ジャスト日本のプロレス考察日誌

プロレスをもっと広めたいという思いブログをやってます。新旧洋邦のレスラーを取り上げた「俺達のプロレスラーDX」を連載中!
ご愛読よろしくお願いいたします。


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全日本を再び王道に導く救世主は“進撃の大巨人”と“マスク社長”…金曜8時のプロレスコラム(スポーツ報知)

※全日本再生の秘訣は、しっかり支援してくれる心強いスポンサーがいたからなのか。 秋山社長の地道な営業活動の甲斐があったということですね。
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俺達のプロレスラーDX
第178回 ハードコア革命の本質を伝播した破天荒な名タッグ屋/ジ・イリミネーターズ(ペリー・サターン&ジョン・クローナス)
シリーズ タッグ屋③
 

 
1990年代に熱狂的なファンを獲得した伝説のプロレス団体・ECW。
彼等が展開していった"ハードコア革命"は後々のプロレス界に大きな影響を与えた。
 
伝統的なアメリカン・スタイルとFMW的なデスマッチ路線、そして、観客のハートに訴えるノンフィクションの人間ドラマをミックスさせた革命的なレスリング・スタイル
【ビンスが認めたECW――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第246回(1997年編)/日刊SPA】
 
それがハードコア革命だった。
 
そして、このECWからは多くのスーパースターが誕生し、多くの名タッグチームが誕生した。
 
WWE・WCW・NWA・TNA・ECWのタッグ王座を獲得し、日本では新日本プロレスのIWGPタッグ王座戴冠、全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦を制覇した"ECW産世界最高峰タッグチーム"ダットリー・ボーイズ(ババ・レイ・ダッドリー&ディーボン・ダッドリー)。
"アメリカの邪道・外道"と呼ばれ、初期のECWタッグ戦線を牽引したパブリック・エネミー(ロッコー・ロック&ジョニー・グランジ)。
新日本プロレスに来日経験があり、闘犬の如く対戦相手に噛みつくピットブルズ(ピットブル1号&ピットブル2号).。
大量の凶器を詰め込んだドラム缶のゴミ箱をトレードマークに縦横無尽に暴れまわる武闘派コンビのザ・ギャングスターズ(ニュー・ジャック&ムスタファ・サイード)。
共にザ・シーク一派出身で命知らずのスーパースターコンビとしてECWだけでなく世界中のリングで活躍したサブゥー&ロブ・ヴァン・ダム。
ECW末期のタッグ戦線を主導した本格派のタッグ屋であるインパクト・プレイヤーズ(ジャスティン・クレディブル&ランス・ストーム)。
 
そんなECWを支えてきたタッグチームがいる中で、今回、取り上げるのが、ECW全盛期に活躍したジ・イリミネーターズ(ペリー・サターン&ジョン・クローナス)である。
 
178cm 109kgのサターンはECW屈指のテクニシャンで、193cm 116kgのクローナスは巨体に似合わずに高難度の空中殺法を操るハイフライヤー。

 
思えば、先ほど紹介したタッグチームはその後、ECWからメジャー団体に目をつけられて離脱していったのだが、このジ・イリミネーターズはメジャーになることなく解散している。メジャーになることなく、アンダーグラウンドで終わった名タッグ屋のレスラー人生を追う。
 
イリミネーターズのリーダー格であるペリー・サターンは1966年10月25日アメリカ・オハイオ州クリーブランドで生まれた。本名はペリー・アーサー・サトゥーロという。サターンはプロレスラーになる前は軍人だった。17歳の時にアメリカ陸軍に入隊し、4年間務めた。
 
イリミネーターズの大砲であるジョン・クローナスは1969年1月13日アメリカ・マサチューセッツ州ボストンで生まれた。本名はジョージ・バーナード・カイアッツォという。クローナスはナイトクラブのバウンサーとして働いていた。
 
実はクローナスが雇われていたナイトクラブでサターンもバウンサーとして働いていた。いわば同僚である。1988年から名レスラーのキラー・コワルスキーが運営するレスリング・スクールでプロレスのトレーニングを始めたサターンに、職場の同僚だったクローナスが影響され、サターンと同じくキラー・コワルスキーの指導を受けるようになった。
 
先にデビューしたのがクローナスで1989年、ジ・イリミネーターというリングネームでデビューし、サターンも1990年、コワルスキーが主催するIWFというインディー団体でデビューした。
 
ちなみにサターンの意味はローマ神話に登場する農耕神サートゥルヌスの英語読み、クローナスはギリシャ神話に登場する農耕神クロノスの英語読みで、クローナスというリングネームを命名したのはサターンだったという。
 
二人は1990年より、「ジ・イリミネーターズ(排除者)」というタッグチームを結成し、1991年より、テネシーのUSWAに参戦する。最初の給料は週40ドル弱だった。だが、経験を積むことによってイリミネーターズは人気チームとしてのし上がっていく。1994年4月にはUSWA世界タッグ王者となった。
 
実はサターンは1993年2月にシングルプレーヤーとして新日本プロレスに初来日を果たしている。トニー・ホームやムッシュ・ランボーと組んで主にタッグマッチに出場していたサターンはある日の試合で対戦相手の武藤敬司にフランケンシュタイナーを見舞った。フランケンシュタイナーを得意にしている武藤に仕掛けるところはサターンというレスラーの気の強さが伺える。ちなみにチームとして日本にやってきたのが1994年にWARに来日している。
 
イリミネーターズというチームの特徴は荒削りだが、二人ともジャパニーズ・レスリングを採り入れているところである。
テクニシャンのサターンはムーンサルト・プレス、ダイビング・エルボードロップといった飛び技から、デスバレー・ボム、ジャーマン・スープレックス・ホールド、スリーハンドル・ファミリー・グラダンザ(横回転式フィッシャーマンズ・スープレックス)などの大技、リング・オブ・サターン(羽根折り固め)、リング・オブ・サターン2(ストラングル・ホールドγ)という関節技も操るオールラウンダー。
大砲のクローナスはクローナス・ドライバー(バイアグラ・ドライバー)を得意とする一方で、ハリケーン・クローナス(ロンダード式エルボー)、450スプラッシュ、サスケ・スペシャル(側転からのノータッチ・ケプラーダ)といったウルトラD難度の空中殺法を併せ持つ。
二人のコンビネーションは多岐にわたる。サンドイッチのミドルキック、ステレオ式のサザンクロス・スプラッシュ、ダブルのトラースキックなどあらゆる角度からの連携が冴えわたる。そして、フィニッシュは必ずトータル・イリミネーション(クローナスがフライングニールキック、サターンが水面蹴りを同時に放つ合体技)。このオリジナルムーブでイリミネーターズはアメリカ・インディー界では名が知られる存在となる。
 
1995年9月にイリミネーターズはハードコア革命を謳い、アメリカ第三の団体にのし上がろうとしていたECWに参戦する。当時のECWに強豪タッグチームが集っていた。
ピットブルズ、ギャングスターズ、レイヴェン&スティービー・リチャーズ、カクタス・ジャック&マイキー・ウィップレック…。
この中で1996年2月にECW世界タッグ王者に輝いたイリミネーターズはECW最強タッグチームとして、王座を長年保持し続ける。
 
サブゥー&ロブ・ヴァン・ダム、テリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムスといった日本でも名が知れた強豪チームにも勝利、イスや机、ラダーが乱れるハードコア戦でもテクニックで勝負するイリミネーターズはECWの名タッグ屋となった。
 
1997年2月24日のWWEロウに同年4月に初PPVを控えたECW勢が番組ジャックを果たす。ECW代表のポール・ヘイマンはリング上で高らかに叫ぶ。
 
「ECWがやってきたぞ!!」
 
実はポールがリング上で叫ぶ直前に、WWEスタッフにトータル・イリミネーションを敢行していたのがイリミネーターズだった。いわば、ECWを体現しているタッグチームこそ、彼等だったのだ。
 
