兄が亡くなって1年が経ちました | ジャンママのフレブル日記

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フレブルのボブは2016年8/3午後10:50に桃太郎は2018年9/2に2020年12/19に音姫が天国に旅立ってしまいました。今は飼育放棄のシーズーの亜矢音と鎌倉で海と山との自然に囲まれて暮らすジャンママ。そして、間質性肺炎 膠原病・リウマチ・皮膚筋炎・シェーグレン闘病記!

ジャンママです。

ジャンママの兄は慢性骨髄性白血病であり
膵臓癌でした。

白血病の治療薬を毎日飲んで、1ヶ月に1度くらい病院に行っていました。
薬が合っていた事もあり、通院の間隔が長くなり始めた時でした。

「ねえ、なんかさ、胃のあたりが固いんだよ、で、ちょっと痛みがある」

と、8月のアタマに言っていました。
8月の下旬に診察があり、血液検査をしたら、数値に異常があり、精密検査をしたら胆管が炎症を起こし、さらに調べたら胆管が細くなり詰まっているのでステントを入れましょう!
と、後日入院になりました。

その入院中に兄の膵臓癌が見つかりました。

名古屋のその病院では、もう手が付けられない状態で、抗がん剤治療と放射線治療をするしか無く、ほぼ延命処置……という事でした。

ずっと抗がん剤の点滴を入れて、定期的にまた点滴をしたりする事になると、実家に戻って、親と一緒の方がいいのでは……と、静岡の病院に転院させて下さい!
というと、名古屋の病院はそこから凄いスピードで、静岡の病院と連絡を取り、静岡に着いてすぐの予約まで取ってくれる……という。
なんとも、厄介払いか?という感じさえ受けました。

静岡の病院では、治療方針が違って、まだこの状態なら手術はギリギリ出来る!という医師がいて、10/30に手術をしました。
全部を引っ括めて12時間近くに及ぶ手術でした。
待っている方は、廊下のテレビがある一角で、ずっととにかくそこで待つしかないという状態。

朝の9時に手術室に行ったきり、進行状況をさえ分からず……。
夜8時過ぎに、あと1時間くらいだと思います!
と言われました。
結局は夜10時過ぎに先生に呼ばれ、とったガンと臓器を見せられました。
本当に凄い手術だったのだな……と思いました。

先生は
「悪いとこは全部取り切ったと思いますから大丈夫です」
と言いました。

しかし、術後のQOLはあまりいいものでは無いと私は思っていました。

体重は減り、常に下痢をしている様な感じで、ガリガリにやせ細った兄……。

入院中に喧嘩になり、手術後の退院の時でさえ連絡を取らなかったくらいです。

半年ほどして仲直りし、連絡が来た時、兄の写真はまるで別人のようでした。

そこから1年半で兄の膵臓癌は再発しました。

痛みや下痢、嘔吐、亡くなる3ヶ月ほど前から腹水が溜まりはじめて、定期的に抜きに行っていました。
そうするとかなり体力が奪われてしまい、階段の昇り降りが苦痛になっていたそうです。

昨年の7月の24日に私が実家に帰って、兄の運転で掛川の道の駅に行って、帰りに流通センターでとうもろこしを買って帰って……。
本来なら鎌倉まで車で送る!
と兄が言っていたのを、私が無理だからダメだよ!電車で帰る。と、その時が兄との最期になりました。

8月の初め頃、とある事で大喧嘩になり、LINEで私に罵声を浴びせた兄はそれ以降、一切、私とは連絡を取りませんでした。

で、そのままの状態で兄は昨年の9/1に亡くなってしまいました。

あの日……兄は前日の夜に救急外来をしてそのまま入院になり、次の日、病室で母が兄の寝てる位置が下に下がって来たから!と、兄を枕をベッドの上の方に移動させ、兄を抱え体を動かした直後に、看護師さんが
「困る!息してない!」
と叫んだそうです……。
兄の目は見開いたままだったそうです。

兄の名前を何度呼んでも兄は戻って来ませんでした。

母から直ぐに電話があり
「お兄ちゃん死んじゃった……」
と……。

私は呆然として涙は出なかった様な気がします。

直ぐにお葬式もあるので喪服を持ち、実家に帰りました。
家に着くと、もう兄が布団に横になっていました。痩せた兄の顔は、穏やかてした。

まだ寝てるのかしら。。。
そんな気さえしました。

お兄ちゃん……

と呼んでも返事はありません。

私との喧嘩はどうなったの?やっぱり許せて貰えないままなの?どうなの?

兄ちゃん……ひどいよ……

こたえてよ……


私も体調が悪い中で居たのですが実家に帰ってからも、酷い下痢をずっとしていて、通夜の時もギリギリまで病院で点滴を打ってもらって、式に出ました。

兄のスマホで、兄の仲が良かった人に電話して、兄の死を告げました。
LINEで直ぐに同窓生には回った様です。
亡くなった次の日の朝に親友のいっちゃんから電話が入りました。

私もいっちゃんはもう1人のお兄ちゃんみたいな人だったので、連絡を1番にすべきなのか……知らせたらいっちゃんがどうなっちゃうんだろう……と悩みました。

いっちゃんは直ぐに静岡に来てくれました。

父も母も、何ヶ月か最期を一緒に過ごしたため、日に日に弱る兄をみていて覚悟も出来ていたからか、涙は見せませんでした。

通夜の時の父からの挨拶で、父がはじめて涙を見せました。
あの時の事は忘れられません。

兄は税理士でした。
会社の社長が病気の事を話すと便宜を図って下さり、自宅での仕事に切り替えて下さいました。
なので、本当にギリギリまで兄は仕事が出来ました。病気と知りながら、クビにもせず、本当に良くして頂きました。
ありがたい事です。
帰りがけに社長が
「本当に残念です……」
「もう少し一緒に仕事したかったです……」
と言われました。

私も涙が溢れました。
ありがとうございました。

まだ書きたい事はたくさんありますが、
兄の死から、まだ、私は進めないでいます。
コロナ禍も重なり、パニック障害やうつ病は悪化するばかりです。

一周忌にも出席出来ないで納骨にも行けなくて……

お兄ちゃん。
本当にごめんね。
今、兄ちゃん、何してますか?
大好きなビール飲んで、サラミでも食べてますか?

兄ちゃん……これから私はどうしたらいい?
わかんなくなっちゃったよ……。