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2016-07-25 12:00:02

【本編】episode9 男の子と勇敢な執事

テーマ:ボクのご主人さま:本編
episode9 男の子と勇敢な執事


天馬の話から、数時間がたった。
結局、玲央菜が混乱した時点で、一度話は打ち切られた。

今日は家の掃除も免除となり、彼女はリビングのテーブル席に座っている。
そのはす向かいでは、天馬がホットコーヒーを飲んでいた。

「……」

玲央菜は、まだ考えている。

新月の夜だというあの夜、自分は『悪魔のような姿』になった天馬と遭遇した。
それについての話を、数時間前にされた。

しかしその前に、自分は猛毒を吸ってしまったのだという。
それはあの時に風呂の湯船を満たしていた薬液であり、天馬の体を元に戻すために使われるものだったようだ。

彼女ももう、頭では理解している。
『そういうこと』なのだと。

この世界には、考える前にとりあえず受け入れなければしょうがないこともあると、なんとなく気づき始めてはいる。

頭では理解できている実感があるし、本来ならもっと別のことも訊かなければならないのではないか、とも思っている。

しかし、心が現状を認めることを拒否している。
天馬の体質にしても、自分が3日も倒れていたということにしても、なぜかどこかで認められないのだ。

「…どうしたの」

そんな彼女を見かねたのか、天馬が声をかけてくる。
玲央菜はすぐに「いえ…」と言葉を濁したが、一度唇を噛んでから彼にこう言った。

「さっきの話…続き、させてもらっていいですか」

「…ああ、ちょっと待ってくれ」

天馬はそう言って、トイレがある方向を見た。
ちょうどそれに合わせるかのように、榊がやってくる。

彼がそばに来てから、天馬は玲央菜にこう言った。

「大事なことだから、榊も入れて話をしたいんだ」

「は、はあ…」

玲央菜としては、掃除の厳しい師匠でもある榊がいない方が、どちらかといえばリラックスして話ができそうな気がしている。

だが、当の天馬が榊を同席させたいというのであれば、特に断る理由も存在しない。
なぜ榊を同席させたくないのか、合理的な理由がなかった。

「それで、玲央菜ちゃんは何を知りたいんだい?」

天馬は、穏やかな声で尋ねてくる。
彼は、この話題に関してだけ玲央菜を名前で呼んだ。

彼女はそれが気恥ずかしかったが、今はそのことについて話をするつもりはない。
あの夜について尋ねることができる機会は、もうあまりないような気もしていたからだ。

「そもそも…の話なんですけど」

「うん」

「新月とか満月になったら悪魔になる…って、なんなんですか?」

「ああ、そりゃ確かにそもそもの話だね」

天馬は微笑む。
彼は榊に合図をして、何かを持ってきてもらった。

それは名刺入れだった。
天馬は自分の名刺を取り出し、テーブルの上に置く。


『住良木商事 代表取締役  住良木 天馬』


「す…み? りょうぼく?」

「いや、これで『すめらぎ』と読むんだ。住良木商事というのは、まあこのマンションの管理会社…っていう名目だね」

「はあ…」

「気にしてほしいのは、その『すめらぎ』という音さ」

「音?」

「うん、要するに読み方だね…実はこの字、完全な当て字でさ。本当の名字はこっちなんだ」

天馬はそう言うと、自分の名刺をひっくり返した。
そしてテーブルに転がっていたボールペンを手に取り、真ん中に一文字「皇」と書く。

それを見た玲央菜は、こうつぶやいた。

「皇帝の、皇…」

「そう。この一文字で『すめらぎ』と読む。俺の実家はとんでもない金持ちで、世界的な大企業の裏側には必ず親戚がひとりいる、ってくらいなんだ」

「へ、へぇ…」

玲央菜は、その話に若干引いた。
正直なところ、天馬の体質よりもそっちの方がとんでもなく思えた。

若くしてマンション1棟を持っていること自体とても裕福な話で、玲央菜にとっては雲の上とも思える話だったのに、それと比較にならないほど規模の大きな話をされても、もはや理解などできようはずもない。

ただ、天馬はそれを茶化すこともなくこう続けた。

「とんでもない金持ちってことはさ、とんでもない遊びもしたがるんだ…何しろ、普通の人にはできないことができる」

「ま、まあ…それはそうだろうと思います、けど」

「で、ここからが俺の体質に関わってくるんだが…親戚のひとりがね、あるものを買ったんだ」

「…あるもの?」

玲央菜の目がくりっと天馬を見つめる。
実家の話に、少しぼんやりしかけていた視界が、くっきりはっきりとしたものへ戻る。

いよいよ核心に触れるのだと思い、自然と意識を集中させていた。
そんな彼女に天馬は、少しだけ芝居がかった言い方をする。

「そう、あるもの…それはなんと、月から採ってきたという『月の石』!」

「月の…石?」

「そうさ。博物館には流れなかった、いわくつきの月の石。それを、大枚はたいて買ったんだよ…その値段は、2兆円とも3兆円ともウワサされたんだ」

「2兆円…!?」

「とはいっても、ウワサしてたのは俺の親戚の間だけだから、世間にもれることはなかったけどね」

「な、なんでそんな高いの買ったんですか? すごい価値があるから…とか?」

「もちろん価値はある。月に行かないと採れないものだし、希少価値は折り紙つきさ。だけどそれだけじゃ、兆ってお金は動かない」

「じゃあ、一体どうして…」

玲央菜がそう言った時、そばに桃色の飲み物が運ばれてきた。
いつの間にか榊が持ってきてくれたらしい。

「…あ、いただきます」

「どうぞ」

玲央菜は、ストローでグラスに入った桃色の飲み物を飲む。
それはアイスピーチティーであり、甘い香りと風味が華やかで、しかし後味はほんのりとした渋みで引き締まっていた。