だがアメリカ・インディー界が誇るECWの名タッグ屋の寿命は短かった。1997年6月にサターンがECWを突如離脱し、ライバル団体のWCWに移籍する。当時のアメリカのプロレス界は引き抜きが横行していた。優秀な選手や高給取りのレスラーを奪い合う戦国時代の中で、優秀なレスラーが多数在籍するECWはWWEやWCWにとっては格好の的だった。イリミネーターズの運命はWWEとWCWのパワーゲームの渦に巻き込まれ、解散に追い込まれた。
 
その後の二人の人生は対照的である。
メジャー団体WCWに移籍したサターンはアンダーグラウンドに埋もれていたそのテクニックを発揮し、1997年11月にはWCW世界TV王座を戴冠。元ECWのレイヴェン率いるレイヴェンズフロックのメンバーとなり、1998年1月にはレイヴェンとのコンビでWCW世界タッグ王者となった。その後、2000年1月にクリス・ベノワ、ディーン・マレンコ、エディ・ゲレロと共にWCWを離脱し、WWEに移籍。この4人で、ラディカルズというユニットを結成する。WWEではヨーロピアン王座やハードコア王座を戴冠する。2002年3月にWWEを離脱すると、新日本プロレスやTNAに参戦していった。サターンはメジャーで成功したいという上昇志向が強かったのかもしれない。
 
一方のクローナスはECWに残った。ライバルだったギャングスターズのニュージャックと「ザ・ギャングスタネーターズ」を結成し、1997年9月にはECW世界タッグ王者に輝いた。1998年4月にFMWに参戦し、ザ・グラジエーターと好勝負を展開し、FMW正規軍の頼れる助っ人として存在感を示した。だが、ホームリングのECWで、クローナスは徐々に待遇は悪化し、中堅に甘んじるようになる。身体能力だけならメジャークラスの男がアンダーグラウンドに留まる現実。そして、クローナスの肉体は贅肉に溢れ、公称116kgとは思えないほど体重が増加。イリミネーターズの大砲だった男は体重増加と共に、"おデブさん"に変貌してしまった。1999年3月にECWを離脱すると、XPWやCZWとインディー団体を転戦していくも、ブレイクせずに2002年4月に引退した。
 
プロレス界で成功を収めたサターンだったが、2004年4月に強姦犯から女性を助けようとしたときに、犯人から3発銃弾を浴び重傷を負ってしまう。プロレスラーとして復帰は絶望的となった。
そして、クローナスは2007年7月18日ニューハンプシャー州ラコニアに所在する交際していた女性宅で心不全を起こし逝去。
享年38歳。
早過ぎる死だった。
 
クローナスの急死はサターンに耳にも届いたはずだ。
恐らくショックを受けたことだろう。
何しろ、クローナスをプロレスの世界に誘ったのはサターンなのだから…。
 
2010年、WWEのバックステージには治療とリハビリを乗り越えたサターンの姿があった。そして、2011年11月に7年ぶりにリング復帰を果たす。この復帰を誰よりも喜んでいたのは天国のクローナスだったはずである。
 
サターンはまだ引退していない。まだ現役である。銃弾に屈しなかった荒くれテクニシャンのレスラー人生はまだ終わらない。
 
エクストリーム(極端な、極度の、極限の、はなはだしい)という名称のせいでECWはその団体カラーを誤解されやすかった。有刺鉄線デスマッチ、ラダー・マッチ、"凶器持ち込み自由"のハードコア・マッチは日課みたいなものだし、"テーブル破壊"も定番アイテム。ときには破壊されたテーブルが炎上するという危険なシーンもあった。しかし、ECWはデスマッチ専門の団体ではなくて、その場に集ったみんなでプロレスについてとことん真剣に議論する"哲学の場"だった。
(中略)
ジャパニーズ・スタイルならジャパニーズ・スタイル、ルチャ・リブレならルチャ・リブレ、オールドファッションなアメリカン・スタイルならオールドファッションなアメリカン・スタイルのなんたるかをとことん追求し、実践すること。それがハードコアというコンセプトだった。
【プロレス入門 神がみと伝説の男たちのヒストリー 斎藤文彦/ビジネス社】
 
私が思うにこのECWのハードコア革命を忠実にリング上で実践したのはこのイリミネーターズだったのではないかと思うのだ。
実際のところ、ECWのハードコア革命は世界中のプロレスに影響を与えた。ハードコアマッチ、3ウェイマッチといった現代では当たり前になっている試合形式もこのECWが元祖である。そして.ECWがWWEのレスリングスタイルに新しい息吹を与え、アティチュード路線が誕生した。
 
ここからは私の考察であり仮設なのだが、このハードコア革命の本質とはアメリカ人が解釈したジャパニーズ・レスリングだったのではないのかと思うのだ。例えるならカンフー映画や日本の時代劇映画に影響を受けて、オマージュした作品をアメリカ人が制作して世に輩出していくといった感じである。
 
そして、ハードコア革命の本質をECWのリング上に伝播し、試合という作品に残したのがイリミネーターズだったのではないだろうか。現代のアメリカン・プロレスはジャパニーズ・レスリングの影響を受け、大技主体の攻防が主体となり、より試合内容が問われたり、求められるようになった。世界最大のプロレス団体WWEですら、試合内容ではジャパニーズ・レスリングと遜色がなくなりつつあるほどクオリティーが上がっている。
 
「バース・オブ・ジェネレーションX(X世代の誕生)」。
 
ハードコア革命を掲げたECWは更なる進化を求めていた。革命を成功させた後に、次世代のプロレスを築いていくという意味がこのフレーズに込められている。
 
だがこのX世代はECWではなく、2000年代にTNAで誕生した。
AJスタイルズ、サモア・ジョー、クリストファー・ダニエルズ、ピーティー・ウィリアムス、クリス・セイビン、アレックス・シェリー、ロウキーといった勇猛果敢で優秀な若者達によって誕生したジャパニーズ・レスリングとハードコア・スタイルの融合スタイル…。
 
それが「Xディビジョン」である。
 
だが、「Xディビジョン」が誕生以前から、ECWのリングで「Xディビジョン」の選手達が着用しているレガースを身にまとい、荒削りなジャパニーズ・レスリングを披露してきたのがイリミネーターズだった。いわば、アメリカ版ジャパニーズ・レスリングの先駆者ともいえる。
そう考えると、プロレス界におけるイリミネーターズの功績は実に大きいのである。
 
イリミネーターズとはまさしく破天荒。
この場合は本来の意味である「今まで人がなし得なかったことを初めて行うこと」、「前人未到の境地を切り開くこと」と同時に誤解されている意味である「豪快で大胆な様子」という二つの意味で、彼等は破天荒だった。
 
メジャーになれなかったかもしれない。
アンダーグラウンドで終わったかもしれない。
インディーの枠の中で埋もれてしまったかもしれない。
アメリカ・インディー界が誇る名タッグ屋が歩んだ波乱の人生。
 
しかし、ペリー・サターンとジョン・クローナスの「ジ・イリミネーターズ」の足跡は実は偉大なのだということは彼等の歴史と、彼等の解散後のプロレス史を時系列で追うことで実証されているのではないだろうか。
 
破天荒で偉大なる名タッグ屋「ジ・イリミネーターズ」は紛れもなくハードコア革命の代表作品である。
 
 

 
 
 
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俺達のプロレスラーDXを更新しました。

シリーズ タッグ屋 第三弾で取り上げたのはECWの名タッグ屋ジ・イリミネーターズです。

ハードコア革命の本質を伝播した破天荒な名タッグ屋/ジ・イリミネーターズ【俺達のプロレスラーDX】

是非ご覧ください!


