東京・新宿の損保ジャパン日本興亜美術館 で開催中の
「もうひとつの輝き 最後の印象派 1900-20's Paris」展を覗いてきたのですね。
「最後の」とはいえ「印象派」との言葉に釣られたわけではありませんけれど、
印象派の系譜にあたる作家たちの作品展なのだろうとは思ったわけながら、
展示された数々の作品を眺めやってざっくり思うところは
「この人たち、展覧会のタイトルで損したな…」ということでありました。
美術館HPには「印象主義や新印象主義といった前世紀のスタイルを受け継ぎながら、
親しみやすく甘美な作品を描いた」作家たちの作品紹介であることが記されていますが、
当時のパリは芸術的に百花繚乱の時代であって、さまざまな手法が試され、変転していった頃。
確かにそうした中で見れば穏健な作風と思われ、
それだけに印象派の衣鉢を継ぐと言えるのでしょうけれど、
そうした延長線上で見てしまいますと、どうも「周回遅れ」感にとらわれてしまう。
「印象派」は客を呼べる魔法の言葉であることは否定できませんが、
取り上げられているル・シダネルやエミール・クラウス あたり、
最近では単独展が開かれるようになっていることからすれば、
十把一絡げ的に「最後の印象派」と言われると「損してるな」と思ってしまうということで。
さて、悪口雑言(?)はこれくらいにしておきまして、
それぞれの作品に罪はないわけですから、そっちのお話の方へ。
先に時代は百花繚乱と言いましたですが、
ここに展示された作家性質の作品もやはり百花繚乱であって、
かなりストレートに印象派の系譜と見えるのがアンリ・マルタン(1860-1943)でもあろうかと。
会場では「野原を行く少女」に見る色とりどりの花々に目を奪われ立ち止まる方が多かったですが、
アンリ・マルタンが「きれい、きれい」というだけの画家ではないことは
「緑の椅子の肖像、マルタン夫人」で見てとれようかと。
全体的に明るさが支配している「野原を行く少女」に比べて、
手前側に大きく配された夫人像は陰にあって、ぼんやり気味。
このコントラストが実にいい具合ではありませんか。
印象派の手法でもって人物を描くと「人物が人物に見えない」、
とりわけ顔はなんだか分からない…てなことにもなりがちな中で、
これだけ大きく顔を描いて翳りのぼんやりと手法を馴染ませているあたり、
やはり見入ってしまうところかと。
実はアンリ・マルタンが大好物なので、たいへんな持ち上げようになってますが、
他の作家の作品ではエルネスト・ローランの「麦わら帽子」の、
外光の中で対象が「とんで」ぼやける様に「ほうほう!」と思ったり、
ル・シダネルの「日曜日」にはむしろ象徴主義の影響から、
画面が語りかける含みの多さを感じたり。
と、いろいろ見所はあって、あれもこれもと思うところですけれど、
最後のコーナーに参考出品(だったかな)とされていらジョン・シンガー・サージェントの肖像画、
これには「何故、ここに?」と思ったりしたところながら、その別格の存在感には
どうしても触れておきたいところでして。
先にライン・マイン紀行 の中で立ち寄ったマインツの州立博物館 では、
肖像画を見たときに写実性の進化てな話になりましたですが、
「ハロルド・ウィルソン夫人の肖像」というこの一枚、さらなる進化形とも言えるような。
写実性のありようが写真で撮影したように描くような進化の先に、
作者の技法を駆使した上で、写真のようではないのにいかにもその人!
という写し出し方とでも言いましょうかね。
サージェントの肖像画に改めて関心しきりでありましたですよ。
なんだかかなりごった煮的な印象を醸してしまいましたですが、
この展覧会自体もやはり百花繚乱が楽しめるものであったということになりましょうね。