ジャスト日本のプロレス考察日誌

プロレスをもっと広めたいという思いブログをやってます。新旧洋邦のレスラーを取り上げた「俺達のプロレスラーDX」を連載中!
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※バレットクラフの重大発表はかなり意表を突いたような気がしましたね。アメリカンナイトメア。親父がアメリカンドリームですからね。かなりのアンチテーゼですね!
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※これはプロレス版マスターズリーグのようなものなのでしょうね。

このイベントに新日本の第三世代が絡むのも面白いかも…。
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俺達のプロレスラーDX
第157回 向かい風の凄玉ラブソディ~時代が天敵だった和製人間魚雷~/森嶋猛





近年のプロレス界は試合レベルや各々の才能は別にして、ますますレスラーサイズが小粒化している。
普段、外に歩いていて一目で「プロレスラーだ」と思われないレスラーも多くなってきた。
170cm・80kg台のレスラーが本来100kg以上のヘビー級の王者となれるケースがあるのが今のプロレス界だ。
それは身長や体重の大小関係なく天下が取れる時代。
それはヘビー級やジュニアヘビー級という垣根がなくなりつつあるボーダーレスを象徴する現象。
だが、そもそもプロレスの大きな魅力の一つが体格に恵まれた男達が四角いジャングルで正面衝突するのが醍醐味だ。
また身長176cm(公称は180cm)の力道山が体重や強靭な肉体(体重は116kg)でカバーして外国人レスラーに対抗し、日本中を熱狂させたのが日本のプロレス史だ。
例えば、1980年代の全日本プロレスにはスタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ロード・ウォリアーズといった怪物達が右往左往と大暴れしていた中で、日本人サイドのトップとして活躍したのが196cm・127kgのジャンボ鶴田と189cm・120kgの天龍源一郎だった。鶴田と天龍は体格でもテクニックでも外国人と真っ向から対抗して見せた。
また1990年代の新日本プロレスにはビッグバン・ベイダー、クラッシャー・バンバン・ビガロ、スコット・ノートン、トニー・ホーム、グレート・コキーナという規格外の怪物達に対抗したの日本人レスラーが闘魂三銃士として一時代を築いた188cm・108kgの武藤敬司、188cm・108kgの蝶野正洋、183cm・135kgの橋本真也だった。
(中略)
実は日本のプロレスラー史とは力道山を筆頭に外国人に対抗できるパワーファイターの歴史でもあった。
力道山、豊登、ジャイアント馬場、坂口征二、ストロング小林、ラッシャー木村、マサ斎藤、ジャンボ鶴田、天龍源一郎、長州力、谷津嘉章、橋本真也、佐々木健介、小橋健太、田上明、中西学、高山善廣…。
【DNAの怪物・樋口和貞に見る伝統的な日本人パワーファイターの系譜/ぼくらのプロレスコラム】

伝統的なプロレススタイルで、スーパーヘビー級の猛者達が集う王道プロレス・全日本プロレスの魅せられ、プロレスラーになったのが森嶋猛だった。

「俺にはなりたいプロレスラーはゐなかった。とにかく全日本プロレスが好きだった」

190cm 145kg(デビュー時は113kg、最大で170kgにまで体重増加。近年は130kg)の巨体を生かしたプロレスで過去3度GHCヘビー級王座を戴冠。
和製テリー・ゴディ、和製人間魚雷とも言われる通り、体格を生かしたパワー&スピードを軸にした怒涛の攻撃と相手の攻撃を活かす豪快な受け身、試合運びのうまさはまさしく日本のテリー・ゴディ。
DON'T STOP・モンスター、リング・クラッシャー、重戦車、ジャンボ鶴田の再来、クロフネ、超危暴軍の首領とあらゆる異名を持つこの男こそ、21世紀のジャパニーズ・モンスターだった。
全日本プロレス、プロレスリング・ノアで暴れ回ったこの怪物が本来ならば、団体だけでなく、業界のトップに立ち、日本プロレス界を牽引していくスーパースターになるはずだった。
だが…。

ノアの看板、最高峰ともいえるGHCヘビー級王者になっても、時代は彼に微笑むことはなかった。そして、彼は道半ばでプロレス界から去った。
今や彼の名を聞くことはほとんどなくなった。
プロレス界では彼の存在は忘れ去られているのかもしれない。
しかし…。

なぜ彼は日本プロレス界のトップに立つ存在になれなかったのか。
これは時代が天敵だった和製人間魚雷の物語である。

森嶋猛は1978年10月15日東京都江戸川区に生まれた。
彼がプロレスラーになることを決意したのは小学生の時だった。
テレビで見たプロレス中継を見て、彼はこう思った。

「これは見るものではない、やるものだ。プロレスラーになる」

彼は小学生の卒業文集に将来の夢はプロレスラーになることだと書いたという。
そして、プロレスをやるならテレビで虜になった全日本プロレスしかないと思っていた。

ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、天龍源一郎、三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太(現・建太)、アブドーラ・ザ・ブッチャー、スタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ、テリー・ゴディ、スティーブ・ウィリアムス、ダニー・スパイビーといった"ザ・プロレスラーズ"が鎬を削り作り上げた王道プロレスの舞台に立つことは子供の時から体格に恵まれていた森嶋にとって夢であり、宿命だった。
高校時代には柔道で汗を流し、2段を習得した。
卒業後に柔道部監督の紹介もあり、1997年に全日本プロレスに入門する。
入門後は1か月ほど、三沢光晴の付き人となり、その後田上明の付き人を務めた。
1998年3月22日、後楽園ホール大会にて志賀賢太郎戦でデビューを果たす。
当時の全日本で後楽園大会でデビューしたレスラーは田上明、秋山準に続いて3人目。
会社の森嶋への期待は大きかった。

デビュー当時の森嶋は馬場や田上のような赤のショートタイツで、体重113kgと堂々としたヘビー級戦士だった。だが、見た目の優しさとおとなしさが災いしてなかなか浮上できなかった。
あれは高山善廣と大森隆男のノーフィアーと組んで武道館大会の6人タッグのメンバーに抜擢された試合でのことだ。
実況の若林健治アナが解説の竹内宏介氏に「森嶋に必要なものはなんですか?」という質問をした。その質問に対して竹内氏はこのように答えた。

「体格には恵まれてますが、あとは"アク"ですよ」

プロレスラーとしての色気や個性として観衆や選手、関係者に響いたり、引っかかったりする"アク"。これは決定的に彼には足りなかった。
そんな森嶋は2000年6月に三沢光晴らとともに全日本プロレスを退団し、新団体プロレスリング・ノア旗揚げに参加することになった。
幼い頃から憧れていた全日本を離れる理由は明快だった。
御大ジャイアント馬場やジャンボ鶴田がこの世にいない現状で、三沢光晴や小橋健太、田上明がいない全日本は彼が考えている"全日本"ではなかったのだ。

「馬場さんがいたら、全日本に残っていたと思います。田上さんの付き人をしていて、田上さんから"俺は出ていくから、残りたかったら残っていいよ"と言われ、三沢さんにも言われた。俺は三沢さんと田上さんをとったんです」

ノアに主戦場を移すと森嶋は自己主張をしていく。
2001年、元大相撲前頭・力皇猛(191cm 130kg)と下剋上を狙いタッグを結成。
スーパーヘビー級の若武者コンビはやがて「ワイルドⅡ」と名乗ることになった。

