ジャスト日本のプロレス考察日誌

プロレスをもっと広めたいという思いブログをやってます。新旧洋邦のレスラーを取り上げた「俺達のプロレスラーDX」を連載中!
ご愛読よろしくお願いいたします。


 




 





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ジャスト日本です!

実は今夜夜行バスに乗って東京に向かうことになりました。

こちらが前回の東京遠征絡みの記事です。


今回も二冊目の電子書籍発売の際にお世話になりましたごきげんビジネス出版社さん絡みの打ち合わせがメインになります。


今回も何かしらの収穫を得られる東京遠征にしたいものです。東京ならではのプロレススポットにも時間があればいきたいですね。

この東京遠征についてはまた後日、ブログで報告します。お楽しみに!

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俺達のプロレスラーDX
第200回 ネイチの花道~芳醇な世界王者プロレスは深き大人の味~/リック・フレアー

 

 

以前、人気バラエティー番組「アメトーーク」でこんな企画があった。

 

「もし調味料を芸人に例えてみたら…」

 

話芸のスペシャリストと呼ばれている人気芸人・千原ジュニアがプレゼンしたこの企画で見事に芸人を調味料に以下のように置き換えてみせた。

 

醤油=明石家さんま(理由・これがないと始まらない)
砂糖=笑福亭鶴瓶(理由・子どもからお年寄りまで、奥の深さ)
ケチャップ=志村けん(理由・子供の時ケチャップがあったらなんでもイケた感じから)
マヨネーズ=関根勤(理由・何につけてもうまい!食べすぎるとクドイ)
バター=高田純次(理由・大人のイヤらしさ、入れ過ぎたらクドイ)
みりん=所ジョージ(理由・全てをまろやかにするが本質はお酒でピリッと)
タバスコ=とんねるず石橋貴明(理由・新しい笑い)
粉チーズ=とんねるず木梨憲武(理由・新しい笑い)
塩=ダウンタウン松本人志(理由・きゅっとシメる)
こしょう=ダウンタウン浜田雅功(理由・さらにシメる)

 

その中でわざびという調味料を千原ジュニアはタモリに例え、その理由が実に深かった。

 

「大人になってからスゴさがわかるから」

 

この発言を聞いて私はこう思った。

 

「そう思えば、プロレス界にもタモリさんのように大人になればわかる偉大なレスラーがいたよな…あっ、どこまでもオーバーアクションで弱々しい姿を見せながら最後の最後は美味しいところを持っていく”負けそうで負けない”あの男。子供の時、このレスラーの良さがよくわからなかったよな。うまいのはわかるけど、その凄さがあまり理解できなかった。でもプロレスファンとしてキャリアを重ねるとわかるようになる。この人、本当に凄いレスラーなんだよな…」

 

その男の名はリック・フレアー。

NWAやWCW、WWF(WWE)といったメジャー団体で16度も世界王者となり、ハルク・ホーガンと共にアメリカン・プロレスの象徴。ネイチャー・ボーイ、狂乱の貴公子、稀代の大風呂敷、業界一汚い男、ミスター・プロレスとあらゆる形容詞で呼ばれたグレーテスト・レスラー。対戦相手を常に引き立てた上で最後に勝利をかっさらい、弱そうに見えても最後の最後は勝利するのが彼のスタイル。「ほうき相手でもプロレスができる」プロレスは世代を超えてあらゆるレスラー達に影響を与えた。

 

あのプロレスリング・マスター武藤敬司のベースとなったのはフレアーのスタイルだった。そういうことになると武藤に憧れていた新日本プロレスの棚橋弘至や内藤哲也にもどこかしらにフレアースタイルが隔世遺伝されているのかもしれない。そういえば新日本プロレスのブッカーでオカダ・カズチカのマネージャーを務める外道が影響を受けたプロレスラーがフレアーだったという。何百回も彼のVTRを見て、研究することでプロレス達人・外道が生まれたのだ。そして外道のプロレス哲学によって生まれた最高傑作がオカダである。ということは新日本プロレスのトップレスラー達を語るにはフレアーという存在は欠かせないはずである。

 

その一方でプロレスファンにとってフレアーのプロレスを理解したり、奥深さが分かるのは時間がかかると私は思う。めちゃくちゃ強い訳ではない、肉体に恵まれているわけではない、驚異的な身体能力があるわけではない、なのに負けないのがフレアー。だからフレアーについて理解するのはプロレスIQの高さが必要となる。

 

現役レスラー、プロレス関係者、プロレスマニア、プロレス初心者、箱推しファン、選手推しファン…。さまざまな立場でプロレスに携わっているすべての皆さんに伝えたい、そして知ってほしい。

「ミスター・プロレス」リック・フレアーの生き方…。

 

リック・フレアーは1949年2月25日アメリカ・テネシー州メンフィスに生まれた。 本名はリチャード・モーガン・フレイアーという。公式プロフィールではミネソタ州ミネアポリスになっているがこれには事情がある。1950年に発覚した育児を放棄した父母から私生児をテネシー州児童福祉協会が金で譲り受け、養子縁組に臨む別の父母に引き渡すというとんでもない「乳幼児売買事件」の被害者。だから彼は実の父母を知らない。生後一か月でミネアポリスで開業医をしている養父母に引き取られた。本名にあるフレイアーとはフレイアー家の養子になったからである。なので彼には真の意味で本名はない。「ミスター・プロレス」に衝撃の出生事実があったとは…。

 

彼は子供の時からプロレスファン。AWAで活躍し、日本プロレスの常連外国人レスラーだったクラッシャー・リソワスキーのファンで、自宅には山のようにプロレス雑誌が積まれていたという。ウィスコンシン州のプライベートスクールに通っていた学生時代は勉学に励む一方で、アメリカン・フットボールとレスリングに熱中し、レスリングでは私立学校のレスリング州大会優勝を果たし、アメリカン・フットボールでは全米高校選抜に選ばれるほど活躍したことにより奨学金を得て、ミネソタ大学に進学する。

 

だが大学を中退した彼はバーの用心棒や保険外交員の仕事をしていた。職場のバーで彼はミュンヘンオリンピック重量挙げアメリカ代表のケン・パテラに出会う。パテラは五輪後にプロレスラーになるという。そこでパテラはフレアーに「プロレスラーになるためにAWAのキャンプに行くけど、おまえもどうだ?」と誘い、フレアーはこの話に乗ることになる。

 

ミネソタ州ミネアポリスにあるバーン・ガニア道場は当時アメリカ三大メジャー団体AWA版「虎の穴」ともいうべきプロレスラー養成機関。この道場で指導役をしていたのがレスリングに自信があったガニアとビル・ロビンソンだった。この道場からフレアーやパテラを筆頭にリッキー・スティムボート、サージャント・スローターといった大物が育っていった。ちなみにフレアーの同期はパテラの他にジム・ブランゼル、カズロー・バジーリ(アイアン・シーク)がいた。

 

1972年12月10日AWA興業のジョージ・ガタスキー戦でデビューしたフレアー。そして初来日は早く、1973年6月に国際プロレス「ビッグ・サマー・シリーズ」。このシリーズではラッシャー木村と金網デスマッチを闘い、レスラー人生初のケージ戦&流血戦だったという。それから約一年後の1974年、AWAのスター選手だったワフー・マクダニエルから紹介され、ジム・クロケットJr.が運営するNWAミッドアトランティック地区(本拠地はノースカロライナ州シャーロット)に活動拠点を移す。ワフーとはミッドアトランティック・ヘビー級王座を巡って抗争し、フレアーはワフーが得意にしていたトマホーク・チョップの洗礼を受けて、後に自身のペースにするための必須アイテムであるナイフエッジ・チョップ(逆水平チョップ)を取得する。この頃のフレアーはあんこ型で公称185cm 110kgという中肉中背の肉体だった。

