ジャスト日本のプロレス考察日誌

プロレスをもっと広めたいという思いブログをやってます。新旧洋邦のレスラーを取り上げた「俺達のプロレスラーDX」を連載中!
ご愛読よろしくお願いいたします。

NEW !
テーマ:


※あの一戦以降、新日本とDDTの関係は緊張関係に突入していったような気がする。

次に両団体が交わるのはいつになるのか!?
AD
いいね!した人  |  コメント(1)  |  リブログ(0)

テーマ:
天龍源一郎オフィシャルサイトがリニューアルオープン、公式Instagramも開始/書籍&イベント情報【カクトウログさん】

※天龍源一郎はプロレス廃業後も、今日を生きている。
AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:
ケニーが外国人史上初のG1制覇、柴田とノア大乱闘で開戦濃厚、11・5大阪府立サプライズ予告/G1優勝決定戦まとめ【カクトウログさん】

覇者ケニー・オメガ「(飯伏を)この場所で待っている」 木谷オーナー「来年はちょっと違ったG1見せる」/G1一夜明けまとめ【カクトウログさん】

※優勝おめでとう!ケニー・オメガ!

そして時限爆弾の中身は…。
AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:



俺達のプロレスラーDX
第146回 大英帝国のいぶし銀と蛇の穴が歩んだ歴史/ピート・ロバーツ
シリーズ キャッチレスラー④



プロレスの源流とも言われるキャッチ・アズ・キャッチ・キャン の猛者、追い求めようとする者、ヨーロッパのプロレススタイル"キャッチ"で活躍した強豪達を取り上げるシリーズ・キャッチレスラー。

第一回、第二回はキャッチ・アズ・キャッチ・キャンを追い求める男達を取り上げた。

キャッチレスラー ①
格闘技の天才 揺るがないリアルプロレス道/ジョシュ・バーネット【俺達のプロレスラーDX】

キャッチレスラー ②
波乱と起爆の景気循環~掴ませない冷静と狂気の殺し屋~/鈴木秀樹【俺達のプロレスラーDX】

第三回はヨーロッパのプロレススタイル"キャッチ"の猛者として活躍したデーブ・フィンレーを取り上げた。

キャッチレスラー ③
緑色の恐怖~キャッチが生んだ近年最高最強レスラー~/デーブ・フィンレー【俺達のプロレスラーDX】

最終回となる第四回はキャッチ・アズ・キャッチ・キャンをベースとしたジム"蛇の穴"と呼ばれたビリー・ライレー・ジムとこのジム出身でプロレス界の名職人レスラーとして活躍したピート・ロバーツの歩んだ軌跡を取り上げる。

“蛇の穴” ビリーライレージム  は、1900年代初期に活躍した名レスラー、ビリー・ライレーが、イギリス・ウィガンに設立した、ランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリングのジムです。狭いジム内で、当時世界のトップクラスのレスラーがしのぎを削りあい、激しい練習を繰り広げていました。日本でも有名なのは、“プロレスの神様”と呼ばれ、アントニオ猪木を始め、数多くのプロレスラーを指導した カール・ゴッチ。華麗なるレスリングテクニックで、日本のプロレス界に一大旋風を巻き起こした“人間風車”ビル・ロビンソン。 とりわけ、1975年のアントニオ猪木との一戦は、日本のプロレス史上に残る名勝負とされています。この二人の活躍により、昭和40-50年代に日本でも、“蛇の穴” ビリーライレージム、ランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリングの名は、広まりました。  
【ロイ・ウッド公認ライレージム京都ホームページ】

ビリー・ライレージムの創始者であるビリー・ライレーはキャッチ・アズ・キャッチ・キャンのテクニックで腕自慢の挑戦者達を相手に次々と打ち負かし、賞金を獲得していた強豪で、ここで得た賞金で1950年初頭にウィガンに作ったのがこのジムだった。

いくつかの識者のものするところに拠れば、このビリー・ライレーなる人物、誠に勇ましく強者であったらしく、当時(1920年代)、開かれた腕自慢の者たちの大会ではことごとく優勝をさらい、その大会にて得た賞金でジムをも創設したとされる。そのジム、我こそはと道場破りも跡を絶たず、されどビリー・ライレーはその度にねじ伏せ、地方ならず時の国王すら知る存在でもあったとある識者は述べてさえおられる。その闘い模様のスタイルはいわずと知れた地方名が附された“ランカシャー・レスリング”が主でランカシャーとはまた俗名、“シュート”とも呼ばれており、相手との信頼関係のもと行なう通常のレスリングとは違い、シュートレスリング、真剣勝負を基調としている。
【“最強を追い求めて”『時代と共に消えうせたライレージムの末路』//美城丈二】


彼の指導を受けたレスラーはこう語る。

ケンドー・ナガサキ(ビリー・ライレージム出身で元祖・イギリスで活躍した東洋の神秘)
「大変素晴らしい先生です。生徒のモチベーションを上げるのがうまい人でした。施設としては非常にシンプルでしたが、トレーニングの内容は濃密でした。あの狭い空間で何があっても45分間延々とスパーリングを続けるんです。どんなにやられても闘い続けることで、肉体と精神を鍛えていくのです」