そんな森嶋が初めてシングルマッチのメインイベントを務めたのが2001年5月25日横浜大会での秋山準戦だった。

この日のメインイベントはノアの革命児として日本プロレス界に数々の話題を提供していた秋山準のシングルマッチ。だが、対戦相手は決まっていなかった。
だれも名乗り上げていなかった中で、唯一名乗りを上げたのが当時キャリア3年・22歳の若武者・森嶋猛だった。
当時から190cm 120kgの巨体を誇っていた森嶋は将来を嘱望されていた怪物。
"和製人間魚雷"と称されるようにテリー・ゴディを彷彿させるような受けも攻めも豪快なプロレススタイルを信条としていた。
当時の秋山はキャリア9年・31歳、飛ぶ鳥を落とす勢いを持つプロレスラー。
この時期が全盛期だったといってもいいかもしれない。
しかも森嶋にとってはこの秋山戦は初めてのシングルメインイベント、しかもシリーズ最終戦のラストを飾る試合。
当時の彼に勝ち目もなければ、秋山に勝っているものはほとんどなかった。
同年(2001年)4月に力皇猛とともに下剋上を宣言し、フリーで参戦していた齋藤彰俊と共闘していた。
森嶋にとってこの試合は重要だった。
メインイベントに立つ覚悟を示さなければいけない。
何のために下剋上を宣言したのかを証明しなければいけない。
あらゆる葛藤が相まって、彼はその日、リングに丸坊主姿で現れたのでした。
雄弁に語るのではなく、姿勢で示すことでしか、何重にも重なる恐怖や重圧に対抗することはできなかった。
試合が始まると森嶋は秋山に寝技や打撃でボロボロにされてしまう。
特にグラウンドでのフェースロックは首が変な方向に曲がるほどの拷問技と化した。
秋山はオールラウンド・プレーヤーだが、この日の彼の試合運びはより"非情さ"が帯びていた。
それでも森嶋は一つ一つの攻撃に「秋山!」と叫んで大声を張り上げながら仕掛け、受け身も豪快に受け続けた。
だが、森嶋に勝機はほとんどなかった。
最後は秋山のフロントネックロック決まり、森嶋は敗れた。
しかし、その直前に善戦する森嶋に会場から「森嶋」コールが起こった。
ファンは懸命に頑張る森嶋の頑張りを認めたのです。
そして、試合後、解説席にいた三沢光晴はこう語っている。
「森嶋はよくやりましたよ!」
【2001年5月横浜、"和製人間魚雷"森嶋猛 22歳の挑戦/ぼくらのプロレス物語】

ワイルドⅡは2002年2月にノーフィアーを破り、第4代GHCタッグ王座を戴冠し、半年に渡り、王者として防衛を続けた。

「大きい者同士で、お互いにガンガンいけるし、相手にひるむことなく攻撃ができたのはあの人(力皇)だけだった。俺はタッグチームを組んでいるときはその人と飯を食って、どうしようかって考えるから、絆は深まるし。俺は強い王者になりたいけど、タッグのベルトをとったときや防衛したときは"俺は強い王者じゃない"って言っているんですよ。俺の考えている強い王者のレベルはもっと上だから…」

ワイルドⅡの試合を見ていて私が感じていたのが森嶋のキャリアのなさを感じさせないリードぶりが光る試合巧者ぶりと豪快な受け身だった。
特に受け身には絶対の自信があった。

「新弟子の頃、僕とか丸藤は体の大小に関係なく、息が上がっても、どんな時でも受け身を取るっていう練習をしてきました。デビューしてから2~3年は毎日100本以上取ってきましたよ。その分、自分の中で他の人より受け身には自信がありますよ」

ただし、まだ潜在能力を出せていない部分もあったのも事実で、この能力が開放され、風格が出てくるとスーパースターになれる逸材であると私は彼を捉えていた。
フィニッシュホールドはジャンボ鶴田譲りのバックドロップはシンプルかつ強烈な投撃で、森嶋自身がテレビで見てきた"全日本プロレス"を表現するには最適の必殺技だった。
また彼のラリアットはテリー・ゴディの人間魚雷ラリアットのような勢いとパワーを感じさせる一撃。あの肉体でジャーマン・スープレックス・ホールドで綺麗なブリッジを描くことだってできる。
ハイキック(ビッグブーツ)とエルボーに関して、あの高山善廣が「意識が飛ぶほど強烈」と語るほどである。
また、ミサイルキックや側転式ボディアタックなどの軽業も魅せる。
実はこの男は器用なのだ。

だが、この器用さは他のレスラーと差別化できるほどの個性にはできなかった。
自分のスタイルを模索し、悩んでいた森嶋。
初めてシングル王座獲得となった2003年9月のWLW世界ヘビー級王座戦はあまりにもしょっぱい試合となり、試合後にはブーイングを食らったこともあった。

ある試合で初めて天龍源一郎とタッグながら対戦した時、森嶋はジャンボ鶴田のテーマ曲で登場したことがあった。だが、試合後天龍からこんなダメ出しを食らった。

「ジャンボってあんなのだったっけ?(鶴田を思い起こさせる所は)ありません。もうね、森嶋の身体見たら夢想だにしないよ。どこが似てんだ、あんなもん。バカヤロウ!『嶋』って名前の付くヤツで、あんなおどろおどろしいヤツも珍しいよ(天龍の本名は嶋田源一郎)。恥ずかしいよ。ルーツはどこか知らないけどさ」

しかし、この一件で天龍の中に森嶋の存在が気になったのだろう。以後、天龍は森嶋とコンビを結成し活動したこともあった。

森嶋猛はジャンボ鶴田ではない。
森嶋猛は森嶋猛であることを証明するためには自身のスタイルを創らなければならない。
悩む森嶋にアドバイスを送ったのはノアの総帥・三沢だった。

「ノアは器用な選手が多い。俺も何でもできる選手にならないとダメだと思っていた時期があった。自分のスタイルが見つけられなくて悩んでいたときに、"ほかの選手の方がうまいことは、お前がやらなくてもいいんじゃない? 欠点を克服するよりも、自分の長所を伸ばすことを考えたら"と、三沢さんに言われたことがあった」

2005年12月に田上明が保持するGHCヘビー級王座に挑戦した森嶋が自身の能力を解放したのが2006年3月5日日本武道館大会での三沢戦だった。

私が森嶋猛を「凄い!」と思ったのは07年3月5日の日本武道館における三沢光晴戦だ。当時の森嶋は「何で俺を認めないんだ!?」と巨体と向上心を持て余してフラストレーションを溜めこんでいた時期。それを三沢にすべて吐き出したのだ。140キロ(当時)の巨体で疾走してぶちこむラリアットはスタン・ハンセンを彷彿とさせ、腕をブンブン回しての左右のハンマーはベイダー並みの迫力、体重を浴びせかける高角度パワーボムはテリー・ゴディ式だった。さらに裏投げ、ノド輪落とし、コーナー最上段からのダイビング・ラリアット、高角度バックドロップ3連発…私は週刊ゴングのグラビアを担当していて『不沈艦+皇帝+人間魚雷のド迫力 森嶋猛…いまこそ大爆発の時がきた』という見出しをつけた。
森嶋の怒涛の攻めも凄かったが、それを真正面から受け止めてみせた三沢も凄かった。
最後はあらゆるバリエーションのエルボーを乱れ打って森嶋を叩き潰して「もう一人前。こういう試合をやった後に驕ることなく…次が注目されるんでね」とコメントしていたのが印象的だった。森嶋は「社長だから爆発できたんですよ。自分の攻撃を真正面から受ける人は高山(善廣)さんぐらいしかいなくなっていて…でも、その高山さんが欠場中だったし、誰にぶつけていいかわからない時に社長と試合ができてよかったと思います」と素直に感謝。この試合を機に森嶋はプロレスを楽しんでやれるようになったと思う。
【森嶋のプロレスが好きだった サンデー・小佐ポン 小佐野景浩 2015/4/26 週刊プロレスモバイル】

森嶋は己のプロレスはかつての怪物外国人レスラー達のように"圧倒的強さ"を見せつけることであると悟る。

「圧倒的パワーを見せつけて、あっという間にぶっ倒すのが、俺の目指すスタイルだと分かった。相手の技をすべて受け切って倒すという、三沢さんや小橋さん、秋山さんたちが全日本時代から築いてきたプロレスとは、方向性がまったく違う。彼らの凄さは認めるけど、同じプロレスをやろうと思わない」

己が目指すプロレスが見えてくると、森嶋の体格も変わる。
120kg~130kgだった体重も、145kgにまで増加。
だが、この体重増加があっても森嶋の動きは落ちることはなかった。
秋山準はかつてこう語ったことがある。

「森嶋は体重が増えても、それに対応できるエンジンを積んでいる」

圧倒的な力と強さを見せつけるプロレスを信条にした森嶋だったが、だからといって受けをないがしろにすることはなかった。それこそ、受け身に自信のある森嶋のプライドだった。

森嶋にとって転機となったのは2007年2月にアメリカROH世界ヘビー級王者になったことだろう。ROH王者になったことで、自身が飢えていたシングルマッチの経験値を上げることができた。