 

1975年10月4日にフレアーはレスラー仲間と同乗したセスナ機事故に遭遇する。パイロットは死亡し、ジョニー・バレンタインとボブ・ブラッガーズはこの事故が原因で引退した。フレアーは背骨を三カ所骨折という重傷を負いドクターからは再起不能と言われた。まだデビューして三年もたっていない。そして何もプロレス界で何も成し遂げていない。フレアーはリハビリに励む。実はこの事故で半身不随となった大先輩のバレンタインとフレアーは事故の一か月前からタッグチームを組んでいた。バレンタインはリハビリ中のフレアーに「お前はバディ・ロジャースのように"ネイチャー・ボーイ(野生児)"になってみろよ」と励ましたのだ。バレンタインからのアドバイスを受け、後にフレアーは"ネイチャー・ボーイ"と名乗ることになる。1976年にフレアーは戦列復帰を果たす。ちなみに彼の代名詞ともなったやや左半身で取る受け身はこのセスナ機事故の後遺症。またアンコだった肉体は減量して逆三角形にシェイプアップ。そして、あのブラウンだった髪も「流血が目立つように」という理由で金髪に染めた。さらにゴージャスできらびやかなロングガウンを身にまとうようになった。つまりこのセスナ機事故がある意味、フレアーというプロレスラーの自我を産み落としたのだ。

 

復帰後のフレアーはロディ・パイパーやリッキー・スティムボートといったライバルに恵まれどんどんステータスが上がっていく。USヘビー級王座やNWA世界タッグ王座を戴冠。そして1981年9月17日にダスティ・ローデスを破り、当時世界最高峰と呼ばれたNWA世界ヘビー級王者に輝く。32歳で業界のトップレスラーになったフレアーの戴冠劇について、プロレスライターの斎藤文彦氏はこのように解説している。

 

「1981年9月17日ミズーリー州カンザスシティでダスティ・ローデスに勝ってチャンピオンになるんですが、ハーリー・レイスからローデスにベルトが移っていたんです。カンザスシティのプロモーターで当時のNWA会長だったボブ・ガイゲルは『まだフレアーは全米レベルでは客は呼べないんじゃないか』と危惧していた。なのでハーリー・レイスからローデスのほうにいったん移ったんです。(中略)田舎のプロレスにとっては年1〜2回、NWA世界王者が来ることは凄いことなんですよ。ルー・テーズ、バディ・ロジャースの時代からその仕組みは続いていて、チャンピオンの商品価値として問われるのは観客動員力なんですね。ボブ・ガイゲルや初代NWA会長だったサム・マソニックからすれば『フレアーはまだ若造だ』と評価は低かったんでしょうね」
【Dropkick 職業は世界チャンピオン! リック・フレアー!!■斎藤文彦INTERVIEWS】

 

若くしてNWA世界ヘビー級王者になったフレアーは王座を転落しても何度も何度も奪還に成功する。王者になれば全米各地、世界各国を飛び回り、タイトルマッチを闘い相手の持ち味を引き出すために受けに受けた上で防衛を続けた。得意の足四の字固め、ハーリー・レイスばりのニードロップ、ダブルアーム・スープレックス、滞空時間の長いブレーンバスターなどのクラシックでポピュラー技を中心に組み立てるスタイルがNWA世界王者らしさを際立たせた。

 

NWAのチャンピオンは、全米チャンピオンなのである。NWA世界チャンピオンになったレスラーは、各地を転戦して土地土地のローカルチャンピオンと戦い、それらをことごとく打ち破ることで全米一の実力を披露するわけだ。ローカルチャンピオンは地元の熱狂的なファンに支えられているから、それと戦うNWA世界チャンピオンはいわばヒール的な存在だ。とはいっても、たんなる憎まれ役で終わってはいけない。かりに相当な力の差があったとしても、一方的に勝利しては意味がないのである。自らの技を披露すると同時に、ローカルチャンピオンも十分に光らせ、そのうえで勝利する懐の深さがNWA世界チャンピオンには要求される。そのようなNWA世界チャンピオンの試合を観た観客が「俺たちのチャンピオンを倒した憎いヤツ。しかしあのようなチャンピオンを地元から出したい」という憧れを持ち、ますますNWAの権威を上がることになる。NWA世界チャンピオンが懐の深いプロレスを行うのは、このような理由があるのだ。

【プロレスラー「野望」の読み方 ミスターX/ポケットブック社】

 
NWA世界王者として防衛を続けるとフレアーから「若造」というレッテルは消え、「負けそうで負けない王者」と呼ばれレスラー仲間からリスペクトされた。まさしく「一流になりたければ、一流を倒せ!」という自身の名言を実行してきた。なぜ相手を引き出す受けのスタイルになったのか。それは相手を光らせれば自分の評価が上がるからだ。そしてNWA世界王者になってからこの路線に拍車がかかる。するとフレアーオリジナルの色気に包まれた"受け"と"間"のプロレスが完成する。

 

フレアーのプロレスの魅力は、NWA伝統の"受け"と"間"のプロレスにある。フレアーは、受けのプロレスでレスラー仲間から尊敬されている。試合中自分の技を引き出してくれるから、相手レスラーはフレアーのプロレスのうまさを肌で感じ取る。そのためレスラー仲間からも真のチャンピオンとして一目置かれている。(中略)フレアーの"間"のプロレスにも独特の味がある。(中略)フレアーは動かないで、ゆったりした"間"のスローな世界で一種のエロチックな世界をつくっていった。"間"といっても、ただ休み休みファイトをすればいいというものではない。にらみあったり、技を受けて構えたりする"間"の部分にすさまじいばかりの緊張感と色気を感じさせるのがフレアーのプロレスなのだ。

【プロレスラー「野望」の読み方 ミスターX/ポケットブック社】

 

この頃、フレアーは自身を支えてくれるパートナーにも、番人にもなってくれる盟友アーン・アンダーソン出会っている。そこで生まれたのが、伝説のユニット「フォー・ホースメン」である。

 

1986年、フレアーとアーンとオレイ、タリー・ブランチャードというテクニシャンレスラー達とマネージャーのJ・J・ディロンで悪のユニット「フォーホースメン」を結成する。(中略)フォー・ホースメンはヒールであるながら人気ユニットとなった。一部からはこのユニットがなければnWoやDXといった不良人気集団は誕生していないと言っているほどの影響を与えた。アルマーニのスーツを身にまとった。ロッカールームのみんなが、安いレンタカーにギュウギュウ詰めで相乗りしている時に、彼らはプライベート・ジェットに飛び乗った。常にファーストクラスで移動した。プライベートでは豪遊し、リングでは対戦相手を容赦なく痛めつけ、観客のヒートを買う、そして最後の最後まで劣勢に立ちながらも勝利だけはかっさらう…それが彼らの流儀だった。(中略)またフォー・ホースメンはNWAにある主要タイトルを独占していた。フレアーがNWA世界ヘビー級王座、アンダーソン兄弟がNWA世界タッグ王座、タリー・ブランチャードがNWA・USヘビー級王座、アーンがNWA世界TV王座を同時期に保持していた時代もあった。フォーホースメンの全盛期はフレアー、アーン、タリーに有望株のバリー・ウィンダムを加えたメンバーだと言われている。

【「キング・オブ・バイプレーヤー」という影の王者/アーン・アンダーソン 俺達のプロレスラーDX】

 

ホースメン時代になるとフレアーはスティング、グレート・ムタ、レックス・ルガー、スタイナー兄弟など若手有望株と好勝負を残すことで彼等を試合で育成していった。団体はNWAからメディア王テッド・ターナーがオーナーとなったWCWに変わってもフレアーは中心人物だった。フロリダ武者修行やWCW時代にフレアーと何度も激戦を繰り広げてきた武藤敬司はフレアーについてこう語る。

