【本編】episode8 消えた情熱の先 | 魔人の記

【本編】episode8 消えた情熱の先

episode8 消えた情熱の先


「……」

それはまるで、火が消えてしまったようだった。

開け放たれた窓から、少しだけ強い風が入ってくる。
しかしそれは涼しいものではなく、熱気に近いものだった。

「……」

玲央菜は、ただじっとしている。
その視線はぼんやりとしているが、正面方向に固定されている。

やがてチャイムが鳴り、彼女の後ろを誰かが駆けていく。
隣からは騒々しくはしゃぐ声が消え、足音とともに誰もいなくなる。

そこへ、ひとりの教師がやってきた。

「…おーい?」

「……」

彼女に呼びかけるも、返事がない。
教師は不思議に思い、少しばかり強い声で彼女に言った。

「おい! もう掃除は終わりだぞ」

「…あ」

ここでようやく、玲央菜は教師の存在に気づいた。
そちらを向き、慌てて頭を下げる。

「す、すいません」

「いや…お前がここの掃除担当か?」

「…はい」

「そうか。みんなウワサしてたぞ、ここのトイレがすごくキレイになったってな。えらいもんだ」

「……」

「お前ひとりか? 他の連中は?」

「…すいません、失礼します」

玲央菜はもう一度頭を下げ、デッキブラシを掃除用具入れにしまった。

「お、おい」

教師が声をかけてくるのにも構わず、彼女はジャージが入ったバッグを持ってその場から逃げた。

まさかほめて逃げられるとは思わなかったのだろう、教師は彼女を追いかけるタイミングを失った。

「……」

玲央菜は教室へ戻りながら、自分が何もしなかったことに気づいた。
そしてそれに驚きはしなかった。

家のトイレを5分で仕上げることを至上の目的とし、学校でのトイレ掃除をその練習台にしてきた彼女。
掃除以外の時間も、掃除のことばかり考えてきた。

そのために隣の席にいる女子生徒には不思議に思われ、同じ班の女子にはなぜか脅されもした。
それでも構わずに、彼女は起きている時間ほぼすべてを掃除にささげてきたのだ。

