ジャスト日本のプロレス考察日誌

プロレスをもっと広めたいという思いブログをやってます。新旧洋邦のレスラーを取り上げた「俺達のプロレスラーDX」を連載中!
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猪木を超えられなかった藤波辰爾――プロレス職人と野心の時代■小佐野景浩のプロレス歴史発見

※藤波辰爾はプロレス界の人間国宝なんですよね。プロレスラーとして必要なものは最終的には技術もそうですが、やっぱりハートなんですよ。

橋本真也に散々、蹴り倒されKO寸前に追い込まれるも逆転勝ちしたときの試合後コメントが凄いんです。

「甘い! 俺はこうして生きてるんだから。
橋本は詰めが甘い!どうぞ、殺せるものなら殺してください」

この言葉を半殺し状態になりながら出せる藤波辰爾にプロレスラーの底力と真髄を見ました。
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ノアファンが否定し続ける潮崎豪。そんな男が握る、沈みゆく団体の命運【Number Web】

※個人的な印象では今年になってからノアVS鈴木軍はやや停滞しているのかなと感じていますね。それだけ去年のノアVS鈴木軍の生存闘争は刺激が強すぎたのかもしれませんね。

この記事を読んで、各々がどう判断するかですね。決して井上さんは批判だけをしているわけでない。

中にはノアへのネガティブ意見と捉えている方もいるそうですね。それはそれでいいでしょう。

ただ井上さんはノア嫌いではないと個人的には思いますよ。

ノアVS鈴木軍が尻つぼみするように終わってしまうのがもったいないと思っているのかもしれません。

ノアファンや鈴木軍ファンはこの生存闘争をどう捉えたかですね。鈴木軍ばっかりのせいにはできないし、ノアばっかりのせいにはできない。

プロレスに答えはないですから。
ただ答えがないからこそ客観的に見る視点は若干でも必要ですね。

鈴木軍のタイチがこう語ったといいます。

 「俺が上がり始めた頃の新日本も、今のノアみたいにやばいって言われてたんだよ。でも、そのときの新日本はレスラーも会社も、もう一度盛り上げるために必死だった。きっとノアのやつらも『団体を守る! 』っていう気持ちはあるんだろうけど、肝心のレスラーたちから結束している雰囲気が感じられない」

新日本系と全日本系は本当は水と油なんですよ。しかし、時代はそんなことを論議している猶予は与えてくれない。

王道とか、闘魂とか、ストロングスタイルとか、方舟とか、UWFとか、邪道とか、インディーだとか…。

どんなイデオロギーやアイデンティティーを受け入れた上で言いたい。

最終的には本物しか生き残らないんですよ、プロレス界は、世の中は。
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俺達のプロレスラーDX
第130回 生き様伝道師~雑草がいなきゃプロレスは面白くねぇんだよ!~/真壁刀義



「プロレスはルールのある喧嘩である」

日本プロレス界の父・力道山が残した名言である。
プロレスとは本当に他に比類なきジャンルである。
プロレスとは、格闘技でもあり、スポーツでもあり、エンターテイメントでもある。
だからその定義は多種多様である。

相撲を国技にしている日本という国でプロレスがいかにブレイクするのかという答えを力道山はこの言葉に見出した。
決して喧嘩をするわけではない、プロとして魅了する真っ向勝負を見せること。
それが日本プロレスの起源だった。
だが、それだけではいかないのが「底が丸見えの底なし沼」と言われるプロレス。
今、プロレスとは定義するなら、この言葉しかない。

「プロレスはプロレスである」

この言葉を元にして各々が「プロレスとは何か?」を探求すればいいのだ。
答えなきテーマを探し求めるのもプロレスの奥深さと面白さでもあるのだから…。

力道山の名言である「プロレスとはルールのある喧嘩である」を21世紀のプロレス界で実践しているプロレスラーが今回の主役だ。

「プロレスとは、酒場の喧嘩でもあり、アスリート同士の喧嘩でもあると俺は思っている。技術と体力があるやつがぶつかり合う、要はカウボーイの喧嘩だ。肉弾戦で先に倒れたほうが負けで、真正面から撃って撃たれて、全力で受け止める。時には騙しあいもある」

真壁にとってプロレスとは男と男のぶつかり合いである。
181cm 110kgの肉体でリングで相手の攻撃を受け止めた上でがっちりと"ぶちかます"男。
よく真壁のプロレスを昭和のプロレスと形容されることがあるが、彼はこれに反論する。

「俺のスタイルは非常に正面突破な感じでありし、ある意味泥臭い。よく"昭和のプロレス"を彷彿させるなんて感想を聞くこともある。確かにそういう一面もあるし、それを狙っているところもある。だが、決定的に昭和のレスラーと俺が違うのは、リングでの動きの良さだろう。バッカンバッカンぶちのめし合ったうえで、さらにリング上で激しく動きまくる。時間と共にプロレスは今流に進化している。そうした変化を取り入れながら、俺は昔のプロレスのいい部分を掘り起こしてやろうと思った。ヘビー級でこれだけ動き回るっていうのは昭和のプロレスにはなかった」

プロレスがメディアで取り上げられる機会が増えてきた昨今。
真壁は地上波テレビ局の情報番組のレギュラーを長年務め、多くのテレビ番組や媒体に登場する"プロレス界の歩く広告塔"だ。
そんな今だからこそ考察したい。
真壁刀義というプロレスラーを…。

真壁は1972年9月29日神奈川県相模原市に生まれた。
本名は真壁伸也。
少年時代からプロレス番組「ワールド・プロレスリング」を見て育った真壁は根っからのプロレスファンだった。
周りの子供たちとの会話はいつだってプロレス。
少年時代の真壁にとってプロレスとは"見せる喧嘩"。
リング上からレスラーが発するリアルな感情に真壁の心は摑まされたのだ。

「お前、金曜のプロレス見たか?あれ面白くねぇ?」
「すげぇ面白れぇ!」

真壁が12歳の時にロサンゼルス・オリンピック柔道で金メダルを獲得した山下泰裕が金メダルを獲得した映像を見て、「格闘技をしてみたい」と思うようになった。
中学に入ってから始めた柔道。
練習に打ち込み、プロレスを見る機会が離れるほど柔道に明け暮れた。
高校に入っても柔道を続けた。
柔道は二段を取得するも、なかなか結果を残すことはできなかった。
全国大会どころか地方大会でも上には行けなかった。

高校卒業後、一浪してから1992年4月に帝京大学に進学すると、真壁はプロレス研究会に入部する。いわば学生プロレスである。だが、プロレス研究会は決してチャラけたサークルではなく他の格闘技を経験した若者が集った体育会系だった。また大学時代にはUWFインターナショナルのリング屋アルバイトも経験した。

この頃から真壁には明確な目的意識を持つようになる。

「新日本プロレスに入門して、プロレスラーになる」

そのためにはまずは肉体作りだ。
筋トレを本格的に始め、独学でプロレスラーになるためにトレーニングに没頭する。
スクワットは毎日100回をこなすことで半年後には1000回をクリア。
何種類もあるプッシュアップも各1000回をこなした。
大学時代の後輩で、練習パートナーを務めていたDDTのHARASHIMAはこう証言する。

