 「リーダーになるべき男」 【THE BIG FIGHT】  


智将の両極サイコロジー~冷徹と熱血、残虐と気品、伝統と革新~/秋山準【俺達のプロレスラーDX】

※個人的に思うのはもう闘魂や王道や方舟といったあらゆる面で雁字がらめにしたり、自縄自縛にしてしまうアイデンティティーで語る時代ではないと思うんですね。

要は面白いか、面白くないか。

新日本プロレスは闘魂の呪縛を絶ちきって新しい世界を築いている。
全日本プロレスも秋山体制になり、王道部分を残しつつも、新しい世界を築こうと奮闘している。

残るは「方舟」や「三沢光晴」、「自由と信念」というアイデンティティーに呪縛されて、苦戦しているのがノア。
鈴木軍との抗争という劇薬でも変わりきれない。ぬるま湯体質、自浄能力の低さといったレベルはかなり高く、やはり復興は一筋縄ではない。

新しい世界を築くのが全てではない。
未来とは過去を踏まえ、今を生きてからこそ生まれる産物だ。

物の見方は十人十色で、多種多様だ。
それでいい。

だがそれを踏まえた上で言いたい!

もう「王道」や「方舟」といった固定観念で縛られる時代ではない!

今を生き抜いて、誰が明るい未来を築くのか!

そこが大切なのだ。

今の全日本プロレスって面白いと思うんですね。それは王道プロレスを継承しているからではなく、分かりやすいプロレスを提供しているからだと思うんですね。武藤全日本時代で言われたパッケージプロレスと言いましょうか。あらゆる概念や団体の選手が参戦し、自団体の選手と競い合うフィールドになって、クオリティーを高めているのもいいのかもしれません。

全日本プロレス社長の秋山準は固定観念の呪縛について、理解しているからこそ、王道というアイデンティティーと今風のプロレスをミックスさせた新しい世界を築こうとしているのではないだろうか。

智将・秋山に期待したい!!

ちなみに「王道」や「方舟」、「闘魂」といったアイデンティティーは嫌いではないし否定はしませんよ。なくなれとも思わないし、基本的に肯定なんですよ。ただこれらのアイデンティティーは大局的に見ると大きな括りでいうとプロレスのほんの一部にしかすぎないわけですよ。
それらのアイデンティティーが全てという考え方はかなり刹那的で狭い見方だなと思うんですね。
狭い見方をしたければそれでいいのですが…。
行き詰まりがあるような…。
そこの部分は問いたいんですよね。

僕は団体を愛するのではなく、プロレスというジャンルとプロレスラーという職種に夢と誇りと愛があるんです。
敢えて言うならプロレスとプロレスラーを愛するのが僕のアイデンティティーですね。自分でプロレス者だと自負しているんですが…。

プロレスは新日本だけではないし、WWEだけではない。そんなことはプロレスを好きな人なら分かっていると思うんですよね。
プロレスという底無し沼に足を踏み入れた住人達なら…。
分かっていないのなら、それはプロレスが好きではなく、"新日本プロレスが好き"、"WWEのプロレスが好き"という風に捉えたほうがいいでしょうね。


柔道の父・嘉納治五郎はこんな名言を残しています。

「伝統とは形を継承することを言わず、その魂を、その精神を継承することを言う」

伝統という真の意味は実は知られていなくて、伝統に重んじている団体ほど形だけを継承しているのではないだろうかと私は思うんですね。

そこは問題であり、課題ですね。

久しぶりに今のプロレスについて感じていることを書かせていただきました。

僕は今のプロレスについて意見するより、どうやら「俺達のプロレスラーDX」で新旧洋邦のプロレスラーを考察している方が性に合うようです。

何度も言いますが、物の見方は十人十色、多種多様。

だからこれは本当に個人的に今のプロレスについて思ったことについて、引っ掛かったことについて書きました。

書かずはいられなかったといいますか…。


底が丸見えの底無し沼…それがプロレスだから、正解はないんですね。

僕が書いたこの記事も正解ではないですから。あくまでも一意見ですから。


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あの内藤を僅差で振り切り柴田がBブロ1位、欠場から復帰の棚橋がAブロ1位/G1応援選手投票アンケート結果【カクトウログさん】

柴田勝頼は本当にG1優勝できないのか?【柴田勝頼未公認応援ブログ 今日のブログ後のテーマは笑顔です】

俺の居場所はここしかねえんだよ/柴田勝頼【俺達のプロレスラーDX】

※駒沢シバティストさんとアステカイザーさんによる「柴田勝頼G1優勝キャンペーン」実施中。カクトウログさんによるアンケートでも柴田は応援したい選手のブロック一位になった。

柴田勝頼待望論は根強い!!

