【本編】L.S.A.G.S.F. その1
L.S.A.G.S.F. その1
「認識、ってものを…新たにしなきゃならない。そうだろ、セェジ」
自室に戻った後で、ヴァージャは征司にそう言った。
征司が返事をするまでの間、外で降り始めの雨音が聞こえた。
「…どういう意味だよ?」
この言葉から、征司の意識から雨音は消える。
降ってはいるが、彼には認識できなくなる。
それほど重要な話が始まろうとしていた。
「お前もそうだが、俺も簡単に考えてた…それを認めなきゃならない。一応訊くが、今も『大勝ちしそうな予感』とやらがお前の中にあるかよ?」
「……」
「答えられねぇよな。そりゃそうだろうぜ」
ヴァージャはそう言いながら、ポケットから紙を取り出す。
そこにはいつの間に書かれたのか、4ケタの数字が記されている。
「これはさっきの車のナンバーだ…ギリギリ見えたのを書いといた」
「…!」
征司は思わず手を伸ばす。
だが、彼の手はヴァージャが持っている紙をすり抜けた。
「えっ…」
「慌てんなセェジ。『俺が出した紙』だぜ…俺が覚えてるだけ、お前にも見えてるだけ。この紙は存在してねぇんだ。そうだろ、セェジ」
「……」
「俺らはずっとそんなふうにやってきたはずだ。なのにお前は、こんな基本的なことさえ忘れるくらい動揺してる。だがそれは俺も同じだ…なんで車のナンバーなんか憶えたんだかな」
そう言ってヴァージャは笑った。
紙を握りつぶそうとして、しかしそれをやめる。
征司はそんな彼にこう問いかけた。
「車のナンバーを憶えてるなんてすごいじゃないか、ヴァージャ。オレにはそんな余裕はなかった…ただボーッと車を見てることしかできなかった」
「それが普通だ」
「こんな状況なのに、『普通』じゃダメだろ…」
「確かにな」
ヴァージャは小さく笑う。
そして紙をたたみ、ポケットにしまった。
「だがセェジ、今の状況じゃ車のナンバーがわかったって何の意味もねぇ…俺らみてーなガキがどっかの役所に『調べてくれ』って言ったところで、すぐに追い出されて終わりだ」
「…別に、オレたちが役所に行く必要はないだろ。警察に頼めば…」
「警察に頼んで、捜査協力をするってのか? なんて説明すんだよ」
「それは…そうだ、泥棒に入られたって言えば」
尾行され、勝手に家に侵入されたという状況は、盗みに入られた状況と同じ…と言えなくもない。
ヴァージャは一瞬反論しようとしたが、それをやめて考え込んだ。
「…ふむ…」
「警察に頼んじゃダメな理由でもあるのか? ヴァージャ」
「…いや、俺らのことがバレやしねーかって心配があったんだが…」
「お前が前に言ったんじゃないか。現代科学はオレらのことなんか解き明かせないって。とにかく警察を呼ぼう」
「そうだな…またまずいことになったらその時考えるか」
「…ヴァージャ」
「ん?」
「余裕がないの、オレだけじゃないんだな」
「…さーて、な」
ヴァージャはそう言って顔を征司から背ける。
どこか子どもっぽいその仕草に、征司は小さく微笑むことができた。
征司は車のナンバーを見逃し、ヴァージャは警察に頼ることを忘れる。
そんな一長一短な「ふたり」だったが、「ふたり」がそろっていることで新たな味方を家に呼ぶことができた。
それは現役の警察官。
一般人が呼べる人間の中で、最高の捜査権限と最強の格闘能力をあわせ持つ者である。
「…それで、これがその車のナンバーだ、と」
「はい」
「キミ、高校生なのによく車のナンバーとか見てたねぇ」
「えっと、はい…」
「ご両親はお仕事?」
「はい。いつも明け方しか戻らなくて」
「そっか。男の子だっていっても、そんな状況だと不安だねぇ…」
征司は、気さくそうな中年の警察官と廊下で話していた。
警察官はさらに3人いて、リビングで何やら作業をしている。
(…ソファが動いてるな…)
征司はこの時初めて、家に侵入した「ルサグスフ」が家具に手をつけていることを知った。
外から帰ってすぐに自分の部屋に戻ったため、リビングの様子が変化していることを彼は知らなかった。
それからしばらくして、警察官たちの作業は終わる。
その結果はまとめられ、征司とずっと話していた警察官が代表して報告した。
「まあ、マヌケなヤツだよ。玄関のところに靴跡も残ってるし、キミはご両親と3人暮らしって言ってたのに、それ以外の指紋がベタベタくっついてる…どうやら手袋もしないでいろいろ触っていったようだ」
「…」
「オマケに車のナンバーまである。すぐに捕まるんじゃないかな」
「…そうですか」
「犯人を捕まえた後のこととか、そういうのはご両親とのお話になるから、キミにいろいろ訊くのはこれが最後になると思うけど…何かなくなったものってある?」
「…えーっと…」
征司はその場から動かずにリビングを見る。
ソファが少し動いていた程度で、引き出しなどが開けられた形跡はない。
「多分、ないと思います」
