ベーンハウス から聖ヤコビ教会 の脇を通り抜けて、一本西側のブライテ通りへ。

これをしばし南下すると街の中心部に到達するのですけれど、

折しも移ろいやすいリューベックのお天気に祟られ、やおら雨が降ってきました。


目の前の小さなアーケードはそのまま行くと市庁舎につながるだけに

一時退避の人たちでいっぱいになってますですね。


にわか雨にレトロなアーケードで雨宿り@リューベック


まあ、人でいっぱいのところへ駆け込むのも何ですし、

ちょうどこの写真とは通りの反対側には「ブッデンブロークハウス」があったものですから、

中を見て回りつつ雨宿りということにしたのでありますよ。


ブッデンブロークハウス@リューベック



並びの武骨な煉瓦造りに比べて、かなり化粧を施した感のあるこの建物、
その名称はトーマス・マンの小説「ブッデンブローク家の人々」に因むものでして…というより、
そもそも「ブッデンブローク家の人々」がトーマス・マンの家族をモデルにした物語で、
実際ここにトーマス・マンもその兄のハインリヒ・マンも住まっていたわけですね。


昔の本などでは、この建物は「今は銀行になっていて」云々という記載が見られますので、
一時期は人手に渡って単に建物としての使われ方をしていたこともあるようですが、
今ではトーマス・マン、ハインリヒ・マン兄弟の生涯と事績を解説展示する記念館になっています。


といって、「ブッデンブローク家の人々」はともかくも「トニオ・クレーゲル」や「ヴェニスに死す」、
「魔の山」といったあたりの作品でトーマス・マンはよく知られておりますけれど、
お兄さんのハインリヒ・マンも作家だったな…とは思ったものの、
映画「嘆きの天使」の原作小説(タイトルは「ウンラート教授」)を書いた人なのだそうな。


この兄弟文学者はいずれもリューベックの生まれ、裕福な貿易商の家族であったわけですが、
「ブッデンブローク家の人々」は、
家族がこの邸宅を手に入れて
まさに栄華の絶頂といった時分から始まるのでありますよ。


ちなみにリューベックでのマン家は、
トーマスの曽祖父が1775年にメクレンブルクから移ってきたことに始まって、

貿易商として成功を収め、父の代にはリューベック市長に次ぐポジションに就くようにもなったと。


そういうことであれば、

マン家のおぼっちゃま方は裕福な家庭で何不自由なく育って…とも思うところながら、
トーマス・マンの回想によれば、幼心にも「My heart was full of trepidation.」であったようす。


この「trepidation」は後で辞書を引くまで意味がとれなかったですが、
トーマス・マンは自らの境遇に居心地の悪さを感じていたようにも聞き及んでおりましたので、
「動揺」てなふうに受け止めて、まあ当たらずとも遠からずでありましょう。


そうした「動揺」「不安」を持っていたからこそ、
20代半ばで書いた初の(?)長編小説が自分の一族をモデルにした「ブッデンブローク家…」であり、
「ある一家の没落」てな副題が付く話であったことにもなるのでしょうね。


また、トーマス・マンは必ずしも学業優秀(記念館には通知表が展示されている)ではなく、
落第したりしたこともあったそうなんですが、子供時代の心にさざ波が立っていたのだとしたら、
まあ学業がふるわなかったのも仕方のないことなのかな…とも思ったり。


さらに、リューベック生まれながら

リューベックという町そのものにもかなり引いた目を注いでいたということで、

長じてミュンヘンに住まうようになったトーマス・マンのその後は
ナチスに睨まれてアメリカに亡命し、ヨーロッパに戻ってからはスイスに住んだということです。


この町に注ぐ視線というのも、自らの体験、思いの反映かと思うと同時に、
やはりかつて商都を舞台にローデンバックが「死都ブリュージュ」を書いたような、
独特の光と影を見出していたのかもしれませんですね。


とまれ、こうしたことは単なる観光客にはなかなかに感じ取れないものであって、
そこに多少なりとも考えを及ぼすことになったブッデンブロークハウスでの雨宿りでありました。


と、話はトーマス・マンのことばかりになってしまいましたですが、
そのうちハインリヒ・マンの著作も読んでみなくてはですなぁ。