ジャスト日本のプロレス考察日誌

プロレスをもっと広めたいという思いブログをやってます。新旧洋邦のレスラーを取り上げた「俺達のプロレスラーDX」を連載中!
ご愛読よろしくお願いいたします。
※コメントは大歓迎しますが、ご返信できませんのでご理解のほどよろしくお願いいたします。

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<無料公開中>超獣ブルーザー・ブロディ前編■「斎藤文彦INTERVIEWS④」

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壮絶! アントニオ猪木との7度のシングルマッチ…ブルーザー・ブロディ後編■「斎藤文彦INTERVIEWS④」

拝啓 ブルーザー・ブロディ様/ブルーザー・ブロディ【俺達のプロレスラーDX】

※ブルーザー・ブロディがもし生きてきたら今年(2016年)で70歳。正直、70歳のブロディは想像がつかない。

ブロディで個人的に印象に残っているのが1988年4月大阪で行われた天龍源一郎との史上初の三冠戦。恐らくブロディ史上例がないトップロープからのキングコング・ニードロップを敢行。

このニードロップの破壊力、跳躍力、美しさ…どれとっても満点!!

これ以上に素晴らしいニードロップに私は出会ったことがない。

ブルーザー・ブロディの時代は確かにあった。そして、外国人レスラーで日本武道館で追悼興業が行われたのは彼ぐらいだろう。
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俺達のプロレスラーDXは2014年5月にTwitterから始めた連載です。2015年1月からはアメブロに移行し、現在は130人以上のプロレスラーを取り上げてきました。

新旧洋邦のプロレスラーを考察する中で、テーマを絞って三人や五人のプロレスラーを取り上げるシリーズ連載を始めました。

今回はそのこれまで取り上げたシリーズ連載をご紹介します。

【シリーズ カリスマ】
俺達のプロレスラーDX 第99回 カリスマになれなかった英雄(ヒーロー)型アンドロイド/アルティメット・ウォリアー
シリーズ カリスマ①

俺達のプロレスラーDX 第100回 1986年からの前田日明~カリスマとなった俺達のアキラ~/前田日明
シリーズ カリスマ②

俺達のプロレスラーDX 第101回 未来を担う知能犯がカリスマになる日/セス・ロリンズ
シリーズ カリスマ③

※シリーズ連載第一回目のテーマは「カリスマ」。
カリスマになれなかった選手、カリスマになった選手、今後カリスマになるかもしれない選手という選出をすることになり、この三人を取り上げました。
カリスマとはその世界の牽引者であり、選ばれた者しかなれない特別な存在です。
今後もプロレス界にどんなカリスマが誕生するのでしょうか!?

【シリーズ 日本の悪党】
俺達のプロレスラーDX 第108回 日本最凶のヒール王 壮絶な覚悟とプロ意識/上田馬之助
シリーズ 日本の悪役①

俺達のプロレスラーDX 第109回 暴発の新人類~馴染めないナチュラル・ヒール~/北尾光司
シリーズ 日本の悪役②

俺達のプロレスラーDX 第110回 偶然と必然が産んだ世界が恐れる悪魔忍者のヒール革命/グレート・ムタ
シリーズ 日本の悪役③

※悪役レスラーはプロレスならではのポジションであり、プロレスラーとして技量と器量が問われます。
日本人の悪役レスラーをテーマにしたいと考え、この連載に繋がりました。
日本一のヒールレスラーである上田選手、大ヒールになれる可能性があったものの開花することなく引退した北尾選手、ヒールの概念を変えたムタ選手を取り上げることで「悪役レスラー」について考察しました。

【シリーズ 職人レスラー】
俺達のプロレスラーDX 第121回 熟練職人レスラーの巧妙で性悪なコンダクト/タリー・ブランチャード
シリーズ 職人レスラー ①

俺達のプロレスラーDX 第122回 男は黙って飄逸に忠義を往く~日本最高の職人レスラー物語~/保永昇男
シリーズ 職人レスラー②

俺達のプロレスラーDX 第123回 精密なベーシック・マシン~頭脳派職人レスラーの計算~/マイク・ロトンド
シリーズ 職人レスラー ③

※シリーズ連載三回目のテーマは「職人レスラー」。実は個人的に職人レスラーが好きなんですね。だからこそこのテーマについて考察したかったんですね。
タリー・ブランチャード、マイク・ロトンドというアメリカン・プロレスの脇役を取り上げることができたのは自分にとって自信になりました。

【シリーズ 巨人】
俺達のプロレスラーDX 第131回 川の流れのように~国民的巨人となった"金のなる木"~/ジャイアント馬場
シリーズ 巨人 ①

俺達のプロレスラーDX 第132回 巨大で邪悪な問題児によるサイコな世界征服/セッド・ビシャス
シリーズ 巨人 ②

俺達のプロレスラーDX 第133回 俺に明日はない~職業 大巨人レスラーの存在意義~/ビッグ・ショー
シリーズ 巨人 ③

俺達のプロレスラーDX 第134回 塵も積もれば"大魔神"となる~心優しき叩き上げの巨砲伝~/石川修司
シリーズ 巨人 ④

俺達のプロレスラーDX 第135回 海に浮かぶ森~無欲の天才巨人レスラー物語~/ドン・レオ・ジョナサン
シリーズ 巨人 ⑤

※シリーズ連載四回目のテーマは「巨人」。これはブロガーさんのアステカイザーが長期連載している「巨人」を私は愛読しているんですね。

巨人【まつすぐな道はさみしい(改)】

これを読んでいくにつれて、自分なりのやり方で「巨人」をテーマにして書いてみたいなと思ったんですね。アステカイザーさんの巨人は柳澤健氏「1964年のジャイアント馬場」をバックボーンにして、力道山からの日本プロレス史を取り上げているんです。ならば私が考えるジャイアント馬場についてまずは書いてみたいと思いましたし、巨人レスラーというテーマで考察もしてみたくなりました。
そこで五人の巨人レスラーを選出しました。

実は巨人レスラーも選ばれし者にしかなれないポジションなんです。ただ大きいだけでは巨人レスラーではなく、そこに怪物性やスケールのでかいプロレスラーとしての器量もなければいけないと知りました。

