【本編】episode7 新月の夜 | 魔人の記

【本編】episode7 新月の夜

episode7 新月の夜


「ちょ、ちょっと! どうなってんのっ!?」

玲央菜はあせっていることを隠しもせず、乱暴にドアを叩き始める。

彼女は今、トイレに行きたい状態であり…
花も恥じらう女子高生としては、できればそれを知られたくはない。

だが今はそうも言っていられない状況になりつつあった。

「榊さんっ! ご主人さまっ! どっちでもいいから、開けて! 開けてー!」

まだそこまで切羽詰っているわけではない。
だが、切羽詰まってしまってはもう遅いのではないか、と彼女は思っている。

そのため、恥ずかしいながらも焦っているのを隠しもせず、こうしてドアを叩きつつ大声を出している。
だが、ドアの向こう側からは何の反応もなかった。

「…ヤバい…だーれも来ないし…!」

妙なもので、こういうことは意識すればするほど一気に状況が悪くなってくる。
玲央菜の顔に、少しばかり粘度の高い汗がにじみ始めた。

「手も痛いし…多分これ、聞こえてないんだ…」

華奢な女子高生とはいえ、思い切りドアを叩けば、普通なら音が家中に響くはずである。
そうなれば、榊などはすぐに飛んでくるに違いないのだ。

だが榊がやってくる様子はない。
ドアの向こうは静かなものだった。

「どうしよう…!? いや、でも…!」

玲央菜は部屋の奥へと向き直る。
表情はあせっていたが、その目には何か確信めいたものがあった。

「榊さんは完璧な人だ。外からカギを閉められるとしても、必ず中から開けられる仕掛けか何かがあるはず!」

そう、彼女は榊の行動原理から何か突破口はないかと考えていた。
外からの施錠より、内側からの解錠の方が重大で、榊がそれを忘れるわけはないと考えたのである。

「夜の間、何かボクに見られたくないことがあって、それでカギをかけてる…きっとそうなんだろう。だけど、もしその間に火事とかあったらどうなる? きっと、こっち側からドアを開ける何かがあるはずなんだ!」

今は、自分に見られたくないことが何なのか、なぜ外からカギをかけたのかは考えないようにした。

それは玲央菜が大人になったからなのか?
いやそうではない。

切羽詰まる段階が、少しだけ進んだのを感じたからである。

「ヤバいヤバいヤバい…えーっと!」

部屋の奥、ベッドのそばへと戻った彼女は、その壁まわりを調べてみる。
だがそのあたりには、スイッチらしきものはない。

「どこだ…?」

仕掛けがあるとすれば壁にくっついているはずだ、という見立てが彼女の中にはあった。
そのため、壁を隠している家具がある場所をまず調べていく。

ベッド周囲になければ机のまわりを調べる。
クローゼットを開けてもみたが、それらしきものはない。

「…えぇ…?」

玲央菜は困惑した声を出す。
だが、クローゼット内に何もないのは、開ける前からある程度わかっていた。

この場所は毎日見る場所であり、何より仕事道具であるメイド服がかけられている。
なんらかの仕掛けがあれば、それをいつも目にしているはずなのだ。

だが彼女は、そういうものを見た記憶がなかった。

仕方なく、彼女は一度ドアのそばへと戻る。
そしてもう一度ドアノブを回そうとした。


ガチャリ


「やっぱり…」

ただ部屋の奥を調べまわっただけでは、外からのカギは解除できない。
また少しだけ切羽詰まったのを感じながら、彼女は腕組みをして考えた。

「どこだ…?」

あるのは間違いない。
榊のことだ、用意していないわけがない。

だがその場所がわからない。
壁を隠していそうな家具はすべて調べたが、どこにもそれらしきものはなかった。

「…壁じゃなきゃ、床?」

玲央菜はふと思いつき、床を広く隠しているベッドへと向かっていく。
その時だった。


ガン!


「んぎょぇあっ!?」

小指を激しく机の足にぶつけた。
玲央菜は奇声をあげ、あまりの痛みにその場でうずくまる。

「い、い、い、いたぃ…!」

瞳からは涙がこぼれ、痛みそのものとはまた別の、奇妙な悔しさが心の奥底から這いのぼってくる。

彼女は明確な怒りをもって、足をぶつけた場所を見た。

「痛いじゃないか、もぉお!」

机が動くわけはないので、そこに足をぶつけたとなれば責任は自分にしかない。
ないのだが、どうにも怒りを抑えられず、彼女は机に向かって声を荒げていた。

しかし、その怒りもすぐにしぼんでしまう。

「…あ」

ぶつけた箇所の向こう側。
暗がりになっている場所に、小さなスイッチらしきものが見えた。

「ここにあったんだ!」

彼女は早速手を伸ばし、丸い押しボタンをぐっと押す。
するとドアの方から音が聞こえた。

「開いた!」

そう思い、すぐさま体を起こそうとする。
だが、彼女は自分が今、机の下にいることを忘れていた。


ガン!!