数々の強豪レスラー達が己の技術を磨いていた。
ビリー・ジョイス、カール・ゴッチ、ビル・ロビンソン、レス・ソントン、スティーブ・ライト、マーティー・ジョーンズ、ウィリアム・リーガルというプロレスラーを輩出していった名門ジムだ。

ビリー・ライレージム出身者の特徴として倒されても蛇のようにしつこく攻撃をかけ続けるスタイルだったため、このジムは別名"蛇の穴(スネークピット)"と呼ばれ恐れられるようになった。ちなみに劇画のタイガーマスクに登場するレスラー育成機関"虎の穴"はこの"蛇の穴"が由来になっている。

ビリー・ライレー・ジムはランカシャー・スタイルのレスリングを基本にしているため、出身レスラーはスープレックス等の投げ技を得意とする。またシュート(真剣勝負)に対してもプライドを持っているため、これに応じる。カール・ゴッチやビル・ロビンソンなどは、通常のプロレスがシュートに発展してしまい殺伐とした闘いになることが度々あった。ファイトスタイルは立ち技・寝技両方得意で、蛇のようにしつこく絡みつく。レスリングにプライドを持っているため、現実のプロレスとのギャップに悩み孤立する場合もあるが、日本のプロレス界にストロングスタイルの概念を持ち込んだ功績は大きい。
【ビリー・ライレージム/wikipedia】

ビリー・ライレージムの練習システムは一回8分の1ポンドのコインを練習前に指導者ライレーに支払い、トレーニングを受ける。このジムには会員証が存在しているという。また練習時間はプロレスラー達は午前中で、アマチュアクラスは夜に行っていた。

"英国の魔豹"と呼ばれたテクニシャンであるピート・ロバーツがビリー・ライレージムに入門したのは13歳の時だったという。このジムの創成期だったと思われる時期だ。

1943年にイギリス・バーミンガムで生まれたピートはビリー・ライレージムでトレーニングを積み重ねて1959年に16歳の若さでプロレスデビューしている。
ピートは日本のプロレスファンにはカール・ゴッチの親友として知られているが、それはビリー・ライレージムの先輩後輩の間柄だったからである。

183cm 100kgという日本でいうところのジュニアヘビー級ギリギリの体格だったピートはイギリス最大の団体ジョイント・プロモーションを拠点にしながら、ドイツやオーストリアにも転戦していった。
初来日は1974年1月の新日本プロレス。親友のゴッチがブッキングしたのだ。そこでエースであるアントニオ猪木と好試合を展開し、以後常連外国人として度々新日本に参戦するようになる。

得意技のサイド・スープレックス、ヨーロピアン・アッパーカット(エルボースマッシュ)、後方回転エビ固め、そしてビリー・ライレージム仕込みのしつこいサブミッションを駆使し活躍していくピートはヨーロッパでは柔道の有段者という特徴を生かして"ジュードー"ピート・ロバーツというリングネームで知られている。イギリスでは格闘技のギミックで活躍していたクン・フーとカンフー・ソルジャーズというタッグチームを組んでいたこともあった。

新日本でピートが特に仲良くなったのが最強外国人レスラーのスタン・ハンセン。
二人は意気投合し、公私に渡り、親友関係を築いている。
また、ハンセンが後に全日本プロレスに移籍すると、ロバーツもその数年後に全日本に参戦している。
ハンセンは2016年にWWE殿堂入りを果たしているが、その受賞スピーチで強い影響を与えてくれたプロレスラーの一人にピートの名を出している。

「無二の親友」

ハンセンはピートをこう評している。
ピートはレスラーである以前に優れた人間性を持っていた。

イギリス遠征時にピートのお世話になった初代タイガーマスクこと佐山聡はこう語る。

「ピートさんとはイギリスで家族ぐるみの付き合いをしていました。またスタン・ハンセンやゴッチさんとも仲が良くて。ハンセン、ピートさん、アンドレ・ザ・ジャイアントは本当に人間がいいですね。本当に最高の人間なんですよ」

また現在WWEでNXTというブランドのGMを務め、最後のランカシャーレスリングの使い手と言われているウィリアム・リーガルが影響を受けたレジェンドレスラーの一人がピートだったという。
ピートは太陽にような光ではなく、いぶし銀のような渋い光を放っていたのかもしれない。

一方、ピートが育ったビリー・ライレージムは停滞の一途をたどっていく。

次第にトレーニング・マシンを使ったトレーニング・ジムが主流となり、またフリースタイル・レスリングのルールが整備されサブミッションが禁止されていったことにより、伝統的で危険なトレーニングのビリー・ライレー・ジムはレスラー達に敬遠されるようになり徐々に衰退した。
【ビリー・ライレージム/wikipedia】

