3月5日 旭川刑務所に押送された日 | 徐裕行のブログ

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無理にでも拉致問題の解決に結びつける
うまく、落とせない時もあるけどね。

1996年3月5日。東京拘置所に収監されていたぼくは未明に起床して身支度を済ませた。この日は旭川刑務所へ移送される日で、拘置所の一階には旭川刑務所からぼくを迎えにきた3人の刑務官がスーツ姿でぼくを待っていた。ぼく一人の押送のために3人もの刑務官が必要とは恐れ入った。


手錠と腰紐をしっかりと固定し、ワンボックスカーへと乗り込んだ。車は首都高速に乗って羽田空港を目指す。

これからしばらくは娑婆の景色も見納めだと思うと何となく寂しい気がした。

その頃のお台場付近は工事中でだだっ広い荒地が広がるばかり、将来、どれほど開発されるのかイメージができなかった。


空港内へは職員の通用口を通り、待機中の飛行機へと向かう。
「これを、つけておけ」
旭川刑務所の総務部長がサングラスをぼくに手渡した。
「お前さんの顔を、見知ってる人がいるかも知れんからな」
他人にぼくの存在を知られないための心遣いである。親切な人だ。
ぼくは、黙ってサングラスをかけた。


まだ誰も搭乗していない飛行機に真っ先に乗り込む。これも手錠と腰紐の惨めな姿を他人に見られないための処置だろうと思った。ぼくたちは飛行機の最後部の席についた。これほどまでに他人にぼくの存在を知られないための気遣いをしてくれるのなら、ぼくもそれに協力しないわけにはいかないと思った。そこで、他の乗客が搭乗する前に小用を済ませることにした。


手錠と腰紐の姿でスチュワーデス(この時は、まだキャビンアテンダントではなかったと思う)たちの前を通る。ぼくの後ろには腰縄の一端をしっかりと握りしめた刑務官が付き添っている。
用を済ませ、座席に戻ると、総務部長がニコニコとぼくに笑いかけながら、
「スチュワーデスに、お前さんが誰だかわかるかって聞いたら、なんていったと思う?」
わかるわけがない。

(俺が、誰だかわかんないようにサングラスをかけさせたんだろうが!わざわざ、ひとに聞くんじゃねえよ!)
無言の抗議をした。
「いやぁ、バレてないかと思ってな」
総務部長は、ぼくの胸中を察したようにとりつくろった。
「で、なんていったと思う?」
「さぁ」
「わからんか、あはははは。なんと、サンプラザ中野だってよ、あはははは」
ひとりで、大うけである。坊主頭にサングラスをかければ、誰だってサンプラザ中野になれるだろう。こいつは、受刑者の押送をするたびに、こんなことをやってるんじゃないかと思った。


毛布で手錠と腰縄を隠し窓際に座った。飛行機が飛び立つと、北へ北へと向かう。眼下の景色は徐々に白みを帯び、旭川空港に着くころには一面の雪景色だった。


空港まで迎えに来ていた護送バスに乗り込み、刑務所へとむかう。その間も総務部長は話しかけてくる。
「旭川は寒いぞ。30分も裸で外に立ってたら、死んじまうぞ」
それはそうだろう。

「旭川刑務所は冬は(受刑者に)スキーもやらせるんだぞ。徐はスキーはやるのか?」
「スキーですか...まあ、多少は...」
ぼくは、広々としたゲレンデで受刑者が思い思いにスキーを楽しんでいる光景を思い浮かべた。

車窓を流れる家々の軒先には、見たこともないような巨大な氷柱が垂れ下がっている。
やはり北海道はスケールが違う。
刑務所内にゲレンデがあったっておかしくはないではないか、などと一人で得心していた。


そんな会話をしているうちに、刑務所に到着した。
たった今まで想像していた広大なゲレンデと立派な建物はどこ?と、我が目を疑ってしまうような、こじんまりとした建物が目の前にあった。

これから十二年間生活する旭川刑務所。住めば都というではないか。何はともあれこれからしっかり受刑生活を送ろう。そう決意した、16年前の今日の出来事でした。


拉致被害者の方々が北朝鮮の地にたどりついたとき、いったいどんな気持ちだったのだろうか。それを思うと、胸が痛む。



※皆さんにお願いします。

北朝鮮による日本人拉致事件は、国籍、思想、年齢、性別、職業などに関係なく、日本に住むすべての方に関係する問題です。ぜひとも
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