「真壁さんと自主練をよくやってましたねぇ。基本的に練習場に集まってみんなで練習するんですよ。受け身があって、技の練習をして、そのあとに試合形式の練習をやったりして。で、真壁さんは新日本の入門テストを受けるために練習場が開く前から踊り場とかで基礎体を延々とやってたんです。真壁さんがカッコいいのは、ボクも練習が好きだったんで早めに練習場に行ってたんですよ。そうしたらまだ練習場は空いてなくて、廊下から息遣いが聞こえてきて、見たら真壁さんがひとりで腹筋をやってて『……見られちまったな(苦笑)』って。それでも真壁さんは一度は新日本のテストを落ちてるんですよね。やっぱアマレスのエリートが入ってくるような団体ですから。真壁さんは高校時代は柔道をやってましたけど、学生プロレスという肩書きはなかなか難しかったんじゃないですかね。僕らからすれば『真壁さんは新日本プロレスに入って当然』というか。ほかの誰よりも練習してましたし、誰よりもプロレスができてましたし。身体も凄かったですからね。考え方もしっかりしてましたし。そんな真壁さんでも新日本に入ったあと『プロでは全然通用しない。受け身からして違う』とは言ってましたね。先輩のしごきも凄かったんでしょうけど。真壁さんがよく言っていたのは『プロは受け身の音からして違う』と。そこは体重の違いもあると思うんですけどね」

そんな日々の努力が結実し真壁は二度目の入門テストに合格。
帝京大学卒業後の1996年4月30日に新日本プロレスに入門した。
ちなみに360人が受験して合格したのは真壁を含む2名だった。
これは学生プロレスに対して激しいアレルギーが強かった当時の新日本プロレスにおいて、学生プロレス出身者の真壁が入門した事実は後に大きな意味をなしてくる。
前日の同年4月29日に真壁は観客として東京ドーム大会を観戦していた。

「明日から俺も向こう側の人間になるのか…」

感慨にふけっていた真壁に待ち受けていたのは地獄のようなシゴキだった。
日本一の練習量を誇る新日本プロレスで生き残るは過酷で容易なことではない。
一緒に合格した同期は一日で夜逃げし、練習生は真壁だけになった。

デビューするまで外出禁止。
世間と隔離された状況で1日中、練習と雑用に追われる。
心身とも追い込まれる中で、生き残れる者こそが、新日本プロレスの若獅子になれるのだ。

入門から半月後の1996年5月。
真壁に後輩ができた。
だが、この後輩はとんでもない怪物だった。

レスリング全日本選手権4連覇、アトランタ・オリンピックレスリング日本代表候補になった藤田和之。

藤田はエリートだった。
だから雑用はやはり真壁に集中してしまう。
先輩のパシリをやらされるのはいつも真壁だった。
藤田とは半年間は会話をしなかったというが、ひょんなきっかけで話す機会を得ると、二人は打ち解けていった。

「あいつ、いい奴じゃねぇか」

互いに敬意を表しているからこそ、真壁は藤田を「藤田君」と呼び、藤田は真壁を「真壁さん」と呼ぶ。
アントニオ猪木に目をかけられていた藤田はエリートとしての苦悩を抱えていた。
真壁はよく、藤田の愚痴を聞いたうえで、自身も藤田に愚痴っていた。
また藤田はそんな真壁に共鳴していたのか、よく飲みに誘っていた。

「真壁さん部屋で飲みましょうよ!」

これが新人時代の藤田の口癖だった。

真壁は学生プロレス出身者だ。
だからかもしれないが彼に対しては尋常じゃないシゴキが待っていた。
真壁いわく「辞めさせるための」練習を越えたいじめである。

当時のコーチは根性論の佐々木健介。
だからどんなに怪我をしても休むことは許されなかった。
真壁はスクワット、ジャンピングスクワットも誰よりも大きな声でこなしても、コーチにはぶん殴られる。
続いてはプッシュアップ。
ここでも真壁は声を出してこなす。
だが、コーチの鉄拳、罵声が飛ぶ。
このやり取りが毎日、何時間も続いた。
練習をこなしては殴られ、どんなに頑張っても上から押さえつけられる。

「俺はあいつを殺す」

理不尽な状況に真壁は健介に殺意を抱いていたと言われている。
それでも真壁は逃げなかった。
それでもしごきは続いた。
そして、ある日ついに真壁の心が折れた。

練習をこなしたにも関わらず、意味も分からず、コーチは「出ていけ!!」と道場から閉め出された。
ここまでくるとしごきを越えたいじめだ。
真壁の怒りは頂点に達していた。

シャワー室に向かった真壁にかつて鬼軍曹と恐れられた山本小鉄と遭遇した。
様子がおかしい真壁に山本は声をかけた。

「どうした、真壁?」
「何でもないです」
「何でもないわけないだろ!何があったから言ってみろ!」

真壁は山本に溜まりに溜まった想いをぶちまけた。

「僕は誰よりも声を出して、誰よりも正しいフォームで、ごまかさずに正しい回数で、誰よりも多い回数でトレーニングをやっているのに、ぶん殴られて、責められて、罵声を浴びせられて、道場から閉め出されて…。僕は何が正しいかわかんないです」

すると山本はこう言った。

「バカヤロー!誰よりも強くなれ! 誰よりも強くなれば、誰もお前に文句言わねぇよ!」

真壁の中で何かが弾けた。

「そうだ!誰よりも強くなって文句を言わせねぇ!」

一種の開き直りと覚悟が男をさらに変えた。
まずはスパーリングで相手を黙らせればいい。
練習を重ねていくにつれて、先輩達は真壁への攻撃を辞めていった。
先輩達は真壁からスパーリングで極められていたのだ。
そして、3年後には誰も真壁から一本もスパーリングを挑む先輩はいなくなった。
ただし、ケンドー・カシンこと石澤常光だけは真壁からの要求から逃げずにスパーリングをしたという。

「新日本で一番練習しているのは真壁です」

先輩達は真壁にこう評価した。
真壁は実力で皆を黙らせたのだ。

そんな真壁にとって、この人は違うと思った人物がいた。
天山広吉だ。
当時の天山は25歳ながらメインイベンターだったが、雑用係の真壁にも優しかった。
チャンコを食べている時に、立っていた真壁に「真壁、一緒に食べようよ」と声をかけてくれた。
これだけでもうれしかった。
ちなみに真壁の名前を呼んでくれたのは新日本では天山だけだったという。
また、当時新日本にフリーとして参戦していた天龍源一郎との初対面。
ほとんどのレスラーが挨拶しても無視する中で天龍は「オウ、頑張れよ」と声をかけてくれた。
プロレスラーも捨てたものじゃない、心が温かい人間はたくさんいるのだ。

1997年2月15日に真壁は約10か月の下積み期間を経て、大谷晋二郎戦でデビューを果たす。
学生プロレス出身初の新日本選手の誕生である。
真壁にとって大谷は同学年の教育係であり、恩人だ。
大谷は真壁に注意する時も、きちんと筋を通し、理論的に言ってくれた。
口達者でアウトローだった真壁にとって、大谷の教えには反発することはなかった。

そんな真壁は大谷から心の支えにした言葉をもらっている。

「雑草がいなければプロレスは面白くねぇんだよ!」

デビューから2年後のプロレス雑誌のインタビューで真壁が語った言葉。
これこそ、真壁のアイデンティティーともいえる”雑草魂”である。
雑草とは真壁の境遇と生き方を表現した魂の言葉だった。