創始者のビリー・ライレーが1977年に逝去。
ライレーの後を継いだのがこのジム出身者でプロレスラーのロイ・ウッドだった。

「私がプロレスラーだった時代も長かったし、トレーニングに来る人間もかなり減っていて、その時期のライレージムはすでに閉鎖寸前だった。そんな頃に私の息子がレスリングをやりたいと言い出したので、私は昔のジムでレスリングを教え始めたんだ。そこにライレーも指導に来てくれるようになって、そこからまたビリー・ライレージムが復活したという説明が分かりやすいかな」

ロイが復活させたビリー・ライレージムで指導したのはキャッチ・アズ・キャッチ・キャンではなく、アマチュアレスリングだった。

「当初、子供たちのクラスを指導していたのだが、ライレーが引退を決めた後は、教えているところを傍らで見ていてくれて、彼からどのように指導すればいいのかということを教わったんだ。私が若い頃に学んだのはキャッチレスリングだけだったから、新たにアマレスのルールを一から勉強し直して指導するのはかなり大変だった。息子はレスリングを始めてすぐに全英王者になったんだ。そして、ジムを再開してからは、多くの若者がジムに集まってきた。そこからアマレスで好成績を残すような教え子も出てきたから、また活発にジムの運営ができるようになった」

その一方で問題もあった。

「ビリー・ライレーが指導していたのは、すでにプロとして活動していたレスラーが主体で、若者の育成にはあまり力を入れていなかった。そのうちに、キャッチレスリングの技術を知っている人達も年を追うごとに高齢化していくわけよ。つまり、私がライリーからそういう技術を教わっている最後の世代だったんだ」

ビリー・ライレージムを継いだロイはジムの名前を「アスプル・オリンピック・レスリングクラブ」に改め、ジムも移転した。移転先では主にフリースタイルレスリングに特化したジムとなり、ジムの中にキャッチ・アズ・キャッチ・キャン主体のスネークピットを併設したのである。

アマレスとキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの共存共栄。
それがロイがジムを存続させるため、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの歴史と伝統を守るために導いた一つの答えだった。
現在、スネークピットはドイツ、デンマーク、タイ、日本と世界中にこの名称を名乗ったジムが存在している。
また、京都にはロイ・ウッドを指導を受けた日本人・松並修氏が"ロイの公認を得て"ライレージム京都"というジムを創設し、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの伝承を目指している。

プロレスの源流とも言われているキャッチ・アズ・キャッチ・キャンは時代や世代を越えて、形は少しは変わったとしても根付いているのだ。

そして、ピート・ロバーツも時代や世代を越えて、その魅力は語り継がれていくプロレスラーになっていった。
獲得したタイトルはヨーロッパマットで巻いた世界ミッドヘビー級王座ぐらいしか目立ったものはないかもしれないが、世界各国のプロモーター達は彼の技量を重宝した。
キャッチ・アズ・キャッチ・キャン、シュートレスリングのテクニックをリング上で披露しながら、ピートはきちんとプロレスをやってのけた。自己満足、強さのごり押しという一種のエゴはピートのプロレスには存在せず、どこまでも気品あふれるスタイルを貫いた。私はそこにピートの人間性を見た。やはり、この男はナイスガイなのだ。

1984年からカール・ゴッチの招聘により、第一次UWFに参戦。
1986年からはハンセンの仲介で全日本に参戦し、世界ジュニアヘビー級王座のトップコンテンダーとして何度も挑戦し、王者を苦しめた。
二代目タイガーマスク、小林邦明、渕正信が全日本時代のピートのライバルだった。
1993年7月を最後に日本への来日を途絶え、ピートはひっそりと引退していった。
2001年1月28日の東京ドームで行われたスタン・ハンセン引退セレモニーに無二の親友であるピートは久しぶりに姿を現し、ハンセンに花束を渡した。

蛇の穴と恐れられたビリー・ライレージムとこのジムで育ち名レスラーとなった大英帝国のいぶし銀が歩んだ歴史を掘り起こせば、キャッチ・アズ・キャッチ・キャン、ランカシャーレスリング、プロレスの奥深さと真髄がよくわかる。

元来、プロレスとキャッチ・アズ・キャッチ・キャンは異なるジャンルで、そこを重ねて論議することは不毛なのかもしれない。
だが、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンにプロレスの源流があるのだという浪漫と信念を持って、プロレスや格闘技の世界で追い求めた者達がいた。

ビリー・ライレージム出身者であるカール・ゴッチやビル・ロビンソンのプロレスのどこかしらに存在していたのが強するが故に相手の攻撃をあまり受けずに己の技術を披露し続ける"技術や強さの自己陶酔"。"強さ"はプロレスラーに必要不可欠な要素だが、プロレスとは攻めだけではなく、相手の攻撃を受けることが求められるジャンルだ。だから"技術や強さの自己陶酔"は調合を間違えると独りよがりに陥るので、プロレスにおいては危険なものだ。

ピート・ロバーツは"技術や強さの自己陶酔"をプロレスという世界でうまい具合に調合し、誰も不快にさせない代物に仕立てたプロレスラーだった。

私はピートこそ、ゴッチやロビンソン以上にクリーンな形でキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの魅力も、ビリー・ライレージムのレベルの高さをプロレスの世界できちんと証明して見せたのではないかと思うのだ。そう考えるとキャッチ・アズ・キャッチ・キャンにとっても、ビリー・ライレージムにとっても彼は実は隠れた功労者なのだ。