 

「オレとフレアーを比べて何が違うんだろう、オレは彼とどこが劣っているんだろうって考え続けていた。フレアーは、体がデカイわけでもない。決して運動神経がいいわけではない。でも、あれだけ観客を引き付ける。思ったことは、しゃべりと試合運びだった。しゃべりは日本人はダメだよ。でも、試合運びは、例えて言うならフレアーは、ほうきとでもプロレスができる深さがあった。誰が相手でも、アベレージを残せるプロレスができた」
【武藤敬司、さよならムーンサルトプレス〈5〉リック・フレアーとの出会い/スポーツ報知 2018.4.13】
 
だがその一方でフレアーは団体サイドとのコミュニケーションやネゴシエーションには苦戦していたようだ。ライバルのダスティ・ローデスはブッカーを務め、NWA王座を争う時から愛想劇を繰り広げ、フレアーとは対極の立場だった。またNWAを買収し、新会社WCW初代社長となったジム・ハードはプロレスに関しては全くの素人で、よく知らなかった。だからフレアーにブロンドのロングヘア―と"スパルタカス”とキャラクターチェンジを命令し、大幅の減俸を言い渡したという。抵抗するフレアーにハード社長はなんと解雇を言い渡したのだ。
 
1991年7月2日WCWを去ったフレアーはなんとライバル団体WWE(当時WWF)に電撃移籍する。しかも保持していたフレアーモデルと呼ばれるNWA世界ヘビー級王座と共に…。ここでフレアーは「ネイチャー・ボーイ」を名乗らず、「リアルワールドチャンピオン」という新しいニックネームを名乗った。エグゼクティブ・コンサルタント(いわばマネージャーなのだが、フレアーはカートをマネージャーとは呼ばなかった)として"ミスター・パーフェクト"カート・ヘニングが帯同し、ヒールサイドのトップレスラーとして迎え入れられた。
 
1992年1月のロイヤルランブル(30人参加時間差バトルロイヤル)でフレアーは3番手の登場ながら1時間以上闘い優勝。空位となっていたWWE世界ヘビー級王座を獲得という離れ業をやってのけた。これも
NWA世界戦で60分時間切れ引き分けを幾度も体験しているフレアーの真骨頂である。だがフレアーはキャラクタープロレスWWEにはどこか馴染めなかったようである。やはりフレアーのキャラクターはWWE産とは大きく異なり、WWEオーナーであるビンス・マクマホンの世界ではで明らかな違和感を感じる異物だった。
 
1993年2月にWWEを退団したフレアーはWCWに復帰する。当時のWCWは体制が変わっていた。NWA世界ヘビー級王座(WCWインターナショナルヘビー級王座)やWCW世界ヘビー級王座に戴冠し、1994年にWCW世界王者として、WCWインター王者スティングとの王座統一戦に勝利したフレアーは団体の頂点に再び立つことになる。そこに挑戦状を叩きつけたのがWWEを離脱した"スターWWE"ハルク・ホーガンだった。フレアーとホーガンはWWE時代にハウスショーで対戦しているがPPVイベントでは対戦はしていない。しかも実現した対戦は不完全決着。その完全決着戦をWWEではなくWCWで行った。同年7月の「バッシュ・アット・ザ・ビーチ」で二人はPPVイベントで初の一騎打ちを行う。試合はホーガンが制し、WCW王座を転落するが、試合をコントロールしていたのはフレアーだった。特に201cm 137kgの巨漢ホーガンを滞空時間の長いブレーンバスターを決めたのはフレアーの意地以外の何物でもなかった。
 
WCWに戻ってもフレアーはフロント陣とうまくいかなかった。エリック・ビショフやビンス・ルッソーといったプロレス素人に自分のプロレスが歪められるのがどうも嫌だったのかもしれない。だからリングを離れる時期もあった。フレアーはどうも背広組との人間関係をうまくやっていけなかったようだ。WWEとの視聴率戦争に敗れたWCWをなんとWWEが買収するという崩壊の運命をたどる。ちなみにWCWが提供した最後の試合がフレアーVSスティングの黄金カードだった。
 
フレアーは2001年にWWEに参戦。50%の株式を保有するビンス・マクマホンとのWWE共同経営者というギミックを与えられ、ベビーフェイスとしてビンスと対等な立場となった。もうアメリカのマット界においてメジャーはWWEだけとなった。この状況下でフレアーはWWEでレジェンドレスラーとして暗躍する。例えヒールになってもファンはフレアーをリスペクトし声援を送った。いつしかWWEは彼を「ネイチ」、「業界一汚い男」などと呼ぶようになった。その所作がもはや人間国宝となったのだ。21世紀版ホースメン「エボリューション」を結成し、トリプルH、ランディ・オートン、バティスタといった息子ほど離れたスーパースターの良きアドバイザーとなり、試合で見本となる事で「プロレスラーとして生き方」を体現することで、フレアー学を若き巨星たちに伝承していった。
 
2008年フレアーはWWE殿堂入りを果たし、同年3月30日の「レッスルマニア」でショーン・マイケルズに敗れて引退した。7万人のファンは万雷の拍手でフレアーを称え、翌日のRAWで行われた引退セレモニーではなんとWWEスーパースターズが勢ぞろいしてフレアーの引退を労った。フレアーは涙に暮れた。そして、静かに「サンキュー」とつぶやき、感謝の意を述べたのだった。
 
引退試合を行ったがこれはWWEでの引退試合を意味している。引退後はハルク・ホーガン主催興行で復帰し、2010年にはTNAに参加。AJスタイルズのアドバイザーとなり、「フォーチュン」というユニットの総帥となった。AJのプロレスに若干のフレアーのようなスタイルがあったりするのはこの時の邂逅があったからだ。
 
2017年、フレアーはアルコール性心筋梗塞を起こし、一時は危篤状態に陥ったが、現在は意識は回復しているという。
 
世界ヘビー級王座16度獲得という偉業を成し遂げた男はファンやレスラー仲間にリスペクトされている。だがその中身はどこか酒や女性に溺れるほど破滅的で、人間関係や政治が苦手で良くも悪くも"人間"らしくを感じるのだ。脆さや弱さも強さも傲慢さも気品さもすべて彼のレスラー人生には詰まっている。
 
プロレスライターの斎藤文彦氏はフレアーについてこう語る。
 
「リック・フレアーは世界チャンピオンであることを生業としていたレスラーとも言えますね。ボクらの少年時代のプロレス雑誌には『NWA世界王者は人事である』なんて書いてあったんですね。NWA自体はもともとは各地のプロモーターの寄り合いで結成した非営利団体。世界王者はNWAに加盟しているテリトリーを回ることになります。その職務を全うできる人じゃないとNWAの世界王者にはなれないんです。(中略)フレアーの中にはプロレス道があります。AWAではバーン・ガニア、ビル・ロビンソンからコーチを受けて、得意技の逆水平チョップはワフー・マクダニエルから何万回も受けて免許皆伝を許され、4の字固めはバディ・ロジャースから使っていいと認められた。フレアーウォークもバディ・ロジャース、デストロイヤー、ブラッシー、ニック・ボックウィンクルが使ってたものをフレアーが取り入れた。プロレスの歴史を繋いでいたんですね」
【Dropkick 職業は世界チャンピオン! リック・フレアー!!■斎藤文彦INTERVIEWS】
 