2007年2月16日(現地時間、以下同じ)、ニューヨークで開催されたROH5周年記念大会に突然姿を見せたのが森嶋だった。当時、NOAHとROHは友好関係にあったが、森嶋は第1試合でペール・プリモーが対戦相手をその場で募るオープンチャレンジを宣言しているところへサモア・ジョーの古い入場テーマ曲に乗って登場。そのまま試合開始のゴングが打ち鳴らされ、わずか10秒、必殺のバックドロップ(ROHでは「バックドロップドライバー」と表現)で秒殺。そのままセミファイナル(第9試合)でジョーとのシングルマッチが急遽組まれ、スリーパーで敗れた。しかしそれもギブアップはしておらず、絞め落とされてのものだった。突然現れた怪物が本領を発揮したのは翌日から。ROHマットでは何ひとつ実績がないにもかかわらず、ROHのホームリングともいうべきフィラデルフィアのナショナルガード・アーモリーで当時の王者だったホミサイドへの挑戦が緊急決定。しかも一発で王座奪取に成功したのだった(第9代王者に)。そして翌週から快進撃が始まる。太平洋を往復しながら森嶋が挑戦を退けた相手は順に、BJホイットマー、KENTA、ナイジェル・マッギネス、オースチン・エイリース、鷹木信悟、KAZMA(現KAZMA SAKAMOTO)、ホイットマー、ジェイ・ブリスコ、ロデリック・ストロング、ジミー・レイブ、アダム・ピアス、マッギネス、クラウディオ・カスタニョーリ(現セザーロ)、ブレント・オーブライト、クラウディオ&オーブライト(3WAYマッチ)、ブライアン・ダニエルソン(現ダニエル・ブライアン)、中嶋勝彦、エリック・スティーブンス、ブライアン、ケビン・スティーン(現ケビン・オーエンス)。同年10月6日、マッギネスにベルトを奪われるまで20連続防衛に成功。これはブライアン、マッギネス(ともに38回)、ジョー(29回)に次ぐ歴代4位の記録である。王者時代にはバックステージで露骨な嫌がらせをされたこともあった。しかし森嶋はそれに耐え、すべてをリング上で跳ね除けていった。ほかの3王者は反則裁定やノーコンテスト、60分フルタイムドローなどによる防衛も含まれているが、森嶋はすべてがクリーン決着であるのも特筆すべき点。試合が始まると、とにかく騒ぐことで有名なアメリカのファンだが、怪物的な強さを目の当たりにして声を失ったほど。小橋建太の“絶対王者”に対抗して付けられたニックネームが“絶句王者”だった。また、同王座転落後の2008年8月にはロウ、スマックダウンで連夜のトライアウト。チャーリー・ハース、ジェイミー・ノーブルに2連勝しながらも、残念ながら契約には至らなかった。その体形から情報サイトを通じてビンス・マクマホン代表の評価が低かったと伝えられたが、森嶋を使いこなすだけのアイデアが浮かばなかったことも“落選”の要因。ハーリー・レイスやジョー・ローリナイティス(元ジョニー・エース)の後押しがあったとはいえ、最終テストに駒を進めたのは、それだけレスリング技術が評価されたことの表れだ。
【“絶句王者”森嶋猛の海外での実績 元Fight野郎のプロレス外電 橋爪哲也 2015/5/15 週刊プロレスモバイル】

ROH王者として経験を積んだ森嶋は2008年3月5日日本武道館大会で三沢を破り、第11代GHCヘビー級王者となった。激闘を終えた両者は試合後、救急車に搬送されるほどの大ダメージを負った。ついに団体の頂点に立った森嶋を誰よりも祝福したのは敗れた前王者三沢だった。
三沢は後日、プロレスサイトに掲載された日記でこう綴っている。

試合が終わったけど今、森嶋には嫌味じゃなく、心から「おめでとう」と言いたいです。そしてこのオフは今後の厳しい闘いに向けてゆっくり休んでほしいと思います。森嶋はデビューからちょうど10年で初めてのGHCシングルかぁ。
(中略)
そのうち、防衛戦を繰り返していくうちに、ベルトを獲ることよりも、防衛をしていくことの大変さに気づくと、そこからまた新しい闘いが始まって…。森嶋には、同じ選手としては表立って応援できないし、影ながらになってしまうけれど…。応援しているよ。
【2008年3月7日 チャンピオン /格闘技/プロレスDX プロレスリング・ノア公式携帯サイト ノア航海日誌 三沢光晴 『ドンマイ ドンマイッ』】

森嶋にとって三沢の言葉を実感するようになるのはGHC防衛ロードに突入してからである。

「プロレスはベルトを獲ることがゴールじゃない。むしろスタートですからね。チャンピオンというものは、自分のプロレス像を打ち出して、なおかつ強くならなければならない。森嶋猛ならではのGHC王者像というものを、ファンにもライバルのレスラーたちにもわからせる必要があったのですが…。"GHC王者はこう闘わなければならない"という空気がノアにはある。三沢さんのように、相手の技を受けきらなければチャンピオンじゃないという雰囲気があるんです。そういった固定観念をぶち壊すのは、本当にエネルギーがいる。実は一方的にぶっ倒す自分のスタイルについて"お前は楽な試合ばかりしやがって"と、ある先輩から面と向かってはっきり言われたこともあるし…」

プロレス界の盟主・三沢を破り、王者となった数少ない日本人レスラーである森嶋。
本来ならここで団体の枠を越えてスーパースターになってもおかしくないのかもしれない。
だが、時代はどこまでも森嶋の背中を後押ししなかった。
ノアで同体格のライバルは力皇猛しかいなかったのも痛かった。
その力皇も引退したことにより、、森嶋のパワーを正面から受け止められる人間がいなくなった。また、森嶋自身がセルフプロデュース力が乏しかったこともスーパースターになれなかった原因の一つかもしれない。

2009年6月13日広島大会でノア創始者三沢光晴がリング渦に巻き込まれ、他界した。
あの時、混乱し、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していたリング上で観客に向かってマイクできちんと挨拶したのは、当時選手会長だった森嶋だった。

「三沢社長の容態はわかりませんが、選手一同で無事を祈っています。今日はこういう形になってしまいましたが、また必ず広島にやってきます。そのときはどうぞよろしくお願いいたします。本日はどうもありがとうございました…」

あの状況下で気丈に挨拶を務め、興業を締めた森嶋の行動は実は称賛されていいと私は感じている。レスラーである前に彼らは人間だ。それでも森嶋は取り乱すことはなかった。彼の行動に近くにいた佐々木健介は「よくやった」とねぎらった。
森嶋猛の根底には優しさがあるのかもしれない。

三沢がこの世を去った後、誰よりもこの事故に心を痛め、自分を攻め続けたのは対戦相手の齋藤彰俊だった。その齋藤を三沢の死後2日後に食事に誘ったのは森嶋だった。

「みんな齋藤さんには声をかけづらそうな雰囲気でした。だから、僕が食事を誘いました。"お酒は断ちます"と言っていたけど、少しでも気が晴れればいいなと思って、誰も触れられないからこそ、僕が食事に誘いました」

齋藤は森嶋の気遣いに感謝した。そして、結果的に三沢の命を絶ったバックドロップを封印していた齋藤がその封印を解いた相手に選んだのはバックドロップを得意とする森嶋だったのである。

ちなみに森嶋にとって三沢光晴はどんな存在だったのだろうか?

「俺がいったことをすべて受け止めてくれて最後に答えを出してくれる"ザ・レスラー"。タイトルマッチの時もコンディションがよくなかったのに、受け止めてくれて本当にありがたかったです」

2012年1月に森嶋は潮崎豪を破り、第18代GHCヘビー級王者となり、約1年間に渡り防衛を続け、その年のプロレス大賞殊勲賞を獲得している。
この頃から森嶋は新しいパフォーマンスを始めている。

2011年後半頃より「やる気・元気・モリシー」「ドント・ストップ(DON'T STOP)だ、この野郎」をキャッチフレーズとしており、また、その際観客に対し「立て、オラ!」と催促するのが恒例となっている。観客にとっては無理強いをさせられている面が強いが、森嶋自身が自らを鼓舞するために行なっている面もあり、継続している。
【wikipedia/森嶋猛】

それは森嶋なりにセルフプロデビュースを磨き、己の存在を発信していく努力の跡かもしれない。だが、やはりどうにも時代にマッチしない。なかなかブレイクしない。
ここに森嶋のもどかしさがあった。
試合だけを魅せればいいという森嶋が培ってきた"全日本プロレス"はある意味、今の時代ではなかなか受け入れられにくいのかもしれない。
今の時代は試合内容、プロレスラーとしての技量にプラスアルファが必要な時代なのだ。