新人時代は藤田と前座戦線で幾度も闘った。
どこまでも泥臭く、ゴツゴツとした攻防はヤングライオンらしい試合だった。
真壁は藤田との闘いをこう振り返っている。

「数え切れないくらいシングルやったけど、全部イカれてる」

そんな藤田との別れは突然だった。
プロレス界のトップに立つためには順番待ちをしなくていけない状況に業を煮やした藤田は2000年1月に新日本を離脱し、総合格闘技PRIDEに戦場を変えたのだ。
いわば序列を変える飛び級を狙う藤田和之の賭けだった。
藤田が道場に挨拶に訪れた。
真壁は藤田に「頑張れよ」とエールを送った。

エリートと雑草、怪物とアウトロー…境遇は違えど二人に確かな絆があった。
二人のやり取りを見てなぜかもらい泣きをしている男がいた。
その男は当時デビューしたばかりで現在、新日本のエースとして活躍中の棚橋弘至である。

真壁は藤田のPRIDE初陣を観戦している。
2000年1月30日の東京ドーム大会で"オランダの喧嘩屋"ハンス・ナイマンを袈裟固めで完勝した藤田を我がことのように喜んだのが真壁だった。

「藤田くんが最初にPRIDEでハンス・ナイマンとやったとき、寮生全員で東京ドームまで応援に行ったね。あのときはのちに総合に行く柴田勝頼もいたし、亡くなった福田(雅一)くんもいたし。みんなで『よし、いけーっつ!』って応援して、最後、袈裟固めでギブアップ取って『うわー!』ってみんなで喜んでさ。他人の勝利で、あんなに嬉しかったのは、あとにもさきにもあの時だけだね」

いつしか後輩も増えた真壁は寮長になっていた。
後輩達にとって厳しい先輩だったが、理不尽なことをする人ではなかったので慕われていたという。
先輩から新人レスラーに文句があった場合でも、真壁はまずは自分を通してもらうようにした。

「俺からあいつに言いますので…」

後輩がちょっとしたミスをした時で、先輩が怒っていた場合も仲裁するのは真壁だ。

「俺があいつに食らわせますから…」

こういって、真壁は後輩を庇い、食らわすことなく注意のみしたのである。

真壁は理不尽なことを嫌う親分肌の人間だ。
井上亘はある日、道場で理不尽なことがあって、雑用を放棄したことがあった。
生真面目な井上が放棄するには何か事情があると踏んだ真壁は、井上に話を聞くと「わかった。今日は雑用をしなくていいよ」と了解したという。
また棚橋弘至は新弟子時代に真壁から「お前、頑張っているから」とお金を渡されたことを今でも覚えている。棚橋は「いつか俺もこんな先輩になりたい」と思うようになったという。
実は新弟子時代の真壁も山本小鉄から「お前、頑張っているから、これで遊びに行ってこい」とお金をもらったことがあった。嬉しかった真壁はこのお金を一切、使わずに大切に保管しているという。
新日本プロレスの厳しさは今も変わらないが、理不尽ないじめに関しては真壁以降は行われていないと言われている。
これも寮長として新人達を厳しくも自ら身を挺して守って見せた真壁の功績かもしれない。

リング外で、道場で一目置かれるようになった真壁だが、リングではどこかもがいている印象が強かった。それでも練習は誰よりもこなした。
新人時代の真壁は美しいジャーマン・スープレックス・ホールドを得意としていた。
これは練習の賜物で身につけたブリッジワークだった。

2001年3月、真壁は長州力と組んで天山広吉&小島聡が保持するIWGPタッグ王座に挑戦する機会を得た。
実は現場監督・長州が真壁を大抜擢したのだ。

「プロレスラーの仕事は試合をすること、テレビに映ることももちろんあるが、大切なのは練習」

真壁は長州の付き人をしていた時期もあった。
長州はこのポリシーを実践する真壁を評価していたのだ。

2001年8月、真壁は無期限海外武者修行に出ることになった。
真壁はこれを「左遷」だと受け止めていた。

「最初に向かったのは、カナダのジョー大剛さんのところ。彼の道場で俺は朝8時から午後2時ぐらいまでぶっ通しでトレーニングをした。その後に徹底的に食べ続けた。野菜や肉、ご飯などの炭水化物からプロテインまで非常にバランスはいいのだが、全部食べなきゃいけない。ひたすら食べる。たっぷり食べた後に寝て。夜の筋力トレーニングをやって、シメにプロテインを飲む…そんな毎日をここでは過ごすことになった。大剛さんの組んだメニューはさすがの効果を俺の体にもたらしてくれた。この繰り返しのおかげで、身体は猛烈にデカくなったんだ」

カナダからイギリスに渡った真壁は同年10月に自身初のタイトルであるオールスタープロ認定インターコンチネンタル王者となった。
その後、プエルトリコに渡るもここで真壁だったが、プエルトリコの風土や団体側に馴染めずに、クビとなり、アメリカ・ロサンゼルスの新日本プロレスLA道場でトレーニングを積んで、2002年10月に帰国した。

真壁は新日本プロレスに不信感を持っていた。
いきなり海外に左遷させられ、帰国させる理由は「体が大きくなったから」だと。
ふざけるな、俺は会社の操り人形じゃねぇよ!
真壁は凱旋帰国第1戦を新日本ではなく、プエルトリコ時代にお世話になったKAIENTAI DOJOで行ったのもその反骨心からくるものだった。

凱旋後の真壁のカードはメイン戦線には絡まずに、休憩前の試合がメインだった。
新日本と契約保留にしていた時期もあり、リング上で制裁されたこともあったが、真壁は挫けなかった。フリーとして新日本を我が物顔を暴れる高山善廣と組んで、新日本やノアで暴れたこともあったが、長続きせず燻っている期間が続いた。
本名の真壁伸也から真壁刀義(とうぎ)に改名しても効果は出なかった。
新日本正規軍入りしても真壁はなかなか日の目を見なかった。

「俺は会社に必要とされていない」

そう感じていた真壁に悲劇が襲う。

2005年のG1CLIMAXでの中邑真輔戦でアキレス腱断裂という重傷を負ってしまった。

「アキレス腱を切ったのがG1の2日目で、しかも入院したのが両国国技館の横の病院で。もう最悪で。うわぇ…って思っていたら、G1の試合が終わった選手が見舞いに来て。あの時は本当に『終わったな』と。本当にへこんだ。最悪だった。俺は最悪の患者でしたよ。ムカついて看護士に給食を叩きつけたり、『てめぇ、この野郎!』とか怒鳴ったことが何回もあった。もうイライラが最高潮になって。左足のアキレス腱を切ったけど、ほかは全部動ける。しかも隣でG1をやってて、出入りする客はわかる。それを見てると『何やってんだよ!』って。それが一番の苦痛だった」

新日本プロレスは黄金期を終え、低迷期を迎えていた。
一度不渡りを出していたのもこの時期だった。
棚橋弘至、中邑真輔といった後輩レスラーがトップ戦線で活躍し、シングル王座を獲得する中でどこまでも真壁は足掻いていた。