なぜ多くの人々が世代を超えて負けそうで負けないそのタイトロープなプロレスを展開するフレアーに魅せられたのか。プロレス初心者からするとフレアーは弱いレスラーという印象を持つかもしれない。ガチンコやシュートの強いから、プロレスラーは凄いわけではない。それはあくまでもプロレスラーの凄さや強さの一部に過ぎない。プロレスにおける真の強さとは相手を受け入れ最高のカッコよくコーディネートできる器量と技量なのだ。フレアーはその器量と技量がプロレス界において天下一品だったのだ。それはプロレスに携われば携わるほど身に染みて分かるのだ。だから彼のプロレスはまるで大人になって味がわかるワサビのようにツーンとくる辛さがあっても、奥深い味わいと芳醇さがあるのだ。その世界王者としてすべてをまっとうし、プロレスにおける最高の仕事をやってのける「世界王者プロレス」を長年展開してすることで彼は生きながらにして伝説となった。
 
フレアーはよく対戦相手に対してインタビューで「男の花道を歩いてこい」というパンチラインを使っていたが、まさしく彼のレスラー人生そのものが、「男の花道」だったのではないだろうか。いい部分も悪い部分も、偉大なところも含めて彼はプロレスに愛されていたのだ。そしてこれから彼のプロレスの断片は古き良き残すべき伝統となっていく。オカダや棚橋、内藤、AJにもフレアー学の断片があるように、彼の試合がリアルタイムで見れなかったとしてもフレアー学を継いだレスラー達の試合で我々は時代が変わってもフレアーを感じていくことになるのだ。
 
そして、プロレスに関わるすべての皆さんは自信を持ってこう誇っていい。
 
「リック・フレアーはプロレス界の歴史を紡いできた偉大なるミスタープロレスなのだ」
 
そして、これからフレアーについて知る皆さんにはこう伝えたい。
 
「初見ではわからないかもしれません。でも見れば見るほど分かりますよ、リック・フレアーの凄さと深さが…」

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俺達のプロレスラーDXを更新しました。 記念すべき200回目の更新はリック・フレアー世界を取り上げました。


是非ご覧ください!

さて次回は以前行ったTwitter投票を参考にしまして、ロブ・ヴァン・ダム選手を取り上げます。お楽しみに!

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ジャスト日本です。

今回はジャスト日本のTwitterについてのお知らせです。

「俺達のプロレスラーDX」のTwitterバージョンを更新します。

タイトルは #俺達のプロレスラーEX です。
EXはEXTRA(延長)という意味で、俺達のプロレスラーDXでは取り上げることがない、よりディープでマニアックなレスラーをTwitter限定で取り上げていきたいと思っています。

基本的にはブログ連載「俺達のプロレスラーDX」の更新を優先します。あくまでも気が向いた時にやりますので、不定期連載なのです。

第一回目に取り上げたのは全日本プロレスに2ヶ月しか参戦しなかったブライアン・ダイエット選手です。

有名なレスラーを取り上げることはほぼありません。これはプロレスをTwitterというツールを使ってどこまで伝えられるのかという実験だと思っていただければありがたいです。

多分、プロレス初心者にはなかなか分からないレスラーの話がこの不定期連載では展開されるかもしれません。しかし、どんなことで結構です。何か一つの取っかかりがあって、気になってもらえたら、かなり興味深い内容だったと思っていただければ幸いです。マニアック過ぎるレスラー達の物語に、どれだけの皆さんの心に届くのか。プロレス初心者をどこまでマニアの世界に誘うことに成功することになるのかが、この不定期連載最大のテーマになりそうです。ジャスト日本によるプロレス布教の一手です。

是非、#俺達のプロレスラーEX で検索してください。

※Twitterでご報告しておりますが、今月に東京に遠征に行きます。また遠征については後日、報告します。



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俺達のプロレスラーDX
第199回 武骨・極悪・知略・エンタメ・義侠…鬼神道の振り幅/ミスター雁之助

 

 

ミスター雁之助はデビューして早い段階から新人の域を脱したプロレスラーである。大仁田厚が旗揚げしたインディー団体FMWには大仁田の首を狙うザ・シーク率いる「シーク軍団」やリッキー・フジがリーダーとなった「チーム・カナダ」といった敵役チームがいて、そのメンバーは数多くの屈強な外国人レスラーが属していた。雁之助はプロレスが巧く、尚且つタフネスだったため、彼等の技を散々受け続けた。しかし、彼はただやられるわけではない。防戦一方になりつつも、最後はオリジナル技の雁之助クラッチで逆転勝ちするのがこの男の凄さだった。キャリアがなかった時代から自身の立ち位置を見つけていた彼は幾年月を経ても、いつも団体の規模や枠に関係なく最前線を走っていた。

 
今回の「俺達のプロレスラーDX」の主役・ミスター雁之助は日本インディー界を代表する実力者である。プロレスラーの実力差がメジャーやインディーという団体の格では語られなくなった昨今。しかし、雁之助がプロレスラーとしての生を受けた時代はメジャーとインディーでは実力差はあった。かつて「インディーでもメジャーに負けないプロレスラーはいるんだ」という内なる反骨心を胸に闘い続けた男達がいた。雁之助はその闘いの渦にいた。だからこそ、私はミスター雁之助が歩んだレスラー人生を伝えたい。そして、メジャーとインディーという格に捉われない時代になるまで数多くの苦闘があったことを…。
 
ミスター雁之助は1968年6月20日長崎県長崎市に生まれた。本名は本田雅史という。 学生時代は野球をしていた彼は大のプロレスファンで長州力が好きだったという。熊本商科大学(現:熊本学園大学)に入学するとプロレスがやりたくなってプロレス研究会に入部する。そこで出会ったのが盟友・江崎英治…後にライバルとなるハヤブサだった。ハヤブサは柔道経験者で、初めてのスパーリングでは雁之助は江崎の腕十字で一本を取られている。雁之助との出会いについてハヤブサは後年、こう振り返っている。
 
雁之助とは同級生で、同じ時期にサークルに入部し、その最初の会合で初めて顔を合わせました。そう体も大きくないし、めがねをかけた普通のおにいちゃんだったので、これといった印象はありませんでしたし、仲良くなる予定ではなかったのです。ところが、頻繁にサークルの飲み会があって、そのたびに新入生の僕らは先輩にかわいがってもらうわけですよ。それでお互いに面倒をみたり、みられたり、どちらかというと僕が雁之助の面倒をみることのほうが多かったのですが、それで変な絆ができたのです。気がつくと毎日のように一緒にいましたね。
【雁之助との出会いと入団テスト…ハヤブサ<2>/YOMIURI ONLINE】
 
学生プロレス時代のリングネームは「ソープ延長」。大好きな長州力のようなパフォーマンスをして、いわゆる"ハズレ"試合は少なかったようである。ハヤブサは雁之助を学生時代からライバル視していた。
 
本田とは、プロ研とコンパ以外ではほとんど顔を合わせないような関係だったから、特別に親友同士だったわけではなかった。だが、いつの間にか彼に対する評価が気になって仕方がなくなっていた。たとえばコンパの席でも持っていくのは本田の方。自分もバカになりきろうとするのだが、もともとお笑いのセンスは断然向こうの方が上だった。加えて、試合でも本田の方が観客受けする。なんのモチーフもなくやっている江崎に対し実在する選手のモノマネをしても技のフォームからしてソックリなため、それだけで笑いがとれるのだ。
 
「今思い起こすと、あの頃から雁之助のことをライバルだと思っていましたね。もちろん、プロになってからとは意味が違うんですけど(笑)、それほどあいつはプロレスのセンスがあった。ある部分では、プロになってからも生かされたと思うんですよ」
【第4章 ハヤブサ狂乱の大学編[8]/Fight With Dreamアーカイヴ】

 
雁之助は大学卒業後、伊藤ハムへの就職が内定していた。しかし、大仁田厚率いるインディー団体FMWが熊本にやってきた時に、自分より小さいレスラーがリングに上がっていた光景を見て、超人ではない自分でもプロレスラーになれるのではと考え、プロレス入りを決意する。入門テストに合格するために肉体改造にも取り組んだ。その決意を彼はハヤブサに電話で伝える。驚くハヤブサにその熱意をぶつけた。
 
「俺も自分がプロレスラーになれるなんて思っとらん。でも、俺はプロレスが好きじゃ。週プロに、FMWの新人募集の記事が載っとった。そこで俺は、好きなものになるのにチャレンジもせんで諦めたら一生後悔すると思った。やってダメなら諦めもつく。テストに落ちたら、伊藤ハムに就職すると親とも約束した。俺にとっては、最初で最後の夢への挑戦じゃ」
【第4章 ハヤブサ狂乱の大学編[16]/Fight With Dreamアーカイヴ】
 
ハヤブサは卒業後の進路に悩んでいたが、雁之助と同じくプロレスラーになることを決意する。1991年2月に二人はFMWの入門テストを受ける。40数名が受けた入門テストを雁之助とハヤブサは見事に合格する。二人を指導したはFMWナンバー2のターザン後藤。後藤は全日本出身でメジャー団体仕込みのシゴキが待っていた。猛練習の末、1991年6月22日北海道羽幌小学校体育館の市原昭仁戦でデビューを果たす。当初は本名でデビューしてすぐに大仁田から俳優・芦屋雁之助に似ているからという理由で「ミスター雁之助」というリングネームを与えられる。178cm 100kg(その後110kgにまで増量)という肉体があった雁之助は新人でありながら、そのプロレスセンスとタフネスさが買われ、大仁田や後藤のパートナーとしてメインやセミファイナルに抜擢され、FMW正規軍の斬りこみ隊長となり、外国人選手達に立ち向かい玉砕していった。私が印象に残っている試合はサンボ浅子と組んで、ザ・グラジエーター&ビッグ・タイトンのメガトン・コンビと対戦した試合。規格外のパワーと器用さとハングリーさを誇っていたメガトン・コンビはインディーの枠を越えた怪物だった。二人の猛攻を受け続けたのが雁之助だった。だが、一瞬のスキをついて雁之助はグラジエーターから雁之助クラッチで3カウントを奪った。ボロ雑巾のようにされても、プロレスとして成立させ最後の最後に結果を残すその姿勢は若くしていぶし銀のような巧さがあった。また1994年に雁之助はターザン後藤と相対する立場になった時、散々後藤のしごきともいえる攻撃を受け続けた。ボロボロになっても雁之助の心は折れることはなかった。相手の攻撃を受け切れる不屈のタフさが彼の何よりも財産だった。
 
デスマッチが主流だったFMW。だが雁之助はその死闘の中でも基本に忠実なレスリングを心掛けた。凶器やデスマッチ形式はあくまで試合を盛り上げる飛び道具であり、決着手段はレスリングの攻防なのだという信念がFMWのスタイルだという内容を以前、雑誌のインタビューで彼は語っている。
 
1994年5月に大仁田厚が二度目の引退を発表し、一年間の引退ツアーを敢行する。大仁田の後継者として目されていたのは雁之助だった。1995年2月には大仁田とのコンビで世界ブラスナックルタッグ王者となり、大仁田の後継者となるのは彼だと言われていた。そして、メキシコ遠征で江崎英治がハヤブサに変身し、第一回スーパーJカップで大ブレイクしていた。華があるハイフライヤーだったハヤブサには正統派のエース、雁之助はデスマッチ戦線のエースで、この二人に立ちはだかる壁としてターザン後藤やグラジエーターが存在して、W☆INGの松永光弘と金村ゆきひろ(現・キンタロー)は雁之助のデスマッチ戦線のライバルになうるというプランを大仁田引退後の新生FMWは描いていたのではないだろうか。
 
だがこのプランは幻に終わる。
 
大仁田引退が近づく1994年4月、雁之助は密かにFMW退団を決意していた。別にFMWに不満があったとか、今の路線に疑問があるとかではなく。自身のプロレス道に行き詰まりを感じていたのだ。まずは一度リセットしてぷろれすらーとして進むべき道を模索することにした。ここで雁之助は師匠・後藤に退団の挨拶しにくと、なんと後藤も辞めると言い出したのだ。この二人に市原昭仁を加えたメンバーはFMWを離脱した。特に後藤は大仁田引退試合の相手だったため、その衝撃は凄まじかった。
 
雁之助はFMW退団の挨拶をハヤブサに電話でしようとした。だが何度もかけても彼には繋がらなかった。ハヤブサはこの一報を団体関係者から聞かされ、仰天したという。ハヤブサは雁之助と共に新生FMWを牽引していこうと考えていたからだ。その後、大仁田引退試合の相手は後藤からハヤブサに変わり、新生FMWはハヤブサの一枚看板として牽引していくことになった。あまりにも大きな重責が彼にのしかかる。そんな時にふと脳裏には「雁之助がいてくれれば…」という想いがよぎっていた。
 
FMWを離脱した雁之助は後藤、市原と共に「真FMW」を結成し、IWAジャパンを中心に活動していく。さまざまなタイプの選手と対戦する。タイガー・ジェット・シン、上田馬之助、天龍源一郎といったレジェンドレスラーとも相対することで経験値を上げるも、そこでも後藤の二番手に甘んじることになる。燻り続ける雁之助。一方のハヤブサは新生FMWのエースとして怪我を抱えながらも孤軍奮闘していた。
 
「俺はFMWに戻る。ハヤブサを闘うために…」
 
一度は団体を裏切った人間だから、簡単にタッグを組めるはずがない。ならばハヤブサと闘いたい。その想いを後藤に伝えると後藤は「頑張れよ」と了承してくれた。雁之助の目に涙が溢れる。
 
1997年1月FMW後楽園ホール大会。試合を終えたハヤブサの目の前には私服姿の雁之助がいた。エース・ハヤブサへの宣戦布告だった。ハヤブサは雁之助のUターン参戦を内心、「味方が帰ってきた」と歓迎していた。
 
雁之助はここでヒールとして生きていく覚悟を固める。かつて極悪大王ミスター・ポーゴに鎖鎌や木の切れ端で背中を散々切り刻まれた経験を持つ雁之助は木の切れ端を「背中を突き刺す行為、いわゆる「矢ガモ攻撃」を得意にするようになる。若手時代にその洗礼を浴びた"アラビアの怪人"ザ・シークの火炎殺法も取得。また真FMW時代に何度も対戦した上田馬之助のように金髪となった。"金狼"上田はプロ中のプロの悪役レスラー。そのプロ意識を対戦相手として雁之助は目のあたりにしてきた。また、前年に上田が交通事故に遭遇に下半身不随の重傷に追い込まれた。ならば、俺が上田馬之助になる。その想いが金髪にはあるのだ。そして、雁之助は真FMW時代のコスチュームはスパッツだったが、ヒール転向後は黒のロングタイツに金色で「鬼神道」と縫い込んだものを使用。師匠である後藤のニックネームは「鬼神」だった。さすらいのレスラー人生を歩んできた後藤の意思を俺がこのリングで見せつけていくという無言の意思表示だった。
 
ヒール時代に彼は「ファイアーサンダー」(変型ツームストンパイルドライバー)を開発している。技名の由来は大仁田の得意技であるサンダーファイヤーを嫌がらせの意味でひっくり返すという当てつけだった。さらに新崎人生の必殺技である念仏パワーボムまでコピー。そのテクニックでもいやらしい極悪ぶりを披露している。これも雁之助のプロレスセンスだ。
 
極悪大王と怪人と金狼と鬼神…強烈な個性を放つ4人のならず者をミックスさせたレスラーになることを誓った雁之助はハヤブサの天敵としてFMW台風の目になっていく。もう誰かの二番手ではない、誰かの用心棒でもない。雁之助というアイデンティティーを大々的に表現する時がきた。ハヤブサ、新崎人生、田中将斗といったライバルに恵まれたのも大きかった。彼の攻撃を雁之助は受け止めた上で、極悪殺法とレスリングテクニックで相手を追い詰めていく。立場は変わっても、「相手を受け止める」というスタンスは変わらなかった。1998年1月には田中を破り、FMW二冠統一王座(インディペンデント・ワールド世界ヘビー級王座&世界ブラスナックル王座)を獲得する。遂にシングルの頂点に立った。
 
1997年12月、雁之助は冬木弘道、金村、邪道、外道、非道らと「チーム・ノーリスペクト(TNR)」というヒールユニットを結成する。このユニット内で冬木を除いたメンバーで白ブリーフ&白ガウン姿の「ブリーフ・ブラザーズ(通称ブリブラ)」が生まれる。ブリブラは試合前にリング上でドリフターズみたいなコントを披露する。コントの掴みを担当するのは雁之助だった。いかりや長介ばりに「おいーっす」と挨拶。その後に苦笑を浮かべながら「みんな恥ずかしがらずに言えよ、恥ずかしいのは俺なんだよ」とぼやき笑いをかっさらっていた。リング外ではファンを爆笑させ、リング上では試合内容でファンを魅了した。それが彼等のやり方だった。
 
雁之助はTNR時代に金村と通称「雁金」コンビを結成している。1997年11月に世界ブラスナックルタッグ王座を獲得している。金村は雁之助と同じく試合巧者で、互いにライバルとして意識し合っていた。試合でのコンビネーションは抜群だったが、プライベートではとにかく仲が悪かった。時には殴り合いの喧嘩に発展し、冬木が仲裁したという。
 
ストリートファイトデスマッチに本流のプロレスを合わせた今でいうところのハードコアスタイルだったFMWが一念発起して、エンターテイメントプロレスに転身する。そこでもブリブラのつかみ担当だった雁之助はきちんと対応した。時には新崎人生もどきのお遍路キャラになったこともあったし、ハヤブサが一時期素顔のH(エイチ)になった時、ハヤブサをおちょくるためにハヤブサに変身し、なんとAVデビューしたこともあった。
 
だがこの二代目ハヤブサになったことで、Hを名乗っていた初代ハヤブサとの距離が近づくことになる。ハヤブサに変身した当初はノリノリだった雁之助。だが次第に精彩を欠く試合が続く。遂にはTNRからの追放された。錯乱状態になった雁之助はハヤブサのマスク姿で「俺は誰なんだ!」と叫んでいた。
 
こうしてハヤブサのマスクを被った雁之助と素顔になったハヤブサは1999年11月23日横浜アリーナのメインイベントで完全決着戦を行う。しかもレフェリーは元WWEスーパースターのショーン・マイケルズ。役者は揃った。この試合を最後にマスクと別れを告げることを決めていた雁之助はせめてハヤブサというマスクマンに恥じないようにムーンサルトプレスを取得しようと練習していたが、首を負傷してしまい断念。代わりにこの試合で出した特別仕様の技はタイガー・スープレックス・ホールドだった。雁之助はビッグマッチになってもヒールぶりをいかんなく発揮する。レフェリーのショーン・マイケルズにイス攻撃を見舞い、ショーンの怒りを買い、必殺技スイート・チン・ミュージックを浴びた。超大物が相手でも彼は物怖じしなかった。これこそ上田馬之助から継承した雁之助のプロ意識だった。ショーンの必殺技を浴びた雁之助はマスクを脱いだ。その視界には素顔のハヤブサがいた。そう熊本商科大学で出会い苦楽を共にして、一度は道が分かれても、再び交わった本田雅史と江崎英治がリング上で向かい合い思いっきり殴り合い、プロレスでとことん会話していた。試合は素顔のハヤブサがフェニックス・スプラッシュで勝利を収めた。
 
試合後、雁之助はマイクで語りかけた。
 
「英治、俺は弁解しないから」
 
ハヤブサは涙でくしゃくしゃになりながらこう言う。
 
「もういいんだよ…」
 
二人は抱き合った。こうして二人のリング上での和解が成立した。もう何度も闘ってきたから互いに気持ちは分かり合っていた。
 
そして二人は最後にリング上でHの決め台詞である「お楽しみはこれからだ!」と叫んでいた。二人の物語は珠玉の大河ドラマである。
 
雁之助は素顔のハヤブサと「九州エクスプレス」というコンビを結成する。雁之助としては「アントニオ猪木と上田馬之助が組んだようなコンビ」にしたかった。だが、気心が知れているからといって、名コンビになるわけではなく、一度はWEWタッグ王座を獲得するもすぐに王座を手放し、やがてタッグを解消し、雁之助は再びハヤブサのライバルとなった。やはりタッグを組むよりはシングルで闘う方がいいという実感があったのではないだろうか。
 
だが二人のライバル物語に暗雲が立ち込める。2001年10月、ハヤブサがマンモス佐々木戦で頸椎損傷という重傷を負い長期欠場に追い込まれた。エースの戦線離脱によってFMWは窮地に立たされる。そして盟友が一時期は生死を彷徨い、再起不能になってしまっている現実。そこで立ち上がったのは雁之助だった。ハヤブサがいつか復帰できるように、希望が持てるようにFMWを守るために最前線に立つ。
 
ここで冬木が一時期、全日本に参戦し、天龍源一郎率いるWAR軍のメンバーとして大暴れをして、川田利明と好勝負を残していたことで、天龍らWAR軍がFMWに来襲する。2001年12月、WAR軍は天龍と冬木、嵐、北原光騎の強力なメンツをそろえ、FMWは雁之助、金村、黒田哲広、マンモス佐々木。FMWとWARの全面対抗戦が実現する。天龍や嵐の怪物的強さと攻撃を真正面から受け止め、立ち向かっていったのは雁之助だった。試合は7割方、WARのペースだったが、一瞬のスキをついて雁之助が得意の雁之助クラッチで逆転勝ち。会場は興奮の坩堝と化した。試合後、雁之助の活躍に胸を打たれた天龍は
マイクで「雁之助、FMW、これからも頑張れよ」とエールを送った。
 
だがFMWは2002年2月に二度の不渡りを起こし倒産する。ここで雁之助はハヤブサが帰るリングを作ることにした。FMWのアルファベットを反対にしたWMFという団体を旗揚げする。FMW残党は冬木のWEWと雁之助&ハヤブサのWMFの二派に別れる結末となった。
 
雁之助は交渉から事務処理までこなしていた。他団体に上がりたいという野望はなかった。あの頃のFMWイズムを継承できればと思いWMFを運営していたが、やはり早い段階から観客動員に苦戦する。、明確なコンセプトを見出すことができなかったのだ。2008年にWMFは解散している。だが、雁之助がWMFで手塩をかけて育てたレスラーが二人いる。藤田峰雄と宮本裕向。この二人は後々にインディー界を名を馳せるレスラーに成長している。ちなみに2007年年から雁之助は「鬼神道」というプロデュース興業を手がけている。
 
2008年12月27日、雁之助は引退する。体力的にはまだまだやれる。だが衰える前に去りたくなったのだという。
 
「タイミングとして“あっ、ここだ!”ってピンときたのが今年の5月だったんですよ。今年がミスター雁之助を見せられる最後の年だって」
 
試合後、リングには復帰に向けてリハビリに励むハヤブサがいた。
彼は号泣しながらこう語った。
 
「お疲れさま。悪かったね、先に引退させて。お前が…お前がいてくれたから、俺もここにいる。お前に言わなきゃいけないことも、言いたいこともたくさんあったんだけど、何か…お前…言う言葉が見つからん。ただ、お前が友達で良かった。お前のことが…お前のことが大好きだ! お疲れさま…そして本当にありがとう」
 
雁之助は試合後にこう語った。
 
「いろいろなことがあったけど、プロレスが好きだという気持ち、プロレスが本当に素晴らしいから、そしてファン、仲間が支えてくれたから、ここまでやってこれた。一番大きいのは江崎英治(ハヤブサ)がいたことだよね。俺、ひとりでプロレスラーになろうと思っていたのに江崎が付いてきて、それで一緒にテストを受けて40人の中で2人だけ受かって。申し訳ないのは、2人ともこれで飯食ってきてね、俺が先に辞めちゃうこと。江崎はリハビリを頑張って自分の足で立とうとしている。自分の分まで頑張ってほしいね。一番の思い出は…プロレスラーになれたことですよ。物心ついた時からプロレスしかなくて、俺はプロレスラーをめちゃくちゃリスペクトしていたから、そのプロレスラーになれたことが最高のことですよね。試合前にはプレッシャーもあるし、怖さもあるし、吐き気もする。でも試合が終わった後の解放感が最高なんです。次は夏ぐらいにやろうかな…って、それはないです(笑)。でも、そう思うくらいプロレスは素晴らしいものなんですよ」
 
リングを去った雁之助は女子プロレス団体アイスリボンのスタッフとして業界に残った。リングアナ、コーチが彼の役割だった。またインディー団体ガッツワールドにアドバイザーとして関わるようになり、プロレスへの熱い気持ちがいつしかリング復帰に繋がった。
 
2014年10月12日ガッツワールド後楽園大会で復帰を果たす。そこには鬼神道を貫く雁之助がいた。ブランクなどを吹っ飛ばす活躍を見せる。だが、そんな彼に訃報が飛び込んでくる。
 
盟友・ハヤブサの急死だった。雁之助は2006年3月27日後楽園ホール展示場で行われた「ハヤブサを偲ぶ会」で次のようなメッセージを残した。その言葉が我々の心に深く突き刺さる。
 
「英治、熊本が大変な時に、きょうはわざわざ来てくれてありがとう。英治と初めて会ったのは大学1年生の時、お互い18で知り合って今年でもう30年か。大学の時4年半、何する時もほとんど一緒に遊び、飲み、トレーニング…思い出は尽きないよ。そして一緒にFMWのテスト受けて、50人の中からなぜか俺とオマエしか選ばれなくて、道場の寮に入ったらまた四畳半の部屋に俺とオマエと2人で住んでな。ずっと一緒だったけど、オマエがメキシコに行って帰ってきたら、俺が(FMWを)出ていって、また戻ってきて、敵対して組んで、また離れて、WMF作って、また離れて、またくっついて…なあ? オマエとは親友であり盟友でありライバルであり、なんにも言葉はかわさなくても、お互いにね、何考えてるかわかるぐらいの夫婦みたいな関係だったのかもしれない。腐れ縁というのかね。そしてオマエはプロレス界で大スターになって、みんなに愛と勇気と感動を与えて、俺は友達として、ものすごく誇りに思ってました。俺が辞めて、また復帰するって決めた時にオマエに電話して報告した時、オマエは『おっさんが決めたことだから、俺は何も言わんよ』って言ってくれたよな。あと5年待ってくれって。そしたら俺もリング上がるから、その時リングで向き合おうねって言ってたけど、実現することはもう…なくなって…一番辛かったのはオマエだと思うし、悔しかっただろうし、きつかっただろうし、よう頑張ったよ。俺はね、オマエと知り合えて友達になれて、本当によかったと思ってる。英治ありがとう! 会いたいんだよ、オマエと!(号泣)熊本で送ってさ、オマエの骨拾って、もう1カ月以上たつけど、俺の中で受け入れられないんだよ! 事実を…受け入れたくないよ…。受け入れたくないけど、オマエは本当の不死鳥ハヤブサとなって、みんなの心のなかでずっと生きてるよ。47年間全力で走った人生、お疲れ様でした! 英治、またいつか会いましょう。ありがとう」
 
雁之助は「これからはハヤブサと共にリングに上がっていく」と決意する。その決意が実を結び、2006年5月8日後楽園大会でダイスケを破り、GWCシングル王座を獲得した。
 
試合後に雁之助はマイクで語り出した。
 
「一年半前のガッツワールド10周年、初めてのここ後楽園ホール大会で、僕は引退した身でありながら一年半前に復帰しました。引退して復帰をするということを一番否定してたのは俺なんですよ。絶対上がらないと決めて引退しました。でも、もう一回ガッツワールドのこのリングで、リングに上がって試合したいと自分思ったんです。その時に僕はハヤブサに電話してその意思を伝えました。彼は、決めたことだったら俺は何も言わん思いっきりやれって言われました。思いっきりやってそしてこのベルト取れた。スゴイ嬉しいし皆に感謝してます。そしてそのハヤブサは3月に僕らの前からいなくなりました。突然いなくなりました、途方に暮れました。いなくなったからリングに上がる時にハヤブサと一緒にハヤブサの気持ちとともにリングに上っております。なので自分自身にも、相手にも僕は負けるわけにはいかない。来月48になりますけどまだまだ僕は伸びてますからね。時計の針は戻ったんじゃないんですよ、ちょっとずつ進んでるんですよ!」
 
雁之助は2018年のガッツワールド解散に伴い二度目の引退を発表する。
 
「自分は一回引退はしてますんであんまり大きな声では言えませんが、復帰して4年ガッツワールドでやってきましたけど、2018年の4月15日をもって引退させていただこうかなと思います。理由といたしましては、自分は40歳を機に引退して来年(2018)50歳なんですけど、身体の限界、気力体力の限界を感じてプロレスに終止符を打つということで10年前に引退試合をやらせていただいてですね、皆様に快く送り出していただいて一回終わったんです僕のプロレス生活。でも僕はプロレス大好きで、辞めたあとも結局プロレス以外の仕事はしてきてなかったんです。その中でガッツワールドの相談役としてやってましたけども、初めての後楽園大会をガッツワールドでやる時にガッツ代表の方から是非雁之助さんに復帰してほしいとオファーをされました。どうしてもというガッツ石島の熱意と、相談役として盛り上がって欲しいという気持ちと、自分のプロレスが大好きだったという根底に決断して後楽園のリングに上がらせていただきました。上がる以上はガッツワールドのためにという気持ちで今日まで練習と試合を続けてまいりました。そういう経緯がありますんで、引退して復帰したミスター雁之助っていうのはガッツワールドとともに歩んで来たミスター雁之助でありますから、ガッツワールドの最後とともに、50歳という節目でもありますし、綺麗に身を引いたほうがいいのかなということで決断いたしました」
 
雁之助の一度目も二度目の引退には「衰える前に辞める」という共通項があった。引退後、雁之助は地元・九州に帰るという。
 
2018年3月27日新木場1stRINGで自主興行「鬼神道Returnsファイナル」が開催された。そこには雁之助の代名詞ファイアーサンダーを得意技にし、インディー界の代表選手の一人となった宮本裕向がいた。宮本は雁之助にファイアーサンダーを決めて勝利する。
 
試合後、宮本は語った言葉が印象的だった。
 
「僕らは雁之助さんと試合してるだけ幸せですよ。あんだけ上手い人いないもん。メジャーの選手でも居ないよ、あんな上手な人……」
 
雁之助はまさしく"プレイヤーズ・プレイヤー"。レスラーズの評判が極めて高い男だった。恐らく闘ってみて分かる奥深さが彼のプロレスにあるのだ。確かにあれだけの技量を持つレスラーはメジャーでも早々いない。
 
もし、彼について知らないプロレスファンがいたら、私はこう説明するようにしている。
 
「新日本の石井智宏と矢野通を合わせた選手なんだよ」
 
石井は真っ向勝負を信条とするブルファイター。だがその内面はどんなタイプにも適応できるオールラウンダー。矢野は知略を得意とするトリックスター。だがアマチュアレスリング全日本選手権を制するほどの実力派。この二人のプロレスを雁之助は一人でやっているのだ。この二人は実にプロレス頭が優れたレスラーである。個人的には雁之助のプロレス頭は東大級ではないかと考えている。彼のプロレスセンスやプロレス頭はプロレスファンだった少年時代から育成されたもので年季が入っているのだ。
 
ミスター雁之助は実に稀有なプロレスラーである。持ち前のプロレスセンスとプロレス頭、どんな攻撃にも耐えきれる強靭な肉体とコンディションを保持しあらゆる顔を見せてきた。武骨な真っ向勝負、極悪非道なヒールファイト、相手の一瞬のスキを突いたり、作戦や裏切りを生む知略、お笑いもかっさらえるエンタメ能力、そして誰かのために命を捧げられる義侠心…。思えばこの男のプロレスはいくつものグラデーションがあり、その振り幅の広さと深さこそが彼の醍醐味であり、偉大さではないだろうか。
 
鬼神道の遺伝子は宮本や藤田を筆頭に継承していき、今後もプロレス界に息づく。だからこそ雁之助は自信を持って言うのだ。
 
「コイツらにインディーのプロレスを託せる。未来は明るいよ」
 
ミスター雁之助、あなたはなんてカッコいいレスラーなんだろう…。
 

 
 
 
 
 
 
 

 


テーマ:
俺達のプロレスラーDXを更新しました。

日本インディー界の実力者ミスター雁之助選手を取り上げました。


是非ご覧ください!

さて次回は記念すべき200回目の更新です。取り上げるレスラーはかなり前から決まっていました。

リック・フレアー選手を取り上げます。

お楽しみに!

テーマ:

ここでTwitterで書かせていただいた一文をまとめたものを紹介。まずはオカダVSザックについて。

※オカダVSザックのIWGP戦について。王者オカダの凄さは今ならいうことはない。この試合でもあまり見せない闘龍門時代に培ったジャベを見せたり、引き出しの底無しさを見せつけた。そこにはじっくりとしたレスリングができるザックが相手だからという理由があったのだろう。この男はまだまだ進化の途中。

※そしてザック。両国でもその関節技を中心としたテクニックを遺憾なく披露。ファイトスタイルで賛否を呼んだのも近年では珍しく、反対や批判が上がれば上がるほど、彼がいかに特別なレスラーなのかを逆説的に証明してしまった。好き嫌いも含めてなにか引っ掛かっているわけなのだからあれはありである。

※最後にザックを献身的にサポートしてきた鈴木軍のTAKAみちのく。彼がいなければ、NJCでのザックの活躍はなかった。試合前の煽りマイクがあったから、ザックの驚異さを助長していくことに成功した。外道とマイクでやりあえるレスラーはWWEで長年生き抜いた彼だからできたことだ。

※IWGP戦後のTAKAの涙には感動した。今の新日本であんなに長々としたマイクをよそ者がやっていいのかという葛藤もあっただろうし、鈴木軍にいていいのかという想いもあった。そしてザックの活躍。そんな複雑に絡み合った感情が涙となって爆発したのだろう。

そしてtwitterで書かせていただいたイギリスのプロレス界についてです。

※新日本では先日の両国大会のシングルのタイトル戦はイギリス人選手が3人も絡んだこともあり、何かと日本でもイギリス人選手に注目が集まりやすい状況下にある。ウィル・オスプレイ、マーティー・スカル、ザック・セイバーJr.の英国三銃士について語る前にイギリスのプロレス界について。

※かつてイギリスのプロレス界はキャッチ・アズ・キャッチ・キャンをベースとしたテクニカルなスタイルが主流だった。そこから日本に数多くのイギリス人選手が来日しその技術で観衆を魅了してきた。

※イギリス人選手の代名詞となったのは人間風車ビル・ロビンソン。キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの達人である彼はその腕一つで世界中で生き抜いてきた。その後スティーブ・ライト、ピート・ロバーツ、トニー・セントクレアーといったロビンソンの流れを汲む技巧派が活躍してきた。

※しかし一人の男がその状況を変えた。ダイナマイト・キッド。彼はキャッチ・アズ・キャッチ・キャンのテクニックに現代プロレスをミックスされたスタイルで一時代を築いていった。そこからイギリス人選手のスタイルはロビンソン流とキッド流に分かれることになる。

※だが1980年代後半から徐々にイギリスのプロレス界は下火になっていく。ケーブルテレビでの中継もなくなった。そして2000年代になるとキャッチ・アズキャッチ・キャンの源流を継いだ団体はイギリスではほぼ存在したくなった。また活躍を求めてアメリカにいくイギリス人選手が増加したことも大きい。

※あとイギリスのプロレス界にとって痛かったのはWWEやWCWのイギリス進出である。両団体の中継はイギリスで放映され、ツアーや興業も開催された。そこからイギリス人にとってのプロレスとはキャッチ・アズキャッチ・キャンやランカシャーレスリングではなく、アメリカンプロレスとなったのだ。

※伝統的なイギリスのスタイルを伝える選手が減っていく。当然の結果だ。1990年代~2000年代にデビューしたイギリス人選手はテレビの影響でアメリカンプロレスかぶれが多くなった。それでも昔ながらのイギリス人の技術に己の生きる道を求めたのが2004年デビューのザック・セイバーJrだった。

※ウィル・オスプレイは2012年デビュー。そもそもこの世代になるとイギリスの伝統的なプロレスとは無縁である。そしてオスプレイは驚異のハイフライヤー。常人離れの空中技を操るワンダーボーイだが、序盤でたまに見せる技術はまぎれもないイギリス伝統的なプロレス技術である。

※マーティ・スカルは2005年にデビューしている。ライバルのオスプレイが陽なら、スカルは陰である。掴みどころがなく敢えて少ない技で相手を追い込む曲者ぶりを見ていると初代ブラック・タイガー(マーク・ロコ)に似ている。

本来の伝統とは昔ながらの教えを守ることではなく、「伝統を守りつつ、時代に合わせたスタイルを追求しながら、常に進化していくこと」だと解いたのは創業185年を迎えた日本料理店「なだ万」である。それはイギリスのプロレスも同様だ。絶滅危惧種となっても形を変えながらもいい部分が残ればいいのだ。

※だからこそイギリス人選手やイギリスのプロレス界に興味を持たれた場合、その歴史を知ってほしい。かなり興味深いのだ。そもそもキャッチ・アズ・キャッチ・キャンがプロレスの源流なのだという定説が存在している。しかし、現時点ではフランスのサーカス団の出し物がプロレスの源流だと言われている。

※あと現在イギリスにあるプロレス団体は伝統的なイギリススタイルではなく、新日本と提携しているRPWやDefiant Wrestling(WCPW)はアメリカンプロレスの流れを汲む団体である。それも現実である。

以上Twitterのまとめでした。

そして、僕はふとこう思った。

去年の4月はプロレス界に柴田勝頼という桜が咲いた。今年は英国三銃士という桜が日本で咲いたんだなと。

イギリス人選手が好きな僕はその桜が日本で咲いたことに感動していたんですね。個人的にはその桜がイギリス伝統的なスタイルの継承に少しでも貢献してくれればいいなと思ったりするんですよね…。





 

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