まずは屋外展示のオブジェを見て周った後に、
「カッサンドル・ポスター展 グラフィズムの革命」@埼玉県立近代美術館をじっくりと。
いつ見てもカッサンドルのポスターはスタイリッシュですなあ。


「カッサンドル・ポスター展 グラフィズムの革命」@埼玉県立近代美術館


ところが、とのっけからこういうのも何ですが、
カッサンドル という人の人生を顧みることをしてみますと、
ポスター界の寵児という印象は一面でしか無かったのだなと思ったりするところです。


まずもって、カッサンドルというのもペンネームだったとは。
本名はアドルフ・ジャン=マリー・ムーロンでポスターにあるサインに
「A.M.Cassandre」と記されたものがありますけれど、本名から一部を引っ張ってきた
アドルフ・ムーロン・カッサンドルのことだそうで。


1901年にウクライナのハリコフ(現地語的にはハルキウ)生まれですけれど、
フランス産ワインをウクライナに輸入する仕事柄だったからで、両親はフランス人という。
ですからロシア革命が起こるとその激動を避けて一家はフランスに移り、

以降パリに定住することに。


ただ、ウクライナにワインを輸入するのが生業だったわけですから、

仕事はなくなってしまったわけで、その後の生活は大変だったのでは。
絵画に興味を持ったカッサンドルはリュシアン・シモンのアトリエ、

次いでアカデミー・ジュリアンに通いますが、10代後半のその当時から

ポスターのデザインに携わったのはひとえに生活費とするためだったようで。
苦労人なのですな。


20代になってカッサンドルの名を使い始め、

それとともにポスターの世界で注目の的になっていく。
階段を一気に駆け上がっていく感じですね。


展示で見る初期のポスターは

「カッサンドル」以前の伝統を受け継いだと感じられるものですけれど、だんだんと

1920年代(=カッサンドルの20代)の、アール・デコらしいシャープさが際立ってくると、
カッサンドラの独擅場かと思える世界になってくる。今見てもかっちょええですよ。


カッサンドル「ラントランジジャン」(本展フライヤーより部分)

これは1925年の作品「ラントランジジャン」というもの。
「情報」というキーワードの視覚化を求めた依頼主に対して

カッサンドルはこのように図柄でもって応えたのですな。


電信電話線と思しき直線に乗って、扇の要にあたる人の耳に方々から集まってくる。
かつての情報収集術であった郵便や伝書鳩(かつて共同通信社でも使っていたと)等に比べ、

速さの点でも量の点でも歴然たる差で情報が到達することに受け手の人は

驚きを隠せないといった体ですね。


しかしながら、描かれた人物のようすは驚いているというより
悲鳴を上げているように、今なら見えてしまうような。

あまりに情報が入って来すぎて、逆に遮断することさえ忘れている間にあっぷあっぷと…。


そんな現代の様相までを見通させるものとなっているのは、
予言者カサンドラを名前に持ってきた人ならではかも…と妙に関心してしまったりするのですね。


そして、これに続くのがカッサンドルの乗り物シリーズでもいうべきもの。
鉄道で、船でと輸送の迅速性が大いに宣伝される時代であっただけに、
大きな活躍の場となったわけなのですなあ。


そんな中にはフライヤーに下側に配された蒸気機関車動輪のクローズアップ。
簡略化した線で動きの速さをイメージさせる一方で、
ついついTVドラマ「名探偵ポワロ 」シリーズのオープニングを思い出させるとは、

前にも言ったとおり。


同じ蒸気機関車を扱ったポスターでは、この「北方急行」(1927年)がまた有名作でありますね。
機関車の印象だけでなく、右側を消失点に向けて走る電線が生み出す鋭角が

疾走感を弥増すところかと。


カッサンドル「北方急行」(本展フライヤーより部分)


ところで、この右側の線が電線(おそらくは電信電話線)とは気が付きませんでしたなあ。
見れば、上の「ラントランジジャン」と同じような形のものが途中途中に配されている。


これは本来的には碍子と見るべきかもですが、「ラントランジジャン」では特に
情報の送り手たる人、即ち情報の擬人化と思えるものですから、ここで同じ描き方とすれば
やっぱり電信電話線であろうと。


だいたい蒸気機関車に動力供給用の電線は不要ですし、
アメリカの大陸横断鉄道 なんかでも何もない平原を貫く線路に沿うように

電信線が設置されているのは映画なんかでもよく見るところでありましょうし。


とまあ、そんなこんなでカッサンドルは早くも黄金時代を迎えるわけですが、
どうもその後の勢いが今ひとつのような。


1930年代になりますと、バルテュスやデ・キリコ 、ダリといった画家たちとの邂逅から
絵画制作に取り組み始めるのですが、ポスターで時代の先端を行ったカッサンドルだけに
タブローでも昔ながらのアカデミックな絵画であろうはずもなく、
多分にシュルレアリスム 的なものだったりするのですね。

出会った人物たちを見ればなるほどで。


元来、画家を夢見て画塾に通った青年で、

今は功成り名を遂げて生活費稼ぎに汲々とすることもないとなれば、
絵を描きたくなるのも無理からぬ話ではありましょう。


ですが、通り過ぎざまの人々の目を一瞬にして捉えて印象付けるポスターと

シュルレアリスム絵画とは必ずしも相性がよろしくないですよね。


展示解説からも、

カッサンドル晩年の苦悩はポスター作家としての「フォルムの完璧さへの欲求」と
絵画における「己を解き放たんと希求する抒情性」との狭間でもがいたことが分かります。
結果、1969年、カッサンドルはパリの自室で自ら死を選ぶことになってしまうのでありますよ。


1930年代にも初めの頃には、

これまた有名な「デュボ・デュボン・デュボネ」(1932年)のシリーズで
ほのぼのとした笑いを誘う新生面が見られたりしたですが、その後の展示はシュールですな。


1936年の「イタリア」なるシリーズは見るからにキリコ、見るからにダリといった風。
イタリアの観光ポスターではと思うものながら、ストレートにイタリアの魅力を

伝えられずじまい…。

だからといって、カッサンドルを1920年代だけのポスター作家に

押し込めてしまうのは違うのかもですね。
来年2018年はカッサンドルの没後50年にあたりますので、

またじっくりと眺めやることができるかもしれません。


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