そんな真壁がトップ戦線に入るきっかけとなった3つの出来事があった。
1つ目は2006年に復帰後に半年にわたって行われた地獄の抗争。
これは真壁が越中詩郎と組んで、矢野通&石井智宏と果てなき抗争を繰り広げるものだった。
会場がどんなに観客が少なくても彼らはイスで殴り合い、バチバチにやりあった。

「後楽園ホールでも、ありえない(観客の)数のときがあった。でもその時、こいつらに今日、最高の試合を見せてやろうと。それを続けてたら、決着なんかつかないのに、客がワーワー言い始めるようになった。コレなんだなと思った」

2つ目はインディー団体との抗争だ。
アパッチプロレス軍との抗争で、真壁はデスマッチに参入していく。
同年9月には金村キンタローを破り、WEWヘビー級王者となった。

「右も左もわからないなか。俺は自己流ではあったが徹底的にデスマッチを研究した。過去の試合のビデオはもちろん、生で試合を見るために会場にもたびたび足を運んだ。デスマッチは、極端なことを言えば、力と技なんてものはいらない。じゃあ何が必要かというと、ハート、魂だ。あのインディペンデントへの参戦がなかったら、マジで今の俺はないと思っている」

3つ目はちょっとした出来事だった。
ある時、真壁は海外遠征から帰国後も自分の荷物を控室ではなく、廊下に置いていた。
すると、蝶野正洋が通りかかった。

「荷物なんか控室にドンと置いてちまえばいいんだよ。そうしたら周りはズバッと場所を空けるんだから」

遠慮している真壁に蝶野はこう続ける。

「お前、遠慮していたら、ずっとこのままだぞ」

いいアドバイスだった。
そして、これはリング上にも応用できることだった。
遠慮せずにリング上で吐き出せばいいのだ。
そのために真壁はヒール(悪役)の道を選んだ。

2006年10月に地獄の抗争を繰り広げた4人に天山広吉を加えたメンバーで「G.B.H」を結成、またブルーザー・ブロディを彷彿とさせるチェーンをトレードマークにするようになる。
テーマ曲もブロディのテーマ曲である「移民の歌」に変更した。
暴走キングコングの誕生である。
エリートレスラーの中邑真輔に噛みつくことで、新日本での真壁の地位はブーイングと共に上がっていった。
一歩一歩、歩みを止めないでいた真壁にようやくスポットライトを浴びる機会がやってきた。

2007年7月6日の後楽園ホール大会で真壁は永田裕志が保持するIWGPヘビー級王座に初挑戦した。最強の挑戦者として…。
真壁は花道ではなく、南側の客席から現れた。
すると会場から大歓声が起こった。
試合は壮絶を極めた。
真壁のハサミ攻撃で永田は流血するも、永田の反則のムエタイ式エルボー(ヒジの先端で放つプロレスのp禁じ手)で真壁の額はカット。大流血に追い込まれた。
真壁の金髪は赤毛になっていく。
これは格闘技の試合なら即ドクターストップ、試合続行不可能だ。
だがアクシデントが起こっても試合は続くのがプロレスだ。
真壁は永田に3カウントを喫するまで、心は折れなかった。

王者・永田は真壁を絶賛した。

「肘で切れて大流血した真壁がああやって立ってくる。 やっぱりレスラーって凄いですね。あれは普通だったら試合が終わりだよね。立ってくる自分自身が不思議だったし、あれだけの流血をして立ってくる真壁も強 いなと思いました。何年か前なら真壁なんて、この舞台(タイトルマッチ)に立つなんて誰も想像しなかったでしょう。真壁の気力は肌で十分感じたなと。あのスタイルは正しいとは思いませんけど、俺はこの道で生きていくという執念を物凄く感じた」

執念の権化と化した真壁は試合後も吠え続けた。

「次もIWGPだ、おい! いいな、IWGPだ。必ずIWGP組めよ。おい、今日は誰のおかげだ? チャレンジャー、この俺のおかげだろ! 永田!! いいか、首洗って待ってろよ。今日みてぇにいかないぞ。分かんねぇもんだな、女もベルトも。突然切り替えやがった。いいな、これだけは言っておいてやるよ。俺は永田を認めないぞ、この野郎。いいな、地の果てまでだ。アイツを引きずり落としてやる」

プロレス界でようやく認知された真壁。
そんな真壁のプロレスに説得力が出てくる。

2007年11月にIWGP王者の棚橋弘至に挑戦表明したケガから復帰したばかりの中邑真輔に真壁はこう言ってのけた。

「おい、よく聞けこの野郎! 病み上がりで挑戦できる程、IWGPは甘くねぇんだよ。いいか、次はこの俺だ! てめぇは顔じゃねぇんだよ」

会場は説得力のある真壁を支持した。
新日本でトップ戦線で活躍するようになった真壁は矢野通とのコンビ(MVP)で2007年プロレス大賞最優秀タッグチーム賞、IWGPタッグ王座を獲得。
2008年のG1CLIMAX準優勝、天山広吉を追い出しG.B.Hのリーダーとなった。

だが、ここ一番ではなかなか結果は出なかった。
G.B.Hは矢野通を中心としたメンバーが中邑真輔と結託することで、残ったのは本間朋晃のみ。
ここからが正念場。
しかし、真壁はこう逆境を"スーパースター"になる好機にして見せた。

2009年のG1CLIMAXで中邑真輔を破り、優勝を果たした。
苦節13年の雑草がリングの花になった感動的瞬間だった。
真壁に表彰状を渡したのは山本小鉄だった。
山本は泣いていた。

「よく諦めないでここまで来たな…」

翌年(2010年)8月に山本は逝去した。
真壁は今でも定期的に恩師への墓参りを欠かせない。

「俺が地獄の新弟子時代を過ごしているときに、こてっちゃんは俺の名前を覚えてくれて、俺の名前を呼んでくれて、ケアをしてくれた。それが全てのあの人の器の大きさだと思う。それができるやつ、できないやつ。色々いるけど、俺にとっては最高の人だ…」

真壁のスタンスは正規軍入りしても変わらない。
汚い言葉を使って罵倒し、気に入らない相手をぶちのめし、真っ向勝負をしていくだけだ。
周囲の見方を変えたり、ブレイクするのは"ほんの一握りのきっかけ"かもしれない。
だが、この"ほんの一握りのきっかけ"を摑むのがどれほど難しいのか。
それを真壁は教えてくれた。
試合後のリング上インタビューで真壁はこう語った。

「九分九厘の人間が、『もう真壁は終わりだ』と思ったんだろうな。どうだ、お前ら?(『そんなことないぞ』の声が飛ぶ) だけどよ、そう思われれば思われるほど、言われれば言われるほど、腹の底からこみ上げて来るんだよ。“コンチクショー”っていうのがよ。ホントはよ、オメェらみたいな奴らにゃ死んでも言いたくねぇんだ。死んでも言いたくねぇけどよ、今回ばかりはサンキューな(大歓声&真壁コール)」