さて次回はシリーズ タッグ屋 第四弾です。四回に渡りお届けするこの連載のフィナーレを飾るのは日本の名タッグ屋である邪道&外道の二人です。

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Dropkick 【全文公開】桜庭和志、UFC殿堂入り!! 歴史的スピーチを読もう!

 

橙色のアインシュタイン~伝説の英雄は偉業に縋らない~/桜庭和志【俺達のプロレスラーDX】

 

※今こそ、桜庭和志の偉大さに目を向けよ!

 

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第177回 鷹と獣の青春~二人三脚で築いた暴走戦士伝説~/ロード・ウォリアーズ(ホーク・ウォリアー&アニマル・ウォリアー)
シリーズ タッグ屋②
 

 
ロード・ウォリアーズは出現当初から別格だった。
デビューしたての新人であるホーク・ウォリアー(191cm 125kg)とアニマル・ウォリアー(189cm 135kg)の巨漢二人はタッグマッチで先輩レスラーを次々と秒殺していき、数々のタイトルを戴冠し、一時代を築いた。
初来日の時も別格だった。
テレビ局は大々的にロード・ウォリアーズの煽り映像を作り、衝撃の秒殺ショーを展開していった。
あらゆる意味で、あらゆる側面で、彼等は別格であり続け、プロレス界に燦然と輝く伝説を残した。
 
20世紀末に出現した名タッグチームといえば、このロード・ウォリアーズだ。今回は、暴走戦士や超怪力暴走族と呼ばれた男達のレスラー人生を追う。
 
ホーク・ウォリアーは1957年9月12日アメリカ・ミネソタ州ミネアポリスに生まれた。本名はマイク・ヘグストランドという。
アニマル・ウォリアーは1960年1月26日アメリカ・ペンシルベニア州フィラデルフィアに生まれた。本名はジョー・ロウリネイティスという。
 
ホークはヘンリー高校卒業後、バーで用心棒を務め、ジェシー・ベンジュラが経営するジムで体を鍛えていた。
ちなみに後に新日本最強外国人レスラーとなるスコット・ノートンは幼馴染で、ミネソタ州にあるロビンズデール高校はカート・ヘニング、リック・ルード、ジョン・ノード、二キタ・コロフ、バリー・ダーソウといったホークの盟友たちを生んでいる。
 
一方のアニマルは高校卒業後、大学に進学するも中退してしまう。アニマルの弟であるジョン・ロウリネイティスとマーク・ロウリネイティスはジョニー・エース、ザ・ターミネーターを名乗りプロレスラーになっている。
 
そんな二人はプロレスの世界で出会う。
ホークとアニマルはボディービルのトレーニングでたまに顔を合わせていた。ホークがボディービルを始めたのはプロレスラーになるための道だった。ホークはベンジュラの師匠であるエディ・シャーキーを訪ね、プロレスラーになりたいと直談判する。
 
週3回、半年間に渡りテニス・コートのフロアに体操用マットを引いた特製練習場でトレーニングを積んだホークは1983年にカナダ・インディー団体でクラッシャー・フォン・ヘイグというナチスキャラでデビューを果たす。だが、馴染めなかったホークはミネアポリスに帰ることになる。
 
一方のアニマルは1982年11月にジョー・ローレンというリングネームでノースカロライナでデビューするも、こちらも馴染めずにミネアポリスにやってきた。アニマルはここで成功できなかったらプロレスを辞めて大学に入り直して、アメリカン・フットボールをやるつもりだった。
 
そんな時にNWAのブッカーであるオレイ・アンダーソンがミネアポリスにやってきた。体が大きくて、運動神経が言い新人のタッグチームをクリエイトするためのスカウト活動だった。ホーク師匠であるエディ・シャーキーはホークとリック・ルードの二人を推薦したが、オレイは指名したのはホークとアニマルだった。二人はジョージア州アトランタで試合することになった。
 
タッグチームを組むことになったふたりは、南部ジョージアのプロモーター、オレイ・アンダーソンによってアトランタのローカル団体“ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング”にブッキングされた。
【ロード・ウォリアーズの肉体SFX至上主義――フミ斎藤のプロレス読本#016 ロード・ウォリアーズ編1/日刊SPA】
 
こうして1983年6月、ロード・ウォリアーズは誕生した。
 
結成当初のコスチュームはサングラスにレザーのベストや制帽を身に付けた暴走族スタイルだったが、後に両者とも顔にペイントを施し、頭髪をアニマルは「モヒカン刈り」、ホークはそれと対を成すように「逆モヒカン刈り」にした。これはホークの顔が優しすぎるのをカバーするためだったという。入場時は巨大な棘の付いたアメリカンフットボールのプロテクターをコスチュームに、サードロープの下から滑り込むようにリングインし、コールも受けずにそのまま暴れ回る試合が多かった。しかし、ファイトスタイル自体はあまり凶器攻撃などは行わない正統なもので、ヒールのポジションにありながら、次第にファンの支持を獲得。今までにない、ヒールとベビーフェイスを融合させた新しいスタイルの確立に成功する。試合は常に秒殺勝利であり(彼らの試合時間は(3分を180秒のように)秒単位で実況されていた)、そのインパクトと存在感から圧倒的な人気を獲得するようになった。
【ザ・ロード・ウォリアーズ/wikipedia】
 
このロード・ウォリアーズというチーム名を考えたのはアニマルで、コスチュームはホークが考えたという。あの、「シカゴのスラム街出身、年齢不詳、元暴走族、酒場の用心棒をしていたところをスカウトされてプロレス入り」というプロフィールは二人で考えた。ロード・ウォリアーズというチーム名は1981年に公開された映画「マッドマックス2 ザ・ロード・ウォリアー」からインスパイアされたものだった。
 
「そりゃあ、シカゴよ。オレたちは街のケンカ屋ってことになってるんだぜ。ストリート・ギャングが集まるシカゴのダウンタウンのな」

 雪国ミネソタで育ったホークとアニマルにとって、シカゴという地名はホームタウンからいちばん近い“大都会”の映像的なイメージだった。まったく腕ずく、力ずくの変身。肉体SFX至上主義の実現。ホーク、アニマルというリングネームもフィクションなら、シカゴ出身、元暴走族というプロフィルもまったくのファンタジー。しかし、ふたりがリングのなかで大暴れをつづけていくうちにそんなちいさな虚構が大きな真実――日常性からの解放――へと化けていった。ハイテク文明が急スピードで進化し、いよいよ高度管理化社会が形成されつつあった1980年代のアメリカにウォリアーズのようなタイプのスーパースターが出現したことの持つ意味は大きい。
【ロード・ウォリアーズの肉体SFX至上主義――フミ斎藤のプロレス読本#016 ロード・ウォリアーズ編1/日刊SPA】
 
このウォリアーズに目をつけたが、元悪役レスラーのポール・エラリングだった。彼がウォリアーズのマネージャーになる事で、ホークとアニマルはスター街道を驀進していく。エラリングが語るウォリアーズの誕生ギミックは名作である。
 
「現代社会は核戦争によって滅びるだろう。以前から俺はその壊滅後の地球を制圧するリージョン・オブ・ドゥーム(破滅の軍団)を作って皇帝に君臨するという野望を持っていた。そんななか、俺は1982年の冬、近未来の2020年から来た狂った鷹(ホーク)と原始の紀元前1960年から来た飢えた化け猫(アニマル)がシカゴ郊外の林の中をさまよっているのを目撃した。奴らはシカゴのスラム街でネズミを食べて生き延びていた。俺は奴らに"俺の言う通りに暴れまくりゃあ、世界が自分達のものになる。なんでも手に入る"と口説いて、シカゴのダウンタウンにあるチャイニーズ・レストランに連れていって、好きなだけ食わせた。奴らは豚の丸焼きを6頭も食った。その後、ミネアポリス郊外の秘密基地に連れていって殺人サイボーグに改造した」
【プロレス最強外国人列伝/ベースボール・マガジン社】

