【本編】act0+6 いら立ち、そして挨拶 | 魔人の記

【本編】act0+6 いら立ち、そして挨拶

act0+6 いら立ち、そして挨拶

この日は雨が降っていた。
体育の授業は、体育館にてバレーボールが行われている。

体育館専用シューズと、ワックスをかけられてピカピカな床がこすれ合い、鳥が鳴くような音がそこかしこから聞こえてくる。

それに混ざって、生徒たちのかけ声が館内に響いていた。

「よし! 行ったぞ、頼む!」

「シャーオラァ!」

「ちょ、おい…」

ジャンプした男子生徒が、困惑した表情で着地する。
彼から少し離れた場所に、バレーボールが落ちた。

それをワンバウンドでキャッチして、直前にボールを上げたクラスメイトに文句を言う。

「お前なあ、そんなゴリゴリのかけ声出しながらふわーっとしたボール上げてくんなよ。調子狂うだろうが」

「バカ言ってんなよおい、オレが悪いってのか? オレはセッターなんだから、アタックしやすい球を上げるのが正解だろうが」

「そりゃわかってるが、かけ声のことを言ってんだよこっちは! なんでシャーオラァ言いながらふわっとしたボール上げられるんだお前…逆に不思議だぞ」

「…おーい、どっちでもいいけど早くボール回してくんねーかな。こっちのサーブなんでー」

「あ…くそ、そっか」

相手コートのクラスメイトに言われ、セッターに調子を狂わされた男子生徒はしぶしぶボールを向こうへ投げ渡す。

その後で、セッター以外の自チームメンバーにこう言った。

「マジでゴメン。でも次はちゃんと決めるからさ」

「おーい、オレには謝ってくんねーのかなー?」

「お前はいいんだよ」

「なんでだよ」

「いいんだよ! ほら、来たぞ!」

相手チームがアタックを打ち、メンバーがそれをレシーブする。
セッターはそのボールを追いかけ、その真下へと体を持っていく。

そして。

「ダッシャーオラァ!」

またも威勢のいいかけ声とともに、ふわっとしたボールを上げる。
男子生徒も今度はそれにタイミングを合わせ、アタックを放った。

「おらっ!」

「…あ?」

男子生徒が放ったアタックは、即座に相手コートに突き刺さる。
そのチームの生徒は全く動くことができなかった。

「ご、ごめん」

謝りながら、レシーブできなかった生徒はのしのしとボールを拾いに行く。
相手チームのアタックを拾えなかったのは、今は体が太い征司だった。

ボールを拾ってコートに戻ると、チームのキャプテンらしい生徒からそのままサーブを打つように言われた。
征司はうなずき、コートの一番奥、ラインの外側につく。

「よっ」

ボールを軽く投げ上げ、下からサーブを打った。
それは大きく弧を描き、相手チームへ飛んでいく。

そこから短いラリーが始まった。

「ほいっ」

「シャーラァ!」

「おらっ!」

「うおっ!?」

「よし、よく取った! ほらっ!」

「このっ!」

「なんの、まだまだ!」

「ダッシャーアァ!」

「うるせーんだよお前! っとォ!」

「うわ」

一往復でラリーは途切れた。
征司がアタックを受け損ねてしまったためである。

「ゴメン」

そう言いながら、またコートの外へボールを拾いに行く。
彼が戻ってきてから、またラリーが再開される。

バレーボールはラリーを続けなければならない、というスポーツではない。
アタックなどで点数を稼いで相手チームに勝つ、というスポーツである。

ただ、必ず征司のところでラリーが途切れるので、妙なテンポの悪さがあった。
それに加えて、

(…一体、Y.N.は何がしたいんだろうな…)

征司が、試合とは全く関係ないことを考え続けているのも、少なからず問題があった。
ただでさえ動きが重くなっているのに、集中力を別のところで使っているので相手チームのアタックに反応できないのだ。