2014年1月に森嶋はマイバッハ谷口、拳王、大原はじめとヒールユニット"超危暴軍"を結成する。だが、この超危暴軍も2015年に参戦してきた鈴木軍のヒールぶりが際立つようになると、鳴りを潜めてしまう結果となった。
だが、ここで森嶋は軍団の首領として一歩引き、広告塔としてマイクアピールを拳王や大原にまかせ、最後だけ、「かかってきなさい!かかってきなさい!」と大事なことを二回言うスタンスは森嶋に合っていたと思う。

2015年4月21日、森嶋は糖尿病が原因で引退を発表する。
この件について、その後泥沼の事態になっているのであえて触れないが、この引退劇も別冊宝島や2チャンネル、SNSの格好のネタになってしまったことは森嶋のレスラー人生を汚してしまった。もちろん、そこには彼の言動も原因もあるのも事実なのだが…。

森嶋は怪我の多い選手だった。当初、『グローバル・タッグリーグ戦2015』の欠場理由として発表された右肩、左膝、左肘に古傷を持つのは本当の話。190cm、130kgの巨体。もっとも重いときには160kgほどもあったという重量を支える身体に負担が掛かるのは当たり前だし、その体躯で動きまわり、受身もとりまくる。当然のように、肉体に掛かる負担も大きくなる。また、この3年は病との闘いもあったようだ。森嶋は豪快に食べるし、豪快に飲む。かと言って、だから“糖尿病”とはならない。名前は出さないが、過去には糖尿を患いながら現役を続けていたレスラーも多数いるし、そのなかにはまったくお酒を飲まない人、つねに摂生に努めているのに糖尿や痛風になった選手だっている。私は医師でも学者でもないけれど、やはり病気というのは遺伝的要素が強いものだと思っている。
(中略)
森嶋が不摂生とは思わない。ただ、この数年、森嶋の肉体には変化が見られた。随分と身体を絞っていた時期もあったし、またウエ―トアップしているように見えた時期もある。いま現在は、じつに適度というか、重すぎることもなく、太すぎることもなくという感じで、見た目にはとても充実しているように感じた。リング上の動きだって悪くなかった。だかこそ、今回こうやって本人が、ここ3年は怪我・病との闘いだったことをツイッタ―やFacebookで打ち明けたときには驚いたのだ。ノアから正式な引退発表のリリースとオフィシャルHPでの告知があったのは、21日午後。あとで何人かの選手に聞いてみたところ、関係のあった選手・関係者には18日に連絡を入れている。そして、私のようにマスコミで面識のある人間に対しては、21日の午前中に報告を済ませたようだ。律義な森嶋らしい。たとえ、告知の出る1時間前であっても、自分の口からお世話になった人たちには引退報告をしたいと思ったのだろう。
ところが、森嶋から着信のあった午前10時過ぎ、私はスマホを寝床の枕元に置きっぱなしにして、映画のDVDを鑑賞していた。だから、やっと着信に気付いたのが午後1時30分頃。酔っているならともかく、こんな時間にモリシからの電話なんて絶対におかしい、なにかあるんだろうな、と思って掛け直してみた。

 「もうリリースが流れてるでしょう(笑)。そういうわけで、引退します。決めました」
「えっ!? 知らないよ、見てないから。引退って……そんなに怪我が悪いの?」
「怪我もあるんですけど、それ以外でドクターストップがかかったんです。血液検査でヘモグロビン(HbA1c)の数値が異常に高くて、ほかにも脂肪肝があるし……医者にはとにかく痩せないとダメだって言われて。痩せて細々と試合をこなしていくようなプロレスラーではいたくないんですよ」
「もう決めたんだ?」
「ハイ、決めました。本当なら、これから鈴木みのる選手、鈴木軍と本格的に闘うために体重をもっと増やすつもりでいたんです。だけど、それも現実的に無理となって。でかくて動ける森嶋猛のプロレスができないなら、俺はもうプロレスラ―じゃないですから。でも天龍さんに報告したら言われたんですよ。『俺より先に辞めるってどういうことだ!』って(笑)。最後どういうカタチであれ天龍さんの相手をして、送り出せないのが残念です。天龍さんとはまた試合がしたかったなあって。でも、悔いはまったくないんです。18年間(デビューからは17年)やって、悔いはないです!」
「そうかあ、悔いはないんだね。モリシはまだ36歳でしょう? 人生はこれからだもんね。まだ若いもん。これから第二の人生が始まるんだね」
「感覚的には第三の人生なんですよ。18歳で高校卒業して、プロレスに入って18年……いま36歳。高校、プロレスを卒業して第三の人生です。俺ね、やってみたいことがいっぱいあるんですよ。それこそ、高校生からプロレス界に入ったからほかの世界、社会を知らないでしょう? アルバイトもやったことがないから。ホントに、吉野家とかマクドナルドでバイトしてみたいなって(笑)。フライドポテトを揚げてる森嶋ってどんなかな?って想像しちゃうんです」
「いま想像したんだけど、マックの帽子を被ったモリシは似合うと思うよ。大丈夫、モリシはまだまだ若いんだから。じゃあ、俺なんか今年54歳になるんだよ、12月の誕生日で。ということは、今のモリシにさらに18年を足すと俺の年齢になる。36なんて、まだまだこれからだよね。また落ち着いたら、メシ行ったり飲みに行ったりしましょう!」
「はい、ありがとうございます。森嶋猛、36歳、現在無職! でも、プロレス生活18年に悔いなしです! それでは失礼します」
【GK金沢克彦コラム連載第44回!! 「森嶋猛の覚悟と決意」 THE BIG FIGHT】

こうして森嶋猛はスーパースターになることなく、プロレス界を去っていった。
今、彼が何をしているのは分からない。
そういえば、彼が影響を受けたレスラーの一人であるテリー・ゴディもまるで風のように39歳の若さでこの世を去っていった。
二人の人間魚雷は若くしてプロレス界を去るという点も似通っていた。

何故森嶋猛はスーパースターになれなかったのか。
私は彼が引退をしてからずっと考えてきた。
ここから考え抜いた上での私感を述べたい。

まず、彼がもし20年以上前に生まれ、試合だけを魅せることでのしあがれる環境なら、スーパースターになれたのではないだろうか。また20年以上前に生まれていれば、その頃の全日本は怪物たちの住処。森嶋の能力を解放しやすい環境だったのではないだろうか。同体格のライバルや外国人レスラーの存在が不足していたのは彼にとってマイナスだった。

また彼が全盛期を迎えた時代がネット社会だったことも痛手であり、マイナスだったとも思う。
森嶋は人はいいが、豪快な性格であるがゆえに、周囲に勘違いされてします言動をしてしまうところがある。しゃべりは嫌いではないのだろうが、いわば口下手なのだ。
その点が災いし、2チャンネルといったSNSサイトで揚げ足取りをされてしまう要因となった。
彼はかつてこのようなことを語っている。

「出過ぎた杭は打たれないっていうけど、俺はちょっとしかはみ出なかったからバシバシ打たれちゃった(笑)」

体重増加など不摂生だったり、体調管理に関しては課題はあったかもしれないが、試合ぶりに関してはそこまで叩かれたりするものではなかったので、上記の2点が彼がスーパースターになれなかった原因ではないかと考えている。

森嶋猛にとって時代がライバルであり、時代が天敵であり、時代が彼の成り上がりを阻んできた。だが、この壁を越えられなかったことはやはりそこには彼の人間力の厚み不足もあるのかもしれない。
やはり、彼の引退はもったいなかった。
時代が彼をスーパースターにできなかった、真のトップレスラーになれなかったことは21世紀のプロレス界においても悲劇だと私は思う。

「きつくても、プロレスが好きだからやれるんです」

プロレスについて語る森嶋は大人になっても純真でやんちゃな子供だった。
そのやんちゃな子供が実はプロレス界でも選ばれし"凄玉"だった。
いつも凄玉の往く手を阻んだのは時代であり、彼自身の業だった。
追い風など吹かず、いつも彼には向かい風が当たり続けた。
それでも彼はその向かい風に立ち向かっていたのは怪物の意地だった。