「だろうね、何も開けてないもんね」
警察官はそう言って軽く笑った。
そして征司の肩を二度叩く。
「大丈夫、すぐに捕まえるよ。もし何かあったり怖くてしょうがなかったりしたら、いつでも連絡してくれていいから」
「は、はあ…」
「それじゃあね」
そして警察官たちは帰っていった。
特に両親が飛んで帰ってくるわけでもなく、あっさりと捜査は終わった。
「…間違いねぇ、本物だな」
警察官たちがドアから出て行くのと入れ替わりに、ヴァージャが宙に浮いた状態で入ってくる。
それとほぼ同時に、征司の「第3の手」も戻ってきていた。
征司はそれを外にできるだけ伸ばし、「第3の手」からの視覚をヴァージャに貸していた。
ヴァージャはそれで外にあるパトカーを調べ、さらに他の警察官が何を話していたかを聞き取っていた。
「盗みだけ、ってことでかなり気が抜けてやがる。まあ、証拠があっさり見つかったってのもあるんだろうがよ」
「そうか…パトカーはどうだった?」
「なんかナビつきのタクシーみてーな感じだったな。無線の音がやかましかったぜ」
「へぇ。なんかもっとすごい装備とかありそうなもんだと思ってたけど」
「あるんじゃねーの? ただいつもおっぴろげてるわけじゃねーってことかもしれねーしな。それより…」
「ん?」
「うちの親ども、家に泥棒が入ったってのに帰ってくる気配すらねーんだな」
「ははっ」
ヴァージャの悪態に、征司は思わず笑う。
その笑顔のまま、彼にこう返した。
「その方がオレにとっちゃ安心だよ。記者として飛び回ってくれてる方が、狙われる確率も低くなるだろうし」
「そりゃそうだが、かわいい息子が心配じゃねーのかね」
「あんまりべったり心配されても、それはそれでオレが困るよ。ヴァージャだってそうだろ?」
「まあな。こうして気軽に出てこれなくなっちまう」
「だからきっと、これでちょうどいいんだよ」
そう言って、征司は2階へ上がっていく。
自分の部屋に戻る頃には、心がかなり軽くなっていた。
「すぐ捕まるってあれだけ言ってくれてるんだし、もう大丈夫だよな?」
「ヤツが動けば、それだけ警察は捕まえやすくなるってことだからな。とりあえずは一安心ってヤツだろ」
「そうだよな。車のナンバーまでバレてるんだ、捕まらないってことはないよな」
「ああ、そうだぜ。バッチリ警察にマークされちまったら、逃げ場なんかねーさ」
「あはは」
「ふふふ」
征司はベッドに体を投げ出す。
軽く体がバウンドするのを感じ、その勢いを使って体を仰向けにする。
その上にふわふわとヴァージャが漂っていた。
ベッドの上と上空にいるふたりの顔には、それぞれ笑顔が浮かんでいた。
その顔が驚きに染まるのは5日後の朝だった。
「えっ…? 今なんて?」
「聞こえなかったの? 空き巣の犯人、捕まったのよ」
征司の母親はそう言いながら、彼に茶碗を渡す。
茶碗には白いごはんが湯気をあげていた。
「犯人、捕まったんだ…」
茶碗を持ったままその事実を受け入れていると、そこに父親の言葉が飛んでくる。
「ここしばらくはお前も怖い思いをしただろうが、もう安心だ。父さんたちも安心だよ。な? 母さん」
「そうね。でもお父さん、ごはん時に新聞読むのは止めてって何回言ったらわかってくれるのかしら?」
「ご、ごめんよ…そんなにらむなよ…」
「…」
両親のやりとりを見て、征司は思わず顔をしかめる。
だが文句を言うことはせず、父親が新聞を下へ置いたのに合わせて、全員で朝食をとった。
それから征司が学校へ出発し、その後で両親は仕事に出る。
この時から明け方まで、両親は家に帰ってくることがない…のだが、逆に言えば必ず明け方には家に帰ってくる。
それは不思議な生活サイクルだったが、征司とヴァージャは慣れてしまっているので違和感を感じなかった。
この日は特に、両親の生活サイクルなどどうでもよかった。
「…どう思う?」
「よかったんじゃねーの? 捕まったんならよ」
家から最寄り駅までの道。
ヴァージャは起きており、征司の体は細身のまま。
他にも駅に急ぐ学生がいるが、征司は走らずにできるだけ小声でヴァージャに話しかけている。
「捕まったんなら、あいつ…ルサグスフはもう終わり、ってことだよな?」
「そう願いてぇところだが、まだメールは来てねーのか?」
「…ああ、来てない」
ポケットに神経を集中させるが、携帯電話は震えていない。
家を出た直後にも確認していたが、Y.N.からのメールはなかった。
「…リアライザと戦えって指示があってから、週に一度はY.N.からメールがあったってのに…今回はずっと来ねぇまんまだな」
「いっそ、このまま来ないで終わってくれればいいよ。人生、平和が一番さ」
「ジジくせぇこと言うな、セェジ」
「この5日間、休まるヒマなんてなかったんだ…お前ならわかるだろ、ヴァージャ」
「まあな」
話をしている間に征司は駅に到着する。