「わ、すごいおいしい…!」

「いい桃が入りましたものでな」

榊は表情を変えずにそう言った。
そしてすぐに、天馬に頭を下げる。

「…天馬さま、お話の腰を折ってしまい、申し訳ありません」

「ああ、構わないよ…で、俺には?」

「ございません」

「うそーん」

天馬は、榊に向かって口をとがらせる。
だがその仕草はおどけていて、本気の文句からはかけ離れていた。

彼はその後、一瞬だけ榊に苦笑してみせた。
だがアイスピーチティーを飲んでいた玲央菜は、それに気づかない。

やがて、天馬は話の続きを語り始めた。

「…親戚がとてつもない金を出して買った月の石…それには、生命体の痕跡があると言われていたんだ。その親戚はIT関係の企業を担当していたけど、大学じゃ遺伝子とか研究してた…その時の情熱が蘇っちゃったんだろうな」

「……」

玲央菜は、うなずきながらピーチティーを飲んでいる。

「資金が豊富にあれば、よっぽど悪どい研究じゃなきゃ人は集まる。その月の石はあらゆる研究をされたらしいよ。薬品から放射線からどんどんぶっこまれて、本当に生命体の痕跡だったのか、だとすればどんな生命体だったのか…だんだんといろんなことがわかってきた」

「…! あ」

玲央菜は、ここで何かに気づいた。
しかし天馬は、そんな彼女に「しぃーっ」と沈黙を促す。

「……」

彼女もうなずき、またピーチティーを飲む。
そして天馬の話はクライマックスへ近づいた。

「…そんなある日だ。ついに研究はひとつの大きな発見をすることになる…月の石から、本当に生命体が現れたんだ。だがそれは、誰も予想しない姿をしてた…」

「……」

「背中からはコウモリのような翼を生やし、顔は鬼のように恐ろしく、爪は魔女のように長いのにその体はどんな男よりも頑強…その姿はまさに悪魔だった」

「…やっぱり」

「しぃーっ」

「…すいません」

思わずつぶやいた玲央菜は、天馬に指摘されて苦笑しつつ謝る。
そしてまたストローをくわえ、話の続きを待った。

それはもはや、天馬の身の上話を聞くというよりも、何かの映画のあらすじを聞いているような風情だった。

「…研究施設は血の海になった。悪魔が暴れまわったんだ。これまで研究でやってきたこと、それは悪魔にとって苦痛でしかなかった。悪魔は自分が閉じ込められていた部屋を飛び出し、施設中で人を殺しまくった」

「……」

玲央菜の、ピーチティーを吸う力がなくなる。
ストローの中を、液体がゆっくりと落ちていくのが透けて見える。

「そんな中、偶然ひとりの男の子が、この研究施設に呼ばれていた。その男の子は、親戚のおじさんがいろいろ楽しい話をしてくれるので、研究に少し興味を持っていた。それで呼んでもらえたんだが、その呼んでもらった当日に痛ましい事故が起きた…そして男の子も悪魔に襲われた」

「……」

「男の子には、勇敢な執事がいた」

「…!」

玲央菜は、思わず榊を見た。
榊は後ろを向いていた。

反応がわからないので、玲央菜は仕方なく天馬に視線を戻した。

「彼は男の子を命がけで守った。しかし悪魔は強く、彼も深いキズを負わされた。もうダメだ、と思った時…悪魔は突然苦しみだした」

「…え?」

「悪魔はこれまで好き勝手に暴れてたんだけど、これまでの研究でかなりの痛手を負っていたのと…暴れるばかりで飲まず食わずだったせいで、エネルギーが完全に切れちゃったんだ」

「え…それじゃあ…」

「そう、悪魔は男の子に目をつけ、その体に入り込んだ。そして勇敢な執事にこう言ったそうだよ…”月と太陽、そして我が力満ちる夜、我は必ず蘇る”…とね」

「……」

「それからしばらく、男の子は何の異常もなかった。ただ、親戚の研究施設は実際に悪魔に壊滅させられてしまったし、だけど悪魔なんて誰も信じないし、残ったのは男の子と勇敢な執事だけ…」

「…ど、どうなったんですか?」

「男の子は、実家から離れるように言われたんだ。悪魔を身に宿したかどうかはともかく、彼がいる場所でたくさんの人が死んで彼だけが生き残った、という事実が大変よろしくなかった」