私は森嶋のプロレスが好きだった。森嶋の体型を云々言う人も多いが“動けるデブ”(失礼!)はプロレスラーならではの魅力だ。受け身を取り過ぎると迫力が薄れてしまうといつも思っていたが、きれいな受け身は全日本プロレス出身者のプライドでもあったのだろう。
(中略)2007年2月から10月までのROH世界王者時代に森嶋のプロレス観が確立されたのではないかと思う。「ROHにも僕ぐらい大きい人はあんまりいないんで、どういう試合をすればいいのか研究しましたね。チャンピオンとしてヘマはできないんで、プロレスを考える時間が多かったです。ある程度、相手を光らせて勝つという試合をした方が盛り上がっていました」というのはNOAHのパンフレット用のインタビューをした時の言葉だ。
しかし怪物性を保ちつつ、相手を引き出して勝つスタイルは森嶋の体に確実にダメージを与えた。2013年6月から10月まで右肩、左ヒジ、左ヒザの負傷で欠場し、一度は体重を128キロまで落としたが、受け身を取るスタイルを変えず、最近では再び増量もしていた。
そうやって「森嶋猛のプロレス」を貫いた結果が今回の引退になってしまったと思うと残念でならない。でも本人が納得して新たな道に踏み出せるのなら何も言うことはない。
【森嶋のプロレスが好きだった サンデー・小佐ポン 小佐野景浩 2015/4/26 週刊プロレスモバイル】

向かい風の凄玉ラブソディ(狂詩曲)には時代が天敵だった男が生き様で奏でた豪快ながらもどこか悲しげな旋律が我々の心に響いている…。

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俺達のプロレスラーDXを更新しました。全日本プロレスやプロレスリングノアで活躍した森嶋猛選手を取り上げました。

向かい風の凄玉ラブソディ~時代が天敵だった和製人間魚雷~/森嶋猛【俺達のプロレスラーDX】

是非ご覧ください!!

さて次回はUWFインターナショナルの常連外国人で、後にUFC王者となったダン・スバーン選手を取り上げます。

お楽しみに!!
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GK金沢克彦コラム連載第127回!! 「時限爆弾」 【THE BIG FIGHT】  

※正直に言うと煮詰まってきているノアVS鈴木軍の闘いが終わった場合、鈴木軍はどこにいくのだろう…。

やはりあの彼らが侵略できなかったリングになるのだろうか…。  

そういえば今日は金沢さんのイベント。

そこらへんの話も出るのかもしれない。

私は四年連続このイベントに参戦しますよ!
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俺達のプロレスラーDX
第156回 理想と現実の狭間で~三沢光晴のアナザーストーリー~/2代目タイガーマスク



1981年4月23日、衝撃のプロレスラーがデビューした。初代タイガーマスク。コーナーポストに立ち、見たこともないスピードで繰り広げる華麗なファイトは“四次元殺法”と言われ、子供から女性までを魅了した。だがそのマスクの下で、当の本人だけが葛藤を抱えていた。裏方たちの思惑、アントニオ猪木の言葉、そして史上屈指の身体能力と言われた天才・佐山聡の苦悩。仮面の下に隠された素顔のヒーロー伝説に迫る…。
【NHKBSプレミアム/アナザーストーリーズ 運命の分岐点「タイガーマスク伝説~覆面に秘めた葛藤~」】

なんと現在のダイナマイト・キッドが登場! NHKBSプレミアム「アナザーストーリーズ」タイガーマスク特集で感涙サプライズ【カクトウログさん】

2016年10月5日、NHKBSプレミアムで放映されたドキュメンタリー番組「アナザーストーリーズ」の初代タイガーマスク特集はプロレスファンだけでなくかつてプロレスに熱狂した中高年の視聴者を中心に反響を呼んだ素晴らしい番組だった。
初代タイガーを巡り、当事者だけでなくあらゆる者達の人生と野望と夢が凝縮されていた黄金の虎伝説は今後も語り継がれていくことだろう。

だが、2代目以降のタイガーマスク達は伝説として語り継がれていったのだろうか?

答えは、残念ながら否である。

2代目以降の虎戦士達は初代の輝かしい威光にもがき苦しみ、初代以上のインパクトを残すことはできなかった。特に初代タイガーが去ってから一年後の1984年8月に全日本プロレスでデビューした2代目タイガーマスクは初代の呪縛と周囲の期待に苦しんでいた。2代目タイガーマスクの正体は当時デビュー3年の若手レスラーだった三沢光晴だった。

初代タイガーが活躍した期間が1981年4月から1983年8月の2年4ヵ月。
対する2代目タイガーは苦しみながらも1984年7月から1990年5月の5年10か月の間、虎の仮面を被り続けた。

今回、俺達のプロレスラーDXで2代目タイガーマスクを取り上げる二つのきっかけがあった。
1つ目のきっかけは私は以前、三沢光晴のレスラー人生を追った長期連載を綴ったことがある。

 「緑の虎は死して神話を遺す 平成のプロレス王・俺達の三沢光晴物語」

この連載で実は2代目タイガー時代をあまり深く掘らなかったのだ。
いつか改めて2代目タイガーを取り上げたいという想いをずっと抱いていた。
そんなある日、2代目タイガーが出場した地方大会のタッグマッチの映像を見る機会があった。

そこで2代目タイガーは対戦相手に場外の鉄柵に振られた際にフェンスに飛び乗ってトぺ・レベルサ(背面アタック)で切り返すムーブを披露していた。
こんなムーブはどのレスラーも披露したことがないはずだ。
そんな離れ業を四半世紀以上前の日本プロレス界で2代目タイガーは披露していたのだ。

私達はもしかしたら、2代目タイガーを初代タイガーの凄さを引きずっていて色眼鏡で観ていたのかもしれない。
三沢光晴はレジェンドレスラーだ。
でも本当は2代目タイガーも初代に負けないほど凄い伝説を陰ながら残してきたレスラーだったのではないだろうか。

そう思うと2代目タイガーを取り上げたいという気持ちが強くなってきた。

2つ目のきっかけは2016年10月からテレビ朝日系列でアニメ「タイガーマスクW」が放映されている。また新日本プロレスにもタイガーマスクWというレスラーがデビューしている。黄金の虎への需要が高まってきている状況下で二代目タイガーを掘り起こしてみたい。

その想いが強くなった。

今だからこそ、2代目タイガーマスクを考察したいのだ。

全日本プロレスに出現した黄金の虎は関係者達にとっては希望の光であり、子供達の夢を乗せたアイドルのような存在だった。

その誕生背景には初代タイガー誕生と同じく、魑魅魍魎で野望と理想に満ちた思惑が交差していた。

これは2代目タイガーマスクを巡る三沢光晴のアナザーストーリーである。
運命の分岐点は初代タイガーマスクが引退した1983年から一年後の1984年に訪れる。

実は人気絶頂期に引退した初代タイガーマスク(佐山聡)を全日本プロレスのジャイアント馬場はタイガーマスクの原作者・梶原一騎氏と組んで、獲得に乗り出したことがあった。
当時の佐山のマネージャーを務めていたS氏と馬場が接近。
佐山タイガーのための企画「ジュニアヘビー級版チャンピオン・カーニバル」も立ち上げる予定だったという。
あの馬場が佐山に1億円~2億円を破格の金額を提示したとも言われている。
だが、初代タイガーこと佐山は馬場のオファーを断り、前田日明率いる格闘プロレスUWFに参加する道を選んだ。

馬場が佐山を入団させようとした意図は女性や子供ファンの新規獲得だったのだろう。
当時の全日本で女性や子供ファンのアイドル的存在だったファンクスはテリーの引退等があり、その人気が陰りが見えていた。また"仮面貴族"ミル・マスカラスもメキシコの英雄でトップレスラーなので、常時参戦する訳ではなかった。自前でアイドルレスラーを抱えておきたかったのかもしれない。

また、当時の全日本で馬場は会長に退き、社長には親会社の日本テレビから出向してきた松根光雄氏が就任していた。当時の全日本プロレス中継は土曜夕方(17時30分から18時25分)に放映されていたが、中継枠をゴールデンタイムに復帰させるための起爆剤の一つが他局(テレビ朝日)で毎週金曜20時に25%の視聴率を獲得していたタイガーマスクだった。

佐山聡を獲得できなかった馬場は自前のレスラーでタイガーマスクを誕生させることになった。
馬場の頭の中にはある一人のレスラーが思い浮かんでいた。

当時の2代目タイガーマスク誕生の背景について、プロレスライターの小佐野景浩氏はこう語る。

「馬場さんは本当は佐山タイガーを全日本に上げようとしたけど、ギャラが高いと。そのときに全日本と提携していたジャパンプロレスの大塚(直樹)さんが"梶原(一騎)先生と交渉はできますよ。タイガーマスクの中身に入る選手はいますか?"と。そこで馬場さんの頭に浮かんだのは三沢光晴だった」