いつものように改札に向かい、定期を使って通過する。
電車に乗ると、他の客も押し寄せてくる。
いつもと同じ時間の電車であり、いつもと同じ混み具合だった。
「…」
そして征司の背中から、「第3の手」がゆっくりと天井に向かって伸びる。
手から伝わる視覚をヴァージャに貸し、彼の指示を待った。
すると彼はこんなことを征司に言った。
「ここんとこ、ヤツがこの中にまぎれてんじゃねーかって、俺も女子高生より男ばっかり見てたもんだが…今日からはまた、思う存分女子高生を観察できそうだな」
「……」
ヴァージャの言葉を聞いて、征司は少し怒った顔で彼を見上げる。
天井付近にふわふわと浮くヴァージャはしかし、征司の視線をまともに受けたところで全くひるまない。
「へへへっ、そこじゃ声出せねーだろセェジ。俺に注意しようったって、俺の存在がわかるのはお前だけだもんな。俺に何を言ったって周りの連中はわかんねーんだ…それに、これは俺へのご褒美でもあるんだぜ」
「…」
「この5日間、落ち着かなかったのは俺だって同じだ。でもって、この楽しみを封印されてもきた…だから今日は久々に見まくってやるぜ! ってことで伸ばせ伸ばせー!」
「……」
ヴァージャの盛り上がりようとは逆に、征司はがっくりと頭を垂れようとする。
それが目の前の男子高生に当たりそうになり、彼は慌てて謝った。
「す、すいません…」
「…いえ…」
そんな短いやりとりがあった後、当然のようにふたりは黙る。
やがて、征司たちを乗せた電車は発車した。
エンジンの轟音も耳をつんざくブレーキ音も、数年とたたずに慣れる。
征司もご多分に漏れず、もうそれらは気にならなくなっていた。
「…?」
しかし、何か違和感を感じている。
正確には電車について違和感を感じているのではなく…
(……何か、もぞもぞしてる…?)
何かが動いていること、それもやけに自分のすぐ近くで動いていることに、違和感を感じていた。
位置は、征司の右脇腹付近。
電車は満員状態なので、目でそちらを見ることはできない。
右腕を少し後ろに引くと、動いている何かに当たった。
だがそれは腕と脇腹の間に潜り込もうとしてくる。
明らかにそれは人の手だった。
(なんだ…チカン、なのか? オレ、男なんだけど…)
さらに強く右腕を脇腹にくっつけるが、その手はするするとその間を抜ける。
そして制服の右前のポケットに入った。
ただ、ポケットとはいってもズボンのポケットではなく、上着のポケットだった。
そこには何も入っていない。
満員状態では、征司自身がこのポケットに手を伸ばすことは難しい。
右側のポケットだが右手では無理な位置だし、左手を動かすことはできない。
(…何もないだろ…早く出てけよ、気持ち悪い…)
ポケットへの侵入を防ぐことはできなかったが、ポケットには元々何も入れていなかったので、征司もそれほど深刻には考えていなかった。
やがてそのポケットから手が出ていくと、征司は安心したのか少し大きめのため息をついた。
しかしこのため息では、心に生まれたもやもやしたものが晴れることはなかった。
(せっかくルサグスフが捕まったっていうのに、最低の気分だ…くそ)
痴漢のターゲットではなかっただろうし、何か盗られたというわけでもない。
だが、勝手に自分のポケットに手を突っ込まれるというのは、この上なく気分を害するものである。
征司はそれを実感していた。
そして、それを実感するだけではすまされなかった。
(…ちょ、おい?)
カバンが引っ張られている。
左手に持っている、征司のカバンが引っ張られていた。
(なんなんだ今日は? 誰だ引っ張ってるのはっ!)
征司も負けじと強く引っ張り返す。
すると、人々の間にカバンを引っ張る手が見えた。
(え?)
それを見て征司は驚く。
彼のカバンを奪おうとしているのは、ひとりではなかったのだ。
ひとつの手がカバンをつかんでおり、それにふたつの手が添えられている。
合計3人の手が、征司からカバンを奪おうと引っ張っていた。
(なんだ…? なんなんだ?)
そう思っている間にも、彼のカバンは強く引っ張られる。
奪われるわけにはいかないため、彼も右手を添えて必死に抵抗する。
すると今度は、別の人間の手が左脇腹を這うのを感じた。
制服のポケットに手を入れるかと思いきや、それは一気に上へと上がってくる。
「…!」
その手は征司の口をふさいだ。
さらに別の手が、征司の首をつかむ。
(なに…! なんだこれ? どうなってる!)
カバンは今もまだ強く引っ張られている。
それに抵抗するために両手を使っているため、口元の手を引きはがすことができない。
(まさかヤツがいるのか? 後ろにいるのか! だが、それならカバンとかポケットとかはどういう…うぐぐぐっ)
考えている間に呼吸が苦しくなる。
今はのんびりと思索している場合ではなかった。
(か、カバンは…今はしょうがない、くれてやる!)