 
NWAナショナル・タッグ王座を三度戴冠したウォリアーズは1984年にAWAに移籍する。同年8月にはAWA世界タッグ王者となる。そんな彼らの試合が遠く離れた日本のお茶の間に届けられることになる。
 
「世界のプロレス」
 
「世界のプロレス」は、1984年10月20日から1987年3月までテレビ東京系列局で放送されていた、主に海外のプロレスを紹介の対象としたプロレス番組である。主にアメリカのNWA(ジム・クロケット・プロモーションズやWCCW)・AWA・CWA・MSWAおよびメキシコのルチャリブレの試合映像に、日本語の実況・解説を付け加えて放送していたが、番組の実況スタッフがニューヨーク(WWF)やフロリダ(CWF)など、現地に出張して実況を行うこともあった。放映権料の関係でWWFの試合は多くはなかったものの、1985年のWWFと新日本プロレスとの提携解消後は日本でWWF選手の試合が見られる貴重な番組となり、1986年の「レッスルマニア2」は3週に渡って全試合が放送されている。
【世界のプロレス/wikipedia】
 
「世界のプロレス」が発信した外国人スターこそ、ロード・ウォリアーズだった。
 
この番組最大のスターは、まだ来日前だったロード・ウォリアーズ(アニマル&ホーク)だ。彼らが日本向けに、様々なパフォーマンスを繰り広げるのだが、これが実に凄まじい内容だった。まずはマネージャーのポール・エラリングが「オレがスカウトした時、コイツらはシカゴのスラム街でゴミ箱を漁っていた。飢えてたコイツらは生ネズミだって食らっていた。血のしたたる生ネズミだぜ。のし上がるためだったら人殺しだって平気でやるんだ」とカマしまくる。2人も続けて「いいか日本人、オレたちの前に立つなよ。必ず死ぬぜ!」と自慢の筋肉を誇示しながら凄むといった展開。その後はウォリアーズがスタジオを破壊して屋外に飛び出し、走行中の乗用車を強引に止めたり破壊したり、タバスコを一気飲みしたりと、もうメチャクチャだ。かと思えば、番組のエンディングではウォリアーズの吹き替えのまま「今日はオレたちのTシャツをプレゼントするぜ。あて先は郵便番号○○○東京都港区~テレビ東京・世界のプロレス係まで。官製ハガキに住所、氏名、年齢、それから番組の感想を書いて~○月×日の消印まで有効だぜ」などと、絶対に本人たちが言ってないであろうプレゼントの告知までしてしまう始末。つい、さっきまで「日本人を殺す」と凄んでいたのに、プレゼントまでくれるとは凶暴だか親切なんだか、よく分からない人たちだ…。
【吹き替えの魅力全開!~世界のプロレス 高木マニア堂 2007年01月30日/東スポweb】
 
アメリカでスターとなり、日本ではまだ見ぬ強豪として幻想が広がっていく中で1985年3月にウォリアーズは全日本プロレスに待望の初来日を果たす。
 
1985年3月7日、ノースウエスト9便で成田空港に降り立ったホークとアニマルは、トレードマークのモヒカン刈りをバンダナですっぽりと覆い、もちろんノーメイクで税関の入国審査をすませた。ウォリアーズをマスクマン的な感覚でとらえるとするならば、ペインティングをしていない姿を写真に撮ることはできない。ホークとアニマルは、南ウイングの到着ロビーに出てくるとそのままトイレに直行し、すばやく顔に“隈どり”をして報道陣のまえに現れた。VIP特別室でおこなわれた記者会見に姿をみせたウォリアーズのペインティングは、時間的な余裕がなかったせいか、黒一色のシンプルな模様だった。共同インタビューのなかで、ウォリアーズはペインティングが彼らの「フィーリングを表現する方法」であり、その日の気分によって「デザインも異なる」と説明した。成田空港でのふたりのペインティングはやや淡泊なものだった。来日第1戦(3月8日)、千葉・船橋大会でキラー・カーン&アニマル浜口と対戦したウォリアーズは、ペインティングが汗でにじむまえに“秒殺モード”で浜口を流血させて勝負を決めた。両国国技館(3月9日)でジャンボ鶴田&天龍源一郎の鶴龍コンビと対戦したときは、いつもよりも丹念に塗ったペインティングが試合中にドロドロと流れ落ちてしまった。これは単なる偶然ではなかった。
(中略)
日本にやって来たロード・ウォリアーズは、成田空港で50人を超すプレスの出迎えを受け、空港内のVIPルームで大々的に記者会見をおこない、試合会場ではまたしても数10人のカメラマンたちからポーズ写真の注文を受け、その翌日には半日がかりでスタジオ撮影の仕事もこなした。アニマルもホークも、そしてエラリングも、正直なところ、地球の裏側のジャパンで自分たちがこれほどまでにもてはやされるとは予想していなかったのかもしれない。国技館の支度部屋の天井をながめながら、大きな体を持て余すようにしてボーッとよこになって時間をつぶしていたウォリアーズは、いったいどんなことを考えていたのだろう。2年まえ、ミネアポリスで気楽な生活をしていたころのことだろうか。それとも、アメリカに帰ると待っている殺人的スケジュールのことだろうか。
ひょっとすると、自分たちの意思とは別の次元で“ロード・ウォリアーズ”というキャラクターが勝手に独り歩きをはじめてしまった現実に戸惑いを感じていたのかもしれない。
【ウォリアーズがやって来たヤァ!ヤァ!ヤァ!――フミ斎藤のプロレス読本 #018ロード・ウォリアーズ編3/日刊SPA】
 
ウォリアーズ旋風は本人達の少しの戸惑いを抱えつつ、秒殺の山を築きながら爆走していく。AWAからNWAに移籍した彼等はベビーフェースとなった。
 
アメリカンフットボールのプロテクターに長い鋲をあしらったコスチュームを身にまとい、ブラック・サバスの『アイアンマン』にのせて花道を駆け抜け、ロープの下から滑り込むようにしてリングイン。そのまま試合に突入すると一気に相手を蹴散らして、コーナーポストからの合体ラリアット『ダブルインパクト』でフィニッシュ! トータルで3分かからぬことも多く、その試合時間は“分単位”でなく“秒単位”で伝えられた。この衝撃は、以後のプロレス界に多大な影響を及ぼすことになる。一つは“ハイスパート・レスリング”の流行だ。ハイスパートという言葉自体は昔からあって、主にフィニッシュ直前、技をたたみ掛けることを意味するものであったが、ウォリアーズはこれを試合の最初から最後まで貫いた。日本でハイスパートというとまず長州力の名が挙がるが、維新軍を率いてその色を濃くさせていったのは'84年以降のことであり、歴史的にもその元祖はウォリアーズにあったといえよう。
【俺達のプロレスTHEレジェンド 第7R 暴走戦士がプロレス界に残した功と罪〈ザ・ロード・ウォリアーズ〉/週刊実話】

1986年4月、タッグチーム・トーナメント 「ジム・クロケットカップ」優勝。
1987年3月、ジャンボ鶴田&天龍源一郎を破り、インターナショナル・タッグ王座を獲得。
1988年10月、NWA世界タッグ王座を獲得。
1989年12月、スターケード・タッグリーグ戦を優勝。
 
ウォリアーズは「世界一ギャラの高いタッグチーム」と形容されるようになった。ちなみにNWA時代の全盛期にはあの世界王者リック・フレアーより高いギャラをもらっていたという。
 
またウォリアーズに影響を受けたタッグチームも次々と誕生。
デモリッション(アックス&スマッシュ)、パワーズ・オブ・ペイン(バーバリアン&ウォーロード)、アメリカン・スターシップ(コヨーテ&イーグル)、ブレードランナーズ(ロック&スティング)…。
 