今こそ喧嘩ストロングスタイルの時代へ…。
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俺達のプロレスラーDX
第140回 まるでピリリと辛い山椒の如く~伝わりにくい隠れ技巧派の真髄~/石川孝志(石川敬士・石川隆士)




1993年1月4日。
新日本プロレス正月恒例の大イベント・東京ドーム大会が行われたセミファイナルは異色の対決となった。一年前なら一年以降先ならまず考えられないマッチメイク。
田中秀和リングアナがマイクでアナウンスする。

「WAR・石川敬士(石川孝志)入場!」

すると会場中が大ブーイングに包まれる。
東京ドームの長い花道を黒のWARジャンパーを着用した180cm 110kgの石川が小走りで入場してくる。
石川が姿を現すとブーイングはさらに増した。
ここは石川にとってアウェー。
新日本プロレス VS WARの団体対抗戦なのだから…。
彼にブーイングを浴びせたのは新日本ファンである。
新日本ファンからするとWARとは大将・天龍源一郎は認めても、それ以外のレスラーは認めないというスタンスだったのだろう。

石川の入場が終わると、対する新日本代表の男が姿を現す。
プロレス界のスーパースターである藤波辰爾だ。
石川とは対象的に藤波の入場は大歓声に包まれた。

あの藤波と東京ドーム大会のセミファイナルで闘うことになった石川。
彼にとってはプロレス人生においての大一番。
まさか彼がこの位置で試合をすると予想したプロレスファンは少なかっただろう。
それもそのはず、石川のこれまでのレスラー人生はメインイベンターではなく、中堅の位置で小気味よく活躍していたいぶし銀である。
藤波との対戦に至るまで、藤波戦以降に彼がどんなレスラー人生を送ったのか。
今回は角界からプロレス転向を果たし紆余曲折のレスラー人生を歩んだ男の軌跡を追う。

石川孝志は1953年2月5日山形県東田川郡藤島町(現・鶴岡市)に生まれた。
元々は中学生まで野球に打ち込んでいた石川は酒田南高校に進学すると相撲部に入部する。
相撲で才能を開花させると2年生の時にインターハイ個人4位、3年生になると国体優勝を果たす。相撲部屋からスカウトを断り、日本大学に進学し、相撲部に入部する。
日本大学相撲部は元大相撲横綱・輪島大士を輩出した名門である。

名門相撲部の主将になった石川は全日本相撲選手権優勝をしアマチュア横綱になる。学生選手権にも優勝し、アマチュア相撲最強の男となった石川に4年生の時にある病気を患う。
糖尿病である。

「糖尿病になったのは日大の4年の10月の選手権が終わってからかな。128kgあったけど、体重が落ちちゃって。練習をするたびに、まわしを切らなきゃいけなくなってね。病院にいったら糖尿病だということでね。治療のため」翌月から、日大と関係のあった病院の院長先生の自宅で2か月暮らしたのよ。食事もカロリー計算して、それこそ茶碗一杯のご飯に野菜を多めに摂ってね。そうしたら体重も増えてきたんだよ。一番落ちた時は104kgだったんだけど、110kgぐらいになって、やっと相撲を取ることができる状態になってね」

実は石川は大学卒業後の進路も決まっていた。
病院の職員になる予定だった。
だが糖尿病の治療に取り組むようになるとある想いを抱くようになる。

「こうなったら大相撲に行ってみるか」

人生は一度しかない。
ならば悔いは残したくない。

1975年、石川は角界入りを果たし、同じ大学の先輩・輪島が在籍している花籠部屋に入門する。糖尿病の石川のために部屋では彼専用の特別メニューを用紙してくれた。

1975年3月場所に幕下付出(60枚目格)で初土俵。アマチュア横綱経験者が初めて角界入りしたとして当初は注目を浴びた。巨漢ではないが取り口が巧みで、期待の技巧派力士として順調に幕内まで昇進するものの、糖尿病の再発を理由に24歳、1977年7月場所をもって廃業。なお四股名の大ノ海は、師匠であった11代花籠親方(元前4・大ノ海久光)の四股名でもあり、それだけ将来を嘱望されていた。
(wikipedia/石川孝志)