「…なんか、ちょっと…わかんないな」

小さくつぶやく。
彼女は、自分の中から何かが消えていることに気づいた。

あれだけ燃え上がっていたトイレ掃除への情熱は、今や完全に消えてしまっていた。

学校でのトイレ掃除は重要な練習であったはずだが、トイレまで来てみても、デッキブラシを持ってみても、まったく掃除をしようという気にならなかった。

「わかんない…ぜんぜん」

彼女は教室に戻った。

その数分後に担任がやってきて、何やらたくさんのプリントや5段階評価が記された厚紙などを生徒たちに渡した。

そして下校時間とともに、1学期は終わりを告げる。

「ぃよっしゃあ~! なっつやっすみー!」

「この後どこいく? ライブラ行く?」

「おぉー行く行く! メシ食ってカラオケじゃん?」

生徒たちはそれぞれ、1学期から解放されたことを喜び、友人とともに教室を出ていく。

玲央菜は特にその光景を気にすることもなく、いつもとまったく同じ足取りで教室を出ていった。

「あ…」

彼女を追いかけるように、隣から手が伸びた。
しかしそれは彼女を捕まえることができず、気づいてもらうこともできない。

「柊さん…」

隣の女子生徒が声をかけようとしていたのだが、玲央菜はまったくそちらに意識を向けずにさっさと帰ってしまったのだ。

彼女は肩を落としていたが、やがて他の友人に誘われて少しだけ笑顔を取り戻す。
しかし、玲央菜が行ってしまった方向を見る表情は、いつまでも晴れなかった。


「…ただいま帰りました」

玲央菜は専用エレベーターを使って家に帰ってきた。
玄関には榊が立っている。

「柊 玲央菜」

「…はい」

榊の鋭い視線を、玲央菜はそのまま見つめ返した。
しばしの沈黙が流れるが、それを榊が破る。

「あとで、重大な話があります…ただし、あなたはそれを聞くか聞かないか、選ぶことができます」

「……」

「聞くつもりがあるのなら、天馬さまがいらっしゃるリビングへ来なさい」

「わかりました」

玲央菜がそう言うと、榊は一度うなずいてから彼女に背を向けた。
彼が廊下を歩いていく姿を見つつ、彼女は自分の部屋へと戻る。

中に入る。
ドアを閉めた直後、こんな言葉が口をついた。

「やっぱり…あれは夢じゃなかったんだ」

あの夜。
脱衣所で見た、黒い塊。

一体どういうものなのか、ずっと考えていた。
これまでの人生で、彼女はあのようなものを見たことがなかった。

黒い塊といっても、いわゆるスライムのような形ではない。
脚は存在した。

そしてそれは人間の脚だった。
だが上半身がよくわからない。

その「想像はできるのによくわからない」という感覚が不思議で、彼女はずっとそれについて考えていた。

そのことが、彼女からトイレ掃除への情熱を奪い取っていた。

だが、どうやらそれについての答えを、教えてもらえるらしい。
彼女の選択は、榊の話を聞いた時点から決まっていた。

部屋着に着替え、彼女はリビングへと向かう。
そこには榊と、あの夜に姿を見せなかった天馬がいた。

「…よっ、お嬢ちゃん」

「……」

天馬は笑顔で声をかけてきたが、玲央菜は無言で頭を下げるだけだった。
榊が椅子を指し示すと、彼女は何も言わずにその席へ座った。

彼女が座ったのを見計らい、榊が天馬に言う。

「では…天馬さま」

「あ、ああ」

天馬はそう言った後で、一度咳払いをする。
そしていつもその顔にある笑顔を消し、真剣な面持ちで玲央菜を見た。

「お嬢ちゃん、いや…玲央菜ちゃん」

「…はい」

玲央菜は思わず返事をした。
天馬から名前を呼ばれることはほとんどなかったので、彼女は少し驚いた。

そして彼女も、天馬が本当に、心から真剣に話をしようとしているのだと感じ取る。
彼を見つめる瞳に、力がこもった。

そんな強い眼差しを受け取って、天馬はいつもより低い声で彼女に話し始めた。

「まずは謝らせてほしい…あの夜、この家でキミを死ぬほど驚かせたことについて。本当に、申し訳なかった」

「…いえ…」

「気づいているかもしれないけど、あの夜…キミを驚かせた『何か』…あれは俺なんだ」

「……!」

玲央菜の顔が、少しだけ引きつる。
いや、予想できなかったわけではない。

この家に人が来ることなどほとんどないし、いつもいるのは自分と榊、そして主人である天馬の3人である。

あの夜、脱衣所には自分と黒い塊、そして榊がいた。
他には誰も入ってこなかった。

誰かが来たわけではないのなら、計算上…黒い塊は天馬ということになってしまう。
どう考えても、自動的に。

そのため、玲央菜も予想はついていた。
だが実際に聞くと、やはり何か心に恐ろしげな感覚が湧き上がる。

その理由はやはり、これが一番だろう。

「あれは…なんなんですか?」

玲央菜の前に現れた黒い塊。
人間の脚がそのままあったため、あれは天馬の脚だったのだろう。

だが、上半身がわからない。
脱衣所は明るく外は暗かったが、逆光だったわけではない。

つまり玲央菜はまともに見たはずなのだ。
だというのに、よくわからない。

湯気や煙で視界を遮られていたということもないのに、まともに見てもなんなのかわからない…
黒い塊は、それほど彼女の常識からかけ離れた姿をしていた。

「……そうだな…あれをどう言うべきか…」

玲央菜の反応を見て、天馬は少し考える仕草をした。
何度か迷っていたが、彼は一度うなずいて彼女にこう言った。

「簡単に言うなら、『悪魔』かな」

「…あくま?」

「ああ。怖い顔して背中から翼を生やした悪魔さ…あの場所に入った時、翼で体を覆ってたんだ」

「……!」

玲央菜は思い返してみる。
黒い塊の上半身がどういう状態であったか。

翼を体の前へ回し、体を覆った状態。
恐らく両腕も胸の前へ回っていただろう。

