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2017-01-16 12:00:02

【本編】episode57 初恋にさよならを

テーマ:ボクのご主人さま:本編
episode57 初恋にさよならを


玲央菜は丸太の家を出た。
来た時と同じように、紫苑とともにマイクロバスに乗って、チャーター機のある滑走路へと向かった。

「…アンタねぇ…」

マイクロバスの最後尾、横に長くつながってソファのようになっている座席に座りながら、紫苑は顔をしかめて言った。

「いちいち黒服連中に謝ってんじゃないわよ。ただでさえ遅い時間が、さらに遅くなるでしょうが」

「す、すいません…やっぱりちょっと申し訳ないなって思って」

「こういう時のために手当はちゃんと出してあるから、アンタが気にしなくてもいいのよ」

「紫苑さんはそうでしょうけど、ボクは…お世話になってるだけなんで」

「…めんどくさいわね、貧乏人のクセに」

「ボクもそう思います」

隣に座った玲央菜はそう言って、てへへと笑った。
紫苑は一瞬その顔をじっと見ていたが、やがて顔を赤くしてそっぽを向く。

その行動に、玲央菜は不思議そうに尋ねた。

「どうしたんですか、紫苑さん?」

「うるさいわね…アンタの顔見てると、さっきのこと思い出すのよ」

「さっき…あ、ご結婚おめでとうございます、ふふっ」

「この…!」

からかうんじゃない、と紫苑は振り返ったが、その時に玲央菜の笑顔を見てしまって、恥ずかしくなってまたそっぽを向く。

そして紫苑は、しばらくしてため息をついた。

「この私が…ヤキが回ったもんね。アンタなんかに手玉に取られるなんて」

「ボクもびっくりです。まさか紫苑さんが、そこまで雅人さんのことを好きだなんて」

「…好きってわけじゃないわ。気楽なのよ」

そう言った紫苑の顔から、焦りの色が消える。
何かを考えるような表情をしつつ、玲央菜の方へ向き直った。

「アイツはなんでも私の言うとおりにする…かと思ったら、間違ってることは間違ってるって私にだけはっきり言うの。他の皇家の連中にはてんで何も言えないクセに」

「へぇ…」

「あとは、私の好みとかいろいろわかってるし、なんていうのかリラックスするのよ。アイツだけは絶対に、私を裏切らないってわかるから」

「雅人さん『だけは』って…」

「アイツが私のこと話してたでしょ? 私は若い頃から…それこそアンタくらいの歳の頃には、もう皇の家で戦ってたの」

紫苑はそう言いながら、背筋を伸ばしつつ前を見る。
長い脚を組んで、厳しい表情になった。

「親戚はすべて敵だし、何百億何千億、時には兆って金も動くから、それこそ裏切り談合なんでもアリなの。だけど私は、お兄さまと入れ替わりに本家に入ることが決まった時から、覚悟を決めてたわ」

「なんでも、アリ…」

「そうよ。アンタとこうして話してるみたいに仲良くなれたかと思ったら、10分後には敵、なんてこともよくあったわ」

「え、10分後ですか!? 日も変わらないうちに…?」

「言っとくけど、例え話じゃなくて本当にそうだからね。金と権力がかかれば、人間はなんだってするしなんだってできるのよ…アンタだってわかったもんじゃないわ」

「え…ぼ、ボクは、お金とか権力とかよくわかんないから、そういうことはないですよ~」

玲央菜はそう言って苦笑してみせる。
まさか自分が例に出されるとは思わず、何を言っているのかと若干おちゃらけていた。

だが、紫苑は彼女を見ないままこう続ける。

「もし、私を今殺さなければ、お兄さまと榊が殺される…そう脅されても、同じ顔をしていられるかしら」

「…え?」

「私に接触してくる人間は、何も悪い人間ばかりじゃないわ。いい人間であっても、事情によって悪いことをしなきゃならない…そういう人間も含まれてるのよ」

「紫苑さん…」

玲央菜の顔が神妙なものに変わった。
それを横目で確認した紫苑は、前を向いたままフッと笑う。

「まあとにかく、そういう戦いをずっとしてきたわけ。いわゆる普通の『女の幸せ』なんてまったく縁がなかったわ。だけど、お兄さまの役に立ててるって思うだけで私は幸せだったのよ」

「……」

玲央菜は言葉を失う。
紫苑の覚悟が、自分が思っていたものよりも凄まじいものだったことに、驚きを隠しきれない。

子どもの頃から陰謀まみれの大人たちを相手に、彼女はたったひとりでひるむことなく戦ってきた。
その心の拠り所が、いつ会えるのかもわからない天馬の存在であったのだという。

雅人や紫苑の話を聞いて、大体のことはわかっているつもりだったが、紫苑自身の思いを聞いてしまうと、自分は何もわかっていなかったのではないか…玲央菜はそう思った。

「…? どうしたの?」

紫苑はふと玲央菜に尋ねる。
彼女の表情が、神妙なものを通り越して泣きそうになっているのを見て、不思議に思ったようだ。

「もともとブサイクな顔が、もっとブサイクになってるわよ」

「…ブサイクでごめんなさい。でも…ボク、なんか、わかってなかったなって思って」

「なにそれ?」

紫苑は小さく笑う。
だが、その声にはトゲがない。

紫苑は玲央菜から目を離し、窓から夜の森を見つつ話を続けた。

「そうね…初恋、だったのかもね。お兄さまは」

「…え?」

「初恋の人をいつまでも想い続けて、『私は義理の妹だ』…『義理の』とか強調しちゃって。ふふっ」

紫苑はそう言いつつ、また前へ視線を移す。
チラリと玲央菜を見た。

「今思えば、私も相当イタい女だったわね」

「そんなこと…ないと思います」

「いいえ、イタい女よ。本来の私から考えれば、あり得ないくらいのイタさだわ」

「そんなことないです」

「なんでアンタがムキになるのよ」

「だって…だって、なんか…初恋って、イタいとかイタくないとか、そういうんじゃないと思うんです」

「それはアンタの考え方でしょ。大丈夫、別にそのことを恥じているとかじゃないから」

紫苑はそう言って、優しく微笑んだ。
だが照れがあるのか、その笑顔を玲央菜に向けることはなかった。

それからしばらくして、マイクロバスは滑走路に到着した。
黒服や整備士たちがあわただしく準備をする中を、紫苑と玲央菜、そして世話をする黒服たちがチャーター機へと向かう。