真壁節は控室でも冴えわたっていた。

「気分は最高だよ。俺たちはプロレスラーなんだよ。俺は、ブレた覚えは1度もねぇぞ。それで今の地位を掴んだんだ。俺の言いたいことはそれだけだ。誰もがだ。プロレスファン、マスコミ、会社の人間がよぉ、『真壁はもう終わり』だと思ってたろ? ところがどっこいよぉ、そうは問屋が卸さねぇんだよ。俺の反骨心は強すぎんだよ。生半可な奴らじゃ抑えきれねぇんだよ。アキレス腱(切ったの)も因縁だよ な。中邑だよ。(2005年の)G1の最中に欠場したろ? 俺は、もうG1も終わり、選手(生命)も終わりだと思ったよ。もう辞めようと思った。だけどよぉ、悔しければ悔しいほどよぉ(力が出る)。俺もよぉ、こん なちっちぇ時によぉ、プロレスラーに夢を見て育った。
現に俺がレスラーになったろ? 誰に夢を見せんだよ? 見てる奴にだろ。あとは、自分自身だ。
人に夢を与える奴がよぉ、テメェで夢見なかったらよぉ、夢なんて与えられねぇんだよ。時代はよぉ、俺にみてぇなバカな奴を必要としてんだよ。夢のねぇ時代だろ? だから夢を持つんだよ! 」

夢のない時代だから、時代は俺を必要としているんだ。
これは真壁らしいリアリティー溢れる発言である。

真壁はG1優勝後にこんな夢を語っている。

「ライバルは強いて言うなら唯一の同期である藤田和之くん。最初の半年は口も利かなかったけど、そのうち一緒に酒を飲んだり、愚痴を言ったり。今は違う道だけど、『こんだけのもん見せてるぞ、この野郎』と。藤田くんも第一線でやってるし、いつも見ている。絶対に借り返さなきゃいけねえ」

そして、藤田は真壁の活躍を誇りに感じている。

「本当に耐えて耐えて、言葉にできない扱いを受けて勝ち取った優勝。これまでの誰よりも価値がある。約束は覚えています。もし戦うときはどこのリングでも構いません。ただもう少し時間を下さい。真壁さんの優勝と肩を並べられる男になったときは、一挑戦者として名乗りを上げさせてもらいます」

真壁と藤田の約束はいつ成就されるのだろうか。

2010年5月、真壁は中邑真輔を破り、悲願のIWGPヘビー級王座を獲得する。

「雑草にメッセージ? そんなもんはねぇんだけどよ。自分で勝ち取るってことなんだけどな。でもよ、俺がこうやってベルトを巻いてるよな、今な? なんでだかわかるかよ? (ファンから『スーパースターだから!』の声があがる)あ? 聞こえねぇよ、なんだって?(より大きく『スーパースターだから!』の声があがる)わかってんじゃねえか、この野郎。それならいいんだよ。だから、こうやってお前らみたいな物好きな真壁ファンっているだろ? あと、テレビ見てるヤツら。会場に来なくてもいいよ、プロレスが大好きなヤツら? 今夜はよ、うんめぇ酒飲めるだろ、お前らよ。な? あとはいま言った物好きな真壁ファン、俺が泣かず飛ばずだったときに支えてくれたダチ公たち、それと関係者たち、それとテレビの前(にいるヤツら)、ここに来てるヤツら、日本のプロレスファンのヤツら全員によ、一言だけ……言いたくねぇよ、こんなこと。マジでさ、テメェらなんかに言いたくねぇんだ、ホントによ! まぁ、一言だけだよな、一言だけ。サンキューな!(大歓声)」

新日本プロレスの頂点に立った雑草。
真壁のサクセスストーリー第1章はIWGP王座獲得によって、幕を下ろした。
だが、サクセスストーリーには続きがある。
プロレスとはゴールにないマラソンだ。

真壁のサクセスストーリー第2章は同年10月に王座転落後から始まったかもしれない。
彼には新日本より強大な敵が待っていた。
世間である。

テレビ朝日からの勧めでブログを始めた真壁は趣味であるスイーツの紹介記事を書くようになった。これは新日本プロレスの戦略だった。
真壁を世間に出すことで、新日本の広告塔にしていこうとしたのだ。
ブログ開設から3か月後に、なんとテレビ朝日ではなく日本テレビ朝の情報番組「スッキリ!!」からオファーが来たのだ。

こうして始まったのが「スイーツ真壁のうまいっス!!」というコーナー。
プロレスラーが毎週、食レポをする斬新な企画は評判を呼び、真壁の知名度は上がった。
道を歩いていたら「スイーツ」と声をかけられることもあるほどだ。
「スッキリ!!」がきっかけでバラエティー番組やメディアに露出する機会が増えた。
だが、真壁はこの現象に浮かれてはいない。

「俺はプロレスラーという肩書きがあって、それで食レポをやっている。俺が現役プロレスラーだからこそ、食レポをやることにも意味がある。『プロレス辞めたら食レポやればいいじゃん、タレントやればいいじゃん』と言われるが、それが違うぜと俺は思う。現役レスラーで、しかもバリバリのチャンピオンクラスだからいいわけで、そこをはき違えちゃいけないと思っている。だからこそ、プロレス以外のいろんな仕事をいただくことの意味は重々感じているし、それは本業のプロレスにとっても意味のあることだと思っている」

テレビに出過ぎて怠けていると思われるのは絶対に嫌だ。
だから彼は練習だけは欠かさない。
例え顎が骨折しても、数日後には練習は再開した。
食レポを追求するために食材の知識、テレビ屋が使いやすいしゃべり方を勉強した。
何事も無駄なものはない。
この仕事もプロレスに還元できるはずだ。
これが真壁の生き方だ。

テレビに出るのは、プロレスを世間に広めるために行為。
そして、テレビを見て、会場なりプロレス中継を見た人間たちをプロレスの虜にさせるのがプロレスラーの任務だ。

「俺は世間にもっと顔を売ってプロレスの入り口になるっていうか、このジャンル自体を上げていきたいんだよ」

低迷期の新日本を知っているからこそ、オファーをもらえる有難みも真壁には分かる。
真壁は世間とプロレスをすることで、プロレスの底上げをしたいのだ。

リング上では真壁の試合に衰えも、怠けは1ミリも感じない。

2013年1月、かつての後輩・柴田勝頼との喧嘩マッチ勝利した際にこんな言葉を残した。

「プロレスっていう競技の中で一番すげえのは、一番すげえプロレスラーっていうのは相手の技を受けきって、受けきって、すかすんじゃねえんだよ。すかすっていうのは問題外だよ。受けきって、受けきって、最後に勝つからプロレスラーなんだよ」

この言葉に偽りはない。
2013年6月にオカダ・カズチカとのIWGP戦では真壁の凄みと実力を証明して見せた。
2015年1月には石井智宏を破り、NEVER無差別級王座を獲得し、魂の名勝負を残しても見せた。
2016年1月には本間とのコンビでIWGPタッグ王者となった。
真壁刀義はプロレスの最前線で、闘い抜いている。

近年、真壁はこんな言葉を残している。

「プロレスが見せるものって結局、生き様なんだよ」

今の真壁の姿を見て、この発言に意義を言う人間はいないだろう。
真壁はプロレスを通じて男の生き様"を我々に伝道していったのかもしれない。
彼の足跡はまさしく人生の教科書であり、人々に多くの希望と夢、生きる活力を与えている。

「雑草がいなきゃプロレスは面白くねぇんだよ!」

この言葉を誰よりも体現してきた生き様伝道師は、プロレスというジャンルをもっとメジャーにするために「飽くなき挑戦」を続ける。
そして真壁自身が体感したのは雑草もエリートもプロレス道を極めたいと想う者達は各々で苦労し、模索しているという現実だ。