三沢光晴は当時キャリア3年弱の若手レスラーで1984年3月に越中詩郎と共にメキシコ遠征に旅立っていた。
そんな時に三沢の元に馬場から一本の電話がかかってきた。

馬場 「三沢、トップロープに立てるか?」
三沢 「立てます」
馬場 「すぐに帰って来い」

それは遠征からわずか4か月後の帰国命令だった。
三沢と共にメキシコ遠征に出ていた越中はその時をこう振り返る。

「日本を出る前は2人とも前座をやっていたわけですよ。それがメキシコに来たら毎週アレナ・メヒコで2万人の前でメインイベントに出られるんだから、夢みたいでしたよ。そんな中である日、夜中に帰ってきたら馬場さんから連絡があって、"三沢を日本に帰せ"って言われたんですよ。"航空券を送るから、メキシコのオフィスに話しておけ"って僕に言うんですよ。それは馬場さんの仕事じゃないですかって。しかも急な話で、三沢はその数字後にすぐに帰らなきゃいけなかった。ホントは彼も挨拶したい人がいたんですよ。仲良くなったレスラーもいたし、お世話になった人もいたのに、そういう人達に挨拶もできずに、すぐ帰らなきゃいけなかった。それで慌ただしく、三沢を空港まで送ってね」

ちなみに2代目タイガーマスクの候補には越中のほかに、川田利明も上がっていたという。
"東洋の神秘"ザ・グレート・カブキは2代目タイガー誕生の経緯についてこう語る。

「初代タイガーマスクがやめた時に梶原一騎から馬場さんに二代目の話が来て、俺に"お前、誰がいいと思う?"と言うから"三沢じゃないですか?"って言ったんだよ。三沢はその頃メキシコに行ってたんだけど、馬場さんの頭の中にも三沢があったから、"そうだよな、俺もそう思う"って、すぐ電話してね。「バカヤロウ、お前タイガーマスクになるんだぞ」って馬場さんが言ったら「何でもやります!」って(笑)。馬場さんはね、三沢が若い時に彼を養子にしようと考えてたことがあったんだよ。まあそれぐらい、馬場さんからも好かれてたよ」

帰国した三沢は全日本プロレスの社長室で馬場から虎の仮面を渡された。
その時の心境を三沢はこう語っている。

「客の顰蹙を買うだろうなと思いましたよ。2代目というのはちょっと…というのがありましたね。佐山さんがキックをやっていたから、お前もやれって言われたんだけど…。それは違うじゃねぇか(笑)。こうしなきゃいけないと言われたら、何を基準にそういうことを言うのって訊き返したくなるじゃないですか。タイガーマスクの場合、"初代がそうだったからだ"ということになるんですよ。これは納得できない。"入場時にトップロープに立たなくてはいけない"ってことまで契約書に入っていたらしいんですよ。全日本と原作者が交わした契約なんでしょうね」

帰国した三沢は2代目タイガーマスクになるための特訓を積むことになる。
馬場と梶原一騎立会いの下で空手・士道館で合宿し、打撃を習得した。

「なんでこんなところで泊り込まないといけないのか?」

三沢にとっては苦痛でしかなかった。
ちなみに打撃に関してはトレーニングパートナーの川田利明の方が習得が早かったという。初代タイガーが得意にしていたローリング・ソバットはマスターできず、代わりに後に2代目タイガーが多用したのがスピンキックだった。

「俺はそんなもん漫画を基準にすればいいじゃねぇかって思ってましたね。漫画のタイガーマスクは蹴りなんかやらねぇじゃねぇか。俺、漫画は割と好きでしたから」

1984年7月31日、東京・蔵前国技館大会に姿を現した2代目タイガーマスク。
空手特訓後にはアメリカに渡り、マーシャルアーツの特訓も積んだと言われている三沢は、息抜きとけじめをつけるためにメキシコに渡っている。
その時の事を越中は語る。

「俺も突然来たからビックリしたんだけど、"区切りをつけずに日本に帰っちゃったから、みんなに挨拶するために来ました"って言うんだよね。"会社に言ったのか?"って聞いたら、"自腹で来ました"っていうしね。俺から見ると活き活きした顔してないんだよ。なんか重圧に押しつぶされそうになってる感じで、彼自身、日本から逃げたいような気持ちで来たんじゃないかな。だから"俺は大丈夫だけど、お前こそ大丈夫なのか?"って」

三沢は虎仮面という呪縛に苦しんでいた。
だが、団体の命運をかけたプロジェクトは動き出している。
引くことはできなかった。

1984年8月26日田園コロシアムでデビューした2代目タイガーマスク。
対戦相手はメキシコの悪役レスラーであるラ・フィエラ。
このフィエラは三沢がメキシコ遠征時にタッグマッチでよく対戦していたという。

試合前から「三沢」コール、あるいは「佐山」コールといった容赦ないヤジが発生する。
子供ファンはタイガーマスクの出現に喜んだ。
だが、コアなプロレスファンは2代目タイガーの正体が三沢であることを悟り、受け入れていなかった。
またデビュー1か月前に「週刊ゴング」での表紙写真があまりにも正体がバレバレだったことも痛かった。

「『ゴング』が表紙でスクープしたんですけど。2代目タイガーって、馬場さん、大塚さん、『ゴング』の編集顧問だった竹内(宏介)さんの合作ですから。で、表紙のタイガーは初代タイガーのマスクを被ってたんです。まだマスクがないからそれを三沢に被せたんですけど、サイズが合ってないから、ぶっ太い眉毛でどう見ても三沢なんですよ(笑)」
【Dropkick“四天王プロレス”の光と影――三沢光晴■小佐野景浩のプロレス歴史発見】

そんな中で三沢の心境は…。

「予想通りですね。大顰蹙ですよ。俺もそれはわかっているよ。みんな、俺が三沢だってわかってんだから、わざわざ口に出して言うなよな(笑)」

だが、2代目タイガーこと三沢はそんなヤジに屈するほどのレスラーではなかった。試合が進むにつれて、ヤジはなくなっていった。初代タイガーの動きを取り入れながら、独自のムーブを見せつけた。

場外にいる相手に飛ぶと見せかけて、ロープを背にして前方回転してからの後方回転するムーブ、スペイン語で尻餅を意味するセントーンはメキシコ・ルチャリブレ仕込み。
また終盤で見せたウルトラ・タイガー・ドロップと名付けられたトぺ・コンヒーロはまだ日本で誰も披露したことがない大技だった。ちなみに初公開時のトぺコンはノータッチ式だったので、通常のロープを摑んでのトぺコンよりもさらに難易度が高いものだった。
フィニッシュとなったのはタイガー・スープレックス'84は同じダブル・チキンウイングでも佐山が使うものとグリップが違う。佐山の場合は相手の背中(肩甲骨の辺り)に手の平を当てた状態で投げるが、三沢光晴は自らの両手をクラッチして投げる形をとっていた。

ちなみに対戦相手のラ・フィエラが披露した屈伸式のダイビング・ボディ・プレスは後に2代目タイガー時代の三沢がより屈伸と滞空時間を長くすることで威力をアップさせる形にアレンジし、長年愛用し続けた。この技は1990年代にアメリカでフロッグ・スプラッシュを呼ばれ、エディ・ゲレロやロブ・ヴァン・ダムが得意にしていた。現在は日本プロレス界のエース棚橋弘至がハイフライフローという技名でこの技をフィニッシュホールドにしている。

そう考えてみると、初代タイガーのデビュー戦はあまりにも衝撃的で一種のプロレス革命記念日だったともいえるが、2代目タイガーのデビュー戦も初代とは違った意味で革命記念日だったと言えるかもしれない。

デビュー戦後、2代目タイガーは主にメキシコの選手を相手に試合を続け、連戦連勝を重ねていた。そんな2代目タイガーの前に立ちはだかったのは初代タイガーのライバルだった"虎ハンター"小林邦昭だった。2代目タイガーは小林との抗争で初のフォール負けを喫した。
また小林を破り、NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王者となり、初のタイトルを獲得する。だが、小林にとってタイガーとは佐山聡であり、2代目タイガーとの抗争はあくまでも別物と捉えていた。