来た時とはちがい、雪は降っていなかった。
黒というよりも、藍色を何度も塗り重ねたような夜空に、星がいくつも瞬いていた。

チャーター機へ乗り込んだ玲央菜たちは、自然と隣同士に座る。
無理やり連れてこられた当初より、ふたりの距離は縮まっていた。

やがてチャーター機は飛び立ち、玲央菜たちはアメリカの地をあとにする。

「…最初は、紫苑さんひどいと思ってたけど、今は…来てよかったと思います。アメリカ」

玲央菜は、小さくなっていく木々を見ながらそう言った。
対して紫苑は、あまり興味なさげに返す。

「そう、それはよかったわね」

その言葉があまりにそっけないので、玲央菜は目だけでちらりと紫苑を見た。
だが体勢が窓側にしっかり向いていたので、それだけでは紫苑の表情を見ることができない。

玲央菜は紫苑の方を向いて、じっとその顔を見ながら尋ねる。

「紫苑さんはどうでしたか?」

「…まあ、悪くはなかったんじゃない?」

「ちゃんと答えてくださいよ」

「そんな義理はないわ」

「あ、『義理の妹』だけに?」

「…ぶっ飛ばされたいのかしら」

「あっ、それはカンベンしてください。あはは」

「ふふっ」

玲央菜が笑い、紫苑も笑った。
暖房だけでなく、彼女たちを中心としたあたたかな雰囲気も、機内を優しくあたためていた。

それからしばらくして、玲央菜は眠ってしまった。
CAから毛布を受け取り、紫苑がそれを彼女にかけてやる。

自身のその行動に、ふと彼女は思った。

「なんか…妹ができたみたいね、これ」

「ぐぅ」

紫苑の言葉に、玲央菜はタイミングよく寝息で応える。
それに紫苑は思わず小さく笑い、人差し指でその頬をつついた。

「私の妹にしては、出来が悪すぎではあるけど…まあ、許しといてあげるわ」

「んむ、むぅ」

「ふふ、これおもしろいわね」

「んんん…」

ぷにぷにと頬をつつかれ、玲央菜は顔をしかめるが起きない。
紫苑はしばらく、飽きるまで彼女をつつき続けていた。

それから数時間後、チャーター機は日付変更線を越え、さらに太平洋を越えて日本へ帰ってきた。
そこからは車に乗り、空港からしばらく走って玲央菜はようやく、住良木の家に帰ることができた。