ちなみにこのシリーズのラストに取り上げたドン・レオ・ジョナサン選手はあのアンドレ・ザ・ジャイアントにも影響を与えた天才プロレスラー。巨人というテーマで取り上げるなら彼は外せなかったです。

【最後に】
シリーズ連載はあらゆるテーマであらゆるプロレスラーを取り上げていきます。
「俺達のプロレスラーDX」は私にとってライフワークです。
恐らく色々と様々な記事を書いたりするでしょうが、その基軸は「俺達のプロレスラーDX」であることは変わりありません。

今後とも「俺達のプロレスラーDX」をよろしくお願いいたします!!
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俺達のプロレスラーDX
第137回 地下プロレス帝王の黒歴史~彼は最強か? 危険か?~/ローラン・ボック



瞬間最大風速でプロレス界を駆け抜けていった男一一。
ローラン・ボックこそ「伝説」の2文字が似合うレスラーである。
【私の胸を熱くした 伝説のレスラー 水道橋博士/2002年10月30日付 東京スポーツ】

ローラン・ボックほど伝説と幻想に包まれたプロレスラーはいないかもしれない。
191cm 120kgの強靭な肉体、アマチュア・レスリングでの実績に裏打ちされた実力とプロレスの範疇を越えた圧倒的な強さと相手の攻撃をあまり受けない姿勢がボックのプロレススタイルだった。
「地獄の墓掘り人」、「欧州の帝王」、「ドイツ最強の男」という異名を持っていたボックはプロレス界で異彩を放つ存在だった。
今回はそんなボックのレスラー人生を追う。

ローラン・ボックは1944年8月3日ドイツ・バーデン=ヴュルテンベルク州ガイスリンゲン・アン・デア・シュタイゲという町に生まれた。
彼はレスリング(アマチュア・レスリング)を始めたのは14歳の時だった。

「たまたま友人がレスリングの練習についていくというので、見学がてら付いていって一緒に練習していたら、そのクラブのコーチが私の体格と身体能力に驚いてね。レスリングの知らないはずの私の動き、そして教えられたことをすぐに実行できる呑み込みの早さを見て、ポテンシャルの高さを凄く評価してくれたんだ。その日をきっかけに私自身もレスリングに興味を持ってね。それから週2回の練習に通うようになったんだ」

レスリングの才能に目覚めたボックは1961年にドイツ(当時は西ドイツ)ジュニア選手権優勝、1963年レスリングドイツ選手権3位と実績を上げ、東京オリンピックドイツ代表候補に選ばれたという。
1968年にはドイツ選手権フリースタイルで初優勝、グレコローマンスタイルでも3位に入賞し、メキシコオリンピック・グレコローマンスタイルヘビー級ドイツ代表に選出されるも11位という不本意な成績に終わる。

「メキシコでの試合は私にとって非常に過酷なものだった。メキシコシティは約2200mの高地にあって、空気が非常に薄いので普通の呼吸ができなかったんだ。そんなわけで、いつもながら楽勝か最悪でも引き分けに持ち込める相手とも、ひどい試合をしてしまった」

その後、1970年にはヨーロッパ選手権を制覇したボックだったが、ミュンヘン・オリンピック直前のヨーロッパ選手権を体調不良でドクターストップがかかったこと、興奮剤の使用を巡って協会とトラブルとなったことなどの要因が重なり、ボックはすでに内定していたミュンヘン・オリンピック出場資格停止とナショナルチームからの除名処分を食らった。
そんなボックに1973年にプロレス転向のオファーが届く。

「実はプロ入りを決める前に、ドイツ国内で最も権威のあるリーグのレスリングクラブからいい条件でオファーをもらっていてね。ナショナルチームを外れてからもコンディションを整えていたし、私はそこに参加することになっていたんだ。そんな時にスイスのポール・バーガー(IWGP創設時の実行委員の一人で、後にボックのマネージャーとなる人物)」から、プロレス転向のオファーが届いたんだ。私は即座にプロ転向を決めた。その最大の理由はレスリング協会が私をナショナルチームのメンバーから外したことだ。あの一件がなければ、私はプロレスラーにならなかったと思う。誰よりもアマチュア・レスリングを愛していたからね」

フランス人のクラウデ・レオン、ベルギー人プロレスラーのジョニー・ロンドスのコーチを受けて1973年9月にプロレスデビューをしたボック。
実はボックはプロレス転向する以前は、プロレスに関心も観たこともなかったという。

「日本やアメリカと違って、ドイツではプロレスはそれほどメジャーではないからね。特にアマチュアのレスラーはプロレスを真剣な競技とは考えておらず、単なるショーと捉えていた。だから私がプロに転向した時、メディアからは随分ネガティブなイメージで叩かれたもんだよ。しかし、プロレスというものが単なるショービジネスではなく、非常に過酷なスポーツであり、時にはアマチュア・レスリングよりもハードで、アマチュアのルールでは禁止されているものさえ存在することを私は数ヵ月の練習を通じて知った。だから世間の目など気にせずに自分の道をベストな形で進み、この世界で成功を収めようと思ったんだ」

29歳での遅咲きデビューのボックは翌年(1974年)8月にミュンスターで、"岩石男"という異名を持ちプロレス界最強のシューター と言われているジョージ・ゴーディエンコとシュートマッチを展開する。試合には敗れたがボックはこう語る。

「彼(ジョージ・ゴーディエンコ)は私に対して骨折させるような攻撃を加えてきたり、通常の試合とは異なる"おかしな"ファイトを仕掛けてきた。もし真剣に彼の攻撃をかわさなければ、試合中に私は本当にどこかの骨を折られていたかもしれない。試合後にある選手が真相を教えてくれたよ。あの試合はプロモーターが私の実力を試すため、それからジョージがどこまでシリアスなファイトで私を打ち負かすかを観るために、彼を"シューター"として雇って私に当てたんだ。結果的には、ジョージが病院送りになったんだがね(ゴーディエンコはこの試合で足首を骨折している)。私はジョージが入院している病院を訪ね、それ以来、私達は親友となった。ジョージは私のプロレスのキャリアの中で、最も強いレスラーのひとりだった」