征司はすぐに、カバンから手を離した。
そして口元の手を両手で掴む。
全力でそれを引き下げると、どうにか鼻を露出させることができた。
必死にそこだけで呼吸していると、後ろから声が聞こえてくる。
「オレの勝ちだ、バーカ」
(…!?)
その声は、別人だった。
椎葉宮の入口で会った男とは、違うものだった。
(誰だ…? っていうか、捕まったんじゃ…!)
椎葉宮で出会った男ではないにしても、家に侵入した男ではないのか。
Y.N.が雇った「ルサグスフ」である証拠として、征司と同じ「手」を持っているのではないのか。
だがその男は、警察によって捕まったはずなのである。
多くの証拠を残していたことで、スピード解決がなされたはずだった。
しかし。
犯人らしき男は今、征司の背後にいる。
(ヴァージャ、ヴァージャ…!)
征司は必死になってヴァージャを呼ぶ。
だが、彼の指示でかなり遠くまで「第3の手」を伸ばしてしまったため、征司のすぐそばだけで起こっている異常に気付いていない。
(何か、何か武器を…!)
自分ひとりでどうにかしなければ、という思う征司だが、カバンは「なぜか3人に強く引っ張られて」、もうどこかへ持っていかれてしまっている。
ポケットにはほとんど何も入っておらず、入っているポケットにも財布と携帯電話しか入っていない。
それは背後にいる人物を攻撃する凶器にはならない。
そして何より…
もう時間がなかった。
何かを探して取り出すほどの時間が、
もう征司には残されていなかったのだ。
「うぐっ!?」
背後からの強い衝撃。
それとともに、何かが背中から体内に侵入した。
そこからさらに力がかけられ、侵入は深くなる。
「ぶ、ぅ…?」
征司の口内に、鉄の味が一気に広がった。
唇を閉じていても、それは端からこぼれてしまう。
「…!?」
この時、ヴァージャもやっと異常に気付いた。
征司の「手」を置いて素早く彼のそばへ戻る。
そして見た。
征司の周囲から、一気に人がいなくなるのを。
「フフッ、フフフフフ…」
ただひとりだけ、征司の最も近くにいながら離れなかった男がいる。
その男は、勝ち誇った顔で征司の耳元にこうささやいた。
「バカだなぁお前…この俺がそう簡単に逃げたり、捕まったりするわけないだろ…特に逃げるってのはない。絶対にない」
「うぐ、う…」
「椎葉宮で教えてやったろ? 先に1000万入ったって…お前を殺せば残り9000万もらえるって」
「ぐ、う」
男が後ろから体を揺らす。
その度に、征司の内部に侵入した刃が深く刺さっていく。
後ろの男は、明らかにそれを楽しんでいた。
ニヤけた笑顔がそれを裏付けている。
「億だぜ、億…まさにケタ違いってヤツで、単位が違う。お前はまだガキだから、この意味がわかんねーだろうが…億ってのは本当に、人が何人死んでもおかしくねぇ数字なんだぜ」
「か、は…」
「それがお前ひとり死んだだけで手に入る。こんな平和的なことはねぇ。だからお前は死ぬんだよ。俺が1億って大金を手に入れるために死ぬんだ」
そう言って、男は右手を引いた。
征司に刺さった刃が抜け、周囲に血がまき散らされる。
「きゃあああああああああっ!?」
誰かの絶叫。
そして、力なく前へ倒れていく征司。
「せ、セェジ…! おい、セェジ!」
ヴァージャは彼を抱きとめようとするが、その姿は実体ではない。
征司を受け止めることはできず、その体は電車の床に叩きつけられた。
それは「第3の手」も同じで、ヴァージャの指示で伸ばされたそれはゆっくりと床に落ちた。
征司とヴァージャ以外誰にも知覚されないそれは、だらしなく伸びきったままだった。
その脱力している姿が、ヴァージャに何かを語りかけている。
「お、おい…セェジ、ちょっと待て、お前…!」
「……」
「なんとか言えよ、なにか言えって! おい!」
「………」
征司は答えない。
虚ろな目は、もう焦点が合っていない。
「くそ…! 冗談じゃねぇぞ、冗談じゃねぇ! なんかいろいろ、冗談じゃねぇぞ!」
征司を刺した男は、椎葉宮で出会った男とは別人だった。
さらに、自宅に侵入した人物とも違っていた。
だがここにいる男は「ルサグスフ」として征司を刺した。
何がどうなっているのか、一体どういうことなのか、ヴァージャにはわからない。
しかし今はそれを解き明かしている時間はなかった。
「とにかく血を止めるんだ! まずそれだ…!」
そしてヴァージャの姿は消える。
征司の視界から消えた。
やがて電車は止まり、客から連絡を受けたのか警察がやってきた。
征司を刺した男は捕まり、征司は病院へ搬送されていくのだった。
>L.S.A.G.S.F. その2へ続く
「認識、ってものを…新たにしなきゃならない。そうだろ、セェジ」
自室に戻った後で、ヴァージャは征司にそう言った。