エリートも雑草もない、本物しか生き残らないのがプロレスなのだ。

真壁刀義のサクセスストーリー第2章にまだまだ終わりはない。
今回の敵はとてつもなく強大だ。
それでも退かないのが男の生き様。
もし、真壁が「プロレスを底上げ」に成功したならば、それは執念の結晶といっていいかもしれない。

「俺は夢を追い続ける。諦めねぇんだよ、本物ってのは」

諦めなかった男・真壁刀義は今日もプロレスで"生き様"を伝道する。

【参考文献】
「だから、俺はプロレスで夢を追う!」(真壁刀義/徳間書店)
「泣けるプロレス ベストマッチ: 心優しきレスラーたちの32のエピソード」 ( 瑞 佐富郎と泣けるプロレス製作委員会/アスペクト文庫)
「泣けるプロレス メモリアルマッチ」 (瑞 佐富郎と泣けるプロレス製作委員会/アスペクト文庫)
「ゴング vol.5」(アイビーレコード)

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私、ジャスト日本はウェブサイト「ぼくらのプロレス」にて下記の記事を更新しました。


荒くれ麒麟と未確認飛行物体~"2011年プロレス大賞新人賞"鈴川真一とIGFの行方~【ぼくらのプロレスコラム】

"鈴木軍のならず者"エル・デスペラードの覚醒前夜【ぼくらのプロレスコラム】


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俺達のプロレスラーDXを更新しました。
記念すべき130回目となります今回は新日本プロレスの真壁刀義選手を取り上げました。

生き様伝道師~雑草がいなきゃプロレスは面白くねぇんだよ!~/真壁刀義【俺達のプロレスラーDX】

是非ご覧ください!

さて次回から、「シリーズ 巨人」と題して5人の巨人レスラーを取り上げていきたいと考えています。

第一回は東洋の巨人ジャイアント馬場選手を取り上げます。

いよいよあの全日本プロレスを創立した馬場選手を取り上げます

お楽しみに!!
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棚橋弘至が左肩負傷でBOSJ第2戦以降全大会欠場~レスラーにあるまじき? 5月頭に左肩1か月安静を公言【カクトウログさん】

※棚橋はどんな怪我でも極力欠場しなかったレスラーですから、これはよほどの怪我なんでしょうね。
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DNAの怪物・樋口和貞に見る伝統的な日本人パワーファイターの系譜【ぼくらのプロレスコラム】

愛される猪突爆進の男~大日本プロレス・神谷英慶の信条は努力辛抱~【ぼくらのプロレスコラム】

キャリア五年未満の二人の有望なプロレスラーを取り上げました。

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GK金沢コラム連載第100回!! 「プロレスに救われた」【THE BIG 】

※今度の大阪城ホール大会での永田VS柴田は大阪という熱い土地柄に合う名勝負になりそうな予感。

オカダVS内藤、今の新日本プロレスへの二人からの宣戦布告だ!
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自由という見えない翼~自称WRESTLE-1のエース・KAIの不協和音~【ぼくらのプロレスコラム】

開眼したキックの天才~28歳キャリア12年の若きベテラン・中嶋勝彦がようやく歩む"トップランナーへの道"~【ぼくらのプロレスコラム】

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今後も【ぼくらのプロレスコラム】では今のプロレス界をメインに取り上げていきたいと考えています。

よろしくお願いいたします!!
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俺達のプロレスラーDX
第129回 それでも僕はプロレスが好き~カルガリーの天才児物語~/オーエン・ハート



「カルガリーの天才児」

レスリング一家ハートファミリーの末っ子(スチュ・ハートの八男)オーエン・ハートはこう呼ばれていた。
180cm 103kgの肉体と恵まれた運動神経とレスリングセンスを持った男、それがオーエンだった。
カルガリーといえば、スタンピード・レスリングというテリトリーが有名だが、このスタンピード・レスリングはミスター・ヒト、ケンドー・ナガサキ(ミスター・サクラダ)の二人の日本人レスラーがコーチとなっていたため完全な日本スタイルだった。

ダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミス、ブレット・ハートといった猛者達がカルガリーを経由して日本に来日し、世界のスーパースターとなっていった。
また日本人レスラーの遠征先としてもカルガリーが重宝された時代もあった。

そんな日本とゆかりのあるカルガリーが生んだ優秀作品…それがオーエン・ハートだった。
22歳の時に日本来日してから、彼は「カルガリーの天才児」と呼ばれ注目され、ハート一家で最も才能があると言われていた。
これは「カルガリーの天才児」が歩んだ風のようなレスリングストーリーである。

オーエン・ハートは1965年5月7日カナダ・アルバータ州カルガリーに生まれた。
父のスチュ・ハートはスタンピード・レスリングをプロモートするプロレスラーだった。
12人兄弟の末っ子だったオーエンの7人の兄達はいずれもプロレスラーとなり、4人の姉はプロレスラーの妻となった。
特に7男ブレットは後にWWEで一時代を築いたスーパースターとなった。
まさしく名門プロレス一家といえるこの環境で育ったオーエンは中学生の時からプロレスラーになることを志すようになる。

「プロレスラーになろうと本気で考え始めたのは、中学の終わり頃かな。両親の家の裏にトレーニング場があってね、試合用のリングがいつも組み立てられてあるんだけど、僕が14、15歳の頃はミスター・ヒトとミスター・サクラダが、よくレスラーの卵を鍛えていた。僕はいつもリングのすぐ外に腰かけて、みんなが練習しているのをじっと見ていた」

学生時代からリングクルーとして裏方としてプロレスを見つめ続け、実はマスクマンとしてリングに上がったこともあったという。
だがその一方で周囲からは「お前は将来レスラーになるんだろ」という決めつけられたこともあり、プロレスラーになるという決断はなかなかできずにいた。
中学生時代からアマチュア・レスリングを始め、才能を開花。
カルガリー大学に入ると、カナダ選手権3位という実績を残した。
将来は体育教師になるのもいいかな、レスリングでもっと実績を残してみてもいいかなと思い始めていた頃に、兄のブルースとブレットがプロレス入りを勧められた。

兄のブレットはオーエンにこう語ったという。

「オーエン、お前はアマチュア・レスリングで名を上げることにこだわっているみたいだが、それならアマチュア・レスリングの金メダルを取った人間の名前を言ってみろ。思い出せやしないだろう。アマチュアの実績なんて一時(いっとき)のものなんだ。ハルク・ホーガンは一度アマチュア・レスリングをやったことがないが、アメリカで彼の名前を知らない人間なんていないだろう?」

オーエンは意を決して21歳で大学を中退し、プロレス入りをする。
1986年5月24日にプロデビューし、カルガリーやWWE(当時WWF)でのサーキットで経験を積んだ。同年10月にレス・ソントンを破り、英連邦ヘビー級王者となった。
この時期にオーエンのライバルとなったのが、クリス・ベノワ(ワイルド・ペガサス/ペガサス・キッド)、ジョニー・スミス、ブライアン・ピルマン、そして当時海外遠征中の馳浩(べトコン・エクスプレス1号)だった。
特にオーエンVS馳は初代タイガーマスクVSダイナマイト・キッドと並ぶ名勝負と現地で言われていたという。