つまり上半身は『塊』になる。
あとは表皮が黒ければ『黒い塊』ともなるだろう。

突然脱衣所に入ってきた物体が翼を持ち、しかもそれで体を覆っているなど、なかなか一瞬で認識できるものではない。

天馬に説明されて初めて、玲央菜は黒い塊がどういう体勢だったのかを理解することができた。

つまり天馬は、翼で体を覆った状態で脱衣所に入ったため、玲央菜に『黒い塊』だと思われてしまったようだ。

「……」

しかし、それがわかっても理解できないことはいくらでもある。
何よりあの状態は一体なんだったのか、という根本的なことがわかっていない。

黒い塊が天馬だということがわかった以上、とんでもない秘密だというのは玲央菜にもわかる。
果たしてそれを尋ねていいものか、彼女は答えを出せずにいた。

すると、天馬が先回りしてそれに答えてやる。

「病気というか、呪いというか…まあ、俺の体質なんだ」

「体質?」

「ああ…あの夜は新月だったろ」

「……は、はあ?」

新月かどうか、玲央菜にはわからなかった。
月そのものの満ち欠けを気にする習慣が、彼女にはない。

それに気づいた天馬は苦笑した。

「ああ、悪い悪い。俺たちはいつも新月と満月を気にしてるからさ、それが普通だと思い込んじゃってるんだ」

「新月と、満月…」

「そう。俺の体は、新月の夜と満月の夜に、悪魔みたいな姿になるんだ」

「…39階にいたのは、それで…?」

「ああ、その通り。そこで榊に処置してもらって、仕上げに風呂に入るんだ。あの夜は、運悪く先客がいたってわけさ」

「……」

先客というのは、当然ながら玲央菜を指している。
だが、一体誰が下の階と風呂に、そのような秘密があると思うだろう。

もちろん天馬も、玲央菜を責めるつもりはなかった。
それどころか、彼女の体調を心配していた。

「体に異常がないようで何よりだよ。あの夜、湯船には普通の人にとっては有害なものも入っていたんでね…お湯に浸からなかったのは本当に運がよかった」

「ゆ、有害なもの、って…?」

「悪魔みたいな体を、一時的に殺すための液体だよ。材料は水銀が主なものだけど…あまり詳しくは、訊かない方がいいと思う」

「水銀って…銀?」

「ああ、若い子は知らないかな? アナログな体温計に使われてたりもしたんだけど…文字通り、水のような金属なんだ。生物にとっては猛毒で、公害の原因になったこともある」

「…も、猛毒…!」

玲央菜の顔が青くなった。

自分はあの夜にシャワーを浴びたが、湯船はそのすぐ近くにあった。
しかも入ろうかどうしようか迷うところまで来ていた。

だがもし入ってしまっていたなら、自ら猛毒を浴びる結果になり、命を落としていたかもしれない。
そのような危険が、風呂場という身近な場所にあることに、彼女は恐怖を感じてしまったのだ。

玲央菜の様子を見て、天馬は困惑した表情になる。

「あーっと…できれば39階に、専用のものを作りたかったんだけどね…残念ながら、それを作れる職人が死んでしまったんだ。だから40階の風呂を、普通用と処理用で兼用するしかなかったんだよ」

天馬はそう言ってから、「もちろんあの風呂場には有害なものを取り去る装置がついてるからご心配なく」と続けた。

自分で水銀が公害の原因となった、という話を気にしていたらしい。
だが玲央菜は正直、そこのところはどうでもよかった。

彼女が気になったのは、やはり湯船を満たしていた薬液についてである。

「あのお風呂…湯気いっぱい出てたけど…水銀って猛毒なんでしょ? ボクはそこから出る湯気とか吸っちゃって大丈夫…なのかな」

「もちろん、大丈夫じゃないよ。キミはしばらく立てなくなったし、その後も榊が毒抜きの処置をしたんだ」

「え…」

立てなくなったことは、玲央菜も覚えている。
だが、毒抜きの処置というのは、まったくわからない。

どういうことかと榊に目をやると、彼は目をそらさずにまっすぐ彼女を見つめ返した。

「天馬さまの命により、私が責任をもって毒抜きをさせてもらいました」

「でもボク、全然覚えがないんだけど…?」

「当然です。あなたは水銀蒸気をたっぷり吸って、危ない状態になりつつありました。完全な毒抜きには3日を要し、その間あなたは眠り続けていたのです」

「え…?」

玲央菜は、またわからなくなった。
だがそういえば、ふたりの言い方で気になる部分もあった。

「あの夜、あの夜って…ボクが黒い塊を見たのは、昨日の夜じゃないってこと?」

「そうです。今日はあの夜から3日たって4日めの夕方。もう一度言いますが、あなたはそれまで、ずっと眠りについていたのです」

「…あああ待って、せっかくなんかわかりかけてたのに、またわかんなくなっちゃった…!」

玲央菜は頭を抱えてうつむく。

これまで、天馬の重大な事情を聞くというイベントだったはずなのに、急に自分が3日も知らずに眠っていたということを知らされるイベントに変わり、彼女は軽く混乱してしまった。

「…ふっ」

その姿を見て、天馬は小さく苦笑する。
そして榊に飲み物を頼んだ。

「…まずは、落ち着くといいでしょう」

榊が持ってきたのは、涼しさが見た目にも伝わるアイスコーヒーだった。
玲央菜がストローでそれを吸うと、冷たさとコーヒーの味わいが口いっぱいに広がる。

「おいしい」

素直にそんな言葉が出た。
続けてアイスコーヒーを飲み続ける。

彼女のオーバーヒートしそうな頭は、少しだけ冷やされた。

しかし疑問がすっきりと晴れないのは変わりなく、アイスコーヒーを飲み干してもまだ、事態を完璧に理解するには至らないのだった。


>episode9へ続く

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