実績を残していなくても、歴史に名を刻まなくても、トップになれなかったとしても、ピート・ロバーツはもっともっと評価されていいはずだ。

そして、そんな男を生んだ蛇の穴と呼ばれたビリー・ライレージムは名前が変わっても、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンを伝承している。このジムを継いだロイ・ウッドはこう語る。

「私はアマチュアとキャッチ、そしてプロフェッショナルというのは、同じようにレスリングと付けられていても、まったく別の物だと捉えているんだ。現在、自分の後継者を育てているところなんだ。最終的には5人ぐらいのキャッチレスリングの後継者になる得る人材を育てたい。組織が大きくなれば、少しづつ多様化していって技術が変化してしまう部分が出てくるだろうから、それを抑えつつ、純粋なキャッチレスリングを教えられるような人材を育てたい」

ビリー・ライレージムを継いだロイ・ウッドを教えを受けた者達がやがて第二の蛇の穴を創設し、第二のカール・ゴッチやビル・ロビンソン、ピート・ロバーツを輩出していき、プロレスの世界に出現するという壮大な夢物語が今まさに、始動している。

歴史は過去、現在、未来を繋ぐ線路のようなものなのだ。



いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:
俺達のプロレスラーDXを更新しました。

シリーズ キャッチレスラー最終回となります第四回ではピート・ロバーツ選手と彼を生んだビリー・ライレージムを取り上げました。

大英帝国のいぶし銀と蛇の穴が歩んだ歴史/ピート・ロバーツ【俺達のプロレスラーDX】

是非ご覧ください!!

さて次回ですが、長年この選手について書かなければいけないと内心思っていた、決意していた選手を取り上げます。

レッスル夢ファクトリーや新日本プロレスで活躍した福田雅一選手を取り上げます。

かなり渾身の回になるかなと思っています。

いいね!した人  |  コメント(1)  |  リブログ(0)

テーマ:
オメガが内藤を破り逆転突破 G1決勝は後藤vs.オメガに=新日本【スポーツナビ】

※まさかこの二人の決勝戦になるとは…。今年のG1は久しぶりに展開が読めなかった。後藤の底知れぬ爆発力か、ケニーのフリースタイルか!?

波乱のG1を制するのは荒武者か!?殺し屋か!?

底知れぬ爆発力を生む我道スラッガーの「愚直」と「鈍感」/後藤洋央紀【俺達のプロレスラーDX】

フリースタイル・シンドローム~ワイルドカードと魔剣の旅~/ケニー・オメガ【俺達のプロレスラーDX】
いいね!した人  |  コメント(2)  |  リブログ(0)

テーマ:
Dropkick
【無料記事】AbemaTV格闘技チャンネル担当者インタビュー「格闘技ファンの力で大きくなりました!」

※AbemaTVはお世話になっていますよ!

個人的にはプロレスもやってほしいかなと願いますね。現段階では新日本プロレスはたまに放映されているみたいですね。

AbemaTVはテレビ朝日が絡んでいるから新日本のみというのは仕方がない部分もあるが、WWE以外の海外のプロレス、国内のプロレスでも放映できそうな団体はありそうな気がするのだが…。

AbemaTVの今後に期待しましょう!!
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

 
※駒沢シバティストさんの熱い記事を読んで、熱すぎて、ギラギラの夏、メラメラの闘いを見届けよう!!

駒沢さんの想い、心に響きましたよ!!
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:
プロレス新団体「ダイアモンドスターズレスリング」旗揚げ戦決定!【ミルホンネット】


元・全日本社長の内田氏とジミー鈴木やターザン山本らがタッグを組み新団体『ダイアモンドスターズレスリング』を旗揚げ!【バトル・ニュース】

※元週刊ゴングのジミー鈴木氏がプロレス団体を旗揚げするという話は聞いていましたが、この団体だったようだ…。

ハルク・ホーガン級のレスラーを呼ぶとのことだったが、どうやら元TNAのロブ・テリーのようである。

団体側が作成した団体旗揚げの経緯は必見!!
近年旗揚げした団体でここまでコンセプトを明確にしたのは皆無ではないだろうか。
その一方で胡散臭さも漂う…。
でも胡散臭さもプロレスが持つ多面的魅力の一つではないだろうか。


どこか気になる団体「ダイヤモンドスターズレスリング」の旗揚げ戦は良くも悪くも伝説になりそうだ…。
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:



俺達のプロレスラーDX
第145回 緑色の恐怖~キャッチが生んだ近年最高最強レスラー~/デーブ・フィンレー
シリーズ キャッチレスラー③



プロレスの源流とも言われるキャッチ・アズ・キャッチ・キャン の猛者、追い求めようとする者、ヨーロッパのプロレススタイル"キャッチ"で活躍した強豪達を取り上げるシリーズ・キャッチレスラー。