「……」

玲央菜は、口からストローを離した。
そして沈痛な面持ちになる。

だが何かを言うことはなく、その間も天馬の話は続いた。

「ただ、男の子も素っ裸で放り出されたわけじゃない。そこは勇敢な執事が当主だのお偉いさんだのにいろいろかけ合ってくれたおかげで、とりあえず自分ひとりでも生きていける程度の財産をもらうことができた」

「……!…それが…」

ふと玲央菜は口を開き、榊をもう一度見た。
だが彼は相変わらず後ろを向いていた。

彼女は天馬に視線を移し、尋ねる。

「このマンション?」

「他にもいろいろあったけどね。まあ、今は…ここだけかな」

彼女の問いに彼はうなずき、椅子の背に体を預けた。
そして小さく笑う。

「とまあ、そもそもの話はこんな感じさ」

「そう、ですか…」

最初は自分が尋ねたわけだが、返ってきた答えに玲央菜は意味のある返事ができない。
悪魔の出処など予想できるわけもなかったが、それにしても突拍子がなさすぎた。

だがひとつだけ、たったひとつだけ…
彼女にも理解できる、理解できそうな部分がある。

「さみしかった…ですよね。その男の子」

「さあ、どうだろうね」

「えっ?」

玲央菜はふと天馬の顔を見る。
と、まともに目が合った。

「あっ」

思わず目をそらす。
そんな彼女に、天馬は微笑みながら言った。

「確かにつらいことはあったよ。親戚のおじさん、結構好きだったし…血まみれの研究施設は、今でも夢に見る」

「……」

「だけど、男の子はひとりじゃなかったからね」

天馬は、そばにいる榊に軽くひじを当てる。
しかし榊は後ろを向いたまま何も言わない。

天馬もそれ以上追及せずに、玲央菜にこう言った。

「男の子には、勇敢な執事がいつもそばにいてくれた。彼は、男の子の命を救い続けたんだ」

「……」

「彼がいたから、男の子はさみしくなかった。彼がいたから、男の子は自分の中の悪魔と戦おうと思えたんだよ」

「……うっ」

玲央菜は、小さくうめいて下を向いた。
その瞳から、小さな涙がこぼれた。

彼女にしてみれば、まだ天馬の話を完全に理解したわけではない。
全体像はぼんやりと示されたが、それすらも理解は進んでいない。

だが、勇敢な執事が男の子を守り、その男の子が勇敢な執事を称えるというこの話に、彼女は胸が熱くなるのを感じていた。

それは理屈ではなく、彼女の素直な感情が呼んだ涙だった。

「…お飲み物を持ってまいります…」

榊はそう言い残して、ふたりに顔を見せないままキッチンへと向かった。
その姿を見て玲央菜はまた少し涙を流し、天馬は小さく苦笑するのだった。


>episode10へ続く
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2016-07-21 12:00:02

【本編】episode8 消えた情熱の先

テーマ:ボクのご主人さま:本編
episode8 消えた情熱の先


「……」

それはまるで、火が消えてしまったようだった。

開け放たれた窓から、少しだけ強い風が入ってくる。
しかしそれは涼しいものではなく、熱気に近いものだった。

「……」

玲央菜は、ただじっとしている。
その視線はぼんやりとしているが、正面方向に固定されている。

やがてチャイムが鳴り、彼女の後ろを誰かが駆けていく。
隣からは騒々しくはしゃぐ声が消え、足音とともに誰もいなくなる。

そこへ、ひとりの教師がやってきた。

「…おーい?」

「……」

彼女に呼びかけるも、返事がない。
教師は不思議に思い、少しばかり強い声で彼女に言った。

「おい! もう掃除は終わりだぞ」

「…あ」

ここでようやく、玲央菜は教師の存在に気づいた。
そちらを向き、慌てて頭を下げる。

「す、すいません」

「いや…お前がここの掃除担当か?」

「…はい」

「そうか。みんなウワサしてたぞ、ここのトイレがすごくキレイになったってな。えらいもんだ」

「……」

「お前ひとりか? 他の連中は?」

「…すいません、失礼します」

玲央菜はもう一度頭を下げ、デッキブラシを掃除用具入れにしまった。

「お、おい」

教師が声をかけてくるのにも構わず、彼女はジャージが入ったバッグを持ってその場から逃げた。

まさかほめて逃げられるとは思わなかったのだろう、教師は彼女を追いかけるタイミングを失った。

「……」

玲央菜は教室へ戻りながら、自分が何もしなかったことに気づいた。
そしてそれに驚きはしなかった。

家のトイレを5分で仕上げることを至上の目的とし、学校でのトイレ掃除をその練習台にしてきた彼女。
掃除以外の時間も、掃除のことばかり考えてきた。

そのために隣の席にいる女子生徒には不思議に思われ、同じ班の女子にはなぜか脅されもした。
それでも構わずに、彼女は起きている時間ほぼすべてを掃除にささげてきたのだ。