また小林と同じく初代タイガーのライバルだったダイナマイト・キッドとも2代目タイガーはシングルやタッグで対戦している。
キッドは2代目タイガーをこう評している。

「全日本は三沢光晴という若手レスラーにタイガーマスクのギミックを使わせて、佐山が新日本にもたらしたのと同じブームを期待した。だが『三沢タイガー』と『佐山タイガー』をどう比較しようにも、それはできないことだ。誤解しないで欲しいが、三沢は優れたレスラーだ。しかし、ハッキリ言えば彼は身長も体重も重かったのでタイガーマスクには向かなかった。しかも、佐山ほどの俊敏さもなかったのだ。スピンキック、サマーソルト、ムーンサルト・・・彼はどんな技でもできたが、佐山の跡を継ぐことはできなかった。だが、これだけは確かだ。三沢はハード・ワーカーだ。俺と三沢タイガーはシングルマッチで激突したこともあった。ファンがそのカードを望んでいたのは確かだったが、闘った当の本人としては佐山とファイトした時ほどの興奮を味わうことはまったくなかった」

三沢の先輩で飲み友達だったという天龍源一郎はこう語る。

「あの頃はね、タイガーマスクの名前が重すぎたね。それなりにソツなくこなせるんだけど、やっぱり初代の佐山聡と比較されてしまう。三沢も初代を越えようという意識が強くて墓穴を掘ったり、自分で自分を雁字搦めにしている部分がありましたよ。馬場さんは三沢光晴にも期待していたし、タイガーマスクにも期待していたから、2つのプレッシャーがかかっていたと思うよ」

一方で、2代目タイガーの存在、長州力率いるジャパン・プロレスといった起爆剤の効果もあった全日本プロレス中継は1985年10月にゴールデンタイム(19:00~19:54)復帰を果たしている。
小林との抗争に区切りをつけたタイガーは1986年3月にタイトルを返上し、ヘビー級転向を果たした。

「初代が戦闘機なら、2代目は重爆撃機」

原作者の梶原一騎氏が評したように2代目タイガーは185cmと身長に恵まれていたため、ヘビー級転向は必然の選択だった。
三沢には虎仮面という呪縛に苦しみながらも、2代目タイガーとしてのオリジナリティー確立を目指していた。

「タイガーマスクとしてリングに上がっている以上、三沢光晴の志すプロレスを前面に打ち出していくわけにはいけない。タイガーマスク時代、このジレンマに私は悩まされたものだ。マンネリ化が進むとプロレスは衰退する、こうした問題意識をその頃から持っていた私は、ファンが望む空中技をふんだんに取り入れつつも、2代目タイガーマスクとしての個性の確立を目指すようになった。ジュニアのチャンピオンを返上し、クラスをヘビー級に上げたのもそのためである。2代目タイガーマスクというポジションに甘んじて自分のプロレスをすべて捨ててしまっていたなら、きっと今の私はなかっただろう」
【理想主義者 三沢光晴 著/ネコ・パブリッシング】

だがヘビー級に転向した2代目タイガーはスーパーヘビー級の猛者達の高い壁が立ちはだかり、全日本マットでなかなか浮上することはできなかった。
いくらヒーローとはいえ、中身はプロレスキャリア5年弱の若武者である。

大のプロレスファンで漫画『キン肉マン』の作者である嶋田隆司氏はこう語る。

「初めて三沢を見た時、彼は前座出場の若手レスラーだったんです。後にタイガーマスクとなって登場した時の事は、今でもよく覚えています。ただヘビー級に転向した後、彼の姿を見る度に"なんか窮屈そうだ"と、そんな気がしていました。それがはっきりとわかったのが日本武道館で行われた全日本対ジャパン・プロレスの6対6全面対抗戦です。長州力との対戦で、長州優位の一方的な展開でした。タイガーが上手く技を出せていなかったんです。三沢は無理に初代タイガーの動きに近づけようとする感じが、所々で垣間見えるんですよ。自分本来の、つまり三沢のスタイルが出せていない、不完全燃焼だと思いました。けれど、今にして思えば、最後まで技を受け切っていましたね。正面からきちんと受けている。だからこそ、僕には長州のラリアットが鮮やかに決まって負けた印象が強く残っているんだと思います」

当時の2代目タイガーを見届けていた全日本プロレス・リングアナで後に三沢と共にプロレスリング・ノア旗揚げに携わった仲田龍氏はこう語る。

「タイガーになるのはいい面もあったけど、ずっとできないだろうなと思いました。新幹線の中とかはかわいそうでしたね、覆面をつけていなきゃいけないから。ジュニアではもうキツイし、当時の外国人のメンバーがスタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ、テリー・ゴディとかですもんね。そうなるとヘビーに行ってもつらいし。タイガーマスクでやっていると限界があるのかな思いました」

1986年の世界最強タッグ決定リーグ戦に初出場した2代目タイガーは御大・ジャイアント馬場とコンビを結成し、着実にステップアップしていった。
その中で2代目タイガーにとって試練となったのが1986年からスタートした猛虎七番勝負。
谷津嘉章、フランク・ランカスター、リック・フレアー、阿修羅・原、天龍源一郎、テッド・デビアス、ジャンボ鶴田とヘビー級の強豪相手にシングルマッチを闘うこの企画で2代目タイガーは3勝4敗に終わった。
だが、この猛虎七番勝負は2代目タイガーにとって転機になった。
天龍と鶴田との一騎打ちで2代目タイガーはその眠っている潜在能力を発揮していったのだ。

1987年6月1日に金沢で行われた猛虎七番勝負第5戦で2代目タイガーは天龍と対戦し、天龍は2代目タイガーの技を全部受け止めた上でパワーボムで勝利する。
天龍はこの試合についてこう語っている。

「"自分は自分なりのタイガーマスクでいいんだ!"って吹っ切れたんだと思いますよ。三沢が場外の俺に向かってコーナーポストからダイブして2人ともフェンスの外まで吹っ飛んだからね。あの時に"やりたいことをやれば、お客は支持してくれる"っていう感覚を持ったと思うんですよ」

1988年3月9日に横浜で行われた猛虎七番勝負最終戦で2代目タイガーは鶴田と対戦した。
2代目タイガーはこの試合でなんとスワンダイブ式ウルトラ・タイガー・ドロップという離れ業を敢行するなど、大健闘。終盤にはジャーマン・スープレックス・ホールドで追い込むも、最後は鶴田のバックドロップに沈んだ。

ヘビー級に転向し、1987年には鶴田と組んで、PWF世界タッグ王座も獲得した2代目タイガーこと三沢は1988年5月に結婚を発表。
そこでようやく2代目タイガーの正体が三沢であることが公表された。
当時、天龍革命で活性化していた全日本の中で、天龍同盟に一矢を報いるために、高野俊二、高木功、仲野信市、田上明といった新進気鋭のレスラー達を率いて決起軍を立ち上げた。
だが、決起軍は後に馬場から「決起していない」という鶴の一声で強制的に解散することになる。

タッグではヘビー級戦線で結果は出したものの、シングルではなかなか結果を出せなかった2代目タイガー。NWA世界王座やAWA世界王座に挑戦するも、結果も内容も残せず、彼はかつてのジャンボ鶴田のような"善戦"マンのような立ち位置に収まっていた。

どんな試合でも必ず空中殺法を魅せてきた2代目タイガーだったが、その肉体は悲鳴を上げていた。特に左ヒザの状態は悪化の一途をたどっていた。

「空中殺法は素顔のときから得意でしたから、飛ぶことには違和感がない。ただ、三沢光晴はケガをしていない状態で好んで飛んでいたわけです。タイガーマスクはケガをしていても飛ばなくてはならない。リングに登場すると、ロープの上に立たなくてはならない。俺はヒザをケガしていて足を折って登れない。でも、契約書にあるから、ロープに登らなくてはならない。片足を伸ばしたまま、片足だけで登ってましたね」

左ヒザの靭帯は切れ、関節は毎試合ごとに外れる始末。それを試合中に入れ直しながら2代目タイガーは闘っていた。
1989年3月8日の日本武道館大会を最後に2代目タイガーは手術に踏み切る。
左ヒザ前十字靭帯断裂のため、長期欠場に追い込まれる。
断裂した靭帯は太ももからの靭帯移植とボルトでなんとか左ヒザ靭帯は蘇った。

1990年1月にリングに復帰した2代目タイガーだったが欠場時からある想いがよぎるようになる。

「もうマスクを被り続けるのは厳しい」

2代目タイガーのファイトについてプロレスライターの小佐野景浩氏はこう語っている。

「タイガーは1986年にヘビー級に転向して、1987年に天龍同盟ができてからは、正規軍の一員としてジャンボのパートーナーになったんですよね。ジュニア時代もそうだけど、タイガーはトップの選手じゃなかったんですよ。正規軍のトップはジャンボや輪島。タイガーはその下なんです。そうなるとヒーローなのに強く見えないという(笑)。淡白だったと思う、ファイトが。からしても"この人、プロレスに冷めてるのかな"って思っちゃうような試合をしてた。パッションがない(笑)。三沢がタイガーマスクをイヤイヤやってるのかと思うくらい」