第一回、第二回はキャッチ・アズ・キャッチ・キャンを追い求める男達を取り上げた。

キャッチレスラー ①
格闘技の天才 揺るがないリアルプロレス道/ジョシュ・バーネット【俺達のプロレスラーDX】

キャッチレスラー ②
波乱と起爆の景気循環~掴ませない冷静と狂気の殺し屋~/鈴木秀樹【俺達のプロレスラーDX】

第三回はヨーロッパのプロレススタイル"キャッチ"の猛者が歩んだレスラー人生を追う。
彼はイギリスマット界では1980年代最高のレスラーと最高の評価を受けた実力者。
あなたは知っていますか?
プロレス界には"恐怖の大王"が呼ばれる男が存在することを…。

ウルティモ・ドラゴン
「一言でいえば完璧な選手ですね。自分も試合をしていて『怖いな、この人』って感じたのはフィンレーとウィリアム・リーガル。レスリングの基礎が違うんですよ。彼らイギリス系のレスラーの評価がアメリカで低かったのは昔のカール・ゴッチみたいな人ですよね、感覚的に言うと。対戦した時は花を持たせてくれましたが、本当にとんでもない力を持ったレスラーでした。もし今後闘ってくれと言われたから逃げますね、断ります。潰されますし、この左ひじが壊されますよ…」

ジャイアント・バーナード
「俺は何年か前にフィンレーの名前を聞いた。皆こう言ったんだ。『アイツは相当やばくて冷酷なヤツだ。タフなヤツしか生きていけないアイルランドの裏街道からやってきたんだ』と。俺はこう思っていた。『この小さい野郎は? 』こいつの実力を見てやる。簡単に倒せると思った。なぜなら俺はプロレス業界で最もワルなヤツだったからな。俺はヤツとリングで闘ったんだ…。今だから言えるが…。10分位の試合だったと思うがこの俺様を弄ぶかのように苦しめた。この俺様が子供扱いされたなんて後にも先にも府フィンレー以外にいない。外国人レスラーが何年か日本で闘っていくと日本のプロレススタイルに順応してしまうのだがフィンレーは違う。ヤツのスタイルは変わらない。ヤツはタフで強くて、そして何事にも動じない冷酷な野郎だ」

カズ・ハヤシ
「すごい真面目な人なんですよね。控室で一緒になったことがあったのですが、寡黙というかあまり喋らない無口な職人のような、頑固親父のような人でした。リング上では一つ一つの技が凄い強烈で、普通の選手と違うなと思った。『怒らせたら怖い』とか噂は色々聞くんですけど…。自分はその現場を見たことはないけど、色々あったのは事実みたいですよ」

外道
「フィンレーは俺がWCW遠征に行った時に一緒で試合はしたことはないけど、びっくりするぐらい試合は凄くてね。あまりデカい選手じゃないけど、皆が一目置いている怖い選手で。クリス・ベノワをボコボコにしたのは印象に残っていますよ」

船木誠勝
「ヨーロッパ遠征に行った時に初めてフィンレーを見たんですけど、控室にいても誰も近寄らないんです。試合をしてパッと帰ってくるんですけど、それを観た時に『この人は違うな』と思いました。彼とはシングルでもタッグでも何度も対戦しましたが、非常に引き出しが多くてかなりの使い手だった。目が殺人者の目をしてますからね、彼は」

武藤敬司
「ヨーロッパの伝統あるプロレス"キャッチ"の最期の使い手じゃないかな。俺が若い頃に活躍していたスティーブ・ライトやトニー・セントクレアーを継いだ次の世代の使い手だった。技術がしっかりしていて素晴らしかったですよ。自分の型を持っていて、絶対に相手に自分の型を入れ込もうとするよね。俺も彼の型に入れられて、自分の型に入れた時の彼は素晴らしかったですね。ああいう自分の型を持ったレスラーは強いですよ」

2011年11月24日、"ジャパニーズバズソー"TAJIRIがエースのプロレス団体SMASH・後楽園大会のメインイベントの煽りVTRはその男の凄さを多くのレスラー達が証言するという異色の作品だった。
この煽りVTRで彼はこう形容された。

「恐怖の大王」

デーブ・フィンレーはその名にふさわしい実力を見せつけ、メインイベントで"北欧の神"スターバックを破り、初参戦にしてSMASH王座を獲得した。
179cm 106kgと決して恵まれた肉体ではないが、その肉体以上に存在感はまさしく"巨人"そのものだった。

フィンレーを招聘したTAJIRIはフィンレーをこう評した。

「デーブ・フィンレーこそは近代プロレス史上において、最強にして最高の選手である。それは、世界最高峰のプロレス組織であるWWEに所属していた者ならば誰もが認める事実なのだ。ウイリアム・リーガルも、亡くなったエディ・ゲレロも、クリス・ベノワも、誰もが口を揃えてこのように語っていた。『フィンレーこそは、近代プロレス史上において最強にして最高の選手である』…と。フィンレーがWCWに所属していた頃。日本でも超超超有名な、ある巨漢レスラーが控室で威張り腐っていた。要するにテングになっていた。そんな彼の態度を常日頃から良く思っていなかったフィンレーが、ある日とうとうブチ切れたそうなのだ。その巨漢レスラーの前に立ちはだかったかと思うや、まるで魔法のようにその大柄な体を空中に放り投げ、腕を締め上げ悲鳴を上げさせうえに、顔面をブーツの底で思い切り踏み潰そうとしたのだ。生命の危機を察した巨漢レスラーは、恐怖のあまり恥も外聞もなく泣き叫び、土下座の命乞いでその後は態度を改めたという…。その巨漢レスラー。あえて名前は挙げないが、その名を聞いたら日本人プロレスファンならば誰もが『嘘だろ!!??』と疑わずにはいられない。それほど恐ろしい男なのだ」