征司としては、反応できたところで今の体では完璧に取れるわけでもないので、自分の命に直接関係することを考えていたい、というのがある。

しかし、そんな彼の気持ちを理解できる者は、今ここにはいなかった。

「おい真田ァ!」

「え?」

「お前全然ボール見てないだろ! なにじっとしてんだよ!」

「いや、見てないっていうか、見えない…」

「んなわけないだろ! 向こうのチームにバレー部なんてひとりもいないんだぞ! ボーッとしてんじゃねーよ!」

「…ごめん」

「チッ…」

征司が謝っても、彼に文句を言っている生徒は納得していない。
その生徒は一度試合を止め、両チームの生徒に向かってこう言った。

「みんなちょっといいか? オレ、悪いけどチーム替えしてーんだ」

「お、おい、相沢…!」

同じチームの生徒が止めるが、相沢と呼ばれた生徒は聞かない。

「やる気ねぇヤツと組みたくねーんだよオレ。だからチーム替え、頼むよ」

「急にそう言われてもな…」

相手チームのメンバーも、渋い表情を浮かべている。
そこへ体育教師がやってきた。

「おいおいおい、なんだお前ら? どうした?」

「あ、先生。相沢がいきなりチーム替えしてくれって」

「なんだと? どうした相沢、なんかあったのか」

「どうもこうもないっスよ、先生」

相沢は、体育教師にもいら立った表情を隠さない。
一度ちらりと征司を見た後で、こうまくし立てた。

「体育の授業って言ったって、試合やるからには真剣勝負でしょ。なのに、同じチームにやる気がないヤツがいたらたまったもんじゃないですよ」

「やる気がないヤツ? 誰だ」

「それは…」

「あいたたたたたたたた」

突然の声に、相沢と体育教師の会話は中断された。
声がした方を見ると、そこには征司が腹を押さえて前かがみになっている。

体育教師は慌てて声をかけた。

「お、おい真田、大丈夫か?」

「す、すいません、実はずっとお腹痛いのガマンしてて…」

「なんだお前、そういうことは早く言え! 早く行ってこい!」

「はい…」

体育教師の許可を得た征司は、ゆっくりと歩きつつ体育館を出て行った。
その背後では、片方がひとり欠けた状態でチームが組まれ、試合が再開されていた。

(…うーん…今のは反省しなきゃいけないかもしれないな…)

腹が痛そうに歩きつつ、征司はそんなことを考える。
便意はなかったが、一応トイレには入った。

その後で体育館に戻ろうとしたが、ふと保健室が目に入った。
征司は数秒考えた後、そのドアをノックした。

「はい、どうぞ」

「失礼します…」

まだ腹を押さえながら保健室に入ると、女性の保健医が迎えてくれた。
腹痛である旨を伝えると、彼女の前にある背もたれのない椅子に座るよう言われた。

「じゃ、ちょっとお腹出して」

「はい」

指示に従い、征司は体操服をまくって大きな腹部を見せる。
保健医はそこに聴診器を当てた。

「う」

「あ、冷たかった? ゴメンね」

「いえ…」

「…ふむふむ…もういいわよ、ありがとう」

そう言われ、征司は体操服を下ろす。
その後で、保健医は彼にこう言った。

「2番のベッドあいてるから、しばらくそこで休んでなさい」

「…はい」

「1番は女子が寝てるから、覗いちゃダメよ」

「はい」

「…じゃ、じゃあ、ゆっくり休んでね…」

冗談が空振りして戸惑う保健医をよそに、征司は3つあるうちの真ん中のベッドへ向かった。
そこに座った後でカーテンを引き、周囲から見られないようにする。

完全に視線をシャットアウトできることを確認した後で、ゆっくりと体を横たわらせた。
小さな波のような穴が開いたパネルを敷き詰めた天井を見上げつつ、ふとこんなことを考える。

(仮病なの、バレたと思うんだけど…寝かせてくれるもんなんだな)

それは、征司にとってはありがたい処置だった。
トイレに行ってすぐ体育館に戻ったところで、あの雰囲気がよくなるわけもない。

(今日のはオレも悪い…とは思うけど、相沢も怒りすぎな気がするんだよな。まるで誰かさんみたいだ)

