制限され、不便だからこそ気づくこと | A Day In The Boy's Life

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とあるエンジニアのとある1日のつぶやき。

人は何か制限されることを嫌うものですが、制限されている状態だからこそ、新たな気づきというものを得られて、そこから違う何かを得ることができるのではないかな、と思ったりします。

自由な時間、自由な環境、自由な表現。

何もかもが自由であることは素晴らしい!と思う反面、あまりその自由というものを活かしきれていない場合もあるのかな、と感じます。

そして、制限があるからこそ、それに対して反発する新たなアイデアも生まれるのではないかなと。



会社における制限


働く現場と言うのは何かと制限をされているものです。

場合によっては、ネットへのアクセスも厳重に制限されていたり、PCにインストールするソフトウェアやUSBで接続するデジタルデバイスなどなど、枚挙に暇は無いでしょう。

それは物理的な制限であったり、会社のルールなどといった論理的な制限であったりもします。


これができればもっと仕事が楽にできるのに、なんて愚痴をこぼす人も多いのではないでしょうか。

それは確かに、そうである場合もありますが、会社としてもそこにあるリスクヘッジをしている場合がほとんどなので、ある意味それは自分を助けるためのルールであったりもします。


自由の中に身をおいて、羽を存分に広げると際限なく何かをやろうとすることができる職場で、本当にその人の能力をはっきりできる人って、かなり自制が効いている人なのではないかと思います。

例えば、制限無くネットにつながる環境で仕事をしていると、いつの間にか仕事に関係の無いところで時間を使ってしまったり。

それも、自分を成長する一つの知識となる、というのは私自身もそう思ったりしているところもありますけど、会社の中で成果に結び付けるには長い時間がかかったり、それが具体的にどう結びつくんだ、と言うところはなかなか答えられなかったりもします。

なので、返って制限があることで仕事に集中できる環境を手に入れられたりもします。


一方で、普段家で使っている便利なツールが制限がかかっていた場合、それをすんなり諦めるのではなく、他に自分の要望をかなえるためのツールが無いか、他の方法で実現可能でないかと考えられたりもします。

ただ、多くは面倒になって他の方法と言うものを考えなかったり、それ以外には実現する方法が無いものと、どこかで決め付けてしまって、仕方なくルールに従ってしまうという人も多いのだと思います。



ネットにおける制限


一方で自由の象徴と捉えられる、ネットにおいても制限というものは、当然あったりします。

それは、法律によって禁止されているみたいな部分もありますけど、より技術的な制限であったり、まだネットで実現できていないことへの制限だったりもします。


数年前に流行ったWeb2.0というWebのパラダイムシフトも、それ以前と以降とではネットでできることというのは随分と違うものになってきています。

技術的には、それより前にも実現可能だったよ、と言うのもあるのですが、それ以前のWebの世界でこんなことがネットでできないのは不便であるという制限を取り払う動きをした人が、今の著名なWebサービスを作り上げたともいえるかと思います。

なので、その制限されていると言うことに気づくことができる人と、そうでない人というので運命が大