ジャスト日本のプロレス考察日誌

プロレスをもっと広めたいという思いブログをやってます。新旧洋邦のレスラーを取り上げた「俺達のプロレスラーDX」を連載中!
ご愛読よろしくお願いいたします。


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俺達のプロレスラーDX
第151回 追憶のアメリカン・ウェイ~我が愛しの空爆戦士~/パトリオット



僕はプロレスが好きです。
僕はプロレスラーが好きです。
どんなスタイルや団体が好きとか、どんな選手が好きだとかではなく、ジャンルとして人種として僕はプロレスとプロレスラーを愛しているのです。

僕がプロレスファンになる決意を固めたのは今から20年以上前の1992年のこと。
当時、僕が住んでいた地域ではテレビ朝日系の金曜午後4時に「ワールド・プロレスリング」が放映されていました。「ワールド・プロレスリング」をたまに見ていた僕はいつしかプロレスに興味を持つようになったのです。しかし、その「ワールド・プロレスリング」が日曜の深夜に放映時間が変更になったのを機に、毎週録画して見ることにして、さらに日本テレビ系で当時放映されていた「全日本プロレス中継」も一層のこと録画して見ることにしました。
またプロレスの情報を伝える週刊誌も購入することにしました。
こうして、僕はプロレスファンになりました。

新日本プロレスと全日本プロレスを見て、プロレス者としてのイデオロギーやアイデンティティーを構築させていった僕にとって、大きな出会いとなったのはレンタルビデオ屋で借りたアメリカン・プロレスでした。

日本とアメリカ、プロレスというジャンルは同じでもスタイルは違いました。しかし、各々に違った面白さがあったのです。また僕が見たアメリカン・プロレスにはオールドスクールなアメリカン・プロレスもあれば、デスマッチもあれば、ジャパニーズ・スタイルもあったり、様々なスタイルが一つのプレートに並べられていたのです。

これがプロレスの奥深さ。日本であろうが、アメリカであろうが、メキシコやカナダ、ヨーロッパだろうが、プロレスのスタイルに差異があっても、それぞれに独自の趣きがあったのです。

アメリカン・プロレスとの出会いは僕のプロレス観を大きく変え、プロレスとは多種多様なジャンルなのだということを痛感させられました。王道、闘魂、邪道といった固定観念はあくまでもプロレスの大きな括りのほんの一部に過ぎないのです。その壮大さと雄大さに僕のプロレスへの探求心がより増していきました。

僕が見始めた当初の新日本プロレスや全日本プロレスには、多くの強豪外国人レスラーが参戦していました。新日本にはビッグバン・ベイダー、クラッシャー・バンバン・ビガロ、スコット・ノートン、トニー・ホーム、グレート・コキーナ、ワイルド・サモアンといった大型モンスターが集結。全日本プロレスにはスタン・ハンセン、テリー・ゴディ、スティーブ・ウィリアムス、ダニー・スパイビーの外国人四天王に、ジョニー・エース、ダニー・クロファット、ダグ・ファーナスといった次世代の外国人レスラーがトップ獲りに意欲を燃やしていました。

現在の日本プロレス界とは異なり、外国人レスラー達にとって日本は主戦場だったのです。僕がプロレスを見始めた頃に全日本プロレスに初来日を果たした一人の外国人レスラーがいました。それが今回の主役なのです。

彼の名はパトリオット。
人呼んで、"空爆戦士"、"愛国仮面"。
190cm,118kgの筋肉質で屈強な肉体と運動神経は大きな期待を抱かせた。
僕はこのパトリオットのことを思い出すと、何故かプロレスを見始めた頃の自分を思い出すのです。
そして、どこかでずっと気になっている存在でもありました。
あなたにもどこかにいませんか?

自分にとって、大好きではないが、どこか気になっている人物。
昔の自分を思い起こさせる人物。
姿や消息が分からなくなっても、「今アイツは頑張っているのかな?」と思わせる人物。

僕にとってパトリオットとはそんなレスラーです。
今回の「俺達のプロレスラーDX」は我が愛しの空爆戦士・パトリオット…あなたに捧げます。




実は今回紹介するパトリオットは二代目である。
「パトリオット」を名乗った覆面レスラーは三人いるのだ。
初代は1970年代にアメリカ・インディー団体に参戦していた。
正体はボビー・ハートというレスラーだという。
三代目は2000年前半にアメリカ・インディー団体に出現。
正体は全日本やWCW、WWEにも参戦したジョニー・ガン(トム・ブランディ)という中堅レスラーだった。
しかし、二代目のパトリオットほどの輝きは放っていなかった。
なので、この二代目が代表格のパトリオットと言えるだろう。

パトリオットは1961年12月21日アメリカ・サウスカロライナ州コロンビアに生まれた。
本名はデル・ウィルクスという。
少年時代からプロレスファンだった彼は中学生の時にプロレスラーになることを志す。

「僕は南部育ちだから、ブリズコ兄弟、ワフー・マクダニエル、グレッグ・バレンタイン、それからファンクスなんかが少年時代のヒーローだった。ライブで観た試合では、ブリズコ兄弟 VS リップ・ホープ&スウェード・ハンセンの大流血戦が印象に残っているね。子供の頃は、よく弟にパイルドライバーなんかをかけて遊んだもんだよ。もちろん、ベッドの上のやわらかいところでね(笑)」

デルにはアスリートとしての才能に恵まれていた。
学生時代にアメリカン・フットボールで活躍し、大学卒業後にNFLに入団し、プロの道へ進んだ。
アトランタ・ファルコンズとタンパ・バッカニアーズで1シーズンずつプレーしたという。

デルが少年時代から抱いていたプロレスラーへの道を歩むことになったのは1988年のこと。名伯楽ブラッド・レイガンズが率いる「レイガンズ道場」でトレーニングを積んで、AWAでザ・トルーパーという警備員キャラクターとしてデビューを果たす。
ちなみにこのキャラクターで1990年8月に全日本プロレスに初来日をしている。

「僕はファンの気持ちを理解できるレスラーになりたいんです。ファン上がりといったら、ほとんどのレスラーはファン上がりですよ。でも僕はプロ・フットボールを経験しているから、たくさんのお客さんの前でナーバスになったりすることはない。人が多ければ多いほどいいファイトができるよ」

そんなデルがマスクマン「パトリオット」に変身するのは1991年6月のこと。
テキサスのインディー団体GWFにて空爆戦士は産声を上げた。
愛国者という意味を持つパトリオットは星条旗をあしらったド派手なマスクとロングタイツ、コスチュームはまさしくアメリカン・ヒーローそのものだった。
アメリカン・プロレスでは愛国者キャラクターは正統派キャラクラーの鉄板である。

「パトリオットとは言論の自由、表現の自由。アメリカ人であることのプライド。レスリングにも、愛国主義は生かされています。これはある人から聞いた話なんだけど、ジョージ・ワシントンもアブラハム・リンカーンもレスリングをやっていたというじゃない。レスリングは、リーダーシップをとったり、難局を打開するメンタルな強さを培ってくれるスポーツなんだと思う」