「ただいまかえりました!」

「おかえり、玲央菜ちゃん!」

「よく戻りました、柊 玲央菜」

ドアを開けると、天馬と榊が玲央菜を迎えた。
彼女がめいっぱいの笑顔を返すと、ふたりは安心した様子で互いを見た。

その後で、同行してきた紫苑を同時に見る。
紫苑は、天馬をまっすぐ見つめてこう言った。

「大事な話があるの、お兄さま」

「…わかった」

そして全員でリビングへと向かった。
席につくと、榊が紫苑に尋ねる。

「お食事はどういたしますか」

「いらないわ。飲み物だけ…そうね、紅茶を」

「かしこまりました」

「あっ、ボクやります」

玲央菜はそう言って立ち上がろうとする。
だが、榊がそれをそっと手で制した。

帰ってきたばかりの彼女を慮っての行動に、玲央菜も素直に従う。
その時に見せた照れ笑いのような笑顔に、榊も小さく微笑んでみせた。

「…あれ…?」

一方、天馬は不思議そうな顔で紫苑と玲央菜を見る。
ふたりの位置取りが、彼にとっては意外だった。

大きなソファのど真ん中に紫苑が座っている。
これはよくわかる。彼女らしくもある。

だがその隣に、玲央菜がちょこんと座っていた。
その様子に、彼はふたりに問う。

「キミたち、そんなに仲良かったっけ?」

「ちょっと、いろいろあったんです」

玲央菜が笑顔でそう答えると、紫苑は露骨に嫌そうな顔をした。

「別に何もないわ。勘違いしないでほしいわね」

「えぇ!? 何もなかったんですか、ボクたち」

「その言い方は少しおかしいわね? いたらない誤解を招くのも困るし、やめてくれる?」

「いたらない誤解って、どんな誤解ですか? うふふ」

「なんなのよ…突然ウザキャラになっちゃって…」

紫苑はそう言ってため息をついた。
ちょうどその頃、榊が紅茶を人数分持ってきた。

ソファに囲まれたテーブルにそれを置くと、キッチンへと退こうとする。
それを紫苑が止めた。

「待って、榊も聞いてちょうだい。大事なことだから」

「…かしこまりました」

榊は少しだけ不思議そうな顔をしたが、すぐに元の真面目な表情へと戻った。
天馬のそばに立ち、紫苑の言葉を待つ。

紫苑は、出された紅茶をそっと飲んだ。
口の中で味わい、飲み込み、鼻に抜ける香りを堪能する。

その後で、なぜか深呼吸をした。
天馬は思わず声をかけようとしたが、直後に見せた紫苑の真剣な表情を見て言葉を飲み込む。

紫苑は、じっと天馬を見た。
そしてついに口を開く。

「お兄さま」

「…なんだい」

「………」

紫苑の言葉は途切れた。
言おうとするのだが、言葉が口から出てこない。

彼女は一度、忌々しそうに首を横に振った。
それからもう一度深呼吸をして、天馬に話しかける。

「お兄さま、私…」

「……」

天馬は声を出さず、ただうなずきを返す。
自分が声を出すことで、紫苑の言葉を奪ってしまわないようにと彼は考えたようだ。

そんな彼の気持ちがわかるのか、紫苑はどうにか心を踏ん張らせて次の言葉を口にする。

「……私…!」

だが出てきたのは新たな言葉ではなかった。
そこから先へ、紫苑は進むことができない。

その時、隣にいた玲央菜が、彼女の手をそっと握った。
彼女はそれでハッとして、玲央菜の方を見る。

目と目があったふたりはうなずき合い、紫苑はもう一度天馬を見た。
だが、天馬を見た瞬間、紫苑の瞳から突然大粒の涙がこぼれ落ちた。

「…紫苑……?」

義妹のただならぬ様子に、天馬は思わず声を出す。
その心配げな顔を見た紫苑は、これまで見せていた真剣でこわばった表情を消し、優しく微笑んだ。

そして、当初は言おうと思っていなかったであろう言葉が、その艶やかな唇から紡がれる。

「お兄さまは…本当に優しくて、皇の本家の…しかも嫡子なのに全然気取らなくて…」

「………」

天馬は黙って聞いている。
紫苑は微笑んだまま、さらに言葉を紡いだ。

「お兄さまの代わりに本家に入る私を…いつかは誰かの操り人形になる運命だった私を、心から心配してくれた」

「……」

「私にとって、お兄さまは本当に、例えでもなんでもなく…王子さまだったわ。幼い頃、たった数日顔合わせをしただけ、とても短い時間だったけれど…」

「………」

「私が恋に落ちるには、充分な時間でした」

紫苑の瞳からは、あとからあとから涙があふれている。
それを拭うこともせずに、彼女は天馬に想いを打ち明けた。

「お兄さまとの時間があったから、私はがんばれました。持てるすべての能力を使って、本家の財政も盛り返すことができた…お兄さまのためにがんばるという気持ちがなかったら、とても大人たちとは戦えなかった」

「紫苑…」

「お兄さまのおかげで、私は操り人形になる運命を、自分で壊すことができたんです。あの時間があったから、私は今こうして無事に生きていられる…」

紫苑は少しだけうつむきかける。
自分の手を包んだ玲央菜の手を、強く握り込んでいる。

胸の奥のたかぶりが、彼女をふるわせる。
だがそれを上回る想いを動員して、言葉を続けた。

「お兄さま…本当に、たいせつな、たいせつな…お兄さま……私、紫苑は、お兄さまを心から愛しています」

「……うん…俺もそれは…」

「いいえ、お兄さま。同じなどではありませんわ。そんな残酷なこと、言わないでください」

紫苑は顔を上げ、絞り出すように言った。
その語気におされ、天馬は何も言えなくなる。

「………」

紫苑は、その姿を見て小さく苦笑した。
その頃には、涙の勢いも止まっていた。

彼女は、ここでついに決定的な言葉を天馬に告げる。

「お兄さま…私、結婚します」

「…え!」

「何度か話したでしょう? あの雅人と…私は結婚します」

「紫苑…」

天馬は何かを言おうとする。
それをわかっている紫苑は、彼が言う前にこう言った。

「大丈夫、変なしがらみとか脅されたりとか、そういうことじゃなくて…ちゃんとした関係だから」

「そ…そうなのか。でもまさか、お前が…雅人と結婚だなんて」

「私もね、まだそのつもりはなかったのよ」

紫苑は、ポケットからハンカチを取り出す。
それで涙を拭った後で、玲央菜を指差した。

「だけど、このポンコツ玲央菜が余計なことを言ってくれたおかげで、結婚が決まっちゃったわ」

「え、えぇ…?」

天馬は驚いて玲央菜を見る。
彼女は少し困ったように笑っていた。

紫苑はさらに続ける。

「詳しいことはまた話すけど…今回は結婚が決まったこと、決めたことを報告しに来たの。お兄さまにもちゃんと祝ってほしいから、覚悟はしておいてね?」

「覚悟っていうのはよくわかんないけど…う、うん、お祝いはさせてもらう…けどびっくりだな」

「ふふ、それも当然だと思うわ。そもそも私自身が驚いてるくらいだもの。だけど…」

紫苑は、玲央菜とつないだ手をまた強く握る。
そしてどこか晴れやかな顔で、天馬にこう言った。

「きっとこれでよかったのね。言ってから、そう思ったわ」

「…おめでとう、紫苑」

「ありがとう、お兄さま」

天馬と紫苑は、互いにそっと言葉を交わす。
この時、紫苑の瞳から、最後の涙が頬を伝って落ちていった。


>episode58へ続く
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2017-01-12 12:00:02