その誰かさん…ヴァージャは、この日の朝も征司の「第3の手」を悪用して、満員電車内の女子校生たちを観察していた。

それに関してはいつもと同じだったのだが、征司としては「12 ルサグスフ」との戦いの後で怒ったヴァージャが印象的だった。
まさかあのように怒られるとは、全く予想していなかったらしい。

(でも、怒られてもなあ…ああするしかなかったからやった、っていう感じなんだよな。オレとしては)

自分と同じ顔のヴァージャが、プリプリ怒る様子を思い出す。
すると征司の口元が思わず緩んだ。

と、ここで彼は気付く。

(でも、アレだな…誰かさんみたい、って思ったけど全然違うな。相沢はきっと、オレのこと嫌いなんだろう…だけどヴァージャのはそれとは違う)

明らかに憎しみがかった相沢の目。
それを思い出して征司は苦笑する。

(試合中に別のこと考えてて悪いとは思うけどさ…ぶっちゃけ、今はそれどころじゃなくなってきてるんだよな。相沢はそれを知らないんだ…わざわざ教える気もないけど)

そしてここから、征司の思考から相沢は消える。
「12 ルサグスフ」との戦いから、ずっと考えていたことをまた繰り返し考えるのだった。

(Y.N.は、あの男に1億という大金をちらつかせてオレを殺させようとした…でも、なんでだ? オレが超能力を持ってるのはわかってるみたいだけど、正直、1億かけて殺すほどのものじゃないと思うんだよな…)

征司の能力は「第3の手」。
誰にも知覚されないその手は、征司自身の感覚を乗せて20メートルほどまで伸ばすことができる。

手の形をしているが、持てる重量は100グラムまで。
ただし持つことができさえすれば、征司の筋力と同じ強さで動かしたりすることができる。

それは確かに超能力ではあるが、1億もの大金を積んで殺し屋を雇うほどのものか、と問われると…狙われた本人も首を傾げざるを得ない。

(そんな能力、別にほっときゃいいと思うんだよな、もしオレがY.N.なら。コンピュータに入り込んでものすごい調査ができるとかそんな能力ならまだしも、オレが『手』を突っ込んだところで基盤があるのがわかるくらいだしな…)

その基盤をいじることができれば大したものだろうが、征司にはその能力はない。
そもそも、基盤がどういう働きで動いているかもわからない。

(ヴァージャは、100グラムも持てればいろいろできるって言うけど、100グラムは100グラムだもんな。ステーキだと物足りないし、そんな大した力じゃない。なのに…)

征司の手が、ポケットの中の携帯電話を探す。
しかし今は体育用の短パンを履いているので、携帯電話はない。

Y.N.からのメールをチェックするつもりだった征司は、ここで少し顔をしかめる。
だがすぐに気を取り直し、その内容を思い出してみた。

(最初は、人と獣が混じった『リアライザ』が現れるから、『人と獣の境界線を掴んで倒せ』ってメールだった。半信半疑だったけど、リアライザを倒さないと家族に危険が及ぶって言われたから行くしかなかったし、倒すしかなかった…で、倒せたんだ)

人と獣の境界線とは、例えば人の体を持ちながら両手だけが犬の前足にすげ替えられている場合、「犬の前足と人の腕の境界線」がそれに当たる。

そこを征司が「第3の手」で掴むことによって、犬の前足は切断され、リアライザは「一部分が欠損した人間の体」に戻る。

つまり、リアライザを倒したことになる。

(その後、どこからかわかんないけど車がやってきて、リアライザだった人を回収する…Y.N.からはそれを確認したってメールがすぐに来る。オレはそんなことを3回もやった)

そして迎えたのが「12 ルサグスフ」との戦いである。
征司は自らの意識をわざと失って活路を見出すという、ヴァージャさえ度肝を抜かれるほどの作戦を実行して追い払った。

(ルサグスフ…は、刺客だってY.N.はメールに書いてた。だけど雇ったのはY.N.自身。あの男を雇うため…っていうかその気にさせるために、先に1000万なんていう大金を使っちゃってる)