プロレス関係者達は当時53歳の古豪のプロレスに驚愕した。

AKIRA
「デーブ・フィンレーの衝撃、基本的な動きから随所に繰り出される変化球はコロンブスの卵の発想で、ホンロウする対戦相手を確実に痛めつける。奴の一挙手一投足、いや、表情、眼球の色さえもが、オーディエンスを自らのペースに引き込み、魅了して離さない。 ・・・震えた。レスラーの多くは、会場の沈黙を嫌い、動きを止めることに躊躇いを感じるものだが、奴は、静止した、自ら沈黙を創った。しかし、その時、オーディエンスの総ての眼は好奇心と共に、奴が差し出した指先に注がれるのだった。サイコロジーという言葉、プロレスが芸術だという言葉が今まで随分と不用意に使われて来た事を俺たちは悔やんだ。しかし、今、奴に出逢えた衝撃に涙する」

矢郷良明
「デーブ・フィンレーが凄かった。チャンピオンのスターバックを制裁するかのような内容で、一つ一つの技が拷問レベルで、本当に強さに振り幅を持って行っていた。あの試合でデーブ・フィンレーは、相手と観客に『どれくらい自分が凄いか』を十二分に発揮していた。デーブ・フィンレーは正に本物の世界最高峰のプロフェッショナルレスラーだった。デーブ・フィンレーの登場はTAJIRIさんも言っていたが、ムエタイのラジャナムやルンピニーの本物のランカーが、日本のキックボクシングのリングにやって来たような衝撃だった」

鈴木健
「フィンレーがSMASHで見せたのは、ひとつひとつの動作から『ガチッ!』という音が聞こえてくるようなレスリングだった。スリーパーやエルボー、サーフボードストレッチ、ヘッドロックなど使う技はいたって基本的なものなのに、決める瞬間のハマり具合が手に取るように伝わってくる。だから、ひとつの技へ入るたびに客席がどよめく。打撃技ではないのに「当たりが強い」という表現が当てはまってしまうようだ。それらの技の合間に小技をおり混ぜる。小技、といってもどれもが大技に匹敵するほど効果的なもの。開始直後、フィンレーは組んだ次の瞬間、スターバックの鼻っ柱にエルボーを落とした。ケンカにおいて、相手に戦意を喪失させる常とう手段。この一発で、精神的優位に立つとともに観客にも自分が格上であることを印象づけてしまった。派手な技は使わず、ジワリジワリと逃げ場のないところへ獲物を追い込んでいくかのような試合運びに、あるものは感嘆の声をあげ、またある者は言葉を失う。試合後、ある人は『この一試合でアメリカとヨーロッパと日本のプロレスを全部見られたようだ』と言った。求められるあらゆるものをしっかりと体現できるのは、フィンレーのレスリング技術が底無しではと思えるほどに幅広く、なおかつキッチリとしているからだ。戦利品を肩にかけたフィンレーは、手短なコメントを残すと控室へ。とてもではないが、質問を振れるような雰囲気ではなかった。だが、言葉はまったく不要だった」

金沢克彦
何者も寄せ付けない冷酷なムードは、本当にハリウッド映画に出てきそうなスナイパー(狙撃手)といった趣。 メインイベントのリング上に2人が揃った瞬間、初代SMASH王者のスターバックが完全に位負けしているような空気に支配された。ゴングと同時に、つかつかと真っ直ぐにスターバックに向かっていくフィンレ―。まったく駆け引きもなく、無造作に歩を進め距離を縮めてしまった。このアクションだけで、観客もドッと沸く。マニアックな話になってしまうが、実はこれをやる選手は、他にもいる。皆さん、よくご存知の長州力。無造作にリングの中央まで歩み出て、自然とリングの真ん中を支配してしまうのだ。これをやられると、人間の習性から一歩引いてしまうものいやあ、強かった、怖かった。プロフェショナル・レスラーを見た。今回フィンレ―を呼んでくれたTAJIRIには感謝したい。さすがTAJIRIの目の付けどころは一味違うと、改めて感心させられた。私も含め(苦笑)、普段あまりSMASHに顔を見せないベテランのマスコミ勢も多数きた。みんな、フィンレ―目当てであり、大満足である