「最初は幕下付け出し61枚目で、6勝1敗かな。東京に戻ってきて5月場所も6勝1敗、7月の名古屋場所で7戦全勝して、十両に上がってさ。その時に一緒に表彰されたのが天龍さん。天龍さんは十両で優勝したんだよね。それを考えると縁があったのかな」

最高位は西前頭4枚目だった石川だったが廃業を決めた理由についてこう語っている。

「大相撲は二年半いたのかな。辞めたのは糖尿病のこともあったし、あとは大ノ海の三代目を継いだでしょ。自分では"俺が花籠の後を継ぐの?"と解釈した部分もあってね。まあ、あんまりそういうのは言いたくないんだけど、辞めたのはいろいろな理由が重なっているんだよ」

1977年7月の名古屋場所を最後に角界を去った石川が選んだ第二の人生はプロレスだった。

「7月場所で辞めるんだけど、その直前の6月にある人を通じてジャイアント馬場さん(全日本プロレス社長)にあって、"じゃあ、名古屋場所だけは取ってから"ということになって。やっぱり100kg以上もあって、まだ24歳だったから若さもあったし、体を活かした職業は何だろうと思ってね。そりゃあプロレスでは」小さいかもしれないけど、相撲をやってたという強さが自信になったよ。"プロレスだって大きい、小さいは関係ないだろ。やれるよ!"っていうね。あの時、輪島さんには相談した。和島さんが花籠を継がないで、部屋を持つ話があって、俺は一番弟子として行くという輪島さんとの契約があったの。でも輪島さんはプロレスに行きたいって言ったら、"しょうがないよな"って。プロレスはテレビでは見てたよ。観るのは全日本の方が多かったね。新日本も観てたんだけど、やっぱり自分がやるとなると何だか合わないのよ、柔道のアントン・へーシンク(東京五輪柔道金メダリスト)も全日本でデビューしたし、俺が入る前の年には天龍さんが入ったでしょ。馬場さんって"俺が!"っていう性格じゃないように見えたし、他の分野から新しく入った人に凄く理解があるんじゃないかなと思って」

石川は廃業直後にプロレス入りしたため、角界との軋轢や引き抜きという批判をさけるため、全日本プロレスには入団せずに、フリーという立場で馬場からアメリカ武者修行先を紹介してもらうことになった。
日本で1か月ほど全日本道場でトレーニングを積んだ石川が海外でプロレスデビューすることになった。
修行先はテキサス州アマリロ。
石川は1977年11月17日ボブ・オートン・ジュニア戦でデビューした。

「デビューの前の日に、ドリー・ファンク・ジュニアとテリー・ファンクがアリーナに連れて行ってくれて教えてくれたんだけど、英語だから100%は頭に入らない(苦笑)。教わったといってもヘッドロックとか腕の取り方とか、そんなもんだし。だから、デビュー戦はキツかったな。試合の組み立ても知らないし、ヘッドロックで5分間ぐらいジッとしてたんじゃないかな(苦笑)。日本人だからチョップをやろうと思っても、どんなチョップ使っていいかもわからないし。よくそれで試合やったよな。商売になればと髷をつけて渡米したよ。化粧回しを着けて、リングに上がってたから。それで四股を踏んだりさ。股割りして胸もリングにピタッと着けたら、向こうのお客さんはビックリしてたよ。その体勢から足を寄せて立つと、客席が"ワーッ!!"と沸くんだ。みんな"ハラキリ!"とか"サムライ!"って、声かけてくるんだよ。立場もベビーフェースだったし。ドリーとテリーが教えてくれたのは本当に基本だけ。"相手がこう仕掛けてきた時には、踏ん張らないで自分でポーンと行った方がリスクは少ない"とか、そういうことは自然と身についていったね」

アメリカには一年間滞在し、アマリロやサンフランシスコに転戦した石川は相撲とのギャップに悩むことはなく、プロレスラーとして成長を遂げていく。角界転向組が苦戦する受け身にも順応に対応できた。恐らく、彼にはプロレスの世界に順応できるほどの柔らかい頭脳と肉体があった。
これは才能と言ってもいい。

1978年10月に凱旋帰国を果たした石川は11月にスタートした国際プロレスの「日本リーグ争覇戦」に出場する。
新人でありながら2勝1敗4引き分けという成績を収め、同年のプロレス大賞努力賞を受賞した。