【本編】episode56 直球が呼ぶ想定外

テーマ:ボクのご主人さま:本編
episode56 直球が呼ぶ想定外


玲央菜は翌日まで待たなかった。
天馬との電話を切ってから約2時間後、紫苑は不機嫌な顔でリビングのソファに座っていた。

「…なんなのよ」

視界に入った黒服に、低めの声で尋ねる。
黒服はすぐさまこう返答した。

「玲央菜さまに、紫苑さまと雅人さまをお呼びするようご依頼を受けまして…」

「そんなことはわかってるのよ。今この家で私を呼びつけられるのは、雅人か玲央菜しかいないんだから」

紫苑はそう言って、暖炉前の丸テーブルを見る。

「私が訊いてるのは、玲央菜がなんで私をここに呼んだかってことよ。迎え酒も用意しないで」

「玲央菜さまから、紫苑さまにはこちらを出すように言われております」

黒服はそう言って、別の黒服に合図を出した。
トレイの上にコップを乗せた黒服が現れ、紫苑の前にそのコップを置く。

彼女がそれを見ると、湯気を放つ茶色の液体が入っていた。

「なによこれ?」

「ほうじ茶でございます。出来得る限り、熱い温度で提供させていただきました」

「…まあ、いただくわ」

場合によっては黒服を叱り飛ばすつもりだった紫苑だが、ほうじ茶は飲んでもいいと思ったらしい。
熱さに気をつけつつ、ゆっくりとそれを飲み始めた。

やがて、部屋にこもっていた雅人もリビングに出てくる。
彼は、紫苑の姿を見つけると小さく笑った。

「紫苑も呼び出されてたんだね。何飲んでるの?」

「ほうじ茶よ」

「また思いきり和風だね」

雅人はそう言うと、黒服に向かって「僕の分ももらえる?」と言った。
黒服は頭を下げ、すぐに彼の分のほうじ茶を用意する。

雅人が紫苑の隣に座るかどうか、というタイミングでそれは運ばれてきた。
暖炉の前で、紫苑たちはほうじ茶をしばらくすすっていた。

それから5分ほど経過する。

「…呼び出した本人は何してんのよ」

ほうじ茶を3分の1ほど飲んだ紫苑は、コップをテーブルに置いて黒服に尋ねる。
この時、ドタバタと足音を響かせて玲央菜がリビングにちょうどやってきた。

紫苑はすぐに振り向き、彼女に声をかける。

「アンタねえ、一体何のつもり…」

だが紫苑の言葉は、途中で止まってしまう。
そこには、制服姿の玲央菜が立っていた。

「玲央菜、アンタどうしてまだ制服…」

「お待たせしました! 服がなかなか乾かなくって」

玲央菜の元気な声が、紫苑の言葉にかぶさる。
家中があたたかいのと、何やらあわてていたせいか、彼女は汗をかいていた。

ただ、あわてている割にはすっきりとした表情をしていた。
かと思うと、紫苑たちに向かって大きく頭を下げる。

「ボク、これから帰ります。ありがとうございました!」

「…はぁ?」

突然の言葉に、紫苑は思わず身を乗り出す。
そしてその意味を理解すると、眉を鋭く釣り上げた。

「アンタ、なに勝手なこと言ってんの? ここの相続の返事、まだ聞かせてもらってないわよ」

「ここは、雅人さんがこれからも大事にしてください」

玲央菜は即答する。
同時に彼女の視線は、まっすぐ雅人へと向かった。

彼はその言葉に驚くが、そこは皇家の者、すぐに気を取り直して彼女に尋ねる。

「ここは相続しない、ということかな?」

「そうです」

「理由を教えてほしい」

「ここは、『ボクの場所』じゃないからです!」

玲央菜は明快に言い切った。
これまで、どこか流されるような態度を見せていた少女とは思えない言葉に、雅人はまたも驚く。

彼が驚いた顔を見つつ、玲央菜は詳しい理由を彼に語り始めた。

「ここは雅人さんが、桜おばさま…ボクにとってはおばあちゃん…と過ごしてきた大切な場所。だからやっぱり、雅人さんに大切にしてもらいたいんです」

「…そ、そうか…」

「それにボクは、ボクがここでずっとすごしていく姿を想像できません。その『想像できない感じ』が、『ボクの場所じゃないな』って感じた理由です。ここはきっと『雅人さんとおばあちゃんの場所』なんです」

「でも、僕は単純にここを君に譲ろうと思ったわけじゃないよ。今やこの場所は、何百億という利益を生む場所になっているんだ。それがあれば、君も…」

「それもなんだか、ピンとこないんです」

玲央菜はそう言って、苦笑してみせた。
頬を軽く指でかきながら続ける。

「ボクがこの歳で土地を持ってるとか、そういうのもなんか違うなって…ボクはボクだけ、何もそういうのを持ってないのがボクらしいのかなって、そう思ったんです」

玲央菜の言葉は堂々と、そして朗々と紡がれる。
そこに迷いはまったく存在しない。

だが雅人は、それを受け入れることを良しとしなかった。

「…うーん、気持ちはわかるんだけど、もう君が相続するものとして動いてるんだよね。知っての通りここはアメリカだし、君は日本人で日本に住んでいる。アメリカの土地を君に相続させるには、それなりの手続きが必要なんだ」

雅人の目からは、これまで玲央菜が見た優しい感じが消えている。
そこには非情なビジネスマンの目があった。

「それなりの手続き、ということは…いろんな人が動いてていろんなお金も動いてる。この土地が産出する何百億もの利益を見込んで、いろいろ計画している人もいる」

「はい」

「今、君がここで相続を放棄してしまうと、そういう諸々で僕の方に損害が生まれてしまうんだけど、そのあたりはどう考えてるのかな」

「……」

雅人の言葉に、玲央菜はうつむく。
彼の隣にいた紫苑は、一度ちらりと彼を見たが、やがて玲央菜の方を見た。

玲央菜は数秒だけ、うつむいていた。
そして次に顔を上げた時には、やはり迷いはそこになかった。

「じゃあ、その損害を全部ボクにください」

「…えっ?」

玲央菜の言葉に、雅人は思わず目を見開く。
紫苑も同時に驚いた。

だが雅人はまた思い直し、少し厳しい声で玲央菜にこう告げる。

「損害をくれ、とは…君が放棄することで生まれる損害を、君が払うということかな?」

「はい」

「どれだけの金額になるか、わかって言ってるのかい? 何の財産もない君に、払える額じゃないよ」

「とにかく、はっきりした数字を出してください。あとはそれから考えます」

「……はははっ」

玲央菜の淀みない口調に、雅人は思わず笑った。
彼は紫苑を見て、笑顔のまま続ける。

「こりゃダメだ、紫苑。僕の負けだ」

「負け、って…雅人、アンタ簡単にあきらめてんじゃないわよ。数字出せって言ってるんだから、数字出してやればいいじゃない。もちろん、お兄さまには手伝わせないわ」

「いや、そういうんじゃない…」

雅人の目が玲央菜に向く。
そこにはもう、非情なものはなかった。

「彼女は、天馬の助けがあると見込んで、僕に数字を出せって言ったんじゃない。例えどんな数字を出したとしても、彼女は自分の意志を貫く…そういう決意を感じたんだ」

「……」

「こういう強さは久しぶりに見たよ。今いる状況から考え始めるんじゃなく、まず自分の意志から考え始める強さ…例え借金のカタに殺されることがあっても、彼女は自分の意志を通したと笑って死ぬだろう」