「…なんか、ちょっと…わかんないな」

小さくつぶやく。
彼女は、自分の中から何かが消えていることに気づいた。

あれだけ燃え上がっていたトイレ掃除への情熱は、今や完全に消えてしまっていた。

学校でのトイレ掃除は重要な練習であったはずだが、トイレまで来てみても、デッキブラシを持ってみても、まったく掃除をしようという気にならなかった。

「わかんない…ぜんぜん」

彼女は教室に戻った。

その数分後に担任がやってきて、何やらたくさんのプリントや5段階評価が記された厚紙などを生徒たちに渡した。

そして下校時間とともに、1学期は終わりを告げる。

「ぃよっしゃあ~! なっつやっすみー!」

「この後どこいく? ライブラ行く?」

「おぉー行く行く! メシ食ってカラオケじゃん?」

生徒たちはそれぞれ、1学期から解放されたことを喜び、友人とともに教室を出ていく。

玲央菜は特にその光景を気にすることもなく、いつもとまったく同じ足取りで教室を出ていった。

「あ…」

彼女を追いかけるように、隣から手が伸びた。
しかしそれは彼女を捕まえることができず、気づいてもらうこともできない。

「柊さん…」

隣の女子生徒が声をかけようとしていたのだが、玲央菜はまったくそちらに意識を向けずにさっさと帰ってしまったのだ。

彼女は肩を落としていたが、やがて他の友人に誘われて少しだけ笑顔を取り戻す。
しかし、玲央菜が行ってしまった方向を見る表情は、いつまでも晴れなかった。


「…ただいま帰りました」

玲央菜は専用エレベーターを使って家に帰ってきた。
玄関には榊が立っている。

「柊 玲央菜」

「…はい」

榊の鋭い視線を、玲央菜はそのまま見つめ返した。
しばしの沈黙が流れるが、それを榊が破る。

「あとで、重大な話があります…ただし、あなたはそれを聞くか聞かないか、選ぶことができます」

「……」

「聞くつもりがあるのなら、天馬さまがいらっしゃるリビングへ来なさい」

「わかりました」

玲央菜がそう言うと、榊は一度うなずいてから彼女に背を向けた。
彼が廊下を歩いていく姿を見つつ、彼女は自分の部屋へと戻る。

中に入る。
ドアを閉めた直後、こんな言葉が口をついた。

「やっぱり…あれは夢じゃなかったんだ」

あの夜。
脱衣所で見た、黒い塊。

一体どういうものなのか、ずっと考えていた。
これまでの人生で、彼女はあのようなものを見たことがなかった。

黒い塊といっても、いわゆるスライムのような形ではない。
脚は存在した。

そしてそれは人間の脚だった。
だが上半身がよくわからない。

その「想像はできるのによくわからない」という感覚が不思議で、彼女はずっとそれについて考えていた。

そのことが、彼女からトイレ掃除への情熱を奪い取っていた。

だが、どうやらそれについての答えを、教えてもらえるらしい。
彼女の選択は、榊の話を聞いた時点から決まっていた。

部屋着に着替え、彼女はリビングへと向かう。
そこには榊と、あの夜に姿を見せなかった天馬がいた。

「…よっ、お嬢ちゃん」

「……」

天馬は笑顔で声をかけてきたが、玲央菜は無言で頭を下げるだけだった。
榊が椅子を指し示すと、彼女は何も言わずにその席へ座った。

彼女が座ったのを見計らい、榊が天馬に言う。

「では…天馬さま」

「あ、ああ」

天馬はそう言った後で、一度咳払いをする。
そしていつもその顔にある笑顔を消し、真剣な面持ちで玲央菜を見た。

「お嬢ちゃん、いや…玲央菜ちゃん」

「…はい」

玲央菜は思わず返事をした。
天馬から名前を呼ばれることはほとんどなかったので、彼女は少し驚いた。

そして彼女も、天馬が本当に、心から真剣に話をしようとしているのだと感じ取る。
彼を見つめる瞳に、力がこもった。

そんな強い眼差しを受け取って、天馬はいつもより低い声で彼女に話し始めた。

「まずは謝らせてほしい…あの夜、この家でキミを死ぬほど驚かせたことについて。本当に、申し訳なかった」

「…いえ…」

「気づいているかもしれないけど、あの夜…キミを驚かせた『何か』…あれは俺なんだ」

「……!」

玲央菜の顔が、少しだけ引きつる。
いや、予想できなかったわけではない。

この家に人が来ることなどほとんどないし、いつもいるのは自分と榊、そして主人である天馬の3人である。

あの夜、脱衣所には自分と黒い塊、そして榊がいた。
他には誰も入ってこなかった。

誰かが来たわけではないのなら、計算上…黒い塊は天馬ということになってしまう。
どう考えても、自動的に。

そのため、玲央菜も予想はついていた。
だが実際に聞くと、やはり何か心に恐ろしげな感覚が湧き上がる。

その理由はやはり、これが一番だろう。

「あれは…なんなんですか?」

玲央菜の前に現れた黒い塊。
人間の脚がそのままあったため、あれは天馬の脚だったのだろう。

だが、上半身がわからない。
脱衣所は明るく外は暗かったが、逆光だったわけではない。

つまり玲央菜はまともに見たはずなのだ。
だというのに、よくわからない。

湯気や煙で視界を遮られていたということもないのに、まともに見てもなんなのかわからない…
黒い塊は、それほど彼女の常識からかけ離れた姿をしていた。

「……そうだな…あれをどう言うべきか…」

玲央菜の反応を見て、天馬は少し考える仕草をした。