「最初、国際に戻ってきてよかったのは、新弟子じゃなくて外国人扱いで移動できるし、ホテルも外国人と一緒だったから上下関係もないしさ。体型はお相撲さんじゃなくて、ちゃんとプロレスラーに仕上げていたからね。アメリカに行く前には118kgあったんだけど、帰国した時には110kg。糖尿病は、向こうにちゃんと薬を持って行ったから問題なかったよ。米食じゃなかったのがよかったかもしれない。そう考えると、やっぱりプロレスラーの生活が合っていたのかもな。相撲って稽古がきついんだけど、取り組みが楽なんだよ。取り組みは相手が手を着いたら終わりだから。逆にプロレスの場合は試合がきついの、練習よりも。緊張もあるし、スタミナの配分もあるし、駆け引きもある。だから1時間練習するよりも、試合で10分動く方がきついんだよね。よく馬場さんが言ってたのは、"プロレスはワルツだよ"。"アン、ドゥ、トロワと、リズムが大切なんだ"って。それを聞いて、"ああ、そうだよな"と思ったよ。相撲は無酸素運動なの。息を止めている状態で一気に闘う。その癖が抜けないと、プロレスがきついよね。息を抜くところは抜いて、緩急をつけないと長時間は闘えないから」

石川は1979年に全日本に入団する。
そして、馬場は石川に大きな期待を抱き、同年9月に再び海外宴席に旅立たせた。当時はどこかプロレスに苦戦していた天龍源一郎よりも、馴染めている石川の方が期待されていたかもしれない。
行き先はプエルトリコだった。

「プエルトリコはゴリちゃん(ハル薗田)と行ったんだよ。二人でノースアメリカン・タッグを獲ってね。あそこはアメリカのレスラーも多いんだけど、スタイルはちょっとメキシカンぱいから。でも、ルチャと違って、基本は腕も足も左を取るアメリカ式だから、自分としてはやりにくいことはなかったね。あそこは客が凄くてさ。試合中にピストルの音がしたりね。リングサイドまでお客さんがきて、しかもナイフを持ったりするから怖かったよ。俺はミツ・イシカワって名前で、ヒールだったしね。プエルトリコにアマリロ時代からの知り合いのムース・モロウスキーがいて、彼は毎年、西ドイツのハーノーバー・トーナメントに参加してたのよ。それで"お前も行くか?"って話になって。向こうは寝てる相手を攻めちゃダメなんだよね。スラムで投げても、倒れた相手を攻めちゃいけないから、そのまま一緒に丸め込んでいってグラウンドに入るの。よく使ったのはパワースラムから、そのままグラウンドに入る流れだね。毎日、同じ会場で試合して。試合前に入場式があるから、化粧まわしを持っていって、相撲レスラーをやったんだよね」

1980年5月に凱旋すると石川は基本に忠実で意外と器用な一面がある相撲レスラーとして台頭していく。
ファンク一門出身らしくヘッドロックやアームロックなどのベーシックを大切にしながら、トップロープからのギロチンドロップやエルボードロップ、プランチヤなどの空中殺法や豪快なスラム技を持ち味にしていたのが石川のスタイルだった。後にサソリ固め(スモーピオン・デスロック)、相撲の仕切りからのショルダータックル(相撲タックル)やラリアット(相撲ラリアット)といった石川オリジナルムーブも出来上がり、石川は隠れ技巧派として活躍していく。
1981年6月に佐藤昭雄と組んで、アジアタッグ王座を獲得する。

石川は佐藤以外にもマイティ井上、阿修羅・原とのコンビでもアジアタッグ王座に戴冠している。
1980年代のアジアタッグ戦線を牽引していたのは石川だった。
目指したプロレスラーはどんな相手でもそれなりの試合を成立させるリック・フレアーやハーリー・レイスのようなNWA世界王者のようなタイプだった。

1985年から勃発したジャパンプロレスとの対抗戦では石川はその最前線に立っていた。
サソリ固めの元祖・長州力とのシングルマッチやジャパン勢とのアジアタッグ戦で石川は注目されるようになった。