あの男がどれほど愚かでも、ただ電話番号を調べて「少年を殺せ」と言ったところで、そのような依頼は受けないだろう。

実際に大金が手元にきたからこそ、Y.N.の指示に従おうと考えたはずである。
しかし男は、征司の命知らずな作戦によって追い払われてしまった。

(…リアライザを倒した時はすぐに誰かが回収して連絡がくるのに、今回は全然音沙汰がない…あと、あの男が捕まったっていうニュースも見ない…)

テレビ、新聞、ネットのニュースまで調べてみたが、そういう報道はなかった。
だがそこには納得もある。

(夜にうるさかったからってそれで捕まっても、いちいちニュースになったりはしないよな…だけどあの男、1000万っていう前金をもらってたのにオレに負けた…)

ここで征司は、男が言っていた言葉を思い出す。


『…勝手に俺の口座と電話番号を調べて、大金を前金として払うようなヤツだぜ? 逆らうと消されるのはよくわかってた』


(逆らうと消されるんなら…失敗したらどうなる?)

征司は、考えるまでもないことを問いかける。
そして小さくため息をついた。

(Y.N.に殺された、ってことなのか? あの男…)

「ん…」

この時、隣のベッドから声が聞こえた。
どうやら、寝ている女子生徒の寝言らしい。

「……んふっ…」

「…!」

征司の思考は停止する。
なぜか心拍数が上がり、聴覚がやたらと鋭くなる。

声がした方を見てみるが、自分がベッドの周りに広げたカーテンのせいで何も見えない。
それを開けたとしても、女子生徒が広げたカーテンがあるので同じなのだが。

「…」

「……ふぁ……!」

鼻にかかった寝言は、征司の中にいる「オス」をとても刺激する。
しかしすぐに、寝言は寝息へと戻った。

「すー…すうぅ……」

「……」

「…」

「………」

(…ドキドキさせないでくれよ…! びっくりした)

征司は少し大きく息を吐いた。
やがて、もう一度あれこれと考えようとしてみたのだが…

「…」

(……ダメだ、なんかいろいろバラバラになっちゃったぞ…)

女子生徒の不意打ちは、征司にかなりのダメージを与えたようだ。
結局、女子生徒をやけに意識するようになってしまった征司は、ゆっくり寝ることもY.N.について考えることもできなくなってしまったのだった。