「あいたぁ!?」

後頭部をしとどに打ちつけ、またもその場にうずくまる。
彼女がまともに動けるようになるには、それから約20秒を要した。

「あいたたた…」

どうにか立ち上がり、ドアの方へと向かう。
切羽詰まり感にはまだ余裕があるが、あまりのんびりともしていられなかった。

解錠したドアを開け、廊下に出る。

「あれ、まっくら…」

照明という照明がすべて消され、家の中は暗かった。
壁に手をつきながら移動し、彼女はまずトイレへと向かう。

「……」

いつも目にしている場所、そして戦場でもあるトイレだが、照明がまったくないこともあって少し趣がちがう。

玲央菜は少しばかりの心細さを感じつつ、しかしそれに負けないようにドアそばの照明スイッチに手をかけた。

「…ふぅ」

照明さえついてしまえば、そこは見慣れた美しく広いトイレである。
彼女はホッとした表情で、まっすぐに個室へと向かっていくのだった。


「…はぁあ、スッキリした…」

トイレから出てきた玲央菜は、心底安心した表情になっていた。
照明を消し、まっくらな家の中に戻っても、それほど怖さを感じなかった。

そこには、自分が考えていたままに、榊が部屋からの脱出方法を用意してくれていた、ということが大きい。

「さすが榊さん、やっぱりあの人は完璧だなぁ」

用をすませる前までは暗さも怖かったが、それが終わって安心すると、この家が榊に完璧に管理されていることを強く実感することができた。

その管理のもとでは、自分が恐れるようなものが家に侵入するなどということはあり得ない。
そう、信じられるようになったからだった。

ただし、暗いということはまたどこかに足の指をぶつけてしまうかもしれない、ということは心配していた。

後頭部も含めて、短い間に二度も痛い目を見たのである。
玲央菜も、さすがにその部分に関しては慎重だった。

そのため、部屋から出てきた直後と同じように、壁に手をつきながら移動していく。
そうしながら彼女は、シャワーをどうするか考え始めた。

「そういえば、もともとはシャワーを浴びようかと思ってたんだった…どうしようかな」

トイレに行くまでの間、榊にも天馬にも会わなかった。
それどころか、人の気配のようなもの自体がなかった。

それなら別に照明をつけて移動すればいいようなものなのだが、まだ玲央菜はどのスイッチがどの照明を担当しているのか知らなかった。

ドアが外から施錠されていることからも、今夜は何か自分に部屋から出てきてほしくない夜なのだろう、というのは玲央菜にもわかっていたので、あまり自分勝手にスイッチをいじるのも気が引けていたのである。

だが、風呂に入らないまま寝てしまい、さらにドアを解錠するのにひとしきり動いた後である。
できればシャワーだけでも浴びたい、という気持ちは強かった。

「…誰もいないっぽいし、だいじょぶだよね…?」

玲央菜はそうつぶやきながら、部屋に戻った。
用意しておいた着替えを持って、もう一度そこを出る。

やはり、どうにも我慢できそうになかった。

「お金持ちなんだし、お湯がもったいないからシャワー浴びるな、とは言わないよね…きっと」

変に貧乏くさい心配をしつつ、彼女は風呂場へと向かう。
そこはトイレよりも奥に行った場所にあった。

「あ…」

玲央菜は、小さく声をあげた。
その視線の先には、下り階段が見えている。

階段は壁に囲まれており、途中で曲がっているため、その先に何があるかはわからない。

風呂場自体は毎日来ている場所なので、その周囲の景色ももう見慣れてはいる。
だが今夜は、いつもと違うことがひとつあった。

「明かり…ついてる」

玲央菜たちが普段過ごしている場所は40階であり、このマンションの最上階である。
そこから下る階段ということは、この先は39階につながっているということだ。

マンションに備え付けられている通常のエレベーターも、40階に直通する特別なエレベーターも、この階段の先にある39階にはつながっていない。

そして階段の前には、美術館や博物館にあるような柵が置かれている。
立派な、しかし背の低い2本の柱の間に、真紅のロープが取りつけられていた。

「…入るな、ってことだよね…これ」

明らかに立入禁止を示すための柵である。
40階に人の気配がなく、下り階段の先が明るいということは、榊と天馬はこの先にいるということなのだろう。

正直なところ、何をやっているのかは気になる。
だが、玲央菜はそちらへ向かおうとはしなかった。

「入るなっていうんなら、入るべきじゃないよね」

玲央菜の部屋のドアにカギまでかけて、しかも下り階段前には柵が置かれている。
柵は簡単に乗り越えることもできるが、そうすべきではないと彼女は考えた。

彼女は、自分がよそ者であることの自覚がある。
そして世話になっていることに感謝もしている。

確かに外からドアにカギをかけられたことには驚いた。
だがマンションをまるごと所有し、本職の執事までいるという天馬の生活に、一般人である自分が理解できないものがあるのは、ある種当然だと思えた。