「俺は面白かったよ。ワクワクさせられたね。試合が巧い云々ではなくて、彼らは彼らで、あのセオリー無視の攻めのスタイルが売りだったわけだから。彼らはホントにガチガチ来たよね。俺からすると、"やるだけやったら? そのうちに疲れるだろうけど"って(苦笑)。ガンガン来る奴に対して、同じようにやり返してもしょうがないしね。全日本の場合はアームロックを取ったら、腕を攻め続けるけど、新日本の選手はヘッドロックで攻めてたと思ったら、足を取ったりという感じで一か所を攻めないの。全部を攻めてくるんだもん」

全日本で中堅として地位を確立した石川にある話が耳に入る。

「輪島さんがプロレス転向したいと考えているらしい」

相撲引退後、親方となった輪島だったが金銭問題が表面化し、各界から廃業していた。
輪島は石川に相談する。

「俺、プロレスはどうかな?」

石川はこう答えた。

「いいじゃないですか! 大丈夫ですよ!」

石川の行動は早かった。
すぐに馬場に相談した。
こうして1986年4月に輪島は全日本に入団することになった。

石川は二か月間、プロレスのトレーニングを積む輪島にハワイで付きっ切りで指導した。
まず当時90kgだった輪島には肉体改造が急務だった。

「晩飯が8時ぐらいで、夜食が12時ぐらい。輪島さんはよく夜食はカツ丼を注文していた。重箱なんかより全然大きいやつに飯をビッチリで、しかも豚カツがガーッと乗っているやつ」

輪島は努力の甲斐があって最終的には120kgにまで体重を増加させた。
輪島はこう振り返る。

「今思うと、石川がいなかったらプロレスはできなかった」

輪島がデビューすると石川はタッグパートナーとしてコンビを組む機会が多かった。
あの天龍源一郎と阿修羅・原が全日本を活性化させるために龍原砲を結成した時のテレビマッチ初戦の相手は輪島と石川だった。
天龍は鶴田と双璧するトップレスラーにまで成長し、いつの間にか石川を追い越していた。

だが輪島の扱いに弟子として石川は疑問を抱くようになりイライラするようになる。
輪島は天龍との抗争で横綱の打たれ強さを満天下に証明したが、1988年に入ると輪島は冷遇されていった。
天龍同盟との闘いで石川は株を上げていった中で、プロレスに対するモチベーションが低下していく。

石川は輪島にこう話す。

「自分、プロレス辞めます」

すると輪島から思いもよらない返事が返ってくる。

「俺も辞めるよ」

やはり39歳からのプロレス転向には無理があった。
輪島は体力の限界を感じ、石川とは異なる理由で引退を決意していたのだ。

二人は1988年「世界最強タッグ決定リーグ戦」の最終戦の控室で馬場に引退を告げ、二人はプロレス界を去った。
二人の引退はセレモニーはなく、団体からの発表とテレビでの告知のみだった。

一度は引退した石川だったが、ある男からのオファーを受け復帰することになる。

「まさか天龍さんが全日本を辞めるとは思いもしなかったよ。天龍さんから電話をもらった時は運送会社にいたんだ。でも自分自身、体を持て余してプロレスをやりたくてしょうがなかったんだと思う」

1990年、新団体SWSの旗揚げに石川は参加した。
天龍率いるチーム「レボリューション」の一員としてプロレスに復帰した石川にブランクはあまり感じさせなかった。

1992年、SWS崩壊。
石川は天龍と共に行動を共にし、新団体WARに参加。
怪我や体調不良で欠場をしていた阿修羅・原に変わり、石川は天龍に次ぐナンバー2として団体を支えた。
新日本プロレスとの対抗戦でも石川は相手の攻撃を真正面から受け止め、相撲殺法で持ち味を発揮する石川スタイルを貫いた。

全日本時代の後輩の越中詩郎は石川が相手になると特に感情をむき出しになって闘っていた。それだけ石川という男の存在価値を評価していたのかもしれない。

そして、冒頭に触れた1993年1月4日の東京ドーム大会で藤波辰爾とセミファイナルでシングルマッチで対戦した。
ゴング直後、藤波が奇襲攻撃を仕掛け、ドラゴンロケットを発射し、会場は大興奮させるも、石川の相撲タックルからペースを握る。
藤波のお株を奪うドラゴンスリーパーや長州の得意技のサソリ固めを仕掛けたり、天龍のようなステップキックで大ブーイングを浴びた。
それでも石川は石川だった。
そして憎々しいまでの小気味のいいプロレスを見せつけた。
どこまでもマイペースで藤波を攻め続けた。
そして、よく見ると石川の良さを引き出そうとしている藤波の懐の深さも感じさせた。
試合はドラゴンスリーパーで石川は敗れたが、二人の試合はスイングしていた。