1987年8月に新日本プロレスに初来日を果たした。
綺麗なブリッジワークのジャーマン・スープレックス・ホールド、アマレス仕込みのベリー・トゥー・ベリー・スープレックス(フロント・スープレックス)、チキンウイング・フェースロックなど多彩なテクニックを披露し、カルガリーの天才児ぶりをいかんなく発揮する。
1988年5月27日にライバル馳浩を破り、外国人初のIWGPジュニアヘビー級王者となった。

1988年に兄ブレットの勧めもありWWE入りすると、ブルー・ブレイザーというマスクマンに変身するも、翌年には離脱し、新日本に戻ってきた。
新日本ジュニア常連外国人レスラーとして獣神サンダー・ライガー、佐野直喜(佐野巧真)、ペガサス・キッドと共にトップ戦線で活躍してきた。

「ビンスは、ボクに、ミッキー・マウスのマスクを被れっていってきた。僕がやりたいのは、サーカスじゃなくて、レスリングなんだ」

オーエンはマスクマンになりたいのではなく、あくまでレスリングがしたいのだ。
レスリングにプロもアマもない。
それがオーエンのポリシーだった。

しかし、オーエンは1991年に再びWWE入りする。
今度は義兄ジム・ナイドハートとの「ニュー・ファウンデーション」というコンビのパートナーだった。ナイドハートといえば兄ブレットとの名コンビ「ハート・ファウンデーション」が有名である。
ここでオーエンの動きは目を引いた。

日本でも見せたリストロックからトップロープに登ってバック宙してからのヒップトス、フライング・ニールキック、トぺ・スイシーダ、兄譲りのシャープシューター(サソリ固め)、ナイドハートがスローイングして敢行するロケットランチャー(スローイング・ボディプレス)。

WWEでのニックネームは"ザ・ロケット"。
ナイドハートとのコンビ解消後はココ・B・ウェアと「ハイ・エナジー」というタッグチームを結成する。
だが、オーエンはWWEで頂点を極めたブレットとは異なる不遇の期間が続いた。
性格もよく、才能もある、ルックスもいい、体格には恵まれなかったが、それを補う技量がある。
タッグマッチ、シングルマッチでもオーエンは前座戦線に甘んじ、ブレットはメインイベンター。
才能は双璧なのに、兄弟格差には開きがあった。

オーエンがメイン戦線で脚光を浴びたのは皮肉にも兄ブレットとの兄弟喧嘩だった。
1994年1月にオーエンは兄ブレットに反旗を翻し、ヒールに転向する。
売れっ子の兄にジェラシーを抱く、売れない弟という路線が、オーエンの実力を満天下に示すチャンスとなった。

1994年3月のレッスルマニア、1994年8月のサマースラムのビッグイベントで実現した兄弟対決は互いの才能がぶつかり、互いの能力を引き出しあう名勝負となった。
ヒールのこズルさとレスリングテクニックの融合させたスタイルは、後世のヒールレスラーの参考となっている。

兄ブレットとの闘いを通じて、ようやくオーエンは満天下に認められるレスラーとなった。

1994年6月にWWE最強トーナメント「キング・オブ・ザ・リング」優勝すると、ハート一家の盟主ともいえる「キング・オブ・ハーツ」を名乗るようになり、「キング・オブ・ザ・リング」の王冠とローブは一時期、オーエンのトレードマークとなった。

1995年、オーエンと同じく元新日本常連外国人のヨコヅナ(グレート・コキーナ)と組んで、WWE世界タッグ王者となり、ショーン・マイケルズ、レーザー・ラモン(スコット・ホール)とライバル抗争を繰り広げた。
いつの間にかオーエンはヒールサイドの大関クラスにまで上り詰めた。
数年前まで前頭・十両で甘んじていた男は一つのチャンスを見事につかみ、成功を摑んだ。

1996年9月にブリティッシュ・ブルドッグ(デイビーボーイ・スミス)と組んで、WWE世界タッグ王座戴冠、1997年4月にロッキー・メイビア(ザ・ロック)を破り、インターコンチネンタル王座を戴冠し、1998年1月にゴールダスト(ダスティン・ローデス)を破り、ヨーロピアン王座を獲得。
オーエンはWWEにはなくてはならない職人レスラーとなっていった。
ブレットとは違う手法だったが、オーエンは自分なりのやり方で世界最高峰の舞台で己の居場所を見つけたのだ。

オーエンにとっていい思い出となったのは1997年に結成されたハート・ファウンデーションの復活だった。兄のブレットがヒールに転向し、オーエン、ブリティッシュ・ブルドッグ、ジム・ナイドハート、ブライアン・ピルマンというハート一家にゆかりのある男達が結集した。
反米主義、カナダ愛国主義を謳うハート・ファウンデーションは地元カナダではベビーフェース、アメリカではヒールという異色のユニットだった。
ヒールになってもベビーになったとしてはハート・ファウンデーションは立ち位置がチェンジしても見事にこなしてみせた。まさしくプロフェッショナル集団である。

レスラーとして一皮むけたオーエンにとって兄ブレットとの共闘は本当に楽しそうに振る舞っていたのだ印象的だった。エンターテイメント路線は不本意で、純粋にレスリングがしたい男にとって心の底からエンジョイできたのはこの時期だったのではないだろうか。
もうオーエンは"売れない弟"ではない。

しかし、1997年11月のモントリオール事件 により、兄ブレットはWWEを去った。
オーエンにとってWWEで闘う意義は恐らく兄がいたリングだからという部分が大きかった。
団体離脱することもできたが、オーエンは敢えて残留を決意する。
モントリオール事件以後、ハート一家とオーナーサイドのマクマホン一家は険悪な関係となり、オーエンにとって居心地のいい場所ではなかったかもしれない。
それでもWWEを残る決断をしたオーエンには恐らく、兄ブレットの偉大な足跡を自分がWWEに残ることで伝承していこうとしていたのではないだろうか。
オーエンは兄のブレットと同じく、シャープシューターを得意技にしていた。
この技を使い続ければ、ファンは兄の存在を忘れない。
兄の無念を背負いオーエンは茨の道を歩むことになった。

オーエンはある日からこんな言葉を決め台詞にするようになる。

「Enough Is Enough! It's Time For Change!(もうたくさんだ!今こそ変革の時だ)」

この発言は台本の台詞ではなく、オーエンの本音だったのかもしれない。
1999年1月にジェフ・ジャレットとの職人ヒールタッグを結成し、WWE世界タッグ王者にもなった。
だが、オーエンの変革は身を結びことはなかった。

1999年からブルー・ブレイザーに再び変身して神出鬼没にリングに現れていたオーエンは同年5月23日にオーエンにあの惨事が襲うのだ。

WWFの人気プロレスラー、オーエン・ハート選手(34)が23日、試合会場で墜落死すると言う事故がありました。ハート選手は、ワイヤにつるされ天井から入場する場面、何かの拍子に体がワイヤから外れ、約15メートル下のリングに急降下した。コーナーに設置された金具に頭から突っ込み、ピクリとも動かなくなった。この試合で生中継で放映され、転落した瞬間はカメラが切り替わっていたため映らなかったが、アクシデントが起きた様子は全米中に伝わった。
(WWFオーエン・ハート選手、試合会場で墜落死/ニュースで楽しむ掲示板 街の灯)