何度か迷っていたが、彼は一度うなずいて彼女にこう言った。

「簡単に言うなら、『悪魔』かな」

「…あくま?」

「ああ。怖い顔して背中から翼を生やした悪魔さ…あの場所に入った時、翼で体を覆ってたんだ」

「……!」

玲央菜は思い返してみる。
黒い塊の上半身がどういう状態であったか。

翼を体の前へ回し、体を覆った状態。
恐らく両腕も胸の前へ回っていただろう。

つまり上半身は『塊』になる。
あとは表皮が黒ければ『黒い塊』ともなるだろう。

突然脱衣所に入ってきた物体が翼を持ち、しかもそれで体を覆っているなど、なかなか一瞬で認識できるものではない。

天馬に説明されて初めて、玲央菜は黒い塊がどういう体勢だったのかを理解することができた。

つまり天馬は、翼で体を覆った状態で脱衣所に入ったため、玲央菜に『黒い塊』だと思われてしまったようだ。

「……」

しかし、それがわかっても理解できないことはいくらでもある。
何よりあの状態は一体なんだったのか、という根本的なことがわかっていない。

黒い塊が天馬だということがわかった以上、とんでもない秘密だというのは玲央菜にもわかる。
果たしてそれを尋ねていいものか、彼女は答えを出せずにいた。

すると、天馬が先回りしてそれに答えてやる。

「病気というか、呪いというか…まあ、俺の体質なんだ」

「体質?」

「ああ…あの夜は新月だったろ」

「……は、はあ?」

新月かどうか、玲央菜にはわからなかった。
月そのものの満ち欠けを気にする習慣が、彼女にはない。

それに気づいた天馬は苦笑した。

「ああ、悪い悪い。俺たちはいつも新月と満月を気にしてるからさ、それが普通だと思い込んじゃってるんだ」

「新月と、満月…」

「そう。俺の体は、新月の夜と満月の夜に、悪魔みたいな姿になるんだ」

「…39階にいたのは、それで…?」

「ああ、その通り。そこで榊に処置してもらって、仕上げに風呂に入るんだ。あの夜は、運悪く先客がいたってわけさ」

「……」

先客というのは、当然ながら玲央菜を指している。
だが、一体誰が下の階と風呂に、そのような秘密があると思うだろう。

もちろん天馬も、玲央菜を責めるつもりはなかった。
それどころか、彼女の体調を心配していた。

「体に異常がないようで何よりだよ。あの夜、湯船には普通の人にとっては有害なものも入っていたんでね…お湯に浸からなかったのは本当に運がよかった」

「ゆ、有害なもの、って…?」

「悪魔みたいな体を、一時的に殺すための液体だよ。材料は水銀が主なものだけど…あまり詳しくは、訊かない方がいいと思う」

「水銀って…銀?」

「ああ、若い子は知らないかな? アナログな体温計に使われてたりもしたんだけど…文字通り、水のような金属なんだ。生物にとっては猛毒で、公害の原因になったこともある」

「…も、猛毒…!」

玲央菜の顔が青くなった。

自分はあの夜にシャワーを浴びたが、湯船はそのすぐ近くにあった。
しかも入ろうかどうしようか迷うところまで来ていた。

だがもし入ってしまっていたなら、自ら猛毒を浴びる結果になり、命を落としていたかもしれない。
そのような危険が、風呂場という身近な場所にあることに、彼女は恐怖を感じてしまったのだ。

玲央菜の様子を見て、天馬は困惑した表情になる。

「あーっと…できれば39階に、専用のものを作りたかったんだけどね…残念ながら、それを作れる職人が死んでしまったんだ。だから40階の風呂を、普通用と処理用で兼用するしかなかったんだよ」

天馬はそう言ってから、「もちろんあの風呂場には有害なものを取り去る装置がついてるからご心配なく」と続けた。

自分で水銀が公害の原因となった、という話を気にしていたらしい。
だが玲央菜は正直、そこのところはどうでもよかった。

彼女が気になったのは、やはり湯船を満たしていた薬液についてである。

「あのお風呂…湯気いっぱい出てたけど…水銀って猛毒なんでしょ? ボクはそこから出る湯気とか吸っちゃって大丈夫…なのかな」

「もちろん、大丈夫じゃないよ。キミはしばらく立てなくなったし、その後も榊が毒抜きの処置をしたんだ」

「え…」

立てなくなったことは、玲央菜も覚えている。
だが、毒抜きの処置というのは、まったくわからない。

どういうことかと榊に目をやると、彼は目をそらさずにまっすぐ彼女を見つめ返した。

「天馬さまの命により、私が責任をもって毒抜きをさせてもらいました」

「でもボク、全然覚えがないんだけど…?」

「当然です。あなたは水銀蒸気をたっぷり吸って、危ない状態になりつつありました。完全な毒抜きには3日を要し、その間あなたは眠り続けていたのです」

「え…?」

玲央菜は、またわからなくなった。
だがそういえば、ふたりの言い方で気になる部分もあった。

「あの夜、あの夜って…ボクが黒い塊を見たのは、昨日の夜じゃないってこと?」

「そうです。今日はあの夜から3日たって4日めの夕方。もう一度言いますが、あなたはそれまで、ずっと眠りについていたのです」

「…あああ待って、せっかくなんかわかりかけてたのに、またわかんなくなっちゃった…!」

玲央菜は頭を抱えてうつむく。

これまで、天馬の重大な事情を聞くというイベントだったはずなのに、急に自分が3日も知らずに眠っていたということを知らされるイベントに変わり、彼女は軽く混乱してしまった。