そんな三沢が虎の仮面に別れを告げたのは1990年5月14日のタッグマッチでの事。
前月に三沢の先輩である天龍が離脱、新団体SWSに移籍したり、風雲急を告げていた全日本に暗雲が立ち込めていた。
三沢はマスクに再三、つけ狙う谷津嘉章に反攻するために自らマスクに手をかけ、観客席に投げ入れた。この時、三沢のマスクに後ろから手をかけたのは奇しくも2代目タイガーマスクの候補となり、特訓パートナーを務め、三沢タイガーの弟分タイガーマスク2号になるプランが上がっていたパートナーの川田利明だった。
そして、場内にはあの2代目タイガーのデビュー戦とは異なり、まるで新たなヒーロー誕生を待ちわびるような「三沢」コールが起こっていた。

「タイガーマスクのキャラクターが強すぎてなかなか自分が出せないし、マスクマンのままではこれ以上、上を目指すことはできない。ヘビー級で天下を取ったレスラーにマスクマンはほとんどいない」

こうして、三沢は5年10か月の長期に及ぶ2代目タイガーマスク生活に別れを告げ、素顔に戻っていった。




「三沢光晴の名前を世の中に残したい」

このような内なる野望を秘めていた三沢はようやく己を解放する時が来たのである。
飛びたくないときにも飛ばなければいけなかった2代目タイガー時代とは異なり、素顔に戻った三沢は飛びたいとき飛ぶ自由を手に入れた。
その後の三沢光晴については多くの皆さんがご存じのとおり。
全日本プロレスのエースとなり、プロレス界の盟主となり、平成のプロレス王にまでのしあがていった。

ここからがポイントである。
その後の三沢とタイガーマスクとの関係を追っていく。

素顔に戻っても三沢はタイガー殺法を全面的に封印することはなかった。
タイガー・ドライバー、タイガー・スープレックス、ウルトラ・タイガー・ドロップ、スピンキック、フロッグ・スプラッシュは三沢光晴の大きな武器となった。
また1997年10月に両国国技館で開催された格闘技の祭典の目玉カードは4人の歴代タイガーが集結するタッグマッチだった。
三沢自身はそのオファーを断り、当時若手だった金丸義信を2代目タイガーに抜擢し、このタッグマッチは実現している。

プロレスリング・ノアを立ち上げた三沢は虎の仮面を脱いでから一度だけマスクマンとしてリングに上がっている。全選手が仮想して試合をする2002年のハロウィン大会で、三沢が選んだマスクは虎ではなく獅子のマスク。”LION(リオン)”というリングネーム、富士サファリパークのCMソングで登場した。
また2004年に"タイガー・エンペラー"という黄金ではなく白き虎仮面が誕生した。
正体は三沢の付き人を務めていた鈴木鼓太郎だった。
ちなみに鼓太郎はこの当時、素顔の鈴木鼓太郎、タイガー・エンペラー、ムシキング・テリーと三つの顔を使い分けていた。
これは三沢が可愛がっていたという鼓太郎の経験値を上げるための施策だったのだろう。


そして、三沢と初代タイガーマスクこと佐山聡との関係である。
なかなか接点がなかった二人が2008年12月4日、佐山が立ち上げたリアルジャパンのリングでタッグマッチで対戦した。
佐山は三沢との対戦についてこう語っている。

「いきなりポーンときたら反応できないのは当たり前なんですよ。でも、その時に資質が分かる。三沢君は当たった後に慌てることなく、ちゃんとリアクションが取れる。プロですよ。そのプロの技術っていうのはさすがですよ。反応できずにパニックになる人間と試合をやってもしょうがないですから。そういう意味では三沢君の受け身は素晴らしい。本当の受け身だと思います。予定調和ではなく、思いがけないところからきてもちゃんと反応できるのが三沢君。スタイルは全然違うかもしれないけど、いいプロレスラーの資質、条件をすべて満たしていましたね」

初代タイガーこと佐山は2代目タイガーこと三沢をどう感じていたのだろうか。

「彼はかつて2代目タイガーマスクとして僕のことを意識せざるを得なかったと思います。もし、反対だったら…もし三沢君が最初のタイガーマスクで僕が2代目だったら、僕が彼を意識せざるを得なかった。そうなったら僕はできないですよ。過去に僕の真似をさせられていたことはきつかったでしょうね…」

虎仮面の呪縛に苦しんだ2代目タイガーマスク・三沢光晴の気持ちが一番よく理解できたのは初代タイガーマスク・佐山聡ではなかったのだろうか。

だからこそ思うのだ。
二人が一度だけでもリングで対峙できたのは、時代の要請であり、プロレスの神様からの二人へのプレゼントだったのではないのか。




2代目タイガーマスク誕生は全日本プロレスの命運をかけたプロジェクトだった。
子供達や女性達のアイドルレスラーになってほしい、初代タイガーを越えるムーブメントを形成してほしい、プロレス人気を絶大なものにしてほしい、全日本プロレスの未来を担うヒーローになってほしいというあらゆる者達が抱いたあらゆる理想や夢があった。
だが、その理想は、一人のレスラーを雁字搦めにする呪縛作用があった。
そこにあったのはなかなか理想通りに世の中うまくいかないという残酷であり当然のような現実だった。

理想と現実の狭間で苦しみもがきながらも三沢光晴は虎の仮面を被り、籠の中で翼を羽ばたかせ続けてきた。それが中学時代からプロレスラーになることを志し、プロレスに人生を捧げた男の生き様だった。

理想と現実を一番よく知る男・三沢光晴が、2000年に旗揚げしたプロレスリング・ノアがスローガンとしてかかげたのが「自由と信念」。
三沢が「自由と信念」についてこう語る。

「若手には派手な技をやってはならないという暗黙の掟があった。若手の試合はオーソドックスな展開以外は見れなかった。現在では考えられないが、昔は先輩よりうまくやってしまうと気分を害してしまう、若い選手の試合で大技を出すとメインイベントが盛り上がらなくなってしまう、という実につまらない仮説に縛られていた時代もあったのだ。こうした古い体質を変えたいと考えていた私は、ノア設立とともに、この慣習をぶち壊した。ノアでは基礎さえ学べば誰でも自由にプロレスができる。若い選手の好きにやらせるには、大会全体の責任は私が取るという意味でもある。ただし、自由にはそれに伴うリスクも大きい。個人の責任感と努力があってこそ、自由な環境が維持できるのだ。プロレスのよい部分、ベーシックな部分を残しながら、新たなチャレンジをすることは平易ではなかった。こうした改革をやらなければプロレスは滅びると考えたからこそ、私はノアを作ったのだ。今もこの信念は変わらない。何もやらないよりも、やって後悔したほうが勉強になる。間違いは繰り返さなければいい」
【理想主義者 三沢光晴 著/ネコ・パブリッシング】

そして、三沢光晴は著書で次のような名言を残している。

「前向きな失敗は成功への過程である」


私は思うに、この「自由と信念」というスローガンは理想と現実の狭間で虎仮面という呪縛に苦しみながらも投げ出さずにやり続けた三沢のレスラー人生が反映させたものだったのではないかと…。

「俺のような想いは誰もしてほしくない。一人一人の自由と信念を尊重する。その重みと尊さと難しさを体感してほしい」

そんな三沢の想いがつまったスローガンだと考えてみると、プロレスリング・ノアのスローガンも、平成のプロレス王・三沢光晴を生み出したルーツは2代目タイガーマスク時代にあったのではないだろうか。

2代目タイガーマスクは三沢光晴の黒歴史ではない。
例え悲しき宿命だったとしても、例え苦闘の日々だったとしても、その歴史は"前向きな冒険的失敗"だった。

だが、失敗だと侮るなかれ。

前向きな失敗は成功への過程であることは虎の仮面を脱いだ三沢光晴が見事に証明してみせたのである。

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テーマ:
俺達のプロレスラーDXを更新しました。
今回は二代目タイガーマスク選手を取り上げました。

理想と現実の狭間で~三沢光晴のアナザーストーリー/2代目タイガーマスク【俺達のプロレスラーDX】

是非ご覧ください!!

さて次回は全日本プロレスやプロレスリングノアで活躍した森嶋猛選手を取り上げます。

お楽しみに!!

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