後にゴーディエンコは雑誌のインタビューでこう答えた。

「ローラン・ボックこそドイツ史上最強のレスラーだった」

ちなみに同年ミュンヘンに遠征に来た"仮面貴族"ミル・マスカラスにもボックは勝利している。あのマスカラスにプロレスのリングで勝利しているのだから、やっぱりボックはただ者ではない。
またテレビ番組で熊と対戦し勝利をしたこともあった。

1978年11月、ボックは新日本プロレスのエースでモハメド・アリと異種格闘技戦で対戦した日本のアントニオ猪木を招聘した「キラー・イノキ・ヨーロッパツアー(欧州世界選手権シリーズ)」が開催された。
猪木を主役にしたヨーロッパ遠征では猪木の異種格闘技戦も組まれた。
ボックはこのシリーズのプロモーターだった。
そして、同年11月25日にボックは猪木と対戦した。
ツアー中にボックと猪木は二度対戦し、ボックの一敗(反則負け)一分だった。
三戦目となったこのシュツットガルトでの試合。
ボックは静かに燃えていた。

「私は誰がリングの上のマスターなのかを猪木に知らしめてやりたかった。シュツットガルトのあの試合中に彼の攻撃で受けた怪我は大変な激痛を伴った。だから、私と同じように血しぶきのあがる、彼にとって忘れられない試合にしてやろうと考えたんだ。実を言うとこの試合の後、私は三日間ホテルに閉じこもってベッドに臥せていたんだ。猪木との激闘の疲れを回復させるためにね」

試合はボックの判定勝ちに終わり、この模様は日本でもテレビ放映され、猪木敗れるという衝撃は「シュツットガルトの惨劇」として今日も語られるほどの出来事となった。

1978年11月26日、西ドイツ・シュツットガルトで行われたアントニオ猪木との試合。当時、3週間にもおよぶヨーロッパ遠征を敢行していた猪木が、唯一負けた相手がこのボックであった。何よりも印象的であったのが、ボックが漂わす異様な雰囲気だった。当時の猪木は“負けない”レスラーであり、勝つことが当たり前。そんな猪木に対して、ボックは今までに見たことのないファイトスタイルで猪木をほんろうした。アンドレイ・コピィロフをビルドアップさせたような体、受け身の取れないスープレックス、一線を越えたシュートな攻め…。猪木を潰したこの試合を、人は「シュツットガルトの惨劇」と呼ぶようになった。そう、それはまさに「惨劇」であった。
【私の胸を熱くした 伝説のレスラー 水道橋博士/2002年10月30日付 東京スポーツ】

この試合について、新日本プロレスでトップレスラーとして活躍し、現在WWEに在籍する中邑真輔はこう分析している。

「まず試合を見て思ったのは、受け身の音とか聞く限り、マットが相当に硬いんだろうなっていうことですね。硬いと、一つひとつの受け身で地味にダメージが蓄積されていくということもあるんですけど、足さばきという部分では動きやすいし、瞬発力を使おうというときは硬い方がいいんですよね。いわゆるレスリングの差し合い、グラウンドの攻防が多いですけど、これもマットが硬いからこそ、こういう攻防にならざるを得ないんでしょう。猪木さんはたまに蹴りを出していますが、ボックはあまり打撃に対する免疫がないように見えますね。グラウンドでの関節技も猪木さんに分があるように見えるし、ボックはそれをパワーと身体のバランスでしのいでいるのかなと。ボックはもちろんパワーだけでなはないし、筋肉も柔らかそうだし、動きに硬さはない。テイクダウンや相手の体重を利用して投げるスープレックスの技術からはアマレスのテクニックを感じさせるし、スタンドで組んだときも確実に相手を差しにいく。グラウンドでも関節技を使わない動き、体さばきや相手の身体の上を移動する動きは、猪木さんよりボックの方が自然に見えます。ロープ際の攻防で流血させられてエキサイトしたボックの姿を見ると、地元で頭を張って、気を吐きながらやっているというプライドは見えますよね。ナメられてたまるかっていう気概は感じられます。ボックはルールを最大限に生かした闘い方をしていて、単調な攻防のなかでもスタミナを奪い取って、のらりくらりとポイントを貯めていくというか、ルールの特性を生かしてますね。結果として3-0という判定も、この内容を見る限りは納得できるなって思います」

ちなみに猪木はボックについてこう語っている。

「凄い野心家だと思うんですね。その野心家の中で、ただ戦略的に成功しなかったというか、このー、非常に我々の考えてるものとは違う、という部分でね。ただ、そのやはり一つの殻から飛び出して行こうというエネルギーというのは凄かったと思うね。彼によってずいぶん多くの選手が怪我をして、再起不能になったというのもね、知ってますしね」

ボックがプロモートしたこのシリーズは興行的には惨敗に終わり、ボックが関わっていた興業会社は倒産し、一部の選手達へのギャラは支払われなかった。
初代タイガーマスクのライバルとなるイギリス人プロレスラーのスティーブ・ライトもこの一件の被害者の一人だ。
ライトはボックをこう断罪している。

「ボックはプロモーターの器じゃない。レスラーとしても貧しい男だ。プロレスは相手の実力を尊重しなければ決して成立しない競技なのに、ボックは相手にケガをさせてまで自分をよく見せようとするヤツだ」

1979年に日本で猪木と再戦する予定だったが、交通事故に遭い来日が中止となったが、その後、地元ドイツで"世界の大巨人"アンドレ・ザ・ジャイアントと対戦し、スープレックスで投げることに成功したという。
だがアンドレ戦後、ボックは血栓症となり、入院。
しばらくリングから遠ざかるようになった。

「血栓症の治療中は一切のトレーニングを行っていないし、できるようになってからも以前に比べてずっと少ない練習量になってね。私はレスリングをすることで、あのような事態になることが再び起きるのが怖かった」

1981年7月にようやくボックは新日本プロレスに参戦するも、コンディションに不安を抱えていた。実際に彼の肉体を見てみると、シュツットガルトでの猪木戦に比べると腹回りが締まっていないのが分かる。

それでも日本での第一戦となった1981年7月31日の大阪大会での木村健吾戦でボックは1分35秒で秒殺。アマレス流の反り投げ、フィニッシュとなったダブルアーム・スープレックスはまさしく圧巻だった。
対戦相手となった木村は後にこう振り返っている。