「…ふっ」

その姿を見て、天馬は小さく苦笑する。
そして榊に飲み物を頼んだ。

「…まずは、落ち着くといいでしょう」

榊が持ってきたのは、涼しさが見た目にも伝わるアイスコーヒーだった。
玲央菜がストローでそれを吸うと、冷たさとコーヒーの味わいが口いっぱいに広がる。

「おいしい」

素直にそんな言葉が出た。
続けてアイスコーヒーを飲み続ける。

彼女のオーバーヒートしそうな頭は、少しだけ冷やされた。

しかし疑問がすっきりと晴れないのは変わりなく、アイスコーヒーを飲み干してもまだ、事態を完璧に理解するには至らないのだった。


>episode9へ続く
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2016-07-18 12:00:02

【本編】episode7 新月の夜

テーマ:ボクのご主人さま:本編
episode7 新月の夜


「ちょ、ちょっと! どうなってんのっ!?」

玲央菜はあせっていることを隠しもせず、乱暴にドアを叩き始める。

彼女は今、トイレに行きたい状態であり…
花も恥じらう女子高生としては、できればそれを知られたくはない。

だが今はそうも言っていられない状況になりつつあった。

「榊さんっ! ご主人さまっ! どっちでもいいから、開けて! 開けてー!」

まだそこまで切羽詰っているわけではない。
だが、切羽詰まってしまってはもう遅いのではないか、と彼女は思っている。

そのため、恥ずかしいながらも焦っているのを隠しもせず、こうしてドアを叩きつつ大声を出している。
だが、ドアの向こう側からは何の反応もなかった。

「…ヤバい…だーれも来ないし…!」

妙なもので、こういうことは意識すればするほど一気に状況が悪くなってくる。
玲央菜の顔に、少しばかり粘度の高い汗がにじみ始めた。

「手も痛いし…多分これ、聞こえてないんだ…」

華奢な女子高生とはいえ、思い切りドアを叩けば、普通なら音が家中に響くはずである。
そうなれば、榊などはすぐに飛んでくるに違いないのだ。

だが榊がやってくる様子はない。
ドアの向こうは静かなものだった。

「どうしよう…!? いや、でも…!」

玲央菜は部屋の奥へと向き直る。
表情はあせっていたが、その目には何か確信めいたものがあった。

「榊さんは完璧な人だ。外からカギを閉められるとしても、必ず中から開けられる仕掛けか何かがあるはず!」

そう、彼女は榊の行動原理から何か突破口はないかと考えていた。
外からの施錠より、内側からの解錠の方が重大で、榊がそれを忘れるわけはないと考えたのである。

「夜の間、何かボクに見られたくないことがあって、それでカギをかけてる…きっとそうなんだろう。だけど、もしその間に火事とかあったらどうなる? きっと、こっち側からドアを開ける何かがあるはずなんだ!」

今は、自分に見られたくないことが何なのか、なぜ外からカギをかけたのかは考えないようにした。

それは玲央菜が大人になったからなのか?
いやそうではない。

切羽詰まる段階が、少しだけ進んだのを感じたからである。

「ヤバいヤバいヤバい…えーっと!」

部屋の奥、ベッドのそばへと戻った彼女は、その壁まわりを調べてみる。
だがそのあたりには、スイッチらしきものはない。

「どこだ…?」

仕掛けがあるとすれば壁にくっついているはずだ、という見立てが彼女の中にはあった。
そのため、壁を隠している家具がある場所をまず調べていく。

ベッド周囲になければ机のまわりを調べる。
クローゼットを開けてもみたが、それらしきものはない。

「…えぇ…?」

玲央菜は困惑した声を出す。
だが、クローゼット内に何もないのは、開ける前からある程度わかっていた。

この場所は毎日見る場所であり、何より仕事道具であるメイド服がかけられている。
なんらかの仕掛けがあれば、それをいつも目にしているはずなのだ。

だが彼女は、そういうものを見た記憶がなかった。

仕方なく、彼女は一度ドアのそばへと戻る。
そしてもう一度ドアノブを回そうとした。


ガチャリ


「やっぱり…」

ただ部屋の奥を調べまわっただけでは、外からのカギは解除できない。
また少しだけ切羽詰まったのを感じながら、彼女は腕組みをして考えた。

「どこだ…?」

あるのは間違いない。
榊のことだ、用意していないわけがない。

だがその場所がわからない。
壁を隠していそうな家具はすべて調べたが、どこにもそれらしきものはなかった。

「…壁じゃなきゃ、床?」

玲央菜はふと思いつき、床を広く隠しているベッドへと向かっていく。
その時だった。


ガン!