同年8月にアル・ペレスを破り、GWF北米ヘビー級王者にもなった。
GWFのエースとなったパトリオットが選んだ次の戦場は日本だった。

1992年5月に全日本プロレス「スーパー・パワー・シリーズ」に期待のニューカマーとして来日したパトリオットは初戦からセミファイナルに抜擢され、"英国の爆弾"ジョニー・スミスと組んで当時の世界タッグ王者のジャンボ鶴田&田上明と対戦した。
ここでパトリオットはインパクトを残す。エース鶴田との対戦で、手四つの力比べで互角に渡り合い、さらに鶴田のフルネルソンを自慢のパワーで強引にほどいて見せた。
大歓声に包まれる中でパトリオットは胸板を叩き咆哮を上げた。
終盤には得意技であるパトリオット・ミサイル(トップロープからのダイビング・ショルダータックル)も炸裂。初戦にしてパトリオットはファンの心をガッチリと掴んだ。

その後、トップ外国人レスラーのスティーブ・ウィリアムスや若手急先鋒の小橋健太とのシングルマッチで実力を証明し、三沢光晴&川田利明とのタッグマッチとの対戦では当時の日本マット界ではあまり見たことがなかったフルネルソン・バスター(パトリオット・バスター)を初公開した。
1シリーズで全日本プロレスの常連外国人レスラーの仲間入りを果たしたパトリオットはその後、同年デビューの小橋と「日米新世代ミサイルコンビ」を結成し、日本マットでの経験を積んだ。
年末の「世界最強タッグ決定リーグ戦」にはこのシリーズで誕生した星条旗マスクマンであるジ・イーグルとのコンビで初出場。リーグ戦を盛り上げ、大健闘を果たした。
イーグルとの愛国仮面コンビは実にバランスのとれたタッグチームだった。

パワーのパトリオットとテクニックのイーグルはコンビネーションも多彩で役割分担も出来ていた。試合を決めるのはパトリオットで、イーグルは試合をコントロールする司令塔だった。
1993年6月には小橋健太&菊地毅を破り、アジアタッグ王座を獲得した。
またアジアタッグを何度も戴冠した名タッグチームであるカンナム・エクスプレスとの対戦はアジアタッグの名物となった。
パトリオットの魅力はマスクマンでありながら、熱き感情を持ち、喜怒哀楽を表現できるという才能と天性の華だ。運動神経にも優れていたが、動きにぎこちなさもあったりもした。そんなマイナスも豊かな感情表現と天性の華でカバーしていたのがパトリオットだった。もしかしたら長年WCWのエースであり続けた伝説のプロレスラーであるスティングに似ている部分かもしれない。

パトリオットはレスラーとして名声を求めて1994年アメリカのメジャー団体WCWに移籍する。後にnWoのメンバーとなるマーカス・バクウェルとの「スターズ・アンド・ストライプス」というタッグチームを結成し、WCW世界タッグ王座を獲得する。
1995年には再び、全日本プロレスに帰ってきたパトリオットはジョニー・エースとのアメリカ版超世代軍でトップ戦線に食い込んでくる。タッグマッチながら小橋健太を復帰戦で高角度パワーボムで金星を挙げ、シングルマッチで小橋を撃破する成長ぶりを披露してみせた。
同年8月には川田利明&田上明が保持する世界タッグ王座にも挑戦した。

1996年にはパートナーのエースが依然組んでいたスティーブ・ウィリアムスとの殺人狼コンビを復活させたため、パトリオットは小橋とのコンビを再結成する。年末の最強タッグに出場し、惜しくも決勝戦に進めなかったものの、第三位という結果を残した。
1997年には小橋、エース、パトリオットのトリオで「G.E.T(グローバル・エネルギッシュ・タフ)」を結成、新世代軍団として全日本プロレスに新風を巻き起こすはずだった。
だが、パトリオットは左ヒジを痛め、その古傷を抱えながら試合を続けていた。
その古傷の悪化によってシリーズを欠場したパトリオットだったが、なんと欠場中にアメリカWWE(当時はWWF)に移籍する。全日本サイドからするとダブルクロス(裏切り)をしたという形となった。それ以降、パトリオットが来日することはなかった。

WWEに移籍したパトリオットはWWEのスーパースターのブレット・ハートと抗争を繰り広げたが、今度はヒザを痛め、1998年に団体から解雇が言い渡された。
そのままパトリオットはフェードアウトしていった。
パトリオットはトップにはなれなかったかもしれないが、キャリアは短くてもまるで線香花火のようなプロレス界で光を放っていった。
スーパーヒーローにはなれなくても彼はヒーローだった。

「誠実、公正、勤勉。そしてドゥーイング・シングス・ライト、つまり正義です。もちろん、欠点のない人間はいません。でも、つねに物事にベストを尽くすこと。これがアメリカン・ウェイなんです」

だが、アメリカン・ウェイを歩んだ男の光には闇があることが後になって判明する。

実はプロレスラーになる以前からステロイドとコカインの常習者だったのだ。
1日に150錠も摂取する中毒者だった彼は1997年から2002年にかけて処方箋偽造の容疑で実に20回も逮捕された。
地に落ちた空爆戦士。
皆の夢も希望も裏切った正義の味方。
それがパトリオットの終幕。
なんとも悲しくて腹立たしい結末である。
パトリオットのレスラー人生は愚かなものだったのか…。




僕にとってパトリオットとは青春でした。
だが青春や人生は終わりがあります。
その先にあるのは厳しい現実でした。
あの屈強な彼の肉体には薬が絡んでいたというのはプロレスを見始めた頃の僕が知ったとすれば幻滅したかもしれません。

正直、今考えても彼がコカインとステロイドの常習者だったという事実はショックなんですよ。
本人が目の前にいたら、「俺達を裏切りやがって、バカヤロー!!」と抗議したいくらいに…。そんなモヤモヤした日々を過ごしていたある時、こんな出来事がネットで話題になっていました。





スポーツ総合雑誌「Number」で2016年2月に覚せい剤取締法違反で逮捕された元プロ野球選手・清原和博氏を表紙にしたのです。賛否両論が沸き起こった中で編集長の松井一晃さんは清原氏を表紙に抜擢した理由についてこう語りました。

「犯罪は犯罪。犯してしまったことは償わなければなりません。しかし、清原さんが素晴らしい打者であったことは事実です。当時、彼に励まされ、熱狂し、影響を受けた人は数知れません。そんな人が、このまま朽ちていくのは嫌だった。ただ、"立ち直って欲しい"と思ったんです。許したいとかでは決してありません。偉そうだけど、清原さんが立ち直るためになにかできることはないか。個人的には、そういう思いもありましたね。同世代にとってヒーローだったのは事実。清原さんの存在をなかったことにするのは、過去の自分まで否定する行為だと思うのです。"清原ってやっぱりすごかったよな"と思い出してもらいたい」

清原の存在を否定することは過去の自分まで否定する行為。
実は松井さんにとって清原氏は自身の人生に影響を与えたヒーローだったのです。

1985年の夏、高校一年の私は父のクルマの中で編入試験の合格発表を待っていました。ラジオからPL対宇部商の中継が流れています。

「ここでキヨハラが打ったら、俺も受かる……」

次の瞬間、あなたはホームランを打ちました。甲子園はキヨハラのためにあるのか。
次の打席も、あなたはホームランを打ちました。以来、あなたのホームランに、一体どれだけ励まされつづけたことか。
【「Number」2016年8月10日発売号編集後記より】