「藤波とは東京ドーム大会でやったけど、あの人はガンガン来るようでいて実はフワッと柔らかいというか、受けのタイプだったね」

新日本との対抗戦で実力で日本全国に見せつけた石川はタッグマッチで藤波を破るなどWARを守るために活躍する。
この頃に得意技にしていたのがノド輪落とし。
彼のノド輪はこの技の元祖である田上明とは持ち方が違う。
田上は右腕でノドを、左腕で相手の首をtt摑み持ち上げて叩きつける。
石川の場合は右腕でノドを左腕で相手のタイツを摑んでから持ち上げて叩きつけるのだ。
ちなみに石川のノド輪落としで散々沈められてきて、自ら石川式のノド輪落としを得意技にするようになったのが新日本の小原道由だった。

1994年9月、石川はWARを離脱し、新団体「東京プロレス」を旗揚げする。

「一回プロレスを辞めて戻ったのに、また辞めて仕事を探すとなると周りの人に迷惑をかけるでしょ。"それだったら自分で…"という気持ちで旗揚げしたのが正直なところ。幸いスポンサーに恵まれて、協力してくれる人もいたからね」

インディーの大物選手達が参戦したり、大仁田厚引退試合の相手に名乗りを上げたり、総額二億円ベルト(TWAタッグ王座)を設立したりと話題を提供してきたが、インディー統一機構(FFF)の設立に頓挫し、石川は新東京プロレスを設立し、新日本やWAR、大日本に参戦していった。

東京プロレス時代になると石川の得意技であるサソリ固めはスモーピオン・デスロックと呼ばれ、極めた後に左手で人差し指を突き上げる「フィーバー」ポーズをするのが定番となった。このムーブが後にミスター雁之助や松永智充が完コピするほどの影響を与えた。

1998年1月19日石川は二度目の引退を果たす。

「その当時は女房も一緒に巡業に出てたんだよ。うちには中学生と小学生の子供がいたけど、"夫婦が同じ世界にたんじゃダメだよな"と思ってね。逆にズルズルやらなくてよかったと思うし。いろいろあったけど、"やりつくした!"という他にないね。もうカムバックもないし、それはそれでよしとかなと。悔いはないよ」

二度目の引退後、石川ははビルの警備及び清掃を業務とする会社を設立、運営しているという。

石川孝志のレスラー人生はまさしく紆余曲折。
そして、石川孝志のプロレスとはまるでピリリと辛い"山椒"のようなものではなかったのかと私は考えている。

石川は得意にしていたムーブの一つにサソリ固めの体勢に入り、ステップオーバーするかに見せかけて、アキレス腱固めを極めるという技があった。
このムーブは食あたりを起こさない程度の配合でスパイスをきかした石川の味付け技術の醍醐味である。
観客の期待をいい意味で裏切ることで「おっ!」と思わせるのだ。
もしかしたらその持ち味はマニアックで大衆には伝わりにくいかもしれない。
だが、その味にハマると病みつきになるが石川のプロレスだったのかもしれない。

インディー界伝説のテクニシャンで知られるプロレスラーMEN'Sテイオーがかつてインタビューでこんな例えをしたことがある。

「相撲の舞の海と若乃花だと、恐らく舞の海の方が技巧派に見えるかもしれないが、本当に技巧派なのは、若乃花なんだ。しかし、若乃花が技巧派というのはなかなか伝わりにくい」

私はこの例えが石川にも当てはまるような気がするのだ。
分かる人には分かる。
分かればその味の虜になる。

石川孝志は実に奥が深いプロレスラーである。
もしかしたらその魅力はまだまだ掘れば掘るほど、考察すればするほどどんどん発見されるのかもしれない。
マニア心をくすぐる山椒のようなスパイスが効いたプロレスラー…それが石川孝志という男の真髄なのだ。

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俺達のプロレスラーDXを更新しました。
全日本やSWS、WARで活躍した石川孝志選手を取り上げました。

まるでピリリと辛い山椒の如く~伝わりにくい隠れ技巧派の真髄~/石川孝志【俺達のプロレスラーDX】

是非ご覧ください!

次回は"アラビアの怪人"ザ・シーク選手を取り上げます。
お楽しみに!!
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