帰宅後、征司は自分の部屋でパソコンを操作していた。
型番としては古いノートパソコンだったが、ネットなどを見る分にはまだ充分使うことができる。

「んーと」

「何から調べるんだ? セェジ」

「そうだな…これまではニュースを探すばかりだったから、今度は『ルサグスフ』を見てみよう」

そう言って、征司はキィボードを叩いた。
検索ウィンドウに「ルサグスフ」と入力し、エンターキィを押す。

すると結果がすぐに出た。

「…あれっ」

「これは珍しいな、おい」

ヴァージャも目を丸くする検索結果が出た。
パソコンの画面には「結果が見つかりませんでした」とある。

「ロシア系の名前、とかで出るかと思ったが…まさか何にも出ねーとはな」

「この時代に、結果がゼロってことがあるんだな…」

「どうするよセェジ? いきなり詰まっちまったぜ」

「う、うーん…」

征司は困った顔で頭を書く。
と、今度は「ルサグスフ」の前に「12」と「(スペース)」を入れてみた。

「12 ルサグスフ」となり、Y.N.からのメールと全く同じ字面になる。
征司はそれを確認してエンターキィを押した。

「…」

「ダメ、か」

「スペースを半角にしてみたらどうだ?」

「…いや、同じだ。どっちにしても出ない」

「くそっ、無理かよ…」

これで「12 ルサグスフ」に関しては、調べようがなくなってしまった。
がっかりした表情で、征司はパソコンの電源を落とす。

「あーもう。少しは何かわかると思ったんだけどな…」

「本当に何も出てこねぇってことは、ロシア語でさえもねぇ、ってことかもしれねーな」

「…でも、Y.N.にしてみればこれがあの男の名前、ってことだろ?」

「そうだな。完全に造語みてーだが…でもって12ってのも意味がわからんが」

「Y.N.は一体何がしたいんだよ…!」

征司は頭を抱える。
そのままの状態でベッドに転がり込んだ。

体を横に倒し、胎児のように丸くなる。
その上をヴァージャがふわふわと漂う。

丸くなったまま、征司は少しいら立った様子で口を開いた。

「リアライザを倒さなきゃ家族が危険で、倒していったら今度はオレを殺すヤツを雇って、そいつを倒したら今度は連絡なしって…」

「あの男に関しては、倒したってよりか追い払ったって感じだがな」

「どっちでもいいよ、もうオレが戦うことはないんだから」

「…」

「…ヴァージャ?」

征司はふと顔を上げる。
突然話を止めたヴァージャを見ると、彼は漂いながら考え込んでいた。

「なあセェジ…そーいや連絡ねーんだよな、Y.N.から」

「え? ああ…メールは来てない」

「今までは来てたよな? リアライザ倒した時は」

「あー、うん。回収する人もいたな、そういえば」

「じゃあなんで今回はメールねぇんだ?」

「そんなのオレが知るわけないだろ。Y.N.が何を考えてるか、オレにはさっぱりわからないんだからな」

「なあ、セェジ…ちょっと考えてみようぜ」

ヴァージャはそう言って、ベッドのそばに降り立った。
あごに手を添えて、厳しい表情を見せる。

「考えるって…何を?」

横に丸まったまま、征司は彼を見る。
この時。

「…?」

何かが聞こえたような気がした。
場所は1階。

今彼らがいる自室の真下。

「なあ、ヴァージャ…今何か聞こえなかっ…」

ヴァージャに問おうとした征司の視界、その端に何かが見えた。
青白く、半透明な何か。

顔を動かして、そちらを見ようとした瞬間。
ヴァージャの怒声が響いた。

「セェジ! 早くここから逃げろ!」

「え?」

それは突然だった。
青白く半透明な何かは、征司に向かって飛びかかってきた。

「うっ!?」

征司の呼吸が止められる。
彼は思わず首元に両手をやり、それを掴んだ。

(こ、これは…!)

「セェジ、俺たちはもっと警戒しとくべきだった! Y.N.からの『回収完了メール』が来てねぇってことは、まだ戦いは終わってねぇってことだったんだ!」

「ぐっ、うぐぅう?」

「それに見てみろ、これをよォ…どっかで見たことねーか、この青白っぽさをよォ!」

(まさか、これは…っ!)

征司の呼吸を止めているのは、青白い何か。
そこから触手が伸びている。

(いや、違う! ここから伸びてるんじゃなくて、向こうから伸ばしてきてる…!)

それは、手。
青白く半透明な手。

そしてそれは腕。
青白く半透明で、自分次第で何メートルにも伸ばせる腕。

(これは俺と同じ『手』…!)

「お前のと同じ『手』だぜ、セェジ!」

征司とヴァージャは、全く同じ結論に達する。
直後、征司は背中から自らの手を伸ばし、両手と合わせて3本の手で首にかかった『手』を外した。

『手』は、外された直後に腕に引っ張られて部屋を出ていく。
だがそれは、敵が逃げたということではない。

「なんてこった…! 俺らは完全に油断した! あの野郎、俺らに恐れをなして逃げたわけじゃなかったんだ!」

「げほっ、げほっ…あ、ああ」

「まんまと尾行されて家まで見つけられちまった! それにヤツは、お前と同じ『手』を持ってる! その性能も同じだとするなら、ヤツは下にいながらお前の正確な位置がわかるだろうな」