「そんなの…今そう思ってるだけかもしれないでしょ」

紫苑は小さくつぶやく。
その言葉を聞いて、雅人は彼女の方を見た。

「そうかもしれない。責め続ければ簡単に折れるような強さかもしれない。だけど、そんな意味のないことを紫苑がやろうとしているとは…僕には思えないんだけど」

「……あーもうわかったわかった!」

紫苑が半ばいらだちながら、吐き捨てるように言う。
座っていられなくなったのか、ソファから立ち上がった。

玲央菜の前に移動し、真正面から彼女を見る。

「せっかくお膳立てしてやったのに…なんなの? アンタは人の好意を蹴り飛ばすのが楽しいわけ?」

「…え、好意?」

玲央菜は首をかしげる。
これまでのことが、どういう意味で紫苑からの好意なのか、彼女にはわからなかった。

そんな彼女に、紫苑は両手を腰に当てながら言う。

「不本意ではあるけど、アンタがお兄さまを最終的に助けた…それは事実。だから私は、その報酬を用意してやったのよ! アンタの功績から考えると、何百億でも安いくらいだけど!」

「紫苑さん…」

玲央菜は、ようやく納得した顔になった。
つまり今回のことは、天馬を苦しめ続けてきた悪魔を、玲央菜が倒したことへの「紫苑からの報酬」であったらしい。

だが、なぜ紫苑本人の持ち物ではなく、雅人の財産であるこの場所を選んだのか?
そこが玲央菜にはわからなかった。

「でも、どうして紫苑さんから『この場所』を、ボクに渡そうとしたんですか? ここは雅人さんのものなのに」

「アンタねぇ、私がそのままポンと報酬を渡したら、素直に受け取ったわけ?」

「……あー…」

そう言われて、玲央菜は苦笑いする。
確かに、紫苑から直接、とてつもない褒美を渡されても受け取る自信がなかった。

紫苑は、なぜかいまいましげに玲央菜に言う。

「苦しんでいたお兄さまを助けたのよ? ずっと、ずっと、この私にも内緒にしなきゃって思うくらい、そのくらい苦しめ続けてきた悪魔を倒したのよ…! ちょっとした褒美ですませるなんて、この私のプライドが許さない」

「…あ、あはは…」

「だけどアンタは、貧乏人特有の『身に余る光栄を素直に受け取れない症候群』の患者っぽいから、こっちはいろいろ考えたのよ…アンタに関係するものを渡すってことなら、アンタももしかしたら受け取るんじゃないかってね」

「ボクに関係するもの…それで、ここに住んでいたおばあちゃんのことを?」

「ええそうよ。雅人に聞いたわ…他にも探してみたけど、もうここしかなかったのよ」

「でも、ここは雅人さんの場所じゃないですか」

「そんなのわかってるわよ! だから…私は、下げたくもない頭を…!」

「……!」

今度は玲央菜が驚く番だった。
紫苑は言葉を途中で切ってしまったが、その続きはたやすく予測できる。

そしてその予測は、およそ紫苑のイメージに合うものではなかった。

「……」

玲央菜は、一度下を見る。
視界に入った紫苑の手が、震えているのがわかる。

彼女はそっと近づき、紫苑の右手を両手で包んだ。
ハッとした表情で自分を見る紫苑に、玲央菜は笑顔で言う。

「紫苑さん、ありがと」

「……くっ」

紫苑は玲央菜の目を見ていられず、顔をそらす。
その後で、小さく口をとがらせながらこう言った。

「別に…アンタに礼を言われたくてやったわけじゃないわよ……」

「わかってます」

玲央菜は、少しだけ強く紫苑の右手を握った。
そしてそっとまぶたを閉じ、ひとつひとつの言葉に思いを込めて、彼女に言った。

「だから、ありがとう…です」

「……」

ふたりは、しばらくそのままじっとしていた。
手を取り合って寄り添うふたりを見て、雅人はにこにこと微笑んでいた。

それから数分後、紫苑は突然、乱暴に手を振りほどいた。
なぜか怒りながらソファへ戻ると、荒々しい口調で玲央菜に言う。

「アンタの気持ちはよーくわかったわ! じゃあさっさと帰りなさいよ!」

「ちょ、紫苑さん…テンションおかしくないですか」

「うるさい! 帰りたいんでしょ? だったら帰ればいいじゃない!」

「…たはは」

玲央菜は困った顔で頭をかく。
しかしすぐに真面目な顔になった。

「紫苑さん」

「なによ!」

「ボク…正直、今回こういう話になるとは思ってなかったんです。帰るってことを伝えるのと、もうひとつ言いたいことがあって、それを言おうと思っておふたりを呼んだんです」

「この期に及んで、まだ私に何か文句でもあるの? いいじゃない、聞いてやるわ」

「文句ってわけじゃないんですけど…あ」

玲央菜は、話している途中に何か思いついたようだ。
紫苑たちが座っているソファに近づき、そばにしゃがみ込んだ。

「そうだ紫苑さん、ボクにご褒美くれるんですよね?」

「今さらこの家欲しいとか言うんじゃないでしょうね」

「それはないです。そうじゃなくて、ボクにハッキリした答えをください」

「…? なにそれ?」

「それが、もうひとつ言いたいこと、です」

玲央菜はそう言って笑顔を見せた。
だが、紫苑にも雅人にも、彼女が何を言いたいのかがわからない。

そんなふたりに、玲央菜は笑顔のままこう問うた。

「おふたりは、結婚したいんじゃないんですか?」

「…は?」

その言葉に、紫苑の思考が停止する。

「……えっ?」

思わぬ問いに、雅人の頬をタラリと汗が流れる。
ふたりとも体は固まり、ピクリとも反応しなくなった。

玲央菜はしかしそれに構わず、当初言うつもりだった『もうひとつのこと』をふたりに言う。

「紫苑さんが酔いつぶれた時、聞いたんです。『結婚するの…』って。最初はただの寝言かなって思ってたんですけど、ここに来て紫苑さんはすごくリラックスしてたし、雅人さんも紫苑さんのこといろいろ知ってるふうでした」

「……」

「………」

ふたりはまだ固まっている。
玲央菜の言葉が続いていく。

「ボク、そういうのうといからすぐにはわからなかったけど、もしかしたらふたりは一緒になりたいのかなってようやく気づいて…で、今回のことって実はそのことをボクになんとなく見せるための…無理やりな拉致だったんじゃないかって思ったんです」