征司が返事をするまでの間、外で降り始めの雨音が聞こえた。
「…どういう意味だよ?」
この言葉から、征司の意識から雨音は消える。
降ってはいるが、彼には認識できなくなる。
それほど重要な話が始まろうとしていた。
「お前もそうだが、俺も簡単に考えてた…それを認めなきゃならない。一応訊くが、今も『大勝ちしそうな予感』とやらがお前の中にあるかよ?」
「……」
「答えられねぇよな。そりゃそうだろうぜ」
ヴァージャはそう言いながら、ポケットから紙を取り出す。
そこにはいつの間に書かれたのか、4ケタの数字が記されている。
「これはさっきの車のナンバーだ…ギリギリ見えたのを書いといた」
「…!」
征司は思わず手を伸ばす。
だが、彼の手はヴァージャが持っている紙をすり抜けた。
「えっ…」
「慌てんなセェジ。『俺が出した紙』だぜ…俺が覚えてるだけ、お前にも見えてるだけ。この紙は存在してねぇんだ。そうだろ、セェジ」
「……」
「俺らはずっとそんなふうにやってきたはずだ。なのにお前は、こんな基本的なことさえ忘れるくらい動揺してる。だがそれは俺も同じだ…なんで車のナンバーなんか憶えたんだかな」
そう言ってヴァージャは笑った。
紙を握りつぶそうとして、しかしそれをやめる。
征司はそんな彼にこう問いかけた。
「車のナンバーを憶えてるなんてすごいじゃないか、ヴァージャ。オレにはそんな余裕はなかった…ただボーッと車を見てることしかできなかった」
「それが普通だ」
「こんな状況なのに、『普通』じゃダメだろ…」
「確かにな」
ヴァージャは小さく笑う。
そして紙をたたみ、ポケットにしまった。
「だがセェジ、今の状況じゃ車のナンバーがわかったって何の意味もねぇ…俺らみてーなガキがどっかの役所に『調べてくれ』って言ったところで、すぐに追い出されて終わりだ」
「…別に、オレたちが役所に行く必要はないだろ。警察に頼めば…」
「警察に頼んで、捜査協力をするってのか? なんて説明すんだよ」
「それは…そうだ、泥棒に入られたって言えば」
尾行され、勝手に家に侵入されたという状況は、盗みに入られた状況と同じ…と言えなくもない。
ヴァージャは一瞬反論しようとしたが、それをやめて考え込んだ。
「…ふむ…」
「警察に頼んじゃダメな理由でもあるのか? ヴァージャ」
「…いや、俺らのことがバレやしねーかって心配があったんだが…」
「お前が前に言ったんじゃないか。現代科学はオレらのことなんか解き明かせないって。とにかく警察を呼ぼう」
「そうだな…またまずいことになったらその時考えるか」
「…ヴァージャ」
「ん?」
「余裕がないの、オレだけじゃないんだな」
「…さーて、な」
ヴァージャはそう言って顔を征司から背ける。
どこか子どもっぽいその仕草に、征司は小さく微笑むことができた。
征司は車のナンバーを見逃し、ヴァージャは警察に頼ることを忘れる。
そんな一長一短な「ふたり」だったが、「ふたり」がそろっていることで新たな味方を家に呼ぶことができた。
それは現役の警察官。
一般人が呼べる人間の中で、最高の捜査権限と最強の格闘能力をあわせ持つ者である。
「…それで、これがその車のナンバーだ、と」
「はい」
「キミ、高校生なのによく車のナンバーとか見てたねぇ」
「えっと、はい…」
「ご両親はお仕事?」
「はい。いつも明け方しか戻らなくて」
「そっか。男の子だっていっても、そんな状況だと不安だねぇ…」
征司は、気さくそうな中年の警察官と廊下で話していた。
警察官はさらに3人いて、リビングで何やら作業をしている。
(…ソファが動いてるな…)
征司はこの時初めて、家に侵入した「ルサグスフ」が家具に手をつけていることを知った。
外から帰ってすぐに自分の部屋に戻ったため、リビングの様子が変化していることを彼は知らなかった。
それからしばらくして、警察官たちの作業は終わる。
その結果はまとめられ、征司とずっと話していた警察官が代表して報告した。
「まあ、マヌケなヤツだよ。玄関のところに靴跡も残ってるし、キミはご両親と3人暮らしって言ってたのに、それ以外の指紋がベタベタくっついてる…どうやら手袋もしないでいろいろ触っていったようだ」
「…」
「オマケに車のナンバーまである。すぐに捕まるんじゃないかな」
「…そうですか」
「犯人を捕まえた後のこととか、そういうのはご両親とのお話になるから、キミにいろいろ訊くのはこれが最後になると思うけど…何かなくなったものってある?」
「…えーっと…」
征司はその場から動かずにリビングを見る。
ソファが少し動いていた程度で、引き出しなどが開けられた形跡はない。
「多分、ないと思います」
「だろうね、何も開けてないもんね」
警察官はそう言って軽く笑った。
そして征司の肩を二度叩く。
