よく「天才」と「秀才」とは並べて比べられることがありますけれど、
考えてみれば比べても詮無い話なのではなかろうかと思ったり。


まあ、言葉に囚われているようにも思うところながら、「天才」とは天賦の才がある人なわけで、
あたかも天なるものが授けたかのような生来の才ということになろうかと。


一方で「秀才」というのは秀でた才のある人ですから、一般人の中で努力した賜物なのか、
他の人よりも秀でた才を得たということになりましょうけれど、「天才」の方は
他と比べても仕方がない、比べることがそもそも無意味でもあるような独自性というか、
孤高のふうといいますか、そうしたものがあるのではないかと思うわけです。


奇しくもパブロ・ピカソ の言葉に「私は探さない、見つけるのだ」というのがありますが、
新たな表現であったりなんだりを感覚的に発見できるピカソは天才であって、
一所懸命に探し出す努力をして到達する秀才とは違う…てなことでもありましょうか。


ただ探し出す努力をしているというプロセスは、
例えば試行錯誤といった形で一般人にも分かりやすいところながら、
天才がやおら発見するというプロセスは見えないだけに一般人には分かりにくい。


むしろ普段の奇矯な言動ばかりが目にとまったりして、どうにも分からんことをするのが
天才の証とも受け止めたりするのではないでしょうかね。


と、唐突になんだってこんな話かと言いますれば、
ヘルマン・ヘッセの小説「知と愛」を読み終えたところで、つらつら考えたと言いますか…。


知と愛 (新潮文庫)/ヘッセ


旅するにあたって、あるいは旅の余韻を感じながら、

旅先と何かしらの関わりのありそうな本を読む。

これは実用的にはガイドブックや紀行書であったりするわけですけれど、昨年、一昨年の例でいえば

リューベックトーマス・マンの住んだ家 に立ち寄れば「ブッデンブローク家の人びと 」を読み、
フランクフルトゲーテの生家 に訪ねれば「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代 」を読むが如し。
それがこたびの南西ドイツ紀行ではヘッセの「知と愛」であったということなわけです。


ヘッセはシュトゥットガルトとカールスルーエの中間あたり、カルフという小さな町の生まれですので、
今は博物館となっている生家に行ってみようかと思ったりもしたですが、
少々縛りのあった旅程から考えて月曜日に当たってしまい、行っても博物館は休館日…。


そもそも旅行期間中の月曜日というのは

なかなかに使い勝手が悪い曜日ですから仕方ないわけですが、
ヘッセつながりで発見したのが世界遺産たるマウルブロン修道院は

訪ねるに月曜でもOKということ。

そして、ヘッセ自身、このマウルブロン修道院に付属する神学校に通い、
程なく脱走を図るという自らの経験をベースにもして書かれたのが「知と愛」という作品でして。

作中ではマリアブロンと名を変えて登場する修道院に実際足を運んだ話は、
ほどなく南西ドイツ紀行に出てくることになりますけれど、差し当たっては「知と愛」のことを。


「知と愛」の原題は「Narziss und Goldmund」、
主たるふたりの登場人物であるナルチスとゴルトムントの名がタイトルになっている。
邦題ではナルチスを「知」に、ゴルトムントを「愛」に例えたそれこそ知的といいますか、
文学的といいますか、そんなタイトルになっているのですね。


同じ修道院にいてナルチスは宗教生活を突き詰めてやがて修道院長になっていく一方、
ゴルトムントは(若き日のヘッセよろしく)修道院を抜け出して放浪の生活を送り、
愛欲の遍歴を重ねるとともにひらめきにも似た手業で彫り上げる彫刻師になるのですな。


当然に両者は対比されて、違いが際立つというところながら、
ゴルトムントばかりかナルチスの側でも相手方に対して畏敬の念を持ち続けるようなところがある。
宗教者から見ればゴルトムントの生活なぞは荒みきって「地獄へ落ちろ!」と言われても
仕方がないようなものでもありましょうけれど。


多分、それぞれの拠って立つところが余りに違うことが認め合える要素でもありましょうね。
これが同じ土俵だったり、なまじ近しい何かであったら嫉みやらやっかみやら
いろんな感情がないまぜになって敵対しそうなものですから。


そんなところから冒頭の話に戻っていきますと、ナルチスは「秀才」型で
ゴルトムントは「天才」型となりましょうかね(天才の中にままある破滅型でもありましょう。


で、先に触れたとおりにどちらがどちらかより良い悪いではなくして、
「天才」はもう別次元の人と受け止めれば、ナルチスがゴルトムントを受け止めることはあり、
またナルチスのありようは自分にはとてもできない努力の積み重ねであるとゴルトムントが
理解していることで、またナルチスを大いに認めるところとなるわけです。


こうした二項対立でなくて二項両立のような話でありながら、
実はいずれもがヘッセ自身を投影しているようにも思えますし、
反対にどちらにもなりきれないヘッセがいたのだなとも思えてくるのですなあ。


と、ことここに至って「人はみなそんなもんだけんね」と思いたい自分にも
慰めが与えられると言いましょうかね。
作品に普遍性が与えれられて読み継がれる由縁でもあろうかと思ったものでありますよ。


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