沿岸部の請戸 を離れて、浪江町の中心部にも立ち寄りました。
震災被害と原発事故の関係で路線を寸断されたJR常磐線の駅である浪江駅から
駅前の目抜き通りと思しきところを眺めると、こんな具合です。


JR常磐線浪江駅から続く目抜き通り


駅に発着する電車は無く、全町避難状態が続いているとは分かっていても、
この人っこひとりいないようすには尋常でなさを感じてしまいますですね。

道端の草の繁りが人のいないことをより分からせてくれるような気も。


家々が点在していても通りかかる人をちいとも見かけないということは
例えば山里などではままありますけれど、軒を連ねて民家が立ち並び、
はたまたいろんな店があったりビルが立っていたりという町なかで誰ひとり見ないのは
やはり妙な空虚感を抱くところでもあります。
突然ぱったりと生活感を払拭されたような違和感もまた。


常磐道浪江インターへと続く整備された道


例えばここに新しく整備されたと思しき道がありますけれど、
これは東京と仙台を結ぶ常磐自動車道に浪江インターチェンジができることから
高速へと続く道として整備されたものということです。


震災被害の復旧を終えて最後に残されていた常磐富岡ICと浪江ICの間が
2015年3月に繋がり、常磐自動車道はすいすいと人と物を運ぶようになりましたけれど、
浪江町の人たちにとってはインターチェンジも高速へ続く道も利用できない状態なのですなあ。


と、駅に帰って待合室(駅の入口は施錠されていて中には入れない)を覗いてみますと、
取るもの取りあえず避難を余儀なくされたようすが思い浮かぶといいますか。
駅売店の飲み物冷蔵庫の中身は5年この方入れ換えられてはいないでしょう。


駅の売店の冷蔵庫


右側の床に打ち捨てられた新聞の束はよくよく見てみると
「外相に松本(剛)氏」てな記載が見えることからして、おそらくは2011年3月10日の朝刊かと。
前日の売れ残りなんてものは当然に放り出したままになりましょうなあ。


ですが、こうした日付の新聞が押入れや箪笥から「あら、懐かしい」と出てきたのならいざ知らず、
そこに置かれてその続きが無い…となれば、どうしても止まった「時」を意識してしまう。
駅外にあった自販機の貼られた広告を見ると、2011年3月31日までのキャンペーンが

さも継続中であるかのように凍りついているというか…。

2011年3月31日までのキャンペーン告知


もそっと他にも周辺を訪ねて見聞きしたことはいろいろとあるのですけれど、
だんだんへたれてきてしまうといいますか。
そんなふうでもありますのでこの辺にしときますが、
こうした状況の元がなへんにありやと考えてみれば(敢えては言いませんが)自明であろうかと。


それがともすると東京電力の体質に起因する人災と語られて、

確かにその側面は否めないでしょうけれど、

人災で片付けてしまうと根っこのところを見誤ることになりはしまいかと思うのですね。


ちなみに先に訪ねた統計数理研究所もらった各種統計データの中に

「人間が幸福になるには自然に従った方がいいのか、自然を征服した方がいいのか」を

日本人に問うた調査結果が載っていたのですね。


1953年段階では「克服派」が「従う派」をやや下回っていたですが、

いわゆる高度成長期に「克服派」がじわじわと増えていった。

ところが、1973年の第1次オイルショックを機に「克服派」は沈み込み、

「従う派」が多数を占めるようになり、ほぼそのままの状態で現在に至る。


「従う」とはずいぶん受け身な気がしないでもないですけれど、

意味合いとしては「自然と無理なく共存していくこと」なのではなかろうかと。

そう考えたときに、仮に人間が原子力発電を制御して安全性を担保した(と思った)としても

結果として生み出される核廃棄物がある限り、自然との共存はなしえないような。


東電の体質による人災だったのだから、管理体制を徹底すれば原発は大丈夫てなふうに

持って行ってしまおうものなら、自然から手痛いしっぺ返しを食らうことになるかも。

自然の猛威は思い知ったはずなのですが…。

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