「……ばっ…」

ふたりのうち、紫苑が先に我に返った。
彼女は怒った表情のまま、玲央菜に言い返す。

「ばっかじゃないの? そんなことのために、こんな大それたことするわけないでしょ! 大体、なんでお兄さまや榊にまで了解とって、アンタをこんなとこにまで連れてくる必要があんのよ!」

「ですよね…だから、ちょっと無理やりかなー? とは思ってたんです」

紫苑の指摘に、玲央菜は素直に「てへへ」と頭をかいた。
この頃になると、ようやく雅人も我に返る。

だが彼は何も言わず、玲央菜の言葉の続きを待った。
苦笑したままの玲央菜は、さらにこう続けた。

「無理やりかなとは思ってたんですけど、こう…ここにずっといるのもちがうなって思って。だったらもうバシッと覚悟を決めて、帰りたいから帰るし、結婚するのかしないのか訊きたいから訊く! って決めました。そしたらまさか、これが紫苑さんからのご褒美って話になってびっくりしたんです」

「……くっ…」

「でもボクは、やっぱりこの家は雅人さんに大事にしてほしいって思うし、紫苑さんからご褒美もらえるんなら、ハッキリした答えがほしいなって思って」

「…ハッキリした答え、って…アンタ、まさかそれ聞いてすぐに、お兄さまに猛アタックするつもりじゃないでしょうね!?」

「あはは、やだなあ紫苑さん。仮にボクがアタックしたとして、天馬さまがそれに応えてくれると思います?」

「…それは…わかんないでしょ。アンタ若いし、体もそれなりに発育してるし、ブサイクだけど見れないわけじゃないし」

「それって、紫苑さんのお墨付きもらった、って思っていいんですか? ボク」

「そんなわけないでしょなに言ってんの!? アンタごときにこの私が、お墨付きなんて与えるわけがないでしょう!」

「じゃあ、そんなボクが天馬さまにアタックしたって、きっと天馬さまはボクに興味なんて持たないと思います」

「…くっ、私に対してへりくだってるはずなのに、なんか腹が立つわね…慇懃無礼っていうのともちょっとちがうし…」

紫苑はギリギリと歯噛みする。
対する玲央菜はいつも通り、特に紫苑を言い負かした余裕があるわけでもなく、普段通りの口調だった。

そしてそんな口調で、紫苑にさらりとこんなことを言う。

「ボクは、確かに天馬さまの匂いが好きです」

「……!」

「だけど、だからって天馬さま自身が好きなのかどうか、そういうのはよくわかんないんです」

「………」

「ハッキリさせなきゃいけないのかな、その必要はないのかな…なんて、考え込んだ時もありますけど、今はあまり深く考えてません。恋愛の好きっていうより、人間として好きなのかなあ、とは思ってますけどね」

「…じゃあ、私が…その……雅人と結婚すると決めたとしても、いきなりお兄さまに猛アタックするとか、そういうことはないのね?」

「ないです。先のことはわかりませんけど…なんとなく、ボクと天馬さまはずっとこのまま、そう思う時もあったりします」

「……はあ…」

紫苑はため息をついた。
彼女にしては珍しく、下を向いている。

しばらくそのまま考え込んでいるようだったが、やがて顔を上げた。
一度雅人を見た後で、もう一度ため息をつく。

「…はあ……まさかこんなことになるとはね…」

かぶりを振り、やがて玲央菜を見た。
紫苑は芯の通った声で言う。

「わかったわ、ハッキリさせましょう。私は雅人と結婚するわ」

「紫苑…!」

彼女の言葉に、雅人は思わず声を出した。
瞳に涙をためる彼を見て、彼女も何か感じるところがあるのか、握り込んだ右手を胸の中央に押し当てる。

そしてすぐに、玲央菜にこう言った。

「これでいいんでしょ! もう、アンタには何にもやらないからね!」

その口調はなぜか忌々しげだった。
玲央菜はそんな彼女に、そっと笑顔でうなずいた。


>episode57へ続く
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2017-01-09 12:00:02

【本編】episode55 心決めるバスローブ

テーマ:ボクのご主人さま:本編
episode55 心決めるバスローブ


「…んあ」

玲央菜はベッドで目を覚ました。
体を起こし、もしかしたら住良木家かと辺りを見回したが、そんなことはなかった。

「あ…」

丸太の家の個室で彼女は寝ていた。
紫苑が酔って寝てしまった後で、黒服のひとりに案内された部屋だった。

リビングにあるものとはさすがに大きさがちがうが、この部屋にも暖炉がある。
そこから発せられる熱が気持ちよくて、玲央菜は何度か寝ては起きるということを繰り返していた。

