手すきの折に美術館のHPをあれこれ見ていて、
「面白そうかも…」というツカミのあった企画展が見つかったものですから、
東京都現代美術館へ行ってきたのですね。


「クリスタライズ」展@東京都現代美術館

タイトルは「クリスタライズ」、基本的にはデザイナーらしい吉岡徳仁さんの個展でありました。
と言っても、申し訳なくも(?)吉岡さんを存知あげないものですから、
もっぱらその作品に興味を抱いたということなわけです。


HPの画像で予期していたことながら、会場に一歩足を踏み入れますと、
そこには何万本(実際には百万単位のようですが)ものストロー状のもの
(形状はまさにストローですけれど、普段使うものよりもいささか長めかと)で埋め尽くされ、
床の部分に辛うじて鑑賞者が歩いていけるくらいの通路が露出しているだけ。


後は(天井まで届くほどの高さは無いものの)前後左右をストローの集積に囲まれている状態。
「トルネード」という作品タイトルもむべなるかなでありますね。


たかがストローなんですが、こうも圧倒的な量で見せられると、
確かにアート化してしまうなぁと思えてくるわけで、そのあたりが妙に面白いのですよ。


多分に「コロンブスの卵」的発想ながら、ひとつのものとしては何の変哲もないものも
限りなく大量に集積されたところを見せられると、やおらアート化してしまうのかと思うと
「そのもの」は実のところ何でもいいのではないかと思えてきますですね。


しばらく前に、ゴミ山から拾い出した素材でもってアート作品を仕立てるヴィック・ムニーズ
制作過程を映画で見ましたけれど、その中で材料を見出すごみ山そのものからして、
遠目に見ればいろいろな色が点々と入り混じった姿を見せて、
あたかもアンドレアス・グルスキー の写真作品でもあるかのように見えてしまう…。


何かしらが集積されたものの圧倒的な迫力が

「何だか得体がしれないけど、とにかく凄い」という印象を人に抱かせるのかもしれませぬ。


ただ、ここで思い出したんですが、「ひとつのものとしては何の変哲もないもの」ながら、
そのありのままのひとつながらにアート化してしまうマジックもあったなと。


デュシャンの「泉」なんかが最たるものですけれど、こちらの方は物量作戦で迫ってこない分、
簡単に素人に真似のできない(真似ると底が知れる)ものだけに、
「何かを大量に集積して見せる」ということなら真似してできるかなと思ったりしたですよ。


と、そんなふうに「トルネード」としてストローが堆積しているそここに
別の作品が置かれているのですが、一番「ふむぅ…」と思ったのは「結晶の絵画」というもの。

会場には浅く広い水槽が置かれ、その中ではリアルタイムで何やらの結晶化が進行中でした。


その結晶化の過程において、

場内に流されているチャイコフスキー のバレエ音楽「白鳥の湖」が振動を与え、

どのような結晶形態に至るかはその微妙な振動に左右される…ということで、

作品のタイトルは「白鳥の湖 結晶の絵画」ということに。


当然に予想されるとおり、違う曲が流されていれば振動もまた変わり、

結果として全く異なる形態で結晶化することになるのでしょう。


リアルタイムで結晶化が進行中とはいえ、

見ているその場でどんどん結晶化形状が変化していくわけではありませんから、

適宜ビフォーアフターを比べてみないと分からんですが、作品としては結果勝負。

勝負と言っても、仕掛けている側でもどんなものができあがるのかは未知数でしょうけれど。


ごくごく一般的に言って、「白鳥の湖」の音楽はだいたいどこをとっても

メロディーメーカーたるチャイコフスキーの面目躍如なところでありまして、

簡単に言えば「きれいな音楽」なのでして、それを聴きながら(?)結晶過程を歩んだものは

結果としての結晶絵画も何とはなし美的であるような気がするのですね。


で、それを見て思ったですよ。

自然界にある「美」(と人間が感じるもの)も、自然界にある音、

例えば川のせせらぎであったり、風のわたる音であったり、

そういうものを聴きながら聴きながら形成されてきたものなのかもと。


となれば、川のせせらぎや風のわたる音なども

本来的に美しいと受け止める心性が人にはあって、

そうした音に育まれた自然をも美しいと、人は本能的に美しいと受け止めているのではないかと。


展示は他にもフライヤーに断片が見られるような、

プリズムの分光を利用した「虹の教会」という大掛かりなものなどもありましたけれど、

個人的にはいささかアーティフィシャルな気がしてしまい、

「トルネード」や結晶の絵画ほどのインパクトは得られなかったような。

それでも充分に考えるところのあったインスタレーションだとは言えましょうね。