"模造品"が量産されるということは、それだけウォリアーズは別格なのだ。
 
ウォリアーズの必殺技と言えば、スカイハイ・ラリアット(ダブル・インパクト/ドゥームズデイ・デバイス)である。アニマルが相手を肩車して、ホークがダイビング・ラリアットで撃墜する合体技。
元々、ホークはデビュー前からトップロープからのダイビング・ラリアットを得意としていた。実はこの技の開発についてアニマルはこう語っている。
 
「全日本プロレスのツアーに参戦した時のことだ。ブリティッシュ・ブルドッグスの試合を見ていた俺は、見栄えの良いフィニッシュホールドを開発したい気分になった。ブリティッシュ・ブルドッグスこと、ダイナマイト・キッド&デイビーボーイ・スミス組は、これまで見てきた中でも最も革新的、かつエキサイティングなチームだと言えた。とりわけ、俺の目を引いたのはダイナマイト・キッドの技だ。その技は、エレクトリックチェア・ドロップ(肩車式バックドロップ)と呼ばれていた。かがんだキッドが相手を肩の上に乗せて、高いところに座るような恰好に持っていく、要するに肩車の体勢だ。そこから、キッドはありったけの力をこめて後ろに倒れ、相手を背中からリングに叩きつけるのだ。すると、バーン!という物凄い音がする。じゃあ俺か肩車した相手めがけて、ホークがコーナー最上段からダイビングラリアットを放ったら一体どうなるだろう?数日後、俺たちは全日本プロレスの中堅相手に、テレビ収録マッチに臨んでいた。新収器を試し斬りするには、打ってつけの場だった。試合の終盤に差し掛かり、俺はホークにコーナー最上段に上がるように指示した。相手は誰だか忘れてしまったが、俺は茫然とする相手の1人に歩み寄り、肩車の要領で高く担ぎ上げた。そして肩の上の標的の位置を微調整し、体を回してホークのほう向いた。ホークは飛び上がり、標的めがけて物凄い勢いでダイビングラリアットを発射、食らった相手は真後ろに叩きつけられた。こうしてロードーウォリアーズの新必殺技が完成した。首をかっ切るような動きと、優雅な空中ブランコのような動きがミックスされているのが最大の特長だ。後でホークと俺がビデオを見直すと、試し斬りがうまくいったことがわかった。こんな技を使う奴は誰もいないはずだ。ただし、1つだけやり残したことがあった。そう、必殺技のネーミングだ。幸いにもダブル・インハクトという名称がすぐ思いついた。しかしアメリカに戻った俺たちは、ドゥームズデイ・デバイスという別の名前を冠した。アメリカに戻ってから最初のテレビ収録マッチで、ドゥームズデイ・デバイスを繰り出した時、控室の連中が総立ちになった。」
【ロード・ウォリアーズ 破滅と絶頂 アニマル・ウォリアー、アンドリュー・ウィリアム・ライト/東邦出版】
 
そんなウォリアーズが世界最大のメジャー団体WWE(当時WWF)に移籍したのは1990年8月。ロード・ウォリアーズは「リージョン・オブ・ドゥーム(LOD)」に改名することになる。
 
1990年8月、ついにWWEに姿を現した。いまやリージョン・オブ・ドゥームとして知られるタフな2人は1991年のサマースラムでナスティ・ボーイズから世界タッグチーム王座を奪い取った。この勝利を受け、リージョン・オブ・ドゥームは、スポーツエンターテイメント史上唯一、AWA、NWA、WWEのタッグチーム王座を獲得したデュオとなった。
【ザ・ロード・ウォリアーズ/WWEホームページ】
 
WWEでもタッグの頂上に立ったウォリアーズだったが、年間250試合、世界中に巡業に出るハードスケジュールに二人の関係にひびが入った。
 
ロード・ウォリアーズが9年間つづいたタッグチームを解散したのは1992年8月。もっと正確にいえば、WWE所属のLOD(リージョン・オブ・ドゥーム)のメンバー、ホークとアニマルがコンビを解消――。
“サマースラム92”ロンドン大会が、このふたりがタッグを組んでの最後の試合となってしまった。WWEのツアー・グループは“サマースラム”終了後、イングランドに残って2日間のTVテーピングをおこなったが、もうそこにはホークの姿はなかった。あとからわかったことだが、ウェンブリー・スタジアムでの試合が終わった翌日、ホークは予定されていたテレビ撮りの日程をすっぽかして、さっさとひとりでアメリカへ帰ってしまったのだった。ホークは、もうかれこれ1年もまえからWWEを出たがっていた。しかし、パートナーのアニマルは残留を強く主張し、ことあるごとにふたりは衝突をくり返した。ふたりのケンカをまるくおさめるために、休業していたマネジャーのポール・エラリングが現場に復帰してきた。やっぱり、あくまでもホークとアニマルがいっしょじゃないとビジネスにならない。“サマースラム”から1週間後、日本にもようやく「LOD解散」のニュースが伝わってきた。某夕刊スポーツ新聞には「ホーク引退」なる見出しがデカデカと載った。
(中略)
ホークは疲れきっているらしかった。ほんのしばらくのあいだでいいからノーマルな生活をしたがっているという。4人いる兄弟はみんなちゃんと結婚をしていて、子どももいる。しばらく会わないでいるうちに甥っ子たちも姪っ子たちもどんどん大きくなっている。ロード・ウォリアーズとしてアトランタでデビューしたのが1983年6月だから、もうまるまる9年もロードに出ていたことになる。
(中略)
ロード・ウォリアーズというタッグチームに特別な感情を抱いていたぼく――とぼくと同世代のみんな――は、最後の最後までリージョン・オブ・ドゥームなるチーム名にはなじめなかった。
【ロード・ウォリアーズ解散の衝撃――フミ斎藤のプロレス読本#022 ロード・ウォリアーズ編7/日刊SPA】
 
ホークはWWEを去り、アニマルはWWEに残ることによって、二人は別々の道を歩むことになった。
 
アニマルはシングルプレーヤーとなり、WWEで闘い続けた。WWEはLODの再編成を考えていた。WWEは若手巨漢レスラーのクラッシュ(ブライアン・アダムス)をパートナーに据えようとしていたが、アニマルは弟のターミネーターをパートナーにしたかったという。そんな中でアニマルは試合中に尾てい骨骨折してしまい、フェードアウト。その後WWEを退団することになる。
 
一方のホークはミネアポリスに帰り、静養していると、新日本プロレスのマサ斎藤から専属契約のオファーが届く。そして、佐々木健介とのニュー・ウォリアーズ結成の打診を受けた。ホークは"ニュー・ウォリアーズ"を名乗るのは断ったが、タッグチームを組むことは了承した。
新タッグチーム名はオジー・オズボーンの「ヘルレイザー」にちなんでヘルレイザーズに決定し、健介はパワー・ウォリアーに変身した。
 
1992年11月に結成したヘルレイザーズはまるでウォリアーズのように連戦連勝。同年12月にはIWGPタッグ王座を戴冠した。日本でプロレスをエンジョイしていたホークは1993年から日本での活動を並行しながら、アメリカのWCWやECWに参戦していった。
 
そんなある日、WCWにゲスト参戦したホークの前に現れたのはプロテクター姿のアニマルだった。セコンドについてアニマルの力もあったのは試合を完勝したホーク。やはり、二人は共に歩む運命にあったのだ。
 
ホーク
「ヘルレイザーズとロード・ウォリアーズは全く違う。ビジュアルは似ているかもしれないけど、求めているものはまるで違う。過去の事を自慢げにしゃべるのあまり好きじゃないが、俺とアニマルのコンビはレスリングの歴史を塗り替えるようなことをやってきたと思うよ」
 