目から鱗が落ちました。
彼が犯した過ちは否定できないし、非難されるべきだが、だからといって彼の足跡や伝説まで消去されるわけではない。

僕は…これはパトリオットにも言えるような気がしたのです。
もう許さないとか、裏切り者とかどうでもいいんです。
彼は彼で大変な人生を生きてきたのですから。そして、プロレスファンだからといって、僕が彼に偉そうなことを言える立場ではないですから…。

プロレス界を離れた彼は自動車のセールスマンになったといいます。
彼は近年、こんな言葉を残しているそうです。

「自分の人生は誰も真似をしないでほしい」

褒められた人生ではなかったかもしれません。
プロレスラーとしての偉大なる記録を残したり、栄冠に輝いたわけではありません。
でも不格好でも野暮ったくても、筋肉がステロイドで作られたものだったとしても僕にとってパトリオットはヒーローなんです!!
その事実と追憶は消えることはないのです。


ちなみにNumberの松井さんは今、目の前に清原氏がいたらこう声をかけたいそうです。

「あなたと同じ時代に生まれて本当に良かったです」

全てを受け止めた上で出てきた重くて尊い言霊のように僕には感じました。

ならば僕も我が愛しの空爆戦士にこの言葉を捧げたい。

「僕にとってあなたはヒーローです。あなたのプロレスをリアルタイムで観れたことに僕は誇りに思います。ありがとう、パトリオット…」

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俺達のプロレスラーDXを更新しました。
全日本プロレスで活躍したパトリオット選手を取り上げました。

追憶のアメリカン・ウェイ~我が愛しの空爆戦士~/パトリオット【俺達のプロレスラーDX】

是非ご覧ください!!

さて次回は全日本プロレスや新日本プロレス、アメリカやメキシコなどあらゆるフィールドを漂流したプロレスラーキム・ドク(タイガー戸口)選手を取り上げます。


お楽しみに!!
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野獣・藤田和之、涙で引退を表明 バルトに敗れ「区切りがつきました」【デイリースポーツ】

【RIZIN】“野獣”藤田和之 バルトに敗れ引退表明【東スポWeb】

【RIZIN】引退表明の藤田にカシンが待った【東スポWeb】

※藤田和之らしい引退表明だったと思います。

今後どうなっていくのか気になります。

RIZINの榊原代表は年末に藤田選手の引退試合を組みたいでしょうが、どうなりますでしょうか!?

本能と野心の赴くままにリングを越境した異端児の狩猟/藤田和之【俺達のプロレスラーDX】

こちらの記事にも掲載した藤田選手のコメントで「未熟者に引退はない」という哲学がある。

未熟者に引退式はない。
あのバルト戦後のコメントで、野獣は溢れる涙を抑えることができなかった。

涙が似合わない野獣が流した涙に熱いものを感じた。

※長年藤田を追い続けた金沢克彦さんのブログが更新されましたので掲載します。

今後はどうなるかはわからないが、今はこう言いたい!!

ありがとう!藤田和之!!


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ヒューマンドキュメント・秋山準【金沢克彦オフィシャルブログ プロレス留年生 ときめいたら不整脈!?】

全日本プロレス社長・秋山準が明かした波瀾万丈 「四天王の中に放り込まれて、ついていくのに必死だった」【週プレNEWS】

全日本プロレス社長・秋山準が激白した三沢光晴との最後の会話…そして“王道”再生への覚悟【週プレNEWS】

※まずこの記事で良かったな、印象に残ったなと思った部分を二つピックアップします。

一つ目は三沢光晴との最後の会話。

「最後に三沢さんと言葉を交わしたのは、広島大会の前日の大阪でした。僕は腰の状態がひどかったんで、朝、ブロック注射を打ちに東京に戻るところでした。ホテルを出るときに、ちょうど三沢さんが飲んで帰ってきたんです。『大丈夫か?』『いや、今から東京帰ってブロック注射してきます』『ちゃんと見てもらえよ』。言葉としてはそれが最後です。三沢さんは首の調子が悪くてほとんど眠れなかったらしくて、飲まざるをえなかったみたいです」

体調が悪い三沢が、それでも周囲を気を使い、心配するその気持ちに僕は胸が熱くなりました。

二つ目は全日本社長に就任後のエピソード。ご存じの方も多いですが、昨年の今頃は全日本は今度こそヤバイかも、崩壊するかもと言われていた頃。

「社長になったときは正直、すごい(会社に)負債があって、へたしたら数ヵ月で自宅がなくなるっていう状態だったんです。だけど嫁さんは『まあ、しょうがないでしょ』って言う。『いや、しょうがないって、おまえ、家なくなるかもしれないんだよ』、『アパートに住んだっていいじゃない。私も仕事行くし』って、全然悲壮感がないんですよ。だから僕、深刻に考えるのがアホらしくなってきて(笑)」

僕はこの奥様がいるから、今日の秋山準がいる気がしましたね。

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※いやぁ、流星さん!!

やりましたね!

めちゃくちゃ、面白くてマニアックじゃないですか!!

問題作成、お疲れ様でした!

これ挑戦したいのですが、なかなか忙しくてできないのが歯がゆいものです!

代わりと言ってはなんですが、この記事を紹介させていただきました。 

21世紀にブログで何故か甦ったカルトQ プロレス大会に参加してみてはいかがでしょうか!?
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俺達のプロレスラーDX
第150回 孤独な蛇男のライズ&フォール/ジェイク・ロバーツ




その男はいつも不気味に微笑んでいた。
怪奇派でありながら、まるでダンディなハリウッド俳優のようなオーラを身にまとった男。

195cm 120kgの恵まれた肉体を誇り、今やポピュラーなプロレス技であるDDTの元祖であり、その敢えて出し惜しみしながら、必殺技DDTに繋げていく自らのプロレスに絶対的な自信を持ち、対戦相手だけでなく、観客、ファンやマスコミといったあらゆる者達の心理を見事にコントロールしてみせたリングのマエストロ…それが今回の物語の主人公だ。

ジェイク・ "ザ・スネーク" ・ロバーツ

プロレスライターの斎藤文彦氏は彼のレスラー人生をこう評している。

「フィクション人生」

"ザ・スネーク"と呼ばれた稀代のアンチヒーローが放つその言動とキャラクターはどこまでが真実で、どこまでがフィクションや演技なのかがわからないという意味でこう評したのだ。

「ビヨンド・ザ・マット」や「ジェイク・ザ・スネークの復活」といった映像作品の中心人物として取り上げられたのがジェイクだった。また、ミッキー・ローク主演の名作映画「レスラー」の主人公であるランディ"ザ・ラム"ロビンソンのモデルと言われているのがジェイクだと言われている。クリエイターからしてもジェイクというレスラーはそれだけ魅力的だったのかもしれない。

「フィクション人生」の果てに蛇男が味わった栄光と転落、その先にあった更生の道。
映画や小説よりも奇でありドラマチックな男のレスラー人生を追うことにしよう。
これはプロレスに取りつかれた孤独な蛇男の盛衰物語がある。