オーエンが墜落した時、実況のジム・ロスはこのようにアナウンスする。

「実は皆さん、大変悲しい事件が起こってしまいました。本当はオーエンハートがブルーブレイザーに扮して天井からおりてくる予定でした。ところが事故が起こって、オーエンは天井から転落してしまいました。オーエンが転落したというのはレスリングのアングルでもなく、ストーリーでもありません。これは本当の事です」

あまりにもあっけなかった天才児の最期。
享年34歳。
プロレス史に残る黒歴史であり、惨劇だった。

オーエンの死から24時間後、WWEは当初予定していたRAWのプログラムを変更し、オーエン・ハート追悼番組に急きょ変更した。
そこで明らかになったことはオーエンはレスラー達にもファンにもスタッフに愛されていたというかけがえのない事実だった。

ジムロス(アナウンサー) 「今夜は、オーエンハートを追悼する大会です。今夜のすべての試合をオーエン・ハートに捧げます」

ミック・フォーリー 「私の息子はオーエンハート選手の大のファンだったんだ。息子はオーエン選手をあこがれていたんだ」

トリプルH 「本当に明るいやつだった。いつも友達に囲まれて、笑いがあった。家族を思ういいレスラーだった。私はオーエンのことは絶対忘れないよ」

アール・ヘブナー(レフェリー) 「オーエンハートはWWFにとってかけがえのない人だった。本当にいい人だった」

ファルーク  「俺達はオーエンを愛していた。オーエンは俺達のことも愛してくれた。今の気持ちを言葉にするのは非常に難しい。ただ、今言えるのは俺達はずっとオーエンを愛し続け、彼がいなくなって寂しくなったということだ」

エッジ  「オーエンは僕にとって、指導者でもあったし、友達でもあった。そういえば、先月クリスチャンと組んで、オーエン、ジャレット組と対戦したなあ。オーエンがいなくなって本当に寂しいよ」

パット・パターソン(エージェント) 「オーエンはもっとも尊敬するレスラーのうちの一人だった。彼は明るい人で、人を楽しませてくれた。オーエン、君のことは絶対に忘れないよ」

ハードコア・ホーリー 「オーエンは、どんな状況でも俺達を笑わせてくれた。彼に敵なんかいやしない。彼の回りではみんなが笑っていた。彼がこの世からいなくなっても私は彼のことを絶対に忘れない」

デブラ(女性マネージャー)  「世界は偉大な人をなくしてしまった。オーエンは私たちをいつも楽しませてくれたの。オーエンはわたしに"そのショーツは短くて、きつすぎないか。変えた方がいいんじゃないの。"言ってくれたのが最後だったわ。オーエンは私の人生を明るくしてくれたの。私はずっとオーエンを愛し続けるわ。ずっと私の心の中で生きているわ」

Xパック 「オーエンのこと、大好きだったよ。彼が亡くなったなんていまだ信じられないよ。オーエン一家に祈りを捧げます。おれが生まれてから出会ったやつのなかで、一番いいやつだった」

ザ・ロック 「オーエンは人々をあっと言わせるようなこともやってきて、人々を楽しませてくれた。オーエン、今夜のピープルズエルボーを君に捧げるよ」

皆が泣いていた。
皆が悲しんでいた。
皆が別れを惜しんだ。
そして、異口同音に言っていたのは「オーエンは本当にいい人だ」ということだった。
魑魅魍魎なプロレス界でここまで愛されているレスラーは稀である。

特に悲しんでいたのはオーエン最後のパートナーだったジェフ・ジャレット。
ジェフは泣き崩れていた。

「オーエンは大の親友だったんだ。よく妻とオーエンはおもしろいやつだと話をしていたよ。オーエンの3人の家族はもっとも幸福な3人だとおもう。だって、オーエンは妻と子供2人のことを常に考えていたんだよ。オーエンの家族は彼の愛、誠実さに支えられてきたんだ。オーエン、ぼくは君に約束するよ。君には2人の子供がいるよな。彼らが大きくなったら、オーエンの偉大さを彼らに伝えるよ」

そしてジェフはこんな印象的な言葉を語っている。

「この業界で本当に友達なんてできないものだ…。オーエンは真の友達だった。俺にはもう友達はいない…」

オーエンの死から2か月後、沈黙を守っていた兄ブレットは当時所属していたWCWに姿を現し、マイクでこう語りかけた。

「現在、本当に混乱している...。これからもプロレスラーとしてやっていくか、それとも違う人生を歩んで行くべきか混乱している。俺の人生はプロレスそのもであった。神に誓って今までのプロレス人生はベストを尽くしてきた。しかし、今の俺は壁にぶつかってしまった.....弟の死があった。プロレスを捨てるべきなのか?本当に今は、どうすればいいのか分からないんだ。 どうすればいいのか....プロレス人生を。時間が欲しい、決断する時間を」

悩みに悩んだブレットはリング復帰を決意し、同年10月4日、オーエンがなくなった地ミズーリ州カンザスシティでオーエンの盟友のクリス・ベノワと"オーエン・ハート・メモリアルマッチ"を行い、名勝負を残し、最後は自身の十八番であり、弟オーエンの得意技でもありシャープシューターで勝利を収めた。
試合後、二人は抱き合っていた。
そして、ブレットは天井を何度も見つめていた。
「オーエン…」とつぶやきながら…。
偉大なる兄の姿を愛する弟は天国からきちんと見守っていたはずである。

オーエンの事故死はハート一家の運命を狂わせたとプロレスライターの斎藤文彦氏は語る。

「オーエンの痛ましい死は、ハート一家も引き裂いてしまったんですよ。ブレットは男8人、女4人の12兄弟。姉妹は全員レスラーと結婚したプロレス一家。オーエンの事故を巡ってハート一家はWWEと裁判を始めたんだけど、ビンスに有利な発言をしてしまった家族もいた」

この事故死が原因で人はオーエン・ハートを「悲劇の天才レスラー」と呼ばれるようになってしまった。

オーエンの死にはエスカレートしたスポーツ・エンターテイメントの犠牲者になったという声もある。確かにそれは否定できない。
だが、オーエンという男を悲劇の天才レスラーで終わらせるわけにはいかない。そんな想いが私にはずっとあった。
天才レスラーは彼以外にもいる。
しかし、ここまで周囲に愛された天才レスラーはオーエンしかいない。
その想いが今回、彼を取り上げるきっかけとなった。

何度も言う。
オーエン・ハートは皆に愛された天才レスラーなのだ。
例え悪党になろうが、どこか憎めなかったのも、その明るくて素晴らしい人間性にあるのではないだろうか。

「僕はプロレスが好きで、リングに上がっていたい。ただ、それだけなんだ」

新日本参戦時の23歳の時、オーエンはこう語っている。
恐らく、この事故があっても天国のオーエンはこう思っているに違いない。

「それでも僕はプロレスが好きなんだ」

天国にいるオーエン・ハートに聞きたい。
今のWWEはあなたが目指したレスリングを主体としてスタイルになっていますか?
今の新日本プロレスは参戦してみたいと思うほど魅力的な団体に映りますか?
あなたの目には今のプロレス界はどう見えていますか?

どんなに時代やプロレスが変わったとしても、スポーツ・エンターテイメント、プロフェッショナル・レスリングの進化と発展に寄与した"偉大なる"カルガリーの天才児オーエン・ハートを我々は忘れてはいけない…。

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