小佐野景浩
「本当にフィンレーはタダ者ではなかった。まず、その佇まい。一般的にレスラーに必要とされるのは観客に喜怒哀楽を伝える表現力。怒っているなら怒っている、痛いなら痛い、苦しいなら苦しいを表現やリアクションで伝えられるのが一人前のレスラーだとされる。ところがフィンレーは真逆だ。まず表情を変えないし、大げさなアクションもしない。それが逆に不気味な冷酷さを醸し出していたし、リアリティーが感じられた。冷静沈着に相手を追い詰める人間ほど怖いものはないし、冷静な人間がチラッと怒った表情を見せた時ほど怖いものもない。船木誠勝が欧州修行中に出会ったフィンレーについて『殺人者の目をしていた』と証言していたが、言い得て妙だ。手にしたシレイリ(アイルランド人を象徴する棍棒)で相手を平然と殴り殺してしまうのではという"静の凄み"があった。ファイトも、その静の面と荒々しい道の面を持ち合わせているから観る者をゾクッとさせる。そして細かいところで、いちいち気が利いている。『この人を怒らせたら、とんでもないことになる』というエゲツなさが何気ない攻撃から感じられる。相手からも観客からもこう思われたら、フィンレーの勝ち。大げさなパフォーマンスやアクションなしで『とんでもない奴だな』と幻想を膨らませえられる男だ。今のレスラーがフィンレーのファイトから学ぶことは多々あると思う」

"近年最高最強レスラー"デーブ・フィンレーはどのようなレスラー人生を歩んで、このような冷酷で凄みのあるプロレスラーとなっていったのだろうか。

デーブ・フィンレーは1958年10月20日北アイルランド・ベルファストで生まれた。
少年時代からアマチュア・レスリングに打ち込んでいたフィンレーは1978年10月にプロレスデビューを果たす。
イギリスマット界を統括しているジョイント・プロモーションズでキャリアを積んだ。イギリス遠征時代の佐山聡や前田日明との対戦経験もある。大英帝国ライトヘビー級王座や大英帝国ミッドヘビー級王座に輝いたフィンレーは1983年7月に新日本プロレスに初来日。初代タイガーマスクとなった佐山との対戦している。

二度目の来日は1985年1月に第一次UWFだった。
当時、格闘プロレスとして、プロレス界に一石を投じていたUWFについてフィンレーはこう語っている。

「イギリスのレスラー達のベーシックなレスリングは、グラウンド技を主体としたスタイルなんだ。だから木戸修や藤原喜明のような優秀なレスラーと技で勝負できるのは喜ばしいことだ。レスリングの中にマーシャルアーツを取り入れることは、俺は悪いことだとは思わない。俺達のレスリングの中にも柔道の投げ技は取り入れられているしね。型にはまったものを改良していくのは、かえって刺激があっていいじゃないか」

その後、フィンレーはヨーロッパを代表するプロレス団体CWA(キャッチ・レスリング・アソシエーション)を主戦場にしていく。

CWAとはオーストリア出身のプロレスラー"欧州の重戦車"オットー・ワンツがプロモーターを務めたヨーロッパのプロレススタイル"キャッチ"をバックボーンとし、ドイツを拠点としたヨーロッパ最大のプロレス団体だ。ラウンド制で、倒れた相手への攻撃は反則で、ダウンカウントを取るのが彼らのスタイルだ。ヨーロッパ各地、アメリカやカナダのレスラーも参戦し、新日本プロレスと業務提携をし、日本の若手選手の武者修行の地としてCWAで経験を積ませていた。

フィンレーはCWA世界ミドル級王座を4回獲得、かつて藤波辰爾が保持していたことがあるCWAインターコンチネンタルヘビー級王座も獲得した。"英国の魔術師"スティーブ・ライトはフィンレーのライバルだった。

CWAを主戦場にするようになってフィンレーは1991年2月から再び新日本に参戦することになった。フィンレーはジュニアヘビー級の強豪外国人レスラーとして新日本の常連となった。その年のトップ・オブ・ザ・スーパージュニアにもヨーロッパ代表として参加している。

当時の新日本ジュニアのエースである獣神サンダー・ライガーはフィンレーについてこう語る。

「フィンレーは反則をやりながら、レスリングの巧さがあった。あの人はマスター! 巧いよ、魔の取り方とか。あの人のファイトはナチュラルなの。きっちり試合ができて、試合の空気をクッと締めるんですよ。だから、成績的にはそれほどじゃなかったけど、若い人間の勉強のために毎年来てもらったんですよ」

1994年のベスト・オブ・ザ・スーパージュニア公式戦ではライガーを圧倒し、得意のツームストン・パイルドライバーから"サイドアップ・パワーボム"と呼ばれる変型俵返し(サイドスープレックス)で完勝している。

また新日本プロレスでジュニア戦線で若きスターとして活躍していた大谷晋二郎はこう語る。

「スーパージュニアに出始めの頃、ボクもまだ若手でキャリア不足でしたからね。でも、あの当時、クリス・ベノワ、エディ・ゲレロ、ディーン・マレンコ、デーブ・フィンレ―っていう強い人たちと対戦できたことが強く印象に残っているし、いい経験になった。ガイジンジュニアといえば、ボクの中ではその4人なんですよ!