「僕はいろんな選手と試合をしてきましたが、リングに上がった時に、"怖い!"と感じたのは彼だけです。震えが出てくるような感じで、本当に怖かった…。試合をしているときも"このまま無事に帰れないだろうな"と思ってました。もう二度と闘いたくない相手ですね」

日本でフィニッシャーとして使用していたダブルアーム・スープレックスにはボックが長年培ってきたアマレスのバックボーンを感じさせる"投撃"だった。

ボックのダブルアーム・スープレックスはよくワン、ツーのタイミングで投げる、もしくは引っこ抜くと表現される。(中略)ボックは「高く持ち上げる」というプロセスを省き、いきなりたたきつける動作に入っている。ビル・ロビンソン(特に後期)やジャンボ鶴田のように大きく弧を描いてから投げ捨てる方式であれば受身を上手く取ればショックはやわらげられるだろうが、ボックの投げ方は、投げられるレスラーの運命はボックにゆだねられているといっても過言ではない危険な投げ方である。「その技が出れば試合は終わる」という必殺技の定義が当てはまる最後の必殺技がこのボックのダブルアーム・スープレックスだったといえよう。
【ミック博士の昭和プロレス研究室/ローラン・ボックのダブルアーム・スープレックス】

この技の元祖は"人間風車"ビル・ロビンソンだが、彼の愛弟子でダブルアーム・スープレックスを得意技にしている鈴木秀樹はこの技についてこう語っている。

「ロビンソンのダブルアームスープレックスは、相手の頭を自分のお腹に当てるんじゃなくて、ハーフハッチに行ってから投げるんです。相手が堪えるから投げれる体勢になるし、そのまま下に押し潰すこともできる。顔から押し潰されたら受け身は取れなくて危険です。プロレスにはそうやって見せるための技が多いとは思っていたし、そういう要素は必要なんですけど、基本的に理にかなった技なんですよ」
【Dropkick“ビル・ロビンソン最後の弟子”鈴木秀樹インタビュー「弱いプロレスラーは迷惑なだけです」】

長州力、ラッシャー木村、タイガー戸口(キム・ドク)といった日本人レスラーを次々と倒していったボック。一部ではプロレス界真の世界王者を決めるIWGPリーグ戦の優勝候補として名が上がるほどだった。

1982年1月1日後楽園ホール大会でボックは猪木と約3年ぶりの一騎打ちを行った。
だがボックのコンディション不良がリング上で目立つようになり、試合内容も低調に終わり、反則負けを喫した。
実はボックにはこの一戦にある決意を固めていたという。

「私はこの猪木との試合を最後に、プロレスラーとしてのキャリアをこれ以上を続けるつもりはなかった。私はすでに37歳になっていたし、それくらいの年齢になったらレスラーはリングを下りるべきだよ。だからあの猪木戦が私の現役最後の試合だ」

この試合を最後にボックは引退。
9年間のプロレスラー生活だった。
その後のボックがどのような人生を送っていたのかはなかなか情報が入ってこなかった。
一部では消息不明とも言われた時期もあった。
ここからが"墓掘り人"が歩んだ第二の人生である。

ボックは引退後は事業家に転身するも、だがあの「シュツットガルトでの惨劇」を生んだ欧州世界選手権シリーズでの税金の未払いと、そのシリーズの資金調達に関係していた第3者の個人投資の損失のため、罪に問われ懲役二年の判決を受ける。
ボックは個人資産、経営していた所有地を失い、牢獄に入ることになる。

出所後、ボックは1991年にタイに移住し、貿易業を始める。
だが、2003年に中国に訪れた際に当時、流行していたSARSに感染し、その治療のため故郷のドイツに戻ることになった。
現在は靴の販売業をして生活しているという。

プロレスラーというものは、存在自体が“なつメロ”っぽいものだが、彼は伝説のまま去ってくれた。その後何度か来日したものの、私の記憶の中のボックはあの試合で止まっている。せいぜいアンドレ戦を覚えているくらいだ。ローラン・ホックのおとぎ話は 「シュツットガルトの惨劇で」完結してしまった。彼は老醜をさらすことなく、瞬間最大風速のまま私の前を通り過ぎていったのだ。
【私の胸を熱くした 伝説のレスラー 水道橋博士/2002年10月30日付 東京スポーツ】

ローラン・ボックのレスラー人生を振り返ると、どこか闇や霧といったドス黒さが付きまとう。
プロレスラーとしての評価も賛否は分かれる。

「他のレスラーを骨折させたり、負傷させたりすることは私の性格が許さない」と語っていたボックだが、その一方で故意に相手を骨折させ、攻撃一辺倒な一面を持つ。

「アマチュアレスラーとしてのキャリアを見てもらえればわかる通り、私は世界的に最も強いヘビー級選手のひとり」という自負があるボックにはどこか自己顕示欲と若干過剰ともいえる自信が見え隠れする。

ある者は地上最強のレスラーと称え、ある者はマット界の危険人物だと警戒した。
彼の"性根"と"怪物性"がこのような賛否分かれる評価に現れた要因になったのではないだろうか。

決してNWAやWWE,AWAといったメジャータイトルを獲得したわけではない。
逸話はあるが、名勝負を残したわけではない。
どんな光やカラーでも消してしまう強烈な闇を持つ男だった。
ローラン・ボックはどこか"地下プロレス"の匂いを漂わせていた。
彼のレスラー人生はメジャーではない、インディペンデントでもなく、どこまでも闇が漂うアンダーグラウンドだった。生活において、見えないものや未知のものに我々は緊張や恐怖や脅威を抱きやすいものだ。ボックの妖気ともいえる強さとは地下という闇に隠れているからこそより際立つものだった。

だがそんな"黒歴史"ともいえるレスラー人生だったからこそ、今なお彼は最強幻想、あるいは最強伝説が唱えられるプロレスラーになったともいえよう。

「プロレスは私にとって冒険だった。最初は何に立ち向かうことになるのかも、このビジネスでどう自分をうまく売り出していけばいいのかもわからなかった。今、自分のキャリアを振り返ってみて、プロレスはもっとショー的要素の少ない、真剣な闘いにするべきだと断言できる。アマチュア・レスリングと同じであるべきとまでは言わないが、プロレスもまたレスリングであり、ただの面白いショーだけではないことを示すべきだと思う」