アニマル
「ふたりのロード・ウォリアーが合体して、初めてロード・ウォリアーズなんだ。ふたりのロード・ウォリアーが現役でいるうちは、ロード・ウォリアーズは生き続ける。ホークと俺は、この世界に入った時からタッグを組んできた相棒同士だ。俺達のことは俺達にしかわからない」
【DECADE(デケード) 1985~1994 プロレスラー100人の証言集(上下巻) 斎藤文彦/ベースボールマガジン社】

 
 
この二人の性格は正反対だった。ホークは豪放磊落で、アルコールを好み、朝まで遊び、ドラッグにも手を出す"やんちゃ"。一方のアニマルは酒もドラッグもしないし、早寝早起きの"真面目"。だが、共通項は二人ともナイスガイなのだ。この二人がリングに上がると"暴走戦士"となり、最高のタッグチームとなるのだ。
 
1996年、アニマルが復帰し、ロード・ウォリアーズは再結成。新日本ではパワー・ウォリアーとのトリプル・ウォリアーズ結成やWCWに参戦していった。
 
1997年2月にLODとしてWWEに復帰する。WWE世界タッグ王座に輝くも、そこにはオンリーワンではなく、ワン・オブ・ゼムの存在となったホークとアニマルがいた。モヒカン刈りのアニマルと逆モヒカン刈りのホークは首脳部に髪を伸ばすことを強要され、さらにホークには"アルコール依存症"というギミックまで付け加えられた。肉体SFXともいわれ、殺人サイボーグと化していた男達は、WWEが描くスポーツ・エンターテイメントの渦の中に巻き込まれていき、衰えも目立つようになった。だんだん、WWEでの生活に嫌気がさしていく。
 
1999年4月にWWEを離脱したホークとアニマル。今度は二人で共に去った。どうもこの二人はWWEと相性がよくなかったようだ。
兄弟のように仲が良かった二人だったが、時には口も利かないことだってあった。二人とも大人になった。互いを理解し、立場を尊重することによって、真の友人関係となった。
 
ホークがオーストラリア遠征中に心臓発作に倒れ、入院した時も、病室にはずっと傍にいたのはアニマルだった。
 
ロード・ウォリアーズは二人で一つなのだ。
二人三脚で歩んでいたことにホークとアニマルは、年を取ることで悟ったのである。
 
アニマルの勧めによって、ホークはクリスチャンとなり、今まで以上に生きたいと願うようになった。新居への引っ越しを準備をしていたホークは気分が悪くなって、ベッドに横になった。「2時間後に起こしてほしい」というホークの伝言を聞いていた夫人が2時間後に部屋に入ると、そこには亡骸となったホークがいた。
 
2003年10月19日、ホーク・ウォリアー心臓発作により急死。
享年46歳だった。
 
最愛の相棒を失ったアニマルはホーク急死の一報を自宅で聞いた。
 
「あの時、俺はプールに潜ってたんだ。そしたら電話が鳴ってな。
あいつは元気にやってるもんだと思ってたよ。電話は友人のボブからだったよ。俺はボブに"元気にやってるか?"って聞いたんだ。そしたらボブは"お前今日マイク(ホークの本名)と話したか?"って。俺は"いいや、なんでだ?"って聞き返したよ。するとボブは"誰かから電話かかってきたか?"って。俺は"いや、なんでだよ。今日は土曜日で休みだぞ。なんで俺に電話かけてくる奴がいるんだよ"そしたらボブは"よく聞け、マイク(ホーク)が死んだ"俺が"はぁ?"って答えたらボブは"うん…彼は死んだよ"って言ったんだ。デッキに座り込んで、子供のように泣き崩れたよ。タッグチーム・パートナーだけじゃなく兄弟でもあり友人だった奴を失ったってな」
【アニマルがホークの死を語る。ロード・ウォリアーズの追想。/D-GENERATION X.com】
 
失意のアニマルだったが、ホークがこの世を去った時に引退することはなかった。例え、ロード・ウォリアーズは名乗れなくても、俺が一人生きていれば、ロード・ウォリアーズに終わりはないのだから…。
 
2005年にアニマルはハイデンライクというレスラーとLOD2005を結成し、WWEに復帰する。だが、それも短期間で終わり、再びアメリカ各地を転戦していく。
 
2011年3月、WWEはロード・ウォリアーズとマネージャーのポール・エラリングの殿堂入りを発表する。
 
WWE殿堂の式典に姿を現したアニマルはホークのフィギュアを壇上の机の上において語り始めた。
 
、「ホークの考えていることは誰よりも理解できた。目を見ただけで彼の考えていることはわかった」
 
そして、こう叫んだ。
 
「最高の舞台を楽しもうぜ!!」
 
 
ロード・ウォリアーズがプロレス界に築いた暴走戦士伝説。
それは新人二人がレスラーとして、人間として成長していく青春ストーリーだった。
 
鷹と獣の青春に、多くの人達が酔いしれ、多くのレスラー達が屍となっていき、多くの団体や関係者に富をもたらした。
 
青春は終わった。
だが、鷹と獣の伝説は永久に続く。
「世界一ギャラの高いタッグチーム」は、「世界一プロレス界に衝撃を与え伝説を残したタッグチーム」となったのである。
 
 
 
 
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俺達のプロレスラーDXを更新しました。

シリーズ タッグ屋 第二弾で、伝説のタッグチームであるロードウォリアーズを取り上げました。

鷹と獣の青春~二人三脚で築いた暴走戦士伝説~/ロード・ウォリアーズ【俺達のプロレスラーDX】

是非ご覧ください。

さて次回はシリーズ タッグ屋 第三弾です。

そこで取り上げるのはかなりマニアックなタッグチームです。

ジ・イリミネーターズを取り上げます!

最近、プロレスファンになった皆様にはまず聞いたことがないタッグ屋だと思います。

しかし、このイリミネーターズは素晴らしいタッグチームでした!


よろしくお願いいたします!









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俺達のプロレスラーDX
第176回 狂乱のプロレスIQ200~愚か者達が誘う阿鼻叫喚の宴~/バラモン兄弟(バラモン・シュウ&バラモン・ケイ)
シリーズ タッグ屋①
 

 
今回から4回に渡り、"タッグ屋”というシリーズで連載をしていく。
プロレス界にはキラ星の如く、様々な名タッグチームが誕生した。
その中にはレスラー人生をタッグに捧げた男達がいた。
 
シリーズ"タッグ屋”に登場するタッグチームはデビュー当時からタッグを結成し、数々のタッグ王座を獲得してきたタッグのエキスパートである。一回目に登場するタッグチームはあの男達。人は彼らを"バカ兄弟"と呼ぶ…。
 
バラモン!バラモン!バラモン!
大日本プロレスが世界にひた隠す日本の最終兵器・バラモン兄弟。
二人が登場するだけで会場全体が狂乱と悲鳴が鳴り響くバラモンワールドに相手が誰であれ
バラモン兄弟の存在は消えることはない。
【大日本プロレスDVD 地獄の教典・バラモン兄弟】

 
最恐と言っても過言ではない!会場を恐怖のどん底につ突き落としながら、中毒者を続出させ続けるプロレスラー!
【NAVER【虫】プロレスラー!バラモン最恐兄弟】

 バラモン・シュウ(170cm 80kg)とバラモン・ケイ(172cm 75kg)のバラモン兄弟。
 
こんな彼らだが、私は21世紀の日本プロレス界屈指の名タッグ屋だと考えている。今回は、バラモン兄弟のレスラー人生を追う。
 
バラモン・シュウとバラモン・ケイは1977年7月5日神奈川県横浜市保土ヶ谷区に生まれた双子の兄弟である。本名は兄のシュウは佐藤秀、弟のケイは佐藤恵。
 
子どもの時からプロレスファンだったバラモン兄弟は、ミル・マスカラスのプラモデルを作ったり、アントニオ猪木がウィリエム・ルスカをバックドロップで投げる絵を描いていたという。
 