彼女は負けん気は強いが、そういうところの物分かりはよかった。
それに今は、謎の39階よりも優先させたいこともある。

「パパっとシャワー浴びて寝ちゃお…ふわ」

トイレでの用事を無事すませられたことで、彼女にはまた眠気がやってきつつあった。
少し汗をかいたのもあり、手早くすっきりして寝てしまいたくなっていた。

だが、脱衣場に来て彼女は異変に気づく。

「…あれ?」

脱衣場にはバスタオルとバスローブがかけられている。
そして脱衣場も風呂場も、彼女が入る前から照明がついていた。

風呂場へのドアを開けてみると、彼女の部屋より広い湯船いっぱいに湯が張られている。

「あ…もしかしてあの人…ご主人さま、お風呂入る予定だったのかな」

天馬をあの人呼ばわりして、榊に怒られると反射的に思ったのか、彼女はご主人さまと言い直した。

その後でしまったと顔をゆがめる。

「っていうかバスタオル持ってきてない…あー、どうしよ」

玲央菜は一度風呂場から出て、もう一度下り階段を見た。
柵が動かされた様子はなく、階段の先にある光もまだ消えていない。

それを確認した後で、また風呂場に戻った。

「さっさとすませよう。うん、すぐ終わらせればだいじょぶだよ、きっと!」

彼女としても、ここまできて部屋に戻る気にはなれなかった。
手早く服を脱ぎ、念のためバスタオルを持って風呂場へと入る。

湯船のそばにバスタオルを置いて、シャワースタンドの近くに立った。
とにかく時間がないので、シャワーを出してすぐに頭を濡らし、髪を洗い始める。

この時彼女は、髪を長くしていなくてよかったと心底思った。
シャンプー、リンスと終わらせて今度は体を洗う。

それもすぐに終わらせて、泡をシャワーで洗い流し、バスタオルで体を拭いてからそれを体に巻いた。

「ふぅ…どうにか間に合った…」

安心するとため息が出た。
風呂場を出て、脱衣場で持ってきていた着替えに手を取った。

その時だった。


ズドッ、ズドドドドドド…


「…え?」

地鳴りのような低い音が、足下から駆け上がってくる。
驚いた玲央菜は、着替えようとしていた動きを止めた。

直後。


ガシャーン!


「…えぇ?」

何かがぶつかり、倒れた音。
それはとても近かった。

「な、なに?」

一体何が起こっているのか、玲央菜にはまったくわからない。
そしてさらに、彼女を混乱させる出来事が起こった。

「…へ!?」

なんと、脱衣場のドアが開けられたのである。
突然のことに、バスタオル姿の玲央菜は固まってしまった。

脱衣場のドアを開けたのは、何やら黒い塊だった。
玲央菜の中には、それを端的に言い表す言葉がない。

”グ…!?”

黒い塊は、何か声を発した。
だがそちらも驚いているようで、動きはない。

と、この時下り階段の方から別の声が聞こえてきた。

「早く! 早く風呂場の中へ!」

”…!”

その声に我に返ったのか、黒い塊は風呂場へのドアを開けて中に入った。
すぐに大きな水音が聞こえる。

玲央菜が声をかけられたのは、それから10秒後のことだった。

「…柊 玲央菜…!」

「…!」

その声に、玲央菜はそちらを見た。
聞き覚えのあるその声の主は、彼女がよく知った者だった。

「一体、どうしてここに…!」

彼女に声をかけたのは榊だった。
彼は一瞬だけ風呂場の方へ目をやったが、すぐにバスローブを持ってバスタオル姿の彼女にかけてやる。

「…とにかく今夜は部屋に戻りなさい。いいですね?」

「は…はい…」

玲央菜は素直にうなずいた。
説明を求めるなど、驚きすぎてとてもできなかった。

彼女は部屋に帰ろうと、足を一歩踏み出す。
だがふんばることができずに、前へ倒れ込んだ。

「おっと」

それを榊が素早く支える。
彼女が震えていることを察知すると、榊は渋い表情になった。

「どうやら腰が抜けたようですね…仕方ありません、しばらくここに座っていなさい」

「は、はい…」

大きな鏡の前にある椅子まで運んでもらい、玲央菜はそこに座らされた。
彼女はただ震えながら、自らを抱くように両腕で胸をかばい、うつむいているのだった。


>episode8へ続く

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