プロレスとはあらゆう境遇や立場にいる者にスポットライトが当たるステージだ。
それが例えジャンルを犯す"侵略者"や"破壊者"、"異端児"だったとしてもだ。
誰かを救う場所でもあるが、誰かをのみ込むブラックホールのような世界だ。

プロレスとは底が丸見えの底なし沼とはよく言ったものである。

"闇の帝王"ローラン・ボックはブラックホールのような地下で輝くからこそ、"底なし沼"のプロレス界で今も語り継がれているのだ。


主要参考文献
・「Gスピリッツ vol.21」(ローラン・ボック インタビュー/辰巳出版)
・「超一流になれなかった男たち」(流智美 著/ベースボール・マガジン社)
・「日本プロレス事件史 vol.1」(ベースボール・マガジン社)










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俺達のプロレスラーDXを更新しました。

"地獄の墓掘り人"として恐れられたローラン・ボック選手を取り上げました。

地下プロレス帝王の黒歴史~彼は最強か?危険か?~/ローラン・ボック【俺達のプロレスラーDX】

是非ご覧ください!

さて次回はゼロワンの田中将斗選手を取り上げます。

お楽しみに!!
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GK金沢克彦コラム連載第105回!! 「プロレス界のど真ん中に居座る男」【THE BIG FIGHT】

※オカダに敗れても今の新日本プロレスは内藤哲也の掌の上にある!?

"反逆のカリスマ"内藤哲也、2016年の男になる予感…。
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発想に場外乱闘を持たせる 古舘伊知郎さん、プロレス中継で学んだ事【産経新聞】


※「プロレス実況をやる可能性ですか? 僕の原点で、ブランクもありますし、イメージしてもらっているうちが華で、やらない方がいいと思います。ただ、4年後の東京五輪開会式の実況は、夢想はします」

いつか新日本プロレスのビッグマッチで古舘さんのプロレス実況を聴いてみたいですね。
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俺達のプロレスラーDX
第136回 玉砕の果てに~和製爆弾小僧と呼ばれた"やられ屋"の漂流~/菊地毅



「菊地毅は今、プロレスで非常に悩んでいます」

2011年6月2日ユニオンプロレス新宿FACE大会で行われた天龍源一郎VS菊地毅の煽りVTRの冒頭で彼は率直に思いを述べた。

「自分で充実した期間がかつてあったから今、悩んでいる」

このVTRでは菊地は自らが充実した時間はかつて全日本プロレス時代に付き人を務めたことがあるジャンボ鶴田に果敢にも立ち向かった1990年代初頭と定め、今はもう天国にいる鶴田を巡る旅に出るために鶴田を彷彿とさせるユニオンのエース石川修司や鶴田最大のライバル天龍源一郎といった強豪と闘うというストーリーがテーマとなって構成されていた。

「(鶴田さんを)蘇えらせたいんです。逢えないから逢いたいんです」

当時46歳、キャリア23年の菊地の言動はどこかパンチドランカーのようにどこから呂律が回っていない。そこに感じるのは彼が歩んだレスラー人生の哀愁と傷跡。
菊地の語りに合わせて流れるBGMはベン.E.キングの名曲「Stand by me」のインストロメンタル版。

鶴田に逢いたい。
最も充実していたあの"自分"に逢いたい。
奇人、変人、パンチドランカー扱いをされてもその想いを貫く菊地。

そもそも菊地はどのようなレスラー人生を歩んだ末にこのようになったのだろうか。
もしかしたら、私達は菊地毅を過小評価をしているのかもしれない…。

菊地毅は1964年11月21日宮城県仙台市に生まれた。
小学・中学と地元のスイミングクラブに通い、水泳に打ち込んだ。
一級下のクラスには後にプロレスリング・ノアで同僚となる齋藤彰俊がいた。

高校に入るとレスリングを始めた。そのきっかけは?

「きっかけはフィギュアスケートの渡辺絵美さんなんです。スタイルもよかったし、ハーフの美人で別の世界の人みたいに思っていて、どうすれば近づけるかなと考えた時に、"学校で一番強いスポーツのクラブに入り、同じスポーツの世界で上に行けば、いつか会えるかも…"って。うちの高校(東北工業大学電子工業高等学校)はレスリングが強かったんです。宮城県では優勝は確実で、全国だったらベスト8くらいですかね」

プロレスとの出会いはレスリング部に入部した高校時代に読んだ漫画「1.2の三四郎」だった。

「『1.2の三四郎』を読むようになって、それからテレビで佐山さんのタイガーマスクを観るようになって、そこで自分の目に映ったのがライバルのダイナマイト・キッドだったんです。プロレスラーになりたいという気持ちが芽生えたのは、それからですね」

大東文化大学に進学し、高校と同じくレスリング部に入ると、才能を開花。
1986年には全日本濁世選手権フリースタイル100kg優勝を果たした。
実はこの優勝にはこんなエピソードがあった。

「大学のレスリングの先生が元々は日体大の重量級の選手で、鶴田さんと面識があったんです。それで全日本学生選手権の前に、後楽園ホールで鶴田さんに紹介してくれたんですね。その時、鶴田さんに"君は身長もないから、何らかの実績を残しなさい"と言われて、そこからまた頑張りましたね」

1987年3月、菊地は全日本プロレスに入門する。
当時の全日本は新人レスラーの宝庫だった。
角界からジョン・テンタ、高木功、田上明という金の卵がいた。
また4月にはシューティング社会人優勝経験を持つ北原辰巳(現・光騎)、6月には小橋健太(現・建太)が入門。
そんな彼らをコーチしたのがハル薗田と渕正信だった。

全日本プロレスでのトレーニングは想像以上に厳しかった。

「準備運動から始まって、基礎トレーニングをミッチリやりましたね。それで身体の筋肉を全体的に張らせて、30分ぐらい様々な形のブリッジ運動で首を鍛えて、もうヘトヘトになった後に受け身ですよ。まずは自分で取るやつから始まって、投げられての受け身、さらに人にぶつかっていって投げられて。とにかく何十本も受け身を取らされました。前受け身、後ろ受け身、ジャンプしての受け身、ヒップトス、ボディスラム。ショルダースルー、タックルを食らっての受け身とか。どんなにヘトヘトになった状態でも先輩に立ち向かっていって受け身を取らされたのは、今考えると本当に役に立ってますね。どのような状況であっても、落とされる角度がどんなに悪かったとしても、背中から落ちるという技術が自然と身に付きましたからね。そうさせてくれましたね、先輩方が」