「大丈夫、すぐに捕まえるよ。もし何かあったり怖くてしょうがなかったりしたら、いつでも連絡してくれていいから」
「は、はあ…」
「それじゃあね」
そして警察官たちは帰っていった。
特に両親が飛んで帰ってくるわけでもなく、あっさりと捜査は終わった。
「…間違いねぇ、本物だな」
警察官たちがドアから出て行くのと入れ替わりに、ヴァージャが宙に浮いた状態で入ってくる。
それとほぼ同時に、征司の「第3の手」も戻ってきていた。
征司はそれを外にできるだけ伸ばし、「第3の手」からの視覚をヴァージャに貸していた。
ヴァージャはそれで外にあるパトカーを調べ、さらに他の警察官が何を話していたかを聞き取っていた。
「盗みだけ、ってことでかなり気が抜けてやがる。まあ、証拠があっさり見つかったってのもあるんだろうがよ」
「そうか…パトカーはどうだった?」
「なんかナビつきのタクシーみてーな感じだったな。無線の音がやかましかったぜ」
「へぇ。なんかもっとすごい装備とかありそうなもんだと思ってたけど」
「あるんじゃねーの? ただいつもおっぴろげてるわけじゃねーってことかもしれねーしな。それより…」
「ん?」
「うちの親ども、家に泥棒が入ったってのに帰ってくる気配すらねーんだな」
「ははっ」
ヴァージャの悪態に、征司は思わず笑う。
その笑顔のまま、彼にこう返した。
「その方がオレにとっちゃ安心だよ。記者として飛び回ってくれてる方が、狙われる確率も低くなるだろうし」
「そりゃそうだが、かわいい息子が心配じゃねーのかね」
「あんまりべったり心配されても、それはそれでオレが困るよ。ヴァージャだってそうだろ?」
「まあな。こうして気軽に出てこれなくなっちまう」
「だからきっと、これでちょうどいいんだよ」
そう言って、征司は2階へ上がっていく。
自分の部屋に戻る頃には、心がかなり軽くなっていた。
「すぐ捕まるってあれだけ言ってくれてるんだし、もう大丈夫だよな?」
「ヤツが動けば、それだけ警察は捕まえやすくなるってことだからな。とりあえずは一安心ってヤツだろ」
「そうだよな。車のナンバーまでバレてるんだ、捕まらないってことはないよな」
「ああ、そうだぜ。バッチリ警察にマークされちまったら、逃げ場なんかねーさ」
「あはは」
「ふふふ」
征司はベッドに体を投げ出す。
軽く体がバウンドするのを感じ、その勢いを使って体を仰向けにする。
その上にふわふわとヴァージャが漂っていた。
ベッドの上と上空にいるふたりの顔には、それぞれ笑顔が浮かんでいた。
その顔が驚きに染まるのは5日後の朝だった。
「えっ…? 今なんて?」
「聞こえなかったの? 空き巣の犯人、捕まったのよ」
征司の母親はそう言いながら、彼に茶碗を渡す。
茶碗には白いごはんが湯気をあげていた。
「犯人、捕まったんだ…」
茶碗を持ったままその事実を受け入れていると、そこに父親の言葉が飛んでくる。
「ここしばらくはお前も怖い思いをしただろうが、もう安心だ。父さんたちも安心だよ。な? 母さん」
「そうね。でもお父さん、ごはん時に新聞読むのは止めてって何回言ったらわかってくれるのかしら?」
「ご、ごめんよ…そんなにらむなよ…」
「…」
両親のやりとりを見て、征司は思わず顔をしかめる。
だが文句を言うことはせず、父親が新聞を下へ置いたのに合わせて、全員で朝食をとった。
それから征司が学校へ出発し、その後で両親は仕事に出る。
この時から明け方まで、両親は家に帰ってくることがない…のだが、逆に言えば必ず明け方には家に帰ってくる。
それは不思議な生活サイクルだったが、征司とヴァージャは慣れてしまっているので違和感を感じなかった。
この日は特に、両親の生活サイクルなどどうでもよかった。
「…どう思う?」
「よかったんじゃねーの? 捕まったんならよ」
家から最寄り駅までの道。
ヴァージャは起きており、征司の体は細身のまま。
他にも駅に急ぐ学生がいるが、征司は走らずにできるだけ小声でヴァージャに話しかけている。
「捕まったんなら、あいつ…ルサグスフはもう終わり、ってことだよな?」
「そう願いてぇところだが、まだメールは来てねーのか?」
「…ああ、来てない」
ポケットに神経を集中させるが、携帯電話は震えていない。
家を出た直後にも確認していたが、Y.N.からのメールはなかった。
「…リアライザと戦えって指示があってから、週に一度はY.N.からメールがあったってのに…今回はずっと来ねぇまんまだな」
「いっそ、このまま来ないで終わってくれればいいよ。人生、平和が一番さ」
「ジジくせぇこと言うな、セェジ」
「この5日間、休まるヒマなんてなかったんだ…お前ならわかるだろ、ヴァージャ」
「まあな」
話をしている間に征司は駅に到着する。
いつものように改札に向かい、定期を使って通過する。
電車に乗ると、他の客も押し寄せてくる。