ジェイク・ロバーツは1955年5月30日アメリカ・テキサス州ゲインズビルで生まれた。
本名はオーレリアン・ジェイコブ・スミス・ジュニアという。
父のグリズリー・ジェイク・スミスは元プロレスラーである。
ただ、この家庭事情に関してもジェイクはフィクションのような秘密があった。

父親は親子ほどトシの離れた若い女性と再婚。その義母との性的関係。ジェイクを育ててくれた祖母の再婚。義祖父のアルコール依存症と家庭内暴力。祖母の死。10代で子どもを生んだ妹とその妹が被害者となった誘拐殺人事件。ジェイクの記憶のなかで現実と非現実がジグゾーパズルのように複雑にからみ合っている。
【“ヘビ男”ジェイク・ロバーツのフィクション人生――フミ斎藤のプロレス講座別冊 WWEヒストリー第70回•日刊SPA!】

父のグリズリーはジェイクについて映画「ビヨンド・ザ・マット」で望んで生まれた子ではなかったとコメントしているので、ジェイクの屈折した性格やキャラクターはこの世に生を受けた時点から生まれていたものかもしれない。
それでもジェイクは父からの愛を求めて、プロレスラーになる道を選ぶ。

父やバッグ・ロブレイ、ミスター・レスリング2号、ムース・モロウスキーといったレスラー達の指導を受け、1975年にデビューする。
デビューしたジェイクは父からの労いの言葉を待っていた。

「よく頑張っているな」
「誇りに思う」

だが、ある日、ジェイクは父から受けた言葉は…。

「この恥さらしめ!!」

試合に負けたからなのか、試合が詰まらなかったからなのかはジェイクの言動なのでよく分からないが、この言葉がジェイクの心に火をつけた。

「絶対に見返してやる!!」

それは父に対して、家族に対して、自分を認めない世間、自分に試練を与え続ける神に対してなのかもしれない。

アメリカ各地やカナダに至るまであらゆるテリトリーでキャリアを重ね、プロレスラーとしてのスキルを磨いていくジェイクは1979年1月に国際プロレスで初来日を果たしている。
1980年に二度目の来日ではロックバンド「KISS」ばりのペイントを施していたという。

ジェイク・ロバーツが"ザ・スネーク"というニックネームが付くようになるのは1980年代の事である。ジョージアに転戦してた時にアメリカのレジェンド実況アナであるゴードン・ソーリーがこう評したのだ。

「彼はスネークだ」

長身を生かしたスケールの大きなプロレスとプロレスセンス。
バランスの取れたどこかスリムな肉体でキャンパスをすべるように動き、コーナーに座り込んでいたかと思うと、勝負所になるとスピードを上げ、獲物を仕留めるそのスタイルはまさしく、蛇そのものである。1982年にヒールに転向し、この「ザ・スネーク」という異名が付いてから、ジェイクはステップアップしていく。
1983年にはNWA世界TV王座を獲得している。

また必殺技のDDTについてこんなエピソードがある。

トレードマーク技のDDTは、ジェイクがミッド・アトランティック地区をツアーしていた時代にザ・グラップラーとの試合中に偶然、発明されたものとされている。ジェイクのフロント・ヘッドロックがすっぽ抜けてグラップラーが脳天から落下し、これがのちのDDTの原形となった。この技にDDT(Dichloro-Diphenyl-Trichloroethane)という殺虫剤の名をアダプトしたのがジェイクであることはまちがいないが、これとまったく同じフォームの技を使っていたレスラーはジェイク以前にも何人かいた。DDTを発明したのはだれか、という議論は現在でもずっとつづいている
【“ヘビ男”ジェイク・ロバーツのフィクション人生――フミ斎藤のプロレス講座別冊 WWEヒストリー第70回•日刊SPA!】

ジェイクのプロレスは大きく三つの技で構成されている。
試合のペースを握るために使用するパンチやニーリフトといった打撃技。
腕をツイストしてから相手の腕を自らに引き込んでの至近距離で放つショートアーム・クローズライン(ラリアット)。
そして一撃必殺のDDT。

この出し惜しみをし、技をあまり使わない攻撃スタイルはアメリカのプロレスラーの典型といっていい。

WWEの重役であり、トップレスラーのトリプルHはこう語っている。

「優秀なレスラーは実はたくさんの技を使わない。ストーンコールドは3つのことしかやらない。テーズ・プレス(フライング・ボディー・シザース・ドロップ)、コーナーでのストンピング、そして、スタナー。これだけ。観客の目をリングに集中させるために500種類の技を用意する必要はない。意味ある動き、技が2つか3つあればいい」

1986年にジェイク・ロバーツはWWE(当時WWF)に移籍する。

ビンス・マクマホンによって「ザ・スネーク」のキャラクターには更に肉付けがなされ、蛇のデザインが施されたロングタイツや蛇皮のブーツを着用し、ペットのニシキヘビ「ダミアン(Damien)」を麻袋に入れてリングに持ち込むサイコパス系の怪奇派ヒールとなった。
【wikipedia/ジェイク・ロバーツ】

ジェイクの存在は1980年代のアメリカン・プロレスのアンチヒーローだった。

DDTの生みの親でありロバーツは、1986年にWWEデビューを果たすと、この痛烈な必殺技で一気に知名度を高めた。そして、当時ファン人気が高かったリッキー・“ザ・ドラゴン“・スティムボートに狙いを定めて抗争を開始。壮絶な抗争劇の末、ロバーツはコンクリート床の上にリッキーをDDTで沈め、リッキーに数週間にも及ぶ入院を強いた。不気味な雰囲気を醸しながらもロバーツの人気は高まりを見せ「スネーク・ピット」という番組を持つようになった。当時はロディ・パイパーの「パイパーズ・ピット」も人気を博していたが、屈折した観点で語られたロバーツの番組も好評を博した。ロバーツがさらにファン人気を確立したのはホンキー・トンクマン、ミリオンダラー・マン、アンドレ・ザ・ジャイアントらとの一連の抗争を経ていた時期だった。ロバーツが愛蛇ダミアンを持ち出すなり、アンドレが一目散に逃げ出したシーンは、オールド・ファンにとっては忘れられない名場面だ。
【WWEホームページより】

プロレス関係者はジェイク・ロバーツをこう絶賛する。

ポール・ヘイマン(元ECWプロデューサー)
「ジェイクは大旋風を巻き起こしたプロレス界でも一番のカリスマだ。雲の上の人だった。カメラを通じて、自分の存在をアピールをし、人の心を摑む」

ジム・ロス(元WWE実況アナウンサー)
「ジェイク・ロバーツは素晴らしい才能を持っていた。それは身震いするほどでプロレスのショー的部分で思い切り発揮されていた。彼の最も優れた点は観客の心理のコントロールだ」

ジーン・オークランド(元WWE名物アナウンサー)
「リング上で最高の物語を提供する男」

ジェイクは怪奇派でありながら、ベビーフェースやヒールに立ち位置を変えていった。
この現象は単なる典型的な正統派や悪党の存在だけではマンネリ化している現状を打破するためのカンフル剤のような役割を担っていたことを意味する。ベビーフェースの時に大勢の敵に向かって蛇の入った麻袋を抱えたジェイクがゆっくりと姿を現した瞬間は最高にかっこよかった。エースであるハルク・ホーガンとはあまり絡まらなかったため、ジェイクはWWEで長年に渡り名大関であり続けた。試合に勝とうが、負けようが、ジェイクは狂気のタクトをふるい続けた。