菊地は後に小橋、北原と"若手三羽烏"と呼ばれるようになった。

「小橋選手は、遠藤光男さん(元国際プロレスのレフェリー)の紹介で入ってきたんじゃないですか。雑用で駆けずり回っている白いタンクトップの筋骨隆々の彼を見て"スゲェ、こいつ!"って。ましてやタッパもあるし。"残るだろうな"って印象を持ちました。北原選手の場合はスーパータイガージム出身だと聞いて、"えっ!?"って。当時、自分はアマチュア・レスリング出身で"俺は強ぇんだ!"っていう気持ちがあったし、他の二人もそれぞれ"そうはいかない!"と思っていただろうし、三人がそれぞれ違うジャンルから来た人間だったから、切磋琢磨して上がっていくっていうよりも張り合っていた感じですね。例えばレスリングだったら俺のジャンルだし、関節技なら北原選手だし、馬力だったら小橋選手。極めっこはやっぱり北原選手が巧かった。研究熱心だったのは小橋選手。ほんと、あの熱心さは凄かった。俺自身はどこか"アマチュアやってるんだ。俺は違うんだ!"という甘えがあったと思いますね」

三人は本当に仲が良く、盟友関係だった。
レスリングが得意な菊地は北原や小橋にアマチュア・レスリングの技術を教え、シューティング出身の北原は菊地と小橋に関節技を教えたりしたもした。三人でガチンコの練習もしたという。

1988年2月26日滋賀・栗東大会で菊地は大熊元司相手にデビューを果たす。

「デビューした頃なんて、俺はもう『プロレスがやれればそれでいい』って感覚だった。入ったからには、しがみついてやろうって気持ちがあったかな。あの頃は百田さんにずっと説教されて。百田さんは基本にうるさい人だったから、ちゃんと手順を踏むというか理にかなった試合運びをしないと『それはおかしいだろ!』って。でも、あの当時の百田さんのお説教は後々、役に立ったね。やっぱりプロレスは基本が大事」

菊地は鶴田の付き人を務めていた。

「付き人としては楽でした。仕事場とプライベートをきっちりと分けている人でしたから」

レスリングで確固たる実績がある菊地がプロレスでは"アマチュア・レスリング"の匂いを出すことは少なかった。そこには菊地の信念があった。

「いろんな人から"アマレスのベースがあるのに、何で個性として出さないの?”ってよく言われましたけど、俺自身は"プロレスがやりたくて入ったのに、何でアマレスをやらなきゃいけないの?"って考えがありましたね」

憧れのプロレスラーはダイナマイト・キッド。
あのキッドのような肉体を目指し大学時代から自己流で鍛錬を繰り返してきた。
175cm 90kgと体格には恵まれなかった菊地にとって同じ体格のキッドはカリスマだった。

「当時はとにかくキッドみたいなレスラーになりたいっていう気持ちが強くて。キッドはツームストン・パイルドライバーからダイビング・ヘッドバットをやってたじゃないですか? 俺もそれがしたかったんですよ。でも、怖かった。相手の頭をマットに突き刺して、セットするっていうのは。だって、対戦相手にも人生があるわけですから。俺の場合はスラムだったり、スープレックスをやって、セットした相手にエルボーを落としてからのダイビング・ヘッドバットってパターンでした。そこで俊敏にコーナーに上がらないと、やっぱりツームストンじゃないから、相手は完全に伸びきっているわけではないから逃げられるんですよ。だから、俺のダイビング・ヘッドバットの成功率は低かった。でも、憧れがあったんでやり続けたし、いろいろな形でトライしたり、"その先"は自分なりに考えましたよ」

そんな菊地に転機が訪れたのは1990年の天龍源一郎を筆頭とする多くの選手離脱だった。
新団体SWSに移籍した天龍に追随する形で北原も全日本を離脱した。
菊地は全日本を去る若手にこう言って泣きながら引き留めたという。

「お前らは何で出ていくんだ? 金が必要なら俺が出してやるから、行かないでくれ! 全日本を辞めるなよ!」

菊地は選手離脱を糧にして、三沢光晴、川田利明、小橋健太が結成した超世代軍に加入。菊地は唯一のジュニア戦士。日の丸タイツをトレードマークにして菊地はトップ戦線に食い込んでいった。アイドル的人気を誇っていた超世代軍の標的はジャンボ鶴田率いる鶴田軍。
菊地にとって鶴田は恩人。
しかも体格差があった。
それでも菊地は果敢にも鶴田に立ち向かっていった。

そして、鶴田を筆頭とする鶴田軍から倍返しの攻撃を食らった。
むち打ちになりそうな背中へのダブルチョップ、内臓がえぐられるようなキチンシンク、逆エビ固めはあまりにも反りすぎて"しゃちほこ固め"となり、エルボーやビッグブーツは顎をとらえ、アトミックドロップの体勢から豪快に投げられたこともあった。
ロープやコーナーを使った拷問技で悶絶させられ、拷問コブラツイストは締め付けるあまりに菊地の頭がマットにつくほどに極められた。STFはトーホールドを極めている反対の足を首に絡めて、もはや"変型リバースバイパーホールド"という別の技と化した。
何とか反撃しようとするもカウンター攻撃を食らい、壮絶に散る。
後に川田が超世代軍を離脱し、田上とともに聖鬼軍を結成し、対角線に立つことになると菊地は川田から容赦ない攻撃を食らい続けた。ボコボコに殴られ蹴られ、締め上げられた。
菊地はリングのボロ雑巾と化していた。


これらの拷問を菊地は持ち前の肉体の柔らかさとタフネスで耐え抜いて反撃していった。
この光景に人々は喝采を上げた。
やられてもやられても立ち上がり玉砕覚悟で反撃する。
それがプロレスの醍醐味だからだ。
菊地は"和製ダイナマイト・キッド"、"火の玉小僧"という異名をもらう人気レスラーとなった。
一部では菊地のやられっぷりは"やられの美学"と形容された。
菊地のやられっぷりによって、菊地も対戦相手もより光ったのだ。
菊地は"やられ屋"になることでリングでトップレスラーに負けない存在感を放っていたのも事実だ。