いつもと同じ時間の電車であり、いつもと同じ混み具合だった。
「…」
そして征司の背中から、「第3の手」がゆっくりと天井に向かって伸びる。
手から伝わる視覚をヴァージャに貸し、彼の指示を待った。
すると彼はこんなことを征司に言った。
「ここんとこ、ヤツがこの中にまぎれてんじゃねーかって、俺も女子高生より男ばっかり見てたもんだが…今日からはまた、思う存分女子高生を観察できそうだな」
「……」
ヴァージャの言葉を聞いて、征司は少し怒った顔で彼を見上げる。
天井付近にふわふわと浮くヴァージャはしかし、征司の視線をまともに受けたところで全くひるまない。
「へへへっ、そこじゃ声出せねーだろセェジ。俺に注意しようったって、俺の存在がわかるのはお前だけだもんな。俺に何を言ったって周りの連中はわかんねーんだ…それに、これは俺へのご褒美でもあるんだぜ」
「…」
「この5日間、落ち着かなかったのは俺だって同じだ。でもって、この楽しみを封印されてもきた…だから今日は久々に見まくってやるぜ! ってことで伸ばせ伸ばせー!」
「……」
ヴァージャの盛り上がりようとは逆に、征司はがっくりと頭を垂れようとする。
それが目の前の男子高生に当たりそうになり、彼は慌てて謝った。
「す、すいません…」
「…いえ…」
そんな短いやりとりがあった後、当然のようにふたりは黙る。
やがて、征司たちを乗せた電車は発車した。
エンジンの轟音も耳をつんざくブレーキ音も、数年とたたずに慣れる。
征司もご多分に漏れず、もうそれらは気にならなくなっていた。
「…?」
しかし、何か違和感を感じている。
正確には電車について違和感を感じているのではなく…
(……何か、もぞもぞしてる…?)
何かが動いていること、それもやけに自分のすぐ近くで動いていることに、違和感を感じていた。
位置は、征司の右脇腹付近。
電車は満員状態なので、目でそちらを見ることはできない。
右腕を少し後ろに引くと、動いている何かに当たった。
だがそれは腕と脇腹の間に潜り込もうとしてくる。
明らかにそれは人の手だった。
(なんだ…チカン、なのか? オレ、男なんだけど…)
さらに強く右腕を脇腹にくっつけるが、その手はするするとその間を抜ける。
そして制服の右前のポケットに入った。
ただ、ポケットとはいってもズボンのポケットではなく、上着のポケットだった。
そこには何も入っていない。
満員状態では、征司自身がこのポケットに手を伸ばすことは難しい。
右側のポケットだが右手では無理な位置だし、左手を動かすことはできない。
(…何もないだろ…早く出てけよ、気持ち悪い…)
ポケットへの侵入を防ぐことはできなかったが、ポケットには元々何も入れていなかったので、征司もそれほど深刻には考えていなかった。
やがてそのポケットから手が出ていくと、征司は安心したのか少し大きめのため息をついた。
しかしこのため息では、心に生まれたもやもやしたものが晴れることはなかった。
(せっかくルサグスフが捕まったっていうのに、最低の気分だ…くそ)
痴漢のターゲットではなかっただろうし、何か盗られたというわけでもない。
だが、勝手に自分のポケットに手を突っ込まれるというのは、この上なく気分を害するものである。
征司はそれを実感していた。
そして、それを実感するだけではすまされなかった。
(…ちょ、おい?)
カバンが引っ張られている。
左手に持っている、征司のカバンが引っ張られていた。
(なんなんだ今日は? 誰だ引っ張ってるのはっ!)
征司も負けじと強く引っ張り返す。
すると、人々の間にカバンを引っ張る手が見えた。
(え?)
それを見て征司は驚く。
彼のカバンを奪おうとしているのは、ひとりではなかったのだ。
ひとつの手がカバンをつかんでおり、それにふたつの手が添えられている。
合計3人の手が、征司からカバンを奪おうと引っ張っていた。
(なんだ…? なんなんだ?)
そう思っている間にも、彼のカバンは強く引っ張られる。
奪われるわけにはいかないため、彼も右手を添えて必死に抵抗する。
すると今度は、別の人間の手が左脇腹を這うのを感じた。
制服のポケットに手を入れるかと思いきや、それは一気に上へと上がってくる。
「…!」
その手は征司の口をふさいだ。
さらに別の手が、征司の首をつかむ。
(なに…! なんだこれ? どうなってる!)
カバンは今もまだ強く引っ張られている。
それに抵抗するために両手を使っているため、口元の手を引きはがすことができない。
(まさかヤツがいるのか? 後ろにいるのか! だが、それならカバンとかポケットとかはどういう…うぐぐぐっ)
考えている間に呼吸が苦しくなる。
今はのんびりと思索している場合ではなかった。
(か、カバンは…今はしょうがない、くれてやる!)