「んぎょぇあっ!?」

小指を激しく机の足にぶつけた。
玲央菜は奇声をあげ、あまりの痛みにその場でうずくまる。

「い、い、い、いたぃ…!」

瞳からは涙がこぼれ、痛みそのものとはまた別の、奇妙な悔しさが心の奥底から這いのぼってくる。

彼女は明確な怒りをもって、足をぶつけた場所を見た。

「痛いじゃないか、もぉお!」

机が動くわけはないので、そこに足をぶつけたとなれば責任は自分にしかない。
ないのだが、どうにも怒りを抑えられず、彼女は机に向かって声を荒げていた。

しかし、その怒りもすぐにしぼんでしまう。

「…あ」

ぶつけた箇所の向こう側。
暗がりになっている場所に、小さなスイッチらしきものが見えた。

「ここにあったんだ!」

彼女は早速手を伸ばし、丸い押しボタンをぐっと押す。
するとドアの方から音が聞こえた。

「開いた!」

そう思い、すぐさま体を起こそうとする。
だが、彼女は自分が今、机の下にいることを忘れていた。


ガン!!


「あいたぁ!?」

後頭部をしとどに打ちつけ、またもその場にうずくまる。
彼女がまともに動けるようになるには、それから約20秒を要した。

「あいたたた…」

どうにか立ち上がり、ドアの方へと向かう。
切羽詰まり感にはまだ余裕があるが、あまりのんびりともしていられなかった。

解錠したドアを開け、廊下に出る。

「あれ、まっくら…」

照明という照明がすべて消され、家の中は暗かった。
壁に手をつきながら移動し、彼女はまずトイレへと向かう。

「……」

いつも目にしている場所、そして戦場でもあるトイレだが、照明がまったくないこともあって少し趣がちがう。

玲央菜は少しばかりの心細さを感じつつ、しかしそれに負けないようにドアそばの照明スイッチに手をかけた。

「…ふぅ」

照明さえついてしまえば、そこは見慣れた美しく広いトイレである。
彼女はホッとした表情で、まっすぐに個室へと向かっていくのだった。


「…はぁあ、スッキリした…」

トイレから出てきた玲央菜は、心底安心した表情になっていた。
照明を消し、まっくらな家の中に戻っても、それほど怖さを感じなかった。

そこには、自分が考えていたままに、榊が部屋からの脱出方法を用意してくれていた、ということが大きい。

「さすが榊さん、やっぱりあの人は完璧だなぁ」

用をすませる前までは暗さも怖かったが、それが終わって安心すると、この家が榊に完璧に管理されていることを強く実感することができた。

その管理のもとでは、自分が恐れるようなものが家に侵入するなどということはあり得ない。
そう、信じられるようになったからだった。

ただし、暗いということはまたどこかに足の指をぶつけてしまうかもしれない、ということは心配していた。

後頭部も含めて、短い間に二度も痛い目を見たのである。
玲央菜も、さすがにその部分に関しては慎重だった。

そのため、部屋から出てきた直後と同じように、壁に手をつきながら移動していく。
そうしながら彼女は、シャワーをどうするか考え始めた。

「そういえば、もともとはシャワーを浴びようかと思ってたんだった…どうしようかな」

トイレに行くまでの間、榊にも天馬にも会わなかった。
それどころか、人の気配のようなもの自体がなかった。

それなら別に照明をつけて移動すればいいようなものなのだが、まだ玲央菜はどのスイッチがどの照明を担当しているのか知らなかった。

ドアが外から施錠されていることからも、今夜は何か自分に部屋から出てきてほしくない夜なのだろう、というのは玲央菜にもわかっていたので、あまり自分勝手にスイッチをいじるのも気が引けていたのである。