人々の心をコントロースする掌握術は試合前のインタビューから始まる。
ヒールだからアウトローだからと言って罵詈雑言を大声でがなり立てるのではなく、冷徹に穏やかに語りかけるのだ。まるで呪文の如く…。

「許しを乞え。土下座をしてひれ伏すがいい。お前はリングの中でひざまずくがいい」

試合によって変えていくパンチラインを述べた後にジェイクは静かに薄ら笑いを浮かべる。これこそ、人々の心理のコントロールに長けているリングのマエストロの真髄である。

「俺は皆の心を支配しているんだ」

彼はこの薄ら笑いを浮かべている時に恍惚と快感に酔っていたのかもしれない。
だが、自身の運命までもはジェイクでもコントロールできない。

1992年4月の「レッスルマニア8」でのアンダーテイカー戦を最後にWWEを離脱したジェイクは、NWAの流れを汲んだWCWに移籍する。WCWの絶対エースであるスティングと抗争を繰り広げるも、同年11月に離脱する。

1993年9月には新日本プロレスに参戦し、当時のナンバーワンのDDT使いの橋本真也とのDDT対決を実現させた。また、1994年にはメキシコAAAに参戦し、エースのコナンと髪の毛をかけた抗争を展開した。

だがWWE離脱後はどの団体でも長続きせずに彷徨うジェイクにはドラッグ依存症とアルコール中毒に陥っていた。

「麻薬はやらないと誓っていたんだ。負け犬になるもんか、と。月に25~26試合をした。土日は2試合だ。毎日、飛行機で移動。あれじゃ薬漬けになるさ。睡眠薬で眠り、痛み止めを飲み、リングに上がる前にはコカインだ。そして睡眠薬を飲んでまた眠る。これは罠だ。コカインから逃げられない。ぶっ飛べば過去を忘れられる。トリップすれば責任から逃れられる」

華々しいプロレスラーが抱える闇がこのコメントから垣間見える。

1996年、WWEに戻ったジェイクは過去の過ちから悔い改め、敬虔なクリスチャンに生まれ変わっていたが、それでもジェイクは更生できなかった。
1997年2月に解雇された。
原因はドラッグだった。

いつの間にかスリムな体型だったジェイクは中年太りに陥っていた。
自堕落な男になってもリングに上がるとジェイクはかっこよかった。

「勝とうが負けようがどうでもいいんだ」

ジェイクにとってはプロレスができればそれでよかった。
何度も結婚、離婚と繰り返した。
娘との関係は最悪だ。
哀愁のジェイクはこう呟く。

「ヤク中は皆、不幸だ。俺はヤク中か? それとも昔、夢に出てきたホームレスか? 自分に同情するかよ。己を憐れむなんてまっぴらだよ。昔の栄光が懐かしいだけだよ」

ジェイクは自堕落になってもどこか強がっていた。

「俺が望めば市長になれるぜ。ファンが市長に祭り上げてくれるんだ」

アメリカやヨーロッパのインディー団体を転戦していくジェイクだが、ファンはそんなジェイクに歓声を上げた。ファンにとってはどんなにジェイクが自堕落だろうが関係がない。
彼らにとっては"俺達のカリスマ"なのだ。

ジェイクのプロレスに魅了されたポール・ヘイマンが率いたハードコア団体ECWでカルト的人気を誇った反逆児レイヴェンのモチーフとなったのはジェイクだった。また、CMパンクやブレイ・ワイアットなどジェイクに影響を受けたレスラー達も数多いのだ。

だがカリスマの神通力も限界があった。
ある興業に姿を現したジェイクは試合直前まで酒を飲み続け、酩酊状態でリングに上がり、そのままリングに倒れ、ピンフォール負けを喫した。
さすがのファンもジェイクに非難と酷評をした。

ジェイク・ロバーツは終わった…。

そう思われていた。
だが、ここでジェイクに思わぬところから救いの手が伸びる。
元プロレスラーでジェイクにとっては後輩のダイヤモンド・ダラス・ペイジ(DDP)がジェイクを更生させるために立ち上がったのだ。
WCW世界ヘビー級王座を獲得した名プロレスラーだったDDPはプロレス引退後、ヨガ教室を開いている。医者から歩けないと宣告された元軍人を走るところまで回復させたり、アルコール中毒から多くの者達を救っているいわば"更生のプロ"に転身していたのだ。

DDPにとってジェイクは憧れのレスラーだった。

「ジェイクのおかげでプロレスを見るようになった。誰も認めなかった頃から俺のことを信じてくれたんだ」

DDPはジェイクを説得する。

「もう一度やり直そう」

だがジェイクは…。

「俺は数年前に引退し、人生を諦めている。俺はダメ人間なんだ」

もはやそこにはカリスマと崇められた男の姿はない。
だがDDPは諦めない。
アトランタにある自宅にジェイクを招き、更生プログラムを付きそうことにしたのだ。

リハビリが始まった。
ジェイクの肉体は長年の激闘と自堕落な生活でボロボロだった。
トレーニングを続ける中でジェイクは酒の誘惑に負けてしまう。
DDPは心を鬼にしてジェイクを厳しく叱る。

左肩を悪化させたジェイクは手術を受けることになった。
だが保険に入っていないジェイクには費用は払えない。
そこで立ち上がったのはファンだった。
世界中のファンがジェイクに寄付したのだ。
手術費用はすぐに集まった。
愛を知らない孤独な蛇男はファンの愛にただ泣いた…。
左肩の手術を受け、トレーニングを続けたジェイクはリングに復帰することを目指し、トレーニングできるほどにまで回復したのだ。

2014年1月、WWEの人気番組「RAW」にあの男がゆっくりと現れた。
ジェイクだ。
いつもの薄ら笑いとダミアンが入った麻袋を抱え姿を現したジェイクにはあのカリスマのオーラが復活していた…。

2014年のWWE殿堂にジェイクの姿があった。
その式典でインダクターを務めたのはジェイクの更生に付き添ったDDPだった。
ジェイクはそこで静かに語り始めた。

「プロレスラーとしての体験は一瞬の後悔もありません。何事にも代えがたい最高のフィーリングでした。子供からお年寄りまで、男性も女性も、すべての観客の感情をコントロールすることができました。ハートとマインドがそれを求めたとしても、それをできなくなるときがやってくる。私はドラッグとアルコールに溺れ、家族を苦しめ、子供達に嘘をつきつづけた。現役生活を終えると、私の中に残ったのは苦痛と恥辱だけだった」

そして、最後にジェイクはこんな名言を残している。

「リングとは女であり、生涯唯一、騙すことの出来なかった女だ」

それは老年となったジェイクがレスラー人生の集大成として産み落とした最高のパンチラインだった。

ジェイク・ロバーツが味わった栄光と転落と再生の物語。
ライズ&フォール…波が上下するように浮き沈みが激しい波乱万丈なレスラー人生。
そのなりの果てに彼が見たのはプロレスに関わった者達からの愛だった。
愛を知らない孤独な蛇男は、最後の最期で愛を知った。