そんな二人は一度は就職するも、プロレスラーになりたいという気持ちを抑えきらず、会社を辞めてウルティモ・ドラゴン率いるプロレス学校・闘龍門9期生となりメキシコに渡ることになる。
2002年5月11日メキシコシティ・アレナ・コリセオで二人はプロレスでシューを果たした。デビュー時はュウが鯱魔神3号、ケイが鯱魔神4号というマスクマンだった。
 
あれは彼等がデビューして2年経った頃だった。
バラモン兄弟がメキシコの闘龍門道場で披露したスパーリングを映像で見たことがあった。
そこには関節技とキックを主体にスパーリングしているバラモン兄弟になる前の佐藤秀と佐藤恵がいた。
彼等はメキシコの闘龍門では後輩に指導する番人のような立場にあった。
 
 
そんなシュウとケイが日本に逆上陸し、闘竜門Xで活動し、石森太二とアイドルユニット「セーラー・ボーイズ」を結成する。シングルCD「キープ・オン・ジャーニー」を発売するも、シュウとケイにとっては苦痛でしかなかった。
 
シュウ「やりたくないというか、辞めようと思っていたくらい」
ケイ「あれはグルティモ・ドラゴンとカラオケ行ったら「お前達、うまいじゃないか」ってそれだけだよ、マジで(笑)」
シュウ「本当に辞めようと思っていたから、プロレス」
【崩壊するインタビュー、バラモン兄弟編/All About】
 
歌って踊れるアイドルレスラーであることに嫌で仕方なかったシュウとケイにとって転機となったのは2005年の事だ。
 
闘龍門Xが活動停止となり、みちのくプロレスに闘いの場を求めたシュウとケイ。
 
闘龍門Xが活動停止となり、みちのくプロレスに闘いの場を求めたシュウとケイは歌って踊れるアイドルレスラーというキャラクターでいたのだが、その内面は徐々に暴かれるようになる。
 
2005年10月にザ・グレート・サスケを裏切りヒール転向。
ここからサスケとの終わりなき抗争「宇宙大戦争」の始まりだった。
 
宇宙大戦争とはザ・グレート・サスケとバラモン兄弟(バラモン・シュウ、バラモン・ケイ)との抗争であり、サスケは毎回タッグパートナーと協力してバラモン兄弟とタッグマッチで対戦している。
試合は、凶器の使用が認められるデスマッチであり、エニウェアマッチ(リング以外でもピンフォールが可能で場外カウントはなし)など「何でもあり」の特別ルールで行われる。タイトルの由来は、佐藤兄弟が「サスケ=宇宙人」説を唱えたことに端を発し、2006年(平成18年)12月の後楽園大会にて佐藤秀が「お前との宇宙戦争は終わりだ。」発言から、翌年の宮城大会にてサスケの「お前らとはな宇宙戦争じゃない、宇宙大戦争だ!」から名づけられた。
【wikipedia/宇宙大戦争】
 
 この「宇宙大戦争」によってサスケは東北の英雄から東北の変人にシフトチェンジしていき、シュウとケイはアイドルから脱却し、プロレス知能指数が高いキ〇ガイとなっていった。
 
漫才コンビで例えるとサスケがボケで、シュウとケイは突っ込み。
互いが互いを進化させるための抗争…それが宇宙大戦争だった。その内容は壮絶さと世の中の風刺などあらゆる概念をちゃんぽんしたエクストリームさに満ちているプロレス活劇である。
 
最初は単にサスケが奇天烈なことをやっているという認識しかされなかったが、やはり継続は力なり。09年の後楽園ホールという名の宇宙船は、超満員の同乗者で膨れあがるほどまでに。世の中、いったい何がヒットするかわかったもんではない。
(中略)
2006年2月19日=後楽園ホール
・サスケ&ディック東郷VS秀&恵
・盟友の東郷と組んで髪切りタッグ戦。自転車で突進もカウンターのジャンピングニーを食らい思いっきり転倒。それにもめげず不屈の闘志で再び乗るも、後ろから押されて階段落ち。
・横立てしたラダーに相手を乗せてセントーン・アトミコを敢行するもかわされてダイレクトに激突。
・首にラダーをぶら下げたまま、バックドロップで投げられる後頭部をしたたかに打ちつける。
・巨大ラダーをバルコニーにかけて登り「よしいくぞ!」と握りコブシを見せるも、倒されてフロアへダイレクトに転落。
・それでも勝って恵を坊主にしたサスケが「ラベルが違うよ」と言うと、間髪いれずに東郷が「レベルですよ」と真顔で突っ込み。
(中略)
2006年4月30日=新潟フェイズ
サスケVS秀
・プロレス史上でも有名な新潟萬代橋市街戦。橋の上から秀を落としたサスケだったが、自分も転落し脚を痛めてうめく。
・信濃川の川岸に捨ててあった自転車を見つけるも、鍵がかかっているため動かず、漕ぐのを諦める。精神的ダメージを被る。
・この市街戦中、調子はずれなラッパの音が鳴っている。製作の時点で入れた効果音かと思いきや、どうやら謎の現場音。これはいったい…。
・ケブラーダ狙いを防御され、逆に階段へパワーボムで投げつけられる
・スパイダージャーマンを狙うも、STONEDのセコンドがドラゴン花火攻撃を浴びせる。飯伏幸太よりも先に花火を導入していたのだ。でも、サスケが勝つ。
(中略)
2007年12月23日=後楽園ホール
サスケ&ザ・グレート・フジタミノルVS秀&恵
・「宇宙大戦争最終決着戦」…最終決着戦、最終決着戦、最終…。
・サスケ、オープニングMCで秀恵の握手に騙され「また騙されたな、バーカ!」
・オープニングで頭を打ったため青SASUKEで登場するも、持ち出した場外マットを奪われ蹴られ、簀巻きにされると生パスタを口に突っ込まれる。移動パスタ屋がとん挫した人間に一番やってはならない行為。
・ゴミ箱を頭から被せられる。屈辱と汚さで精神的ダメージを負う。
・和桶初登場。そこに入れられ、階段落ち。
・トペ・オケミコ大失敗。
・フジタミノルのラダーマフラーが味方のサスケに誤爆。「カン」と、後頭部を痛打。
・和桶の上にラダーをセットし、そこへ登るも、バランスを崩し勝手に場外へ落下。巨星、堕つ。なのに、試合は勝つ。
・試合後、フジタミノルに騙されてサドンインパクトを食らい悶絶。
・試合後のコメントでしつこい記者に何度も完勝と言われるも、本人は記憶になく「記録に残る試合ではなく、記憶に残る試合がしたい」と継続を宣言。
(中略)
2008年12月12日=後楽園ホール
サスケ&飛田VS秀&恵
・「再・最終決戦」と銘打たれたため、これが最後の宇宙大戦争と受け取った人たちが集まる。
・サスケ、やっぱり自転車で跳ね飛ばされる。
・バットポットに見立てた自転車で突進するも、南野のごっついバイクで返り討ちに。
・ラダーごとバイクで突進され、固定された鉄柱とのはさみうちで飛田ごと死にそうな目に。
・オケミコを誰もいない場外に放ち自爆。和桶を被らされていたため見えなかったのだ。
・ギャラクシーアーマーを着用してのセントーン・アトミコで華麗に舞うもかわされ、立てた和桶に果てしなくダイレクトに直撃。
・ロビンとの伝わりにくい合体攻撃が何をやろうとしたのかわからないうちに阻止される。これは見る側に精神的ダメージ。
・和桶上にラダーを立てるも、勝手に倒壊。
・ロビンのダイビング・ボディーアタックに巻き込まれる。でも勝つ。
宇宙大戦争DVDの拾いどころ・前編 / 鈴木健.txtブログアーカイヴ
 