だが、風呂に入らないまま寝てしまい、さらにドアを解錠するのにひとしきり動いた後である。
できればシャワーだけでも浴びたい、という気持ちは強かった。

「…誰もいないっぽいし、だいじょぶだよね…?」

玲央菜はそうつぶやきながら、部屋に戻った。
用意しておいた着替えを持って、もう一度そこを出る。

やはり、どうにも我慢できそうになかった。

「お金持ちなんだし、お湯がもったいないからシャワー浴びるな、とは言わないよね…きっと」

変に貧乏くさい心配をしつつ、彼女は風呂場へと向かう。
そこはトイレよりも奥に行った場所にあった。

「あ…」

玲央菜は、小さく声をあげた。
その視線の先には、下り階段が見えている。

階段は壁に囲まれており、途中で曲がっているため、その先に何があるかはわからない。

風呂場自体は毎日来ている場所なので、その周囲の景色ももう見慣れてはいる。
だが今夜は、いつもと違うことがひとつあった。

「明かり…ついてる」

玲央菜たちが普段過ごしている場所は40階であり、このマンションの最上階である。
そこから下る階段ということは、この先は39階につながっているということだ。

マンションに備え付けられている通常のエレベーターも、40階に直通する特別なエレベーターも、この階段の先にある39階にはつながっていない。

そして階段の前には、美術館や博物館にあるような柵が置かれている。
立派な、しかし背の低い2本の柱の間に、真紅のロープが取りつけられていた。

「…入るな、ってことだよね…これ」

明らかに立入禁止を示すための柵である。
40階に人の気配がなく、下り階段の先が明るいということは、榊と天馬はこの先にいるということなのだろう。

正直なところ、何をやっているのかは気になる。
だが、玲央菜はそちらへ向かおうとはしなかった。

「入るなっていうんなら、入るべきじゃないよね」

玲央菜の部屋のドアにカギまでかけて、しかも下り階段前には柵が置かれている。
柵は簡単に乗り越えることもできるが、そうすべきではないと彼女は考えた。

彼女は、自分がよそ者であることの自覚がある。
そして世話になっていることに感謝もしている。

確かに外からドアにカギをかけられたことには驚いた。
だがマンションをまるごと所有し、本職の執事までいるという天馬の生活に、一般人である自分が理解できないものがあるのは、ある種当然だと思えた。

彼女は負けん気は強いが、そういうところの物分かりはよかった。
それに今は、謎の39階よりも優先させたいこともある。

「パパっとシャワー浴びて寝ちゃお…ふわ」

トイレでの用事を無事すませられたことで、彼女にはまた眠気がやってきつつあった。
少し汗をかいたのもあり、手早くすっきりして寝てしまいたくなっていた。

だが、脱衣場に来て彼女は異変に気づく。

「…あれ?」

脱衣場にはバスタオルとバスローブがかけられている。
そして脱衣場も風呂場も、彼女が入る前から照明がついていた。

風呂場へのドアを開けてみると、彼女の部屋より広い湯船いっぱいに湯が張られている。

「あ…もしかしてあの人…ご主人さま、お風呂入る予定だったのかな」

天馬をあの人呼ばわりして、榊に怒られると反射的に思ったのか、彼女はご主人さまと言い直した。

その後でしまったと顔をゆがめる。

「っていうかバスタオル持ってきてない…あー、どうしよ」

玲央菜は一度風呂場から出て、もう一度下り階段を見た。
柵が動かされた様子はなく、階段の先にある光もまだ消えていない。

それを確認した後で、また風呂場に戻った。

「さっさとすませよう。うん、すぐ終わらせればだいじょぶだよ、きっと!」

彼女としても、ここまできて部屋に戻る気にはなれなかった。
手早く服を脱ぎ、念のためバスタオルを持って風呂場へと入る。

湯船のそばにバスタオルを置いて、シャワースタンドの近くに立った。
とにかく時間がないので、シャワーを出してすぐに頭を濡らし、髪を洗い始める。

この時彼女は、髪を長くしていなくてよかったと心底思った。
シャンプー、リンスと終わらせて今度は体を洗う。

それもすぐに終わらせて、泡をシャワーで洗い流し、バスタオルで体を拭いてからそれを体に巻いた。

「ふぅ…どうにか間に合った…」

安心するとため息が出た。
風呂場を出て、脱衣場で持ってきていた着替えに手を取った。

その時だった。


ズドッ、ズドドドドドド…


「…え?」

地鳴りのような低い音が、足下から駆け上がってくる。
驚いた玲央菜は、着替えようとしていた動きを止めた。

直後。


ガシャーン!


「…えぇ?」

何かがぶつかり、倒れた音。
それはとても近かった。

「な、なに?」

一体何が起こっているのか、玲央菜にはまったくわからない。
そしてさらに、彼女を混乱させる出来事が起こった。

「…へ!?」

なんと、脱衣場のドアが開けられたのである。
突然のことに、バスタオル姿の玲央菜は固まってしまった。

脱衣場のドアを開けたのは、何やら黒い塊だった。
玲央菜の中には、それを端的に言い表す言葉がない。

”グ…!?”

黒い塊は、何か声を発した。
だがそちらも驚いているようで、動きはない。

と、この時下り階段の方から別の声が聞こえてきた。

「早く! 早く風呂場の中へ!」

”…!”

その声に我に返ったのか、黒い塊は風呂場へのドアを開けて中に入った。
すぐに大きな水音が聞こえる。

玲央菜が声をかけられたのは、それから10秒後のことだった。

「…柊 玲央菜…!」

「…!」

その声に、玲央菜はそちらを見た。
聞き覚えのあるその声の主は、彼女がよく知った者だった。

「一体、どうしてここに…!」

彼女に声をかけたのは榊だった。
彼は一瞬だけ風呂場の方へ目をやったが、すぐにバスローブを持ってバスタオル姿の彼女にかけてやる。

「…とにかく今夜は部屋に戻りなさい。いいですね?」

「は…はい…」

玲央菜は素直にうなずいた。
説明を求めるなど、驚きすぎてとてもできなかった。

彼女は部屋に帰ろうと、足を一歩踏み出す。
だがふんばることができずに、前へ倒れ込んだ。

「おっと」

それを榊が素早く支える。
彼女が震えていることを察知すると、榊は渋い表情になった。

「どうやら腰が抜けたようですね…仕方ありません、しばらくここに座っていなさい」

「は、はい…」

大きな鏡の前にある椅子まで運んでもらい、玲央菜はそこに座らされた。
彼女はただ震えながら、自らを抱くように両腕で胸をかばい、うつむいているのだった。


>episode8へ続く
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