しかしまあ、琵琶 という楽器の形状(要するに枇杷の形)は何となく知っていたわけですが、
演奏会でその楽器をまじまじと見やるに及んで「そうだったのか…」と思ったことがありまして。


琵琶の「頸」


これは先の演奏会のフライヤーから

楽器の棹の部分(「頸」というらしい)を切り出してきたものですけれど、
ギターやヴァイオリンといった弦楽器では指板近くに弦が張られているのに対して、
琵琶の場合は琴柱のようなもの(琵琶では「柱(じゅう)」というらしい)で

部分的に区切られているだけで、絃はかなり高く浮き上がっている状態なのですなあ。


ギターもヴァイオリンも、

基本的には(いろんな奏法があるにもせよ)指で弦を指板に押しつけることで
安定的な音の高さを得ているものと思いますが、

琵琶はそうした発想とは違うところでできいるらしい。


「柱」の間に絃を押し込む形(といっても浮いたままですが)になりますので、
元から絃の張りは緩めにしてあり、それだけに響きもカチッとしたものでなく

「びよよ~ん」としたものになる。


おそらく、ギターとかヴァイオリンで「びよよ~ん」という音を出したら、
感覚的に「聴くに堪えない音」てなことになろうと思いますが、

琵琶の場合はそれでこその個性でもあろうかと。


で、これを受け入れる感性と言いますか、ふっとまた思いつきですけれど、
西洋美術が古来筆跡さえ残さないくらいに均質な画面で描き出す美しさを追求してきたことは
求める音にも同じような感覚があったからなのかなと。


楽器は、安定的な音が確保されること、
つまりはクリアなメロディーが奏でられることを目指して改良されてきたところもありましょうし。


一方で、琵琶の音色に心動かされるというのは、
必ずしも均質なカチッとしたものばかりを愛でるのとは違う感性、心性でもあろうかと。


これまた美術に例えば、水墨画のように擦れていたり、薄墨であったりという、
西洋絵画なら仕上がってないんでないの?と思われるような見た目であっても、
それはそれが個性と受け止めて賞翫してきたのですから。


と、近頃和モノに入れ込み気味とはいえ、このことをもって

和が洋に優るてなこと言うつもりは毛頭なくして、それぞれに大きな個性の違いがあって、

それぞれに受け止め楽しめればそれにこしたことはないと思ったりするのですけれど、

こうしたあれこれを思いましたのは単に琵琶を聴いたからではないのでして、
琵琶を聴いた翌日に今度は西洋楽器による室内楽を聴いたことにもよるのでありますよ。


クァルテット・エクセルシオ~アラウンド・モーツァルトvol.1 未来への輝き@第一生命ホール


ということで、クァルテット・エクセルシオによる「アラウンド・モーツァルト」という演奏会、
「モーツァルトとその周辺」というわけですね。


最初にシンフォニアが演奏されたサンマルティーニは
「ミラノの教会音楽の重鎮として町の各教会で楽長職を長く務めた」作曲家ということですが、
モーツァルト 14歳のミラノ訪問時(もちろん父親に付き添われて)に支援した人物でもあるそうな。


このミラノ滞在からの移動途中にモーツァルトは弦楽四重奏曲を初めて書いたとなりますと、
ミラノ音楽界の大立者に何らか触発されたところがあったのかどうか。
翌々年にまたミラノを訪れた際には全6曲の「ミラノ四重奏曲」を仕上げることになるようで、
この中からは最後の第6番が演奏されました。


続いてのモーツァルトの周辺は、夙に知られた関係として語られるアントニオ・サリエリで、
演奏されたのは小品2曲でしたけれど、ずいぶんと骨太な感じの印象で、
演奏会全体の中ではちと浮き気味だったような気がしないでもない。


そして、二十代後半にさしかかったモーツァルトの四重奏曲、ハイドン・セットから「春」、
円熟期(といっても三十代に入ったところですが)になって手掛けた弦楽五重奏曲第3番と

続いていくプログラムでありました。


先んじてサリエリの骨太を浮き気味と言ってしまったですが、
演奏会全体として晴れやかで輝かしく、このところ季節が立ち止まっている感のある中で
気持ちの上では春が呼び込まれたような気にもなったものでありますよ。


最初のサンマルティーニからして、演奏が始まったとたんふいに光が広がったかのよう。
共感覚的に言えば、そんな感じだったものですから。
薩摩琵琶の枯淡の味わいとは全く違う世界がそこに出現したわけなのでして。


先にも言いましたように、どちらが良い悪いでは全くなくって、どちらも良い。

ではありますが、春が足踏みしているときだけに

この「アラウンド・モーツァルト」の方に分があったとは言えるのではなかろうかと。


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