「……」

ベッドから起き出し、立ち上がって体を伸ばす。
髪に手をやると、寝る前よりも広がっているのがわかる。

ぼんやりした顔で暖炉の炎を見ていたが、やがていくつかあるドアのうちのひとつを開けて中に入った。
そこはバスルームだった。

「ふわ…」

あくびをしながら脱衣所に入ると、タオル地のバスローブがハンガーにかけられているのが見える。
それは、少なくとも着替えはあるということでもあった。

「やっと制服脱げる…ふわああ」

玲央菜はそう言って、眠気に任せて雑に制服と下着を脱ぐ。
何も考えずに浴室に入り、備え付けのシャワーから湯を出した。

浴室にもすでに暖房が入っているので、裸で入っても寒さを感じることはない。
だが寝起きの玲央菜はそれに気づくことなく、少しぬるめの湯をぼんやりと浴びていた。

「……」

丸太の家では、やることがなかった。
雅人や紫苑の話を聞くという大事な用件はあったが、それも本人たちがいなければ始まらない。

加えて、その話というのも結局は玲央菜に投げられた時点で終わっている。

話を進めるにしても、ふたりがこの場にいる必要はない。
彼女が決断するかどうか、という話だからだ。

それに、彼女が考えている『やること』とは、そういうことではなかった。

「………」

湯が入っていないバスタブを見る。
卵型のそれは白く輝き、一片のくすみもない。

シャワーで濡れた指を押し当ててみると、キュッと音がした。
新品なのか、はたまた極限まで磨き上げられているのかはわからないが、とにかく掃除の余地はなかった。

「すっご」

見てみると、バスタブだけではなく壁も床も、シャワーのヘッドやホース、ハンドルレバーに至るまですべてがピカピカだった。

あの気位の高い紫苑が滞在するような家なのだから、掃除が行き届いているのは当たり前かとも考えた。

ただ、完璧に磨き上げられたそれらは、そういう前提があるとないとに関わらず、単純に美しいと玲央菜は思った。

「…榊さんもすごいけど、ここ掃除した人もすごいな…すごい人って、いっぱいいるんだな」

いつの間にか、そんな言葉が口をついて出ていた。
そのみずみずしい胸の奥で、何かがうずき始めている。

彼女自身もそれを感じているし、正体もわかっている。
だが、どうにも動き出そうという気にはなれない。

「……はあ」

息をつき、彼女はゆっくりと頭を横に振った。
その後でバスタブに湯を入れ始め、その間ずっとぬるめのシャワーを浴びる。

湯が貯まると、シャワーを止めてバスタブに入った。
少しだけ温度が高く、あたたかさが肌の中へ浸透してくるのを感じる。

暖炉のおかげで体はあたたまっていると思っていた彼女だが、風呂の湯のあたたかさはまた別物だと思った。

えり足が濡れるのもかまわず、口元まで湯につかる。
その状態で口から息を吐くと、小さな気泡が顔の前に浮かび上がった。

気泡は、破裂する時に湯を顔に飛ばす。
それが何度か目元に当たり、彼女は無意識にまばたきをしていた。

と、湯船の底で彼女の体を支えていた尻が、前にすべる。

「!」

わざと沈めていた顔が、いきなり湯の中に引きずり込まれる形になった。
玲央菜は慌てて両手をバスタブの縁に伸ばし、全力で体を持ち上げる。

「ぷぁっ」

浮力のおかげですぐに体は持ち上がり、呼吸も再開させることができた。
無事に危機を脱したとわかると、彼女は安心して息を深く吐いた。

「はー…びっくりした」

そう言いながら、両手を一度湯につけてから顔を拭う。
そしてもう一度息をついた後で、髪がすべて地肌や顔にぴったりくっついているのに気づいた。

髪を手で後ろへなでつけ、今度は両手をバスタブのふちに置いて天井を見る。
両手は、今度は尻がすべっても体が沈まないストッパーの役割を果たしていた。

「…ここじゃ、お掃除する必要…ないよねー……」

その声は、バスルームに軽く反響する。
自分の声を聞いた玲央菜は、小さく苦笑して「そだね」と、自分の言葉に応答するのだった。

それからしばらくして、玲央菜はバスルームから出た。
脱衣所に備え付けられていたバスタオルで体を拭き、バスローブに着替える。

「……」

脱衣所にはドライヤーもあったが、玲央菜はそれを使わずにドアを開けて部屋に戻った。

小さな暖炉のそばに置かれた椅子に座り、火が放つ熱が自身の輪郭をはっきりさせるような感覚に身を任せる。

5分ほど彼女はそうしていたが、やがてゆっくりとベッドに向かった。
横たわるのではなくそばに座り、ベッドの上に転がっていたスマートフォンを手に取る。

画面を見ると、時計は昼の12時を指していた。
だがこれは日本時間であり、玲央菜が見た窓の外は暗い。

「んー…」

マットレスの上に両手を置いてスマートフォンを仰ぎ見る。
かと思うと、手を下ろして画面を見下ろす格好にした。

彼女はスマートフォンを操作し、アドレス帳から電話をかける。
操作を終えて耳に当てると、呼び出し音が聞こえてきた。

それが5回ほど続いただろうか。
やがて相手は、彼女からの発信に応答した。

”もしもし?”

「もしもし…今、電話いいですか?」

”ああ、かまわないよ”

電話の相手は天馬だった。
聞き慣れた声に、玲央菜は自然と表情がゆるむのを感じる。

だが、自分が電話をかけた時間を思い出して、彼女は慌てて彼にこう言った。

「あ、すいません…お昼どき、でしたよね?」

”そうだけど、今朝は起きるのが遅くてね。ブランチがさっき終わったところなんだ”

「え? 起きるの遅いって珍しくないですか」

天馬は、玲央菜が学校に行く時には、すでにリビングのテーブルで席についている。
それは学校が休みの日でも同じで、少なくとも玲央菜には天馬が寝坊したという記憶がなかった。

「…あ」

玲央菜はここで気づく。
天馬は自分に気をつかわせないために、さらりと嘘をついたのではないかと。

だがそれを追及する前に、天馬の方が話しかけてきた。

”それより、どうかしたのかい? また紫苑にいじめられたかな?”

「え? あ、いや…そういうことはないんですけど」

話を変えられた上、それに返答してしまったので、ふたりの間で話題はそちらに移ってしまう。
玲央菜もわざわざ天馬の心づかいを暴き立てるつもりなどないので、もうそれには触れなかった。

そのかわりというわけでもないのだが、彼に疑問をぶつけてみる。

「あの…天馬さま、今回のことなんですけど…紫苑さんが、天馬さまも了解済みだって」

”了解…まあ、せざるを得ないっていうか。まさか実際に連れ去るとは思わなかったけどね…そっちで不自由はないかい?”

「あ、はい。よくしてもらってます、けど…」

”けど?”

「……」

玲央菜は、ここで紫苑が酔いつぶれた時に言った言葉を思い出す。
それを今ここで口にしようかどうか、迷った。

”玲央菜ちゃん?”