「(鶴田からの攻撃は)俺にとっては、それはありがたかったですよ。俺が注目されたとしたら、それはあれだけ鶴田さんにやられたからで。まぁ、当時は"たまったもんじゃない!"と思ってましたけど。自分は這いつくばっているわけですよ。這いつくばっているのに、何で叩かれなきゃいけないのか。あの痛みは、どうにも我慢ができなかった。"何でプロレスやっていて、こんなにボコボコにされなきゃいけないんだ"って弱音を吐いたことがありましたよ」

ジャーマン・スープレックス・ホールド、フィッシャーマンズ・スープレックス・ホールド、ダイビング・ヘッドバット、ウルトラ・タイガー・ドロップを得意としていた菊地だったが、オリジナル技がまだなかった。
試行錯誤の末に編み出したのがゼロ戦キックだった。

ゼロ戦キック=レッグラリアット。全日本時代の超世代軍に在籍していた際に開発。初期型は両足で行っていたが、現在は片足で行い反転して着地できる形になった。串刺し式などのバリエーションもある。自身の体が外に流れるようにして足の内側を相手にヒットさせる木村健吾の使用する稲妻レッグ・ラリアットとは逆で、自身の体を浴びせるようにして足の外側を相手にヒットさせる
【wikipedia/菊地毅】

実はこの技は自身の足の外側が相手のあごに直撃するため、受ける対戦相手にとっては厄介な技だと言われている。

超世代軍結成してから二年。
菊地は1992年5月25日の地元・仙台大会で小橋との同期コンビでカンナム・エクスプレスを場内を熱狂させる名勝負の末、撃破しアジアタッグ王者となった。
これがプロレス人生初のタイトルだった。

菊地が是が非でも獲りたいと定めたのが世界ジュニアヘビー級王座だった。
当時の全日本ジュニア戦線は"赤鬼"渕正信王朝だった。
関節技と拷問技を得意とする王道の仕事人レスラーを倒さない限り、菊地がこのベルトを獲得することはできない。
菊地は幾度も渕に挑み、壮絶に敗れ去った。
特に1993年2月28日の日本武道館大会では高速バックドロップ10連発を食らい完敗。
菊地にとって世界ジュニア王座と渕正信の壁の高さは険しかった。

「常に渕さんのペースでした。何だか巧いんですよ。試合だけじゃなくて、渕さんを応援したくなる雰囲気を作るというか。全部、持っていかれちゃう感じでしたね。あの人の引き出しは、ひとるじゃ収まらないですよ。本当にネチネチとした試合の組み立てをしてきたしたからね」

世界ジュニア王座には実に8度目の挑戦で戴冠した。
1996年7月24日の日本武道館大会。
相手はやはり渕だった。

菊地は1995年に超世代軍を離脱し、川田や田上がいる聖鬼軍入りをした。
日の丸タイツを捨て、黒のロングタイツに変身した。
小川良成とのジュニアコンビでアジアタッグ王座にも挑戦した。
立ち位置を変えた菊地がこの渕とのタイトルマッチでは日の丸タイツを復活させ、執念のジャーマン・スープレックス・ホールドで破り、悲願の世界ジュニア王座戴冠を果たした。

「この日の丸タイツにいい思いをさせたかった…」

それが菊地の心意気だった。

「渕さん、ダニー・クロファット、小川さんと挑戦して、8回目の挑戦でようやく獲れたという感じで。それこそ"時期を逸したな"と言われた中でのベルトでしたからね。仕方がないです。これも実力なんですよ」

1997年1月に小川に破り、王座転落してから菊地はタイトル戦線はあまり絡まなず前座戦線に甘んじる機会が増えた。
悪役商会入りをし、お笑いプロレスに身を投じたこともあった。
自慢のヘッドバットの音を大観衆に響かせるためにマイクで近づけて、敢行したこともあった。
それはプロレスラーとして生きていくための手段だった。

2000年6月、当時全日本社長だった三沢光晴が独立し、新団体「プロレスリング・ノア」を旗揚げした。菊地もノア旗揚げに参加した。
ノアに参加すると菊地はジュニア戦線で再び脚光を浴びる。
同期である小橋率いるバーニングに加入し、金丸義信とのコンビでは新日本プロレスの至宝IWGPジュニアタッグ王座を戴冠した。

だが2000年代後半になると徐々に低迷していった。
実はある関係者によると菊地はヘッドバットの使い過ぎと無茶をするプロレススタイルから、パンチドランカーの症状が出てきていたという。

2009年12月、菊地は経営難によってノアからリストラされた。
フリーとなった菊地。
もう脚光は浴びることはないかと思われていたが、ノア時代から表面化していたエキセントリックな言動と変人ぶりが何故か評価されるようになった。

2010年10月6日マッスル後楽園大会。
このイベントで大ブレイクしたのは菊地だった。
ダウンタウンの年末特番を彷彿とさせる"絶対笑ってはいけない引退興行"と題した中で、笑いを量産し、マッスル主力メンバー(マッスルメイツ)はお仕置き人からケツバットを食らった。

高木三四郎の対戦相手となった菊地の煽りVTRは菊地の長々としたインタビューから始まった。

「俺、時間いっぱいあるし、今年入ってずーっと休みだったから。また仕事ちょうだいって感じかな?」

菊地の一挙手一投足に、マッスルメイツは笑いを堪えきれない。
しまいには着ていたスーツを脱いで上半身裸となり、"笑ってはいけないシリーズで爆笑を量産する"ジミー大西ばりに「一週間を英語で」とリクエストされ、英語で答え、爆笑を誘う。
そこにはかつてアイドル的人気があった男の姿はどこにもない。

試合になっても菊地の変顔に笑いが絶えない。
その後、菊地はゆかりのないレスラーの引退スピーチに呼ばれたり、覆面レスラーに変身したり、パンストを被って試合したりと衝撃を与えた。
これらの変人ぶりが注目を浴び、2010年度日本インディー大賞ニューカマー賞を受賞した。