征司はすぐに、カバンから手を離した。
そして口元の手を両手で掴む。
全力でそれを引き下げると、どうにか鼻を露出させることができた。
必死にそこだけで呼吸していると、後ろから声が聞こえてくる。
「オレの勝ちだ、バーカ」
(…!?)
その声は、別人だった。
椎葉宮の入口で会った男とは、違うものだった。
(誰だ…? っていうか、捕まったんじゃ…!)
椎葉宮で出会った男ではないにしても、家に侵入した男ではないのか。
Y.N.が雇った「ルサグスフ」である証拠として、征司と同じ「手」を持っているのではないのか。
だがその男は、警察によって捕まったはずなのである。
多くの証拠を残していたことで、スピード解決がなされたはずだった。
しかし。
犯人らしき男は今、征司の背後にいる。
(ヴァージャ、ヴァージャ…!)
征司は必死になってヴァージャを呼ぶ。
だが、彼の指示でかなり遠くまで「第3の手」を伸ばしてしまったため、征司のすぐそばだけで起こっている異常に気付いていない。
(何か、何か武器を…!)
自分ひとりでどうにかしなければ、という思う征司だが、カバンは「なぜか3人に強く引っ張られて」、もうどこかへ持っていかれてしまっている。
ポケットにはほとんど何も入っておらず、入っているポケットにも財布と携帯電話しか入っていない。
それは背後にいる人物を攻撃する凶器にはならない。
そして何より…
もう時間がなかった。
何かを探して取り出すほどの時間が、
もう征司には残されていなかったのだ。
「うぐっ!?」
背後からの強い衝撃。
それとともに、何かが背中から体内に侵入した。
そこからさらに力がかけられ、侵入は深くなる。
「ぶ、ぅ…?」
征司の口内に、鉄の味が一気に広がった。
唇を閉じていても、それは端からこぼれてしまう。
「…!?」
この時、ヴァージャもやっと異常に気付いた。
征司の「手」を置いて素早く彼のそばへ戻る。
そして見た。
征司の周囲から、一気に人がいなくなるのを。
「フフッ、フフフフフ…」
ただひとりだけ、征司の最も近くにいながら離れなかった男がいる。
その男は、勝ち誇った顔で征司の耳元にこうささやいた。
「バカだなぁお前…この俺がそう簡単に逃げたり、捕まったりするわけないだろ…特に逃げるってのはない。絶対にない」
「うぐ、う…」
「椎葉宮で教えてやったろ? 先に1000万入ったって…お前を殺せば残り9000万もらえるって」
「ぐ、う」
男が後ろから体を揺らす。
その度に、征司の内部に侵入した刃が深く刺さっていく。
後ろの男は、明らかにそれを楽しんでいた。
ニヤけた笑顔がそれを裏付けている。
「億だぜ、億…まさにケタ違いってヤツで、単位が違う。お前はまだガキだから、この意味がわかんねーだろうが…億ってのは本当に、人が何人死んでもおかしくねぇ数字なんだぜ」
「か、は…」
「それがお前ひとり死んだだけで手に入る。こんな平和的なことはねぇ。だからお前は死ぬんだよ。俺が1億って大金を手に入れるために死ぬんだ」
そう言って、男は右手を引いた。
征司に刺さった刃が抜け、周囲に血がまき散らされる。
「きゃあああああああああっ!?」
誰かの絶叫。
そして、力なく前へ倒れていく征司。
「せ、セェジ…! おい、セェジ!」
ヴァージャは彼を抱きとめようとするが、その姿は実体ではない。
征司を受け止めることはできず、その体は電車の床に叩きつけられた。
それは「第3の手」も同じで、ヴァージャの指示で伸ばされたそれはゆっくりと床に落ちた。
征司とヴァージャ以外誰にも知覚されないそれは、だらしなく伸びきったままだった。
その脱力している姿が、ヴァージャに何かを語りかけている。
「お、おい…セェジ、ちょっと待て、お前…!」
「……」
「なんとか言えよ、なにか言えって! おい!」
「………」
征司は答えない。
虚ろな目は、もう焦点が合っていない。
「くそ…! 冗談じゃねぇぞ、冗談じゃねぇ! なんかいろいろ、冗談じゃねぇぞ!」
征司を刺した男は、椎葉宮で出会った男とは別人だった。
さらに、自宅に侵入した人物とも違っていた。
だがここにいる男は「ルサグスフ」として征司を刺した。
何がどうなっているのか、一体どういうことなのか、ヴァージャにはわからない。
しかし今はそれを解き明かしている時間はなかった。
「とにかく血を止めるんだ! まずそれだ…!」
そしてヴァージャの姿は消える。
征司の視界から消えた。
やがて電車は止まり、客から連絡を受けたのか警察がやってきた。
征司を刺した男は捕まり、征司は病院へ搬送されていくのだった。
>L.S.A.G.S.F. その2へ続く