「え? あ、あの…雅人さんって、どんな人なんですか?」

天馬に催促され、あせった玲央菜は思ってもいないことを口にする。
だが彼はそれに気づかず、問われたことに素直に返答した。

”雅人? 俺はよく知らないけど、悪いヤツじゃないって聞いてるよ。紫苑から”

「あ、紫苑さん情報しか知らない感じですか」

”うん。俺は小さい頃から榊とあっちこっち転々としてたし、雅人は小さい頃ずっと桜おばさまと今キミがいる場所で過ごしてたし、会う機会がそもそもなかったんだよ”

「ああ、なるほど…」

”まあ、それでなくても俺が自分から会いに行く相手じゃないかな…彼の父親は俺の実家を目の敵にしていたみたいだし、その後紫苑が彼の家を叩きつぶしてしまったし。ちょっと気が引ける部分もあるんだよ”

どうやら天馬も、自身に悪魔がとりついた本当の事情を知っているようだ。
だがそれを暴いたのは紫苑であり、知っていて当然だと玲央菜は納得した。

”…ん? 雅人から何か言われたのかい?”

「い、いえ! シチューごちそうになったり、ハニーミルクいただいたり、今もとてもゆっくりさせてもらってて」

”ああ、シチューね。紫苑はもともとこれって好物がなかったんだけど、いつからかシチューがとても好きになったって聞いたなあ”

「そうなんですか?」

”うん。これまでは食事のことなんて考えてられないほどの激務でさ。ほら、俺の実家を立て直してくれたのは紫苑だから…”

「あ、はい。雅人さんから聞きました」

”ああ、聞いたんだ? そうなんだよ。だから何が好きかって俺が訊いても『わからない』って言うばっかりでね。俺が作ったものならなんでも、とかそういうことは言ってたけど”

「紫苑さんらしいですね」

”…あれ、でも…”

天馬はふと、そう言ったきり黙り込んだ。
玲央菜が問いかけると、彼は彼女に謝ってからこう続ける。

”ああ、ごめんね。そういえばここ最近は、あんまりそういうこと言わなくなった気がするな”

「そういうこと、っていうのは…天馬さまが作ったものならなんでもいいとか、『そういうこと』ですか?」

”うん。今までは気にならなかったんだけど、玲央菜ちゃんとこうして話してみて、なんか急に気になった”

「…もっ……」

玲央菜は、「もしかして」と言いそうになった自分の口を無理やり閉じた。
天馬はその声を不思議に思い、彼女に尋ねる。

”もっ? って、どした?”

「あ、いえ、その…えっと」

玲央菜は慌てて言い訳を探す。
その目が暖炉の火に留まり、彼女はすかさずこう言った。

「あ、あくびが出そうになっちゃって。無理にガマンしたら変な声が出ちゃいました。あはは」

”そっか、そっちは今ごろ夜だもんね…でもまだ寝るには早くない? 8時くらいだと思うけど”

「暖炉があったかくて、気がついたら何度でもうとうとしちゃって。えへへ」

”暖炉かー、趣があっていいよね。冬の間はこっちにも置きたいけど、排気の関係上なあ…榊がなんていうかな”

「あ、別におうちに暖炉がほしいってことじゃなくて。ただあったかいな~って」

”そういうことか。そっちは寒いらしいもんね、風邪には気をつけてね”

「はい。それじゃ…いきなり電話してごめんなさい。ボクもう寝ますね」

”もういいのかい? 気にせずいつでもかけておいで。それじゃ”

「はい。おやすみなさーい」

”おやすみ”

天馬が電話を切るのを待って、玲央菜は通話終了のボタンを押した。
押した後で、マットレスにぐったりと突っ伏した。

「あっぶな…」

彼女は、『もしかして』と言いそうになった自分を止められてよかったと思った。
今の時点で、言ってはいけない言葉だと思った。

もし言ってしまえば、天馬は玲央菜が何かを知っているのだと考えるだろう。
それに彼女はどう答えればいいのか。

「まさか、紫苑さんが結婚するつもりだから…なんて言えないよ」

天馬は何も知らないようだった。
だとすれば、紫苑の寝言について玲央菜が彼に何かを言うべきではない。

彼女はそう思っていた。
だからこそあの時、必死になって自分を止めた。

だがそもそも、あの寝言が気になっていたからこそ、『もしかして』と言いそうになってしまったというのもある。

「…うーん……」

突っ伏したまま考える玲央菜の脳裏に、紫苑の言葉がまたひとつ蘇ってきた。


”譲ってやるわけじゃないわよ、勘違いしないでよね!”


この言葉を皮切りに、紫苑が言った言葉がどんどん蘇ってきた。
そしてそのどれもが、「結婚」という言葉につながってくるような気がした。

結婚が正解だとすれば、紫苑は一体誰と結婚するつもりなのか。
だがもうそれを問う必要すらない。

天馬でないことはもはや明白なのだ。
義理であるとはいえ、妹である紫苑と兄である天馬の結婚が、皇家の中で認められるわけがない。

ならば誰が相手なのか?

「…やっぱり、あの人…だよね」

この家にやってきてからの、紫苑のくつろぎっぷりを思い返す。
これまで見たこともない紫苑であったし、同日のチャーター機での彼女の様子からも考えられない変わりようだった。

チャーター機とこの家の一番大きなちがいといえば、雅人がいるかどうかである。

「紫苑さんが付き合う男の人、ってイメージじゃないけど…でも男と女ってわかんないっていうし…」

紫苑は、『気の強い美女』をそのまま体現したような女性である。
対する雅人は、決して容姿が素晴らしいわけでも、紫苑よりもさらに利発というわけでもない。

ふたりを並べた時、どうにも一緒にデートしている感じがしないのだ。
だがそう思っているのは玲央菜だけで、当人同士は案外何も気にしていないのかもしれない。

「……まさか…」

ここで玲央菜はふと、何かに気づいた。

やはり、今回のことはおかしいと彼女は確信した。
雅人が湖とこの家を玲央菜に譲るために無理やり玲央菜をここまで連れてきた、というのは無理があると思った。

「…なんていうか、ちょっとやっぱり…はっきりさせよう」

そう言って、玲央菜は突っ伏していた顔を上げる。
そして立ち上がり、バスローブ姿で部屋の電話機に近づいていった。

受話器を上げ、内線電話をかける。

「着替えありますか? …はい、はい」

電話の向こうの黒服に尋ね、何度かうなずいた。
やがて彼女は電話を切り、暖炉の方へ向き直る。

「…よし」

彼女の心は決まった。
そのころには、濡れた髪も乾き始めていた。


>episode56へ続く
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