プロレスライターの村上謙三久は菊地をこう評している。

「行き過ぎた表情、常軌を逸した行動、意味不明な言葉、昔から変わらぬ頑張り…。そんな菊地を面白がるファンがいて、菊地もそれに過剰に応えている、というのが今の状況だろう。僕が初めて全日本プロレスに興味を持った時、まず目に止まったのが鶴田軍に対して必死に抵抗する小橋健太(現・建太)と菊地毅の姿だった。この\"必死に抵抗する"イメージが小橋と菊地にはとにかく強い。ただ、大きく違うのは、小橋は徐々に"必死に抵抗して、最後は互角の勝負を繰り広げる(さらには勝つ)"と変わっていったが、菊地はずっと"必死に抵抗するも(完膚無きまでに)叩き潰される"ままだったことだ。ヘビー級相手はもちろん、ジュニアヘビーの中でも菊地は強い存在ではなかった。渕正信には徹底的にやられ、明らかに立場としては先行していたはずなのに、小川良成にはあっさり追い抜かれてしまった。それだけではない。NOAH設立後も含めると、たくさんの後輩たちの後塵を拝すようになる。でも、やられっぷりは変わらない。菊地が完勝するのを見た記憶がないが、それ以上に頑張らない菊地を見たこともない。僕が一ファンだった時代の記憶にはそんなイメージがハッキリと刻み込まれている。ただ、今になればわかる。NOAHに移ってからも地元仙台の声援をバックに何度かタイトルにも挑んだが、最後までGHCのベルトを巻くことができなかった。動きは確実に悪くなっているのがどうしても目に付いてしまう。火の玉ボムもヒザを付いた形が増え、スープレックスやゼロ戦キックの切れ味も鈍くなった。なにより、突貫ファイトができなくなっていた。気持ちではやろうと思っても身体が付いていかない。絶対王者に君臨していた小橋が"菊地さんもまだまだこれから"とハッパをかけても、それに真っ直ぐと"そうだよな!"と反応できない菊地がいた。どんなレスラーだって、どんな人間だって、そうやって年を取っていく。プロレスファンはそんな菊地を理解し、受け入れた上で、しっかりと応援していた。それに応えようと菊地も必死に戦っていた。それのひとつの表れが奇声であり、奇行なんじゃないかと僕は思う」

菊地はノアからリストラされてから、あらゆる団体に上がりながら、副業を転々とした。
とび職、ラーメン屋、牛タン屋、工場作業員…。
挙句の果てにはロックバンドを結成し、ライブまで行った。
生活費を稼ぎながら、プロレスを続ける菊地のレスラー人生はまさしく一人で大海を彷徨う"漂流人生"。
玉砕の果てに、パンチドランカー症状が出るようになった菊地だったが、引退という道を選ばなかった。
菊地は語る。

「俺は身体が続く限りというか、墓場までプロレスを持ってっちゃおうかなって。ここまできたら埋もれるんじゃなくて、やっぱり『菊地毅というのがいたんだ!』って名前を残したい。『あれ、凄かったよね!』というのを残れば嬉しい」

飽くなきプロレスへの渇望が菊地にはある。
プロレスラーとしてのプライドが菊地にはある。

「俺にはプロレスしかない」

その一念が菊地をリングに向かわせる。
もう50を過ぎた。
プロレスキャリアは四半世紀を過ぎた。
同期の小橋は引退し、北原は師匠・天龍引退以後試合をしていない。
"若手三羽烏"と呼ばれた三人の若武者の中で今なお現役バリバリなのは菊地だけだ。
また、超世代軍のオリジナルメンバーの中でも現役を続けているのは菊地だけだ。
菊地はリングに立ち続けることで、我々の魂に訴えかける。

「これが俺のプロレスなんです」

菊地と対戦した"インディーの巨砲"石川修司(195cm 140kg)は菊地をこう称える。

「僕の方が身体が大きいんですけど、身体が劣っていても正面から来る。どんなにやられても諦めないっていうのは凄いなって」

冒頭に紹介した煽りVTRのBGMで使われたベン.E.キングの名曲「Stand by me」にはこんな歌詞がある。

たとえばもし、ずっと見上げてきた空が
ある日突然、崩れ落ちてしまっても
大地が崩れてみんな海の底に沈んでしまっても
僕は泣かないよ 涙なんて流さない
あなたがそばにいてくれるのなら…
【Stand by Me / Ben E. King】

"やられ屋"が玉砕の果てにたどり着いた生涯一プロレスラーという生き方。
それは尊敬するダイナマイト・キッドだって出来なかったことだ。

「やるしかないんです」

だが菊地はまだ気がついていない。
そして、我々も…。

菊地毅の歩みはプロレス史に燦然と輝く"伝説"なのである。
それでも彼はプロレスで生きるために今日もどこかのリングに上がる。

彼にとってプロレスは人生なのだから…。

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テーマ:
俺達のプロレスラーDXを更新しました。

全日本プロレスやノアで活躍した菊地毅選手を取り上げました。

玉砕の果てに~和製爆弾小僧と呼ばれたやられ屋の漂流~/菊地毅【俺達のプロレスラーDX】


是非ご覧ください。
さて次回は、"シュトゥットガルトの惨劇"の張本人といえば、この人です。
"地獄の墓掘り人"ローラン・ボック選手を取り上げます。

お楽しみに!!
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テーマ:
ベストバウト投票スタート! 新日本プロレス6・19大阪城ホール大会であなたがよかったと思った試合は?【カクトウログさん】

新日本プロレス「DOMINION 6.19 in OSAKA-JO HALL」 2016/6/19
大阪・大阪城ホール【スポーツナビ】

※六大タイトルマッチはジュニアヘビー級王座以外は移動する結果となった。

ちなみにリングサイドで観戦していた木谷オーナーのとなりにいたのが総合格闘家の青木真也。IGFでプロレス経験もあり、最近IGF撤退をほのめかしていた青木が新日本プロレスに参戦するのか!?

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テーマ:
Dropkick
レスラーの野心が謎を生み出す……SWSに狂わされた男たち!■小佐野景浩のプロレス歴史発見

※SWSがもしも存続していたら日本のプロレス界はどうなっていたのだろうか…。

個人的には国際プロレスを豪華にした"癖のある"プロレス団体…それがSWSだったのかなと。曲者だらけの団体だったからこそ崩壊はやむを得なかった。
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