「…はあ、はあ…」

「だがこっちには、ヤツの位置がわからねぇ。しかしそれよりも重要なのが、ヤツの能力が何なのかってことだ」

「でも、それは…向こうだって同じはず」

征司は苦しい息をしつつもヴァージャに言う。
彼もその言葉にうなずいた。

「そうだぜセェジ。ヤツの能力を探りながら、こっちの能力はバラさねぇって努力が大事だ。向こうも同じこと考えてるだろうがな!」

「ああ…」

征司は息を整え、ベッドから降りる。
いつの間にか開いていたドアを閉め、机に向かう。

そして武器になりそうな物を探した。
だが、ナイフマニアでもない彼にとって、武器と呼べるものはほとんどない。

手に取ったのはカッターとコンパス、そして中身を出したカバンだった。
カバンを左手に持ち、盾のように構えながらドアへと向かう。

できるだけ音を立てないように、ゆっくりとドアを開けた。
廊下に敵の「手」はない。

「……」

息を殺しながら廊下を進んでいく。
この時ばかりは、ヴァージャも何もしゃべらない。

やがて階段近くにまで来た。
そこから下の状況を見ようとした時、玄関先で音が聞こえる。

「…?」

それは外へ通じるドアが開かれ、閉じられる音だった。
この音が聞こえた後、下の階から人の気配が消える。

「……?」

それを不思議に思った征司は、不測の事態に備えつつゆっくりと階段を降りていく。
だが、人の気配が感じられないのは変わらず、誰かがいる雰囲気は感じられない。

「………」

息を殺した状態のまま、征司はリビングへと向かう。
だがそこにも誰もいない。

(いない…?)

ダイニングにも、キッチンにも、風呂にも誰かが潜んでいる気配はない。
1階すべてを探索してみても、何もなければ誰もいなかった。

「ヴァージャ? これはどういう…」

「しまった…! 急げセェジ、外だ!」

征司の質問にかぶせるようにヴァージャは言った。
だが征司には、なぜ外に急がなければならないのかがわからない。

「ちょ、ちょっと待てよヴァージャ。一体どういうことなんだよ?」

「いいから急いで靴履け! ヤツを追うんだよ!」

「あ、ああ…」

意味がわからない征司は、しかしヴァージャの指示に従ってできるだけ急ぐ。
その時、車が発進する音が聞こえた。

「やべぇ! セェジ、もっと急げ!」

「わ、わかってるよ!」

征司は征司なりに目一杯急いでいた。
走って玄関へ向かい、靴を履く。

そしてドアを開け、外に出た。

「…!」

征司の目に、走り去る車が見えたのはそれとほぼ同時だった。
もはや人の足で追いつける距離ではなかった。

「く、くそ…!」

車はすぐに角を曲がり、征司の視界からも消える。
彼らは完全に、敵を取り逃してしまった。

「ヴァージャ…」

悔しげに立ち尽くすヴァージャに征司は声をかける。
するとヴァージャは、ゆっくりと彼に振り返ってこう言った。

「まんまと逃げられちまったぜ、セェジ…ヤツは俺らの家を知った。知った上で逃げたんだ」

「…知った上で…なんで逃げたんだ?」

「ヤツはお前と同じく『手』を持ってる。1階から、2階にある俺らの部屋までは軽く伸ばせるぜ、っていうのをヤツは俺らに教えた…その上で逃げた」

「だから、なんで逃げたんだよ?」

「住所さえ知ってりゃ、ヤツはいつでも来れるんだ…それに、外からでも『手』は入れられる」

「…!」

征司は、ヴァージャが何を言わんとしているか、だんだん理解し始めた。
それは彼自身が、「第3の手」がどれだけ自由に動けるのかを知っているが故でもあった。

「いつでも来れる…手も家の中へ入れられる…!」

「ああ、そうだぜ。セェジ」

ヴァージャの表情は苦々しい。
そして彼は征司に、決定的なことを伝えねばならなかった。

「ヤツはもう、いつでも俺たちを暗殺できる状態になった…いつでもふらっとやってきて、物陰にかくれて『手』を伸ばせばそれでいい」

「…!」

「俺らが寝てる時にそれをやられれば、もう完全にアウトだ。それだけじゃねぇ、もしヤツが朝に来てみろ…俺らの家族も殺されちまう」

「くっ…!」

「さっきのはただの挨拶だったんだ。だが俺らはそれに気付けなくて、みすみすヤツを逃しちまった…! ここからはシャレにならねぇ戦いになるぜ、セェジ!」

「………」

征司は家の中に入り、ゆっくりとドアを閉じた。
その顔には、嫌な汗がいつの間にかじっとりとにじんでいた。


>L.S.A.G.S.F. その1へ続く