2009年2月14日=新木場1stRING
サスケ&飯伏幸太VS秀&恵
・場外100カウントルール。コンビニの前で暴行を受ける。このさい、あまりにシュールな事態が待っていたのだが、さすがにカットされていた。良心。
・サスケ、トイレに連れ込まれトイレットペーパーで首を絞められたばかりか、口に突っ込まれるうちに100カウントで両リンに。
・延長戦に突入するやまたしても会場の外へ出て徒歩1分の新木場駅前へ。そこにたまたま停まっていたタクシーに乗車。車内でも後部座席に座りながらサスケがチョップを放てば秀もアームロックで反撃。サスケの頭をヘッドロックで捕えながら、秀は運転手さんに「おらあ、そこを右だぁー」と道筋を説明、無事会場前に着く。
・サスケ、タクシーから下車後に別の車で正面から跳ね飛ばされ、また両リン。
(中略)
2009年12月13日=後楽園ホール
サスケ&ライガーVS秀&恵
・「再・再・最終決戦」と銘打たれる。これが宇宙大戦争の見納めと思ったか、超満員の観客が押し寄せる。
・サスケ、道路標識で殴られ後頭部を痛打。
・唸る鉄腕クン。業界屈指の科学的なプロレスにサスケとライガーはなす術なし。
・場内は「テツワン」のチャント。民意は鉄腕クンにあり。地球を守るために闘いながらブーイングを食らうサスケ。これも精神的ダメージ。
・4脚の脚立とイス、道路標識などを組み立てて登ろうとするサスケ(以下略)。
・自分がラダーとラダーの懸け橋になったサスケだったが、鉄腕クンのドロップキックであっけなく崩される。
・首にかけたラダーをイスでフルスイング→バックドロップ→ラダー上にパワーボム。秀恵の波状攻撃にやられるがままのサスケ。なんで負けないんだ!?
・鉄腕クンのラムジャムを食らう。掟破りの逆ラムジャムをやられた精神的ダメージは測り知れない。ランディ・ロビンソンがアヤトーラのラムジャムを受けたようなもの…と、たとえればわかりやすいだろうか。なんだかんだで、今回も勝つ。
宇宙大戦争DVDの拾いどころ・後編 /鈴木健.txtブログアーカイヴ

 
 
宇宙大戦争は2013年12月にサスケとバラモン兄弟の和解というまさかの展開を迎え、「ムーの太陽」という新興宗教のようなユニットを結成し、今度は三人で「地球への脅威を守る」という目的で、みちのくプロレスを中心に布教活動に勤しんでいる。
 
宇宙大戦争の大ヒットにより、バラモン兄弟は日本のインディー界で売れっ子レスラーとなる。KAIENTAI DOJO、DDT、大日本プロレス、FREEDOMSといった団体をまたにかけて、シュウとケイは彼らにしかできない阿鼻叫喚の宴を開いていった。
 
また、シュウとケイは「大バラモン展」という自主興行を開催。これはプロレス界に賛否両論が巻き起こった。
 

もーだから来たくなかったんだよ!
いつもの同行者から誘われ何の気無しに観戦オッケイした。
興行が迫るにつれ、見たい、怖い、見たい、怖い...やっぱり怖い
次々と運びこまれる凶器。乾燥麻薬25Kg(うそだろうけど)、蛆虫、ザリガニ、内臓、豚頭...。
【自分で見に行く”ブログ プロレス観戦記: 2008/12/03 ElDorado〜大バラモン展(新木場)】

「ゴング鳴らせー」の叫びとともにSOSの奇襲で開始、すぐさまブタの臓物を取った千賀が濡れた大腸をぐるぐる振り回しながら攻撃します。シャワーのように飛び散る生臭い水滴、客席から悲鳴、だから特リンなんか買うから!!
【大バラモン展2 メイン感想 | Loving  PURORESU - 楽天ブログ】

去年は事も有ろうにあの小橋建太選手の復帰戦の裏で新木場1stリングを阿鼻叫喚の地獄絵図に陥れ、良識ある記者の方を激怒させ、しかも逃げ出した虫が新木場に居座ってそこで練習をしている女子プロレスラーにまで被害が及んだという「大バラモン展」。
【第3回 バラモン兄弟(とそのお友達)がやってきたヒィー!ヒィー!ホゲー!(※虫画像あり、注意!) | 三田佐代子の猫耳アワー】
 
ここでバラモン兄弟で特に印象に残った試合が、大日本で2011年から2012年にかけて実に三度も対戦した関本大介と岡林裕二のマッスル・モンスターズとの一戦では、シュウとケイはあの手この手で毎回、関本と岡林をあと一歩のところまで追い込む。関節技から反則、墨汁、自らのルーツであるルチャリブレまで持ち込む必死な彼等の姿にいつの間にか会場は「バラモン」コールに包まれるのだ。
 
そして、バラモン・シュウのシングルマッチ。
2012年2月の大日本シングルリーグ戦「一騎当千」でのこの年の優勝者となる佐々木義人との一戦。義人のパワー殺法に苦戦しながら、一瞬の丸め込みで見事に勝利を収めた。
その決まり手がワキ固めで義人を極めて、そこから態勢を変えて逆さ押さえ込み(バックスライド)に移行していく"コグレクラッチ"。
この技が決まった時、解説の須山浩継氏はこう言った。
 
「これはプロレスと格闘技を突き詰めた人間にしか発想できない技ですよ!」
 
バラモン・シュウ及びバラモン兄弟の凄さが分かったシングルマッチだった。
 
バラモン兄弟はこれまで数々のタイトルを獲得してきた。
 
・KO-D6人タッグ王座(第15代、もう1人のパートナーはゴージャス松野)
・UWA世界タッグ王座(第13代、第21代)
・UWA世界6人タッグ王座(もう1人のパートナーは菅原拓也)
・WEWハードコアタッグ王座(第24代、第30代)
・東北タッグ王座(第7代、第9代、第12代、第16代)
・BJWタッグ王座(第32代)
・横浜ショッピングストリート6人タッグ王座(もう1人のパートナーは植木嵩行)
・みちのくふたり旅優勝(2014年)
・KING of FREEDOM WORLD TAG王座(第12代)
・日本インディー大賞 ベストユニット賞(2008年、2009年、2011年、2012年)
【バラモン兄弟/wikipedia】
 
虫やホルモン、マグロの頭などのゲテモノをリングに持ち込んでも、リング上にボウリングの球を持ち込んでボウリングをしても、墨汁で相手の顔面を黒く染めてしまう愚か者でも、バラモン兄弟がインディー団体のプロモーター達に重宝された結果がこのタイトル歴に現れている。
 
思えば、バラモン兄弟に試合に賛否はあるが、無反応やシーン現象になることはない。いわばハズレがないのだ。だからプロモーターに彼等は重宝されるのかもしれない。
 
「お前ら死んで地獄に落ちて今度生まれ変わったら蛆虫になるぞー」
 
このお決まりの決め台詞は狂乱のプロレスIQ200を誇るバカ兄弟の生き方であり、アイデンティティーなのだ。
 
日本インディー界が生んだ21世紀の名タッグ屋であるバラモン兄弟の試合にはプロレスの凄みと面白さと毒々しさに溢れている。
愚か者達が誘う阿鼻叫喚の宴には常に中毒性のある熱狂がある。
 
 
 
 
 
 
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俺達のプロレスラーDX更新しました。

シリーズ タッグ屋 第一弾で取り上げたのはバラモン兄弟でした!

狂乱のプロレスIQ200~愚か者達が誘う阿鼻叫喚の宴~/バラモン兄弟【俺達のプロレスラーDX】

是非ご覧ください!

さて次回はシリーズ タッグ屋 第二弾で取り上げるのはロード・ウォリアーズです!

お楽しみに!
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