1995年、フィンレーはベルファスト・ブルーザーというリングネームでWWEに次ぐアメリカ第二のプロレス団体WCWに移籍する。そこではイングランド出身でフィンレーと同じくCWAを主戦場にしていたことがあるロード・スティーブン・リーガル(ウィリアム・リーガル)と抗争を展開。キャッチで育った二人がストリートファイトで決着戦を行うなどエスカレートしていった。
フィット・フィンレーに改名すると1998年5月にブッカーTを破り、WCW世界TV王座を獲得した。

だが、2001年にWCWは崩壊し、フィンレーはWWEに移籍し、裏方のエージェットに転身し、後進の育成に専念した。
また女子選手達(ディーバ)のコーチを務め、彼女達にレスリングの基礎を徹底的に叩き込んだ。

裏方となったフィンレー。
もうリングに上がることなく終わるのかと思われていたが、2005年12月にリングに復帰した。
長髪で髭面だったフィンレーは、短髪に変貌していた。
47歳となった男の実力に衰えはなかった。

ケルティック・クロス(シュバイン)、ケルティック・ノット(変形インディアン・デスロック)、ローリング・ヒルズ(カナディアンロッキーバスター)といった新技という引き出しを開けたフィンレーはキャッチのテクニックと観客操縦能力をいかんなく発揮し、2006年7月にはボビー・ラシュリーを破り、WWE・US王座を獲得。2009年にはプロレス界最大のビッグイベント「レッスルマニア」にも出場した。

2010年からは再びエージェントとなったが、2011年3月にWWEを退団した。
WWEを去ったフィンレーはアメリカのインディー団体を転戦し、日本のSMASHにも参戦し、恐怖の大王として君臨した。

2012年2月19日のSMASHでTAJIRIを破り、前年11月に初参戦で戴冠したSMASH王座を返上した。試合後、フィンレーはこの言葉を残している。

「Keep wrestling classic」

フィンレーの言葉を受けて、TAJIRIはWNC(レスリング・ニュー・クラシック)という団体を旗揚げしたのだが、この言葉はレスラーだけではなく、我々ファンやマスコミ、メディアなど全体的に向けたフィンレーのアンチテーゼだったのではないだろうか。

「プロレスは進化していくが、その前にはレスリングの基本や伝統が大切なんだよ」

このようなメッセージを込めてフィンレーは発したのではないだろうか。
雄弁ではない男が放った"言霊"はあまりにも重い。

2012年にフィンレーはWWEに復帰し、プロデューサーという重責を担うことになり、彼は裏方へと戻っていった。

また息子のデビッド・フィンレーは2015年に新日本プロレスに入団し、青い目のヤングライオンとしてプロレス道を邁進している。

思えばデーブ・フィンレーのコスチュームは長年、ダブルショルダーのスパッツだった。
そのコスチュームはマイナーチェンジを繰り返していっても、緑色を基調にしたものだった。フィンレーの母国であるアイルランドは美しく緑多い風景から「エメラルド色の島」と呼ばれている。だから彼がコスチュームに使用していた緑色はアイルランドのシンボルカラーなのだ。
ちなみにアイルランドのお祭り、セントパトリックス・デー(アイルランドでキリスト教を広めたセント・パトリックの命日でアイルランドでは祝日とされている)には緑色の服を着て、緑色のビールを飲み、緑色の食べ物を食べる風習があるという。

そしてプロレス界にも長年アイルランドを背負い、闘い続けた男がいた。
それがデーブ・フィンレーだ。
アイルランドのシンボルカラーを背負い続けた男の軌跡には不気味で戦慄や冷酷、凄みに満ちた"恐怖"が付きまとう。
緑色の恐怖は年輪を重ねるごとに増していったように私は思えるのだ。
残念ながらキャッチというスタイルは時代と共に風化しようとしている。CWA活動停止後はヨーロッパのプロレスはWWEスタイルのプロレス団体が中心となった。
それが現実だ。
それでもデーブ・フィンレーがキャッチが生んだ最高級の選手であることは紛れもない事実なのだ。

"恐怖の大王"はキャッチがなければ誕生しなかったかもしれない。

AKIRAがかつてこのような発言をしたことがある。

「イギリスの舞台俳優はハリウッドで活躍する奴らから恐怖と尊敬の意で見られている」

キャッチという世界から誕生し技量と器量を磨き、やがて実力を身に着け、プロレスという小宇宙を支配することで、多くの逸話と幻想を生んだ"近年最高最強レスラー"デーブ・フィンレーの伝説は、恐怖と尊敬に包まれている。

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

AD

Ameba人気のブログ

Amebaトピックス

      ランキング

      • 総合
      • 新登場
      • 急上昇
      • トレンド

      ブログをはじめる

      たくさんの芸能人・有名人が
      書いているAmebaブログを
      無料で簡単にはじめることができます。

      公式トップブロガーへ応募

      多くの方にご紹介したいブログを
      執筆する方を「公式トップブロガー」
      として認定しております。

      芸能人・有名人ブログを開設

      Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
      ご希望される著名人の方/事務所様を
      随時募集しております。