そういえば映画「ビヨンド・ザ・マット」でレスラーの光と影を激白したジェイクに対して、生ける伝説テリー・ファンクはこう語っている。

「プロレスに罪はない。ジェイクの生き方の問題である」

恐らくジェイクはこの言葉の意味をようやく理解し、ファンの愛を噛みしめることができたのだ。今まさに彼は再生の道を歩んでいる。

ジェイク・"ザ・スネーク"・ロバーツこそ、そのプロレススタイルも生き方も佇まいもあらゆる点で良くも悪くも、"ザ・プロレスラー"なのかもしれない。

「フィクション人生」と形容されたジェイクの生き方。だが、そもそも彼の信者とも言うべきファンにとっては彼の出生や家庭事情といったプロフィールやキャラクターがリアルなのか、フェイクなのかあまり関係がない。

ジェイク・ロバーツの生き方はフィクションを越えた愛を求める物語なのだ。




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俺達のプロレスラーDXを更新しました。

WWEで活躍したジェイク・ロバーツ選手を取り上げました。

孤独な蛇男のライズ&フォール【俺達のプロレスラーDX】

是非ご覧ください!!

さて次回は全日本プロレスの常連外国人選手として活躍したパトリオット選手について取り上げます。

お楽しみに!!

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俺達のプロレスラーDX
第149回 栄光なき逸材のしくじり放浪記/ジョージ高野(ザ・コブラ)



テレビ朝日系の人気バラエティー番組「アメトーーク!」。
この番組では過去に数多くのプロレスにちなんだ企画が放映されてきた。

「ガンダム芸人VS越中詩郎芸人」
「昭和プロレス芸人」
「俺達のプロレス・オールスター戦」
「俺達のゴールデン・プロレス」
「女子プロレス芸人」
「今、プロレスが熱い芸人」

これらのプロレス企画の中で我々は久しぶりにあるプロレスラーの名前を聞くことになる。
くりぃむしちゅーの有田哲平さんは語り始める。

「昭和新日本プロレスのマスクマンと言えば誰ですかと言ったらタイガーマスクと皆言うだろうがほんとは違うんです…ザ・コブラなんです!!」

彼の名前が出た瞬間、会場はシーンとなった。
それは当然かもしれない、彼はタイガーマスクのようなスーパースターになり損ねた男。

彼の名はザ・コブラ。

有田さんはさらに語り続ける。

「タイガーマスクが引退した後に新日本が急きょ、"次のスター作れ!大至急作れ!"って作ったのがザ・コブラなんです。まぁ~売れなかった!(笑) デビュー戦ですよ。日本全国が次のマスクマンって思ってたデビュー戦のオンエアータイムがですね、なんと!例のですね!ダイジェスト放送っていうね。ぶっちゃけた話試合が全然面白くなかったんです。コブラ可哀想なんですよ。ほんとはコブラだけで3時間ぐらい語りたいんですよ。そうした時にUWFブームってのが来てさぁ。どうやってコブラが消えていくのかって言えばぁ、自然と次のシリーズから、何気なくジョージ高野が帰ってきたんですよ。マスク脱いで。普通に。引退とかどっかで風になったとかなんもなく」

ジョージ高野…この男の名を21世紀の全国地上波テレビで聞くことになるとは夢にも思わなかった。
そう、彼こそ哀愁のプロレスラーなのだ。

今回は、スーパースターになれる才能と身体能力がありながら、ブレイクできなかった男が歩んだレスラー人生を追う。

ジョージ高野は1958年6月23日福岡県北九州市に生まれ、山口県岩国市で育った。
本名は高野 讓治という。
弟は"人間バズーカ砲"と呼ばれたプロレスラー高野俊二(高野拳磁)である。
父は山口・岩国基地に所属していた米海軍中佐で、隊内でボクシング王者。
いわば彼はハーフだった。
だが、きっかけで少年時代は肌の色が違うと差別やイジメにあった。

そんなジョージには運動神経に恵まれていた。
中学時代は陸上のハイジャンプの選手として活躍し、持ち前のジャンプ力を磨いた。
中学卒業後、大相撲・大鵬部屋に入門する。
序二段まで進むも、関節炎の影響で廃業。

大相撲を去ったジョージが選んだ次の進路はプロレスだった。
1976年8月にアントニオ猪木率いる新日本プロレスに入門したジョージ。
ちなみにジョージは猪木との初対面の時に「俺が誰か分かるか?」と訊かれ、こう答えた。

「ストロング小林」

恐らくジョージはプロレスに疎く、プロレスラーになる道を選んだのはプロレスが好きではなく、生活手段だったのだ。
1977年2月10日、日本武道館大会で後に初代タイガーマスクとなる佐山聡戦でデビューを果たしたジョージはなんと15分時間切れ引き分けに持ち込んだ。

188cm,99kgの足が長く筋肉質な肉体。
甘いマスクに、運動神経、練習熱心な姿勢に新日本プロレスは未来のエース候補、スター候補としてジョージに期待をかけていた。彼には「褐色の貴公子」というニックネームがついていた。

特に運動神経は新日本プロレスに入門したレスラーの中でも随一のレベルだったと言われている。ジョージとは同学年で、1年後輩となる前田日明はこう証言する。

「あの頃のジョージは垂直跳びで90センチ跳んでましたから。あいつにドロップキックをやられると、上から突き刺してくる感じでしたよ」

だからこそ前田はこう断言する。

「新日本プロレスの歴史上、最も素材が良く素質もあったのは間違いなくジョージ高野である」

初代タイガーマスク、武藤敬司、小橋建太が得意技にしているムーンサルト・プレスはリング上で初披露したのはジョージだった。
また初代タイガーマスクが初披露した場外への側転してからのノータッチ・プランチャ「スペース・フライング・タイガー・ドロップ」の開発者はタイガーではなく、ジョージだったという。

「この技(スペース・フライング・タイガー・ドロップ)のアイデアは、私が最初にひらめいたのよ。自分でやりたかったけど、当時は佐山さんのタイガーマスクが大人気でダイナマイト・キッドともライバル関係だったから"ぜひ、この技を使ってください"と教えたわけ。側転してロープ際で平行になってプランチャをすればいいと」

その一方でジョージには情人とはかけ離れた言動や行動から「宇宙人」と呼ばれていた。
これについて近年、鈴木みのるがTwitter上で"ジョージ高野伝説"としていくつかのエピソードを披露したことがある。

・新人の頃「いくらUWFのやつらが強いって言ったってミサイル打てば勝てるだろ!」とオレに力説してたジョージさん。当時の愛読書は「ミサイルの造り方」。
・巡業のフェリー移動中。トローリングをやると言ってルアーをキャスト。釣れないとボヤく。そりゃそうだ…フェリーの速度に負けて空中をルアーがバタバタバタ
・昔、川崎の竹藪から1億円入りのカバンが見つかった事件があった。「よし、探しに行こう!」と本気で夜中に竹藪に行ったが見つからず。でも次の日、探しに行ったその竹藪からまたまた1億円入りバッグが見つかったとの報道。「ヨシッ!」と連日竹藪に入って行った
・「たまには肉でも食いに行くか!」と意気揚々と道場生を連れて出発。「好きなだけ肉食え!」と言って連れて行かれた先は吉野家。「大盛りに牛皿のせると超大盛り!」それ並二杯食えば良いんじゃない?最後に「牛皿は二皿までな…」
・「今日は暑いな…」と言ってボディビルダーが履くちっちゃいパンツ一丁でランニングへ行った…。数分後、新日道場の裏のコンビニで、そのまま立読みしてた。

ジョージは入門時から良くも悪くも型破りな男だった。
新弟子時代から猪木の付き人を務めていたジョージはデビュー前にテレビ朝日の特撮ドラマ「プロレスの星 アステカイザー」に出演した。
これが名俳優・菅原文太さんの目に留まり、芸能関係の道へ進んだこともあった。

「私が映画出演とか芸能関係にいったのは師匠の猪木さんの命令だった。石原プロダクションに入るという話もあったよ。でもプロレスで世界チャンピオンにもなっていない若造が石原裕次郎さん、菅原文太さんのところに飛び込むなんてできなかった。撮影が終わったら戻れると思うでしょ? それが映画の撮影が長引いて、プロレスの本隊と合流できなくなって。最終的には北沢幹之さんが仲介してくれて戻れたんだけどね」

1978年6月に新日本に戻ったジョージは前田日明、平田淳二(スーパー・ストロング・マシン)、ヒロ斎藤といった若手としのぎを削った。
1982年1月にジョージはメキシコ遠征に旅立った。
デビュー戦でいきなりフィッシュマンが保持するUWA世界ライトヘビー級王座に挑戦する特別待遇を受ける。

「専門的に言えば、ルチャリブレは腕の取り方から何から日本のプロレスとはすべて逆だけど、私の場合は右脳と左脳の切り替えが早いからすぐに順応できた。だから、私は日本で体得したプロレスを二次的、三次的に加工しだしたの」

ジョージはメキシコでの活躍が認められ、長州力やアンドレ・ザ・ジャイアントを押しのけて、同年のUWA最優秀外国人選手賞に輝いた。
1983年7月にジョージはカナダ・カルガリーに渡り、マスクマン「ザ・コブラ」に変身する。
あの初代タイガーの後釜として新日本がニューヒーローを生み出したと思われているザ・コブラはカナダで誕生したヒール・マスクマンだった。ヒーローでもなんでもなかったのだ。

「メキシコにいた時点で、マスクを作ってね。デザインはミル・マスカラスやいろんな選手のマスクを見て、自分で考えたんだけど。ザ・コブラは国籍不明のヒールマスクマンだった。外国人は最初はみんなヒールだからね。ヒールで入っておいて、美しい技をいっぱい取り入れて試合をやれば、将来はベビーフェースにスイッチできるだろうと予測していた。ザ・コブラのスタイルは新日本のストロングスタイルとメキシコのルチャリブレのハイブリッドだったから。場外に出てイスでバンバン叩くとかはしないのよ。"ヒールだけど、美しい"みたいな。美しく悪いことをするという。レフェリーの目を盗んでノータッチで攻撃するとか、その間にフォールしちゃうとか」

1983年9月にはハート一家のブルース・ハートを破り、英連邦ミッドヘビー級王座を獲得し、ダイナマイト・キッドやデイビーボーイ・スミスとの抗争を繰り広げた。

「プロモーターのスチュ・ハートは、最初は胡散臭い奴と思ったかもしれないが、仕事ぶりを見てくれて凄く評価してくれて。私は外国人として初めてボーナスをもらった男だから。それは名誉だった」

コブラとしての地位をカナダで築く中で、初代タイガーマスク引退によってジュニアヘビー級のニューヒーローを輩出するために、新日本プロレスはジョージをコブラとして1983年10月末に緊急帰国をすることになった。

「会社の命令よ。自分としては素顔でもマスクマンでもどちらでもよかったけど。まだカルガリーにいたかったよ。ちょうどヒートしてきてさ、一番いい時だったからね」

1983年11月3日蔵前国技館で行われたザ・コブラの日本デビュー戦はタイガーがかつて保持していたNWA世界ジュニアヘビー級王座決定戦。
対戦相手のザ・バンビートはライバルのデイビーボーイ・スミスだった。
入場から「ニューヒーロー誕生」の演出から会社からの期待が伺えた。
スモークが炊かれた花道を複数のマスクをつけたセコンドが担ぐ神輿の上にコブラが乗って姿を現した。
城のタキシード風のジャケットを身にまとったコブラはトップロープに乗ってからバック宙してド派手に入場してきた。
だが、試合は思わぬ方向へ…。

試合前にバンピートが自らマスクを取ってコブラに襲い掛かると、期せずしてキッド・コール!スミスはキッドの従兄弟だけに顔と体型が似ていたため、ファンは勘違いしたのだ。こうなると誰もが、この試合をタイガーマスクVSダイナマイト・キッドに重ねてしまう。これがコブラにとって悲劇となった。今、改めてVTRを検証してみると、モンキーフリップを回転して着地してのドロップキック、トップロープに飛び乗ってのサマーソルト…と、コブラの動きは悪くない。だが、トップロープ越しのトぺ・スイシーダをあっさりかわされて豪快に自爆すると大爆笑が発生。これがコブラの致命傷になってしまった。いくら運動神経がよくても188cm 99kgのコブラが73cm 90kgのタイガーマスクと同じ動きを求められたら無理がある。しなやかで緻密だったタイガーマスクと比べると大味で粗雑に見えるのも仕方のないことだ。だが、タイガーマスクの幻影を求めるファンにとってコブラは完全に期待外れだったのである。
【プロレス覆面レスラーの正体/双葉社】

ニューヒーロー誕生と思われたが、これは"しくじり"プロレスラー誕生を意味していた。

後に新日本プロレスの獣神サンダー・ライガーはコブラについてこのようなことを語っている。

「コブラは俺のデビュー戦よりできているし、ものすごいカッコいいんですよ。だから会社もファンも無理にコブラをタイガーマスクの後継者として見ることなく、動けるヘビー級戦士という感じで見れた状況は違っていたのではないだろうか」

周囲のコブラに対して乗れない状況下でも、当本人は…。

「別に私は二番煎じのつもりもないし、プレッシャーも全然なかった。佐山さんの仕事は佐山さんの仕事、私の仕事は私の仕事だから」

ダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミス、小林邦昭といったライバル達は全日本プロレスに転出する中でライバルにも恵まれなかったのも痛かった。
同世代のヒロ斎藤と抗争を繰り広げた時期もあったが、そこまでブレイクすることはなかった。

だからといってコブラのムーブはタイガーに負けて劣らないものがあった。
ジャーマン・スープレックス・ホールドやタイガー・スープレックス・ホールドといったスープレックスは高角度で美しく、ドロップキックはタイガーよりも打点は高かった。また、メキシコ仕込みのセントーン、プランチャは独特の味があった。フライング・ニールキックやローリング・ソバット、コーナーに振り向きざまにセカンドロープに飛び乗り、反転するように相手に胸板に稲妻レッグラリアットの要領でキックを放つ「スコードロン・サンダー」というオリジナル技まで持っていた。
だが、それらの四次元殺法や持ち前の運動神経や身体能力も、試合運びの粗さと繋ぎ下手な部分が仇となり、これらのムーブの凄さが伝わらなかったのではないだろうか。華麗な技を多用するから天才なのではないし、プロレスセンスがあるわけではない。ジョージのプロレスには"説得力"がなかった。

その要因はもしかしたら紙一重なのかもしれない。
だが、その紙一重が大きな"しくじり"を生むのだ。

WWFジュニアヘビー級王座やNWA世界ジュニアヘビー級王座を獲得するもどこまでもコブラはヒーローにはなれなかった。

1986年2月6日の前国技館にて越中詩郎との初代IWGPジュニアヘビー級王座決定リーグ戦・決勝戦に敗れ、さらに後輩のUWFの高田延彦(当時は高田信彦)が保持するIWGPジュニア王座に挑戦した際に、高田に結果は引き分けるも、内容では圧倒された。

時代はどこまでコブラに冷たく、見放し続けた。
高田戦を最後にコブラはマスクを脱ぎ、カナダへ渡った。
1986年7月にヘビー級に転向し、素顔のジョージ高野となって凱旋した。

ヘビー級となったジョージの体重は最大で115kgに増加するも、動きは落ちることはなかった。
だが、一度しくじったレスラー人生はなかなか軌道修正はできない。
1年、2年と浮上することなく、前座戦線を彷徨うジョージだったが、スーパー・ストロング・マシンとのコンビ「烈風隊」でタッグ戦線に参入し、1989年3月16日に長州力&,マサ斎藤を破り、第9代IWGPタッグ王座を獲得した。
この頃がジョージにとって最も輝いた時期なのかもしれない。

1990年4月1日、ジョージは新日本プロレスからメガネスーパーが運営する新団体SWSに移籍する。一説によるとメガネスーパーとの繋がりが強かったドン荒川と仲が良かったジョージが荒川の誘いと大金につられてこの移籍を決断したとも…。

当時のジョージはどこか新日本で燻っていた。
長州力、藤波辰爾といったトップレスラーと勢いに乗る後輩・闘魂三銃士の狭間でジョージは"中二階"で甘んじていた。新日本のエース候補やスター候補と呼ばれていた男にIWGPヘビー級挑戦のチャンスは遂に一度も回ってこなかった。

大相撲のような部屋制度を設けていたSWSでジョージは「パライストラ」という部屋の道場主(エース)となった。
立ち位置としてはレボリューションの天龍源一郎、道場・檄の谷津嘉章と共にSWSのトップ3という大役だった。

SWSではタッグながら天龍からフォールを奪い、後にWWE世界王者となるブレット・ハートをシングルマッチで破るなど奮闘するも、やはりしくじった運命を変えるまでに至らない。
高野俊二との高野兄弟でSWSタッグ王座を獲得するも、1992年6月にSWSは内部分裂、解散の末路を辿っていった。

その後、ジョージはさらに迷走していく。
ケンドー・ナガサキとの新団体NOWは、旗揚げ戦後に俊二と共に離脱し、PWCという団体を旗揚げする。
この頃のジョージについて、当時新人レスラーだった保坂秀樹はこう語る。

「ジョージさんは基礎練習が凄く好きなんですよ。朝4時くらいに道場に現れて練習するんですけど。まだ道場で練習するならわかるんですけど、道場の前に空き地があって、石とかでボコボコなんですよね。そこにビニールシートを広げて"極め合いするぞ!"と。石でボコボコでヒザもつけないようなところでやるんですけど。道場にリングがあるんですよ?(笑)。たぶんですけど、あの頃はU系全盛だったから、ジョージさん、UWFに憧れていたと思うんですよ。ジョージさん、格闘技系のスタイルが好きだったんですよね。だからって空き地で練習する意味がわからないですけど(笑)。ジョージさんは"霊が見える!" 、"これは何か取り憑かれてる……"とか真顔で言いだしたりしますから。あと俊二さんといつもケンカするんですよ。考え方の違いなんですかね。ボクが知るかぎり兄弟の仲は良くなかったですね。最後は安達さん(ミスター・ヒト)が包丁を持ち出して"ケンカはやめろ!"って止めるのがいつもの光景で」

俊二と仲違いし、PWCを離脱したジョージは妻の実家がある北海道釧路市にFSRという団体に設立し、他のインディー団体にたびたび参戦する。
FSRは活動停止、福岡県に移住したジョージはそれでもリングに上がり続けた。
静観で筋肉質な肉体はいつの間にか贅肉に覆われたカッコよくない中年太りな肉体へと変貌していた。
時代と共にジョージの肉体は衰えていった。

その後、橋本真也が旗揚げしたゼロワンの初期に参戦したり、古巣・新日本にゲスト参戦するも、かつての輝きを放つことはなかった。

仕事も転職していた。
引退はしていないものの、外壁の施工工事の仕事や電柱を埋める仕事をしたりと仕事も彷徨った。NPO法人を設立したり、システム会社の重役になったり…。またアントニオ猪木が設立したIGFに関わることもあった。現在はどこで何をしているのか…。

「やっぱりプロレスは継承をされるものだから。今でも私はザ・コブラを継承する人間を作りたいと思っている。私はまだ引退発表をしていないし、弟と何かをしたい気持ちはある」

翻弄され、放浪のレスラー人生を送ることになったジョージ高野には果たして栄光などあったのだろうか。素材は天才、いや逸材級だった。しかし、それに見合った活躍も実績も残すことはできなかった。それもすべてにおいて紙一重の部分だった。もしかしたら、紙一重の部分が巧く合致していたら、ジョージは時代を味方にし、日本プロレス界を代表するスーパースターとして語り継がれていたのかもしれない。
だが一度しくじった歯車は止まることなく、転落していった。
それがジョージ高野という男のレスラー人生だった。

2004年に発売され、NHKアテネ五輪中継の公式テーマソングとして大ヒットしたゆずの「栄光の架橋」にはこんな歌詞がある。

悲しみや苦しみの先に それぞれの光がある
(中略)
いくつもの日々を越えて
辿り着いた今がある
だからもう迷わずに進めばいい
栄光の架橋へと…
終わらないその旅へと
君の心へ続く架橋へと…
【ゆず/栄光の架橋 2004年】

光り輝くべき男には栄光なんてなかった。
それでもジョージ高野は我々の心に残り続ける伝説のプロレスラーだった。

「悲しみや苦しみの先に、それぞれの光がある」

人々の心へ続く架橋をかけることができるのは栄光を摑んだ者だけではないのかもしれない。

栄光なき逸材に、乾杯!!

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俺達のプロレスラーDXを更新しました。

新日本プロレスやSWSで活躍したジョージ高野選手を取り上げました。

栄光なき逸材のしくじり放浪記/ジョージ高野(ザ・コブラ)【俺達のプロレスラーDX】

是非ご覧ください!!

さて次回は150回目の更新となります。
そこで取り上げるレスラーはジェイク・ロバーツ選手です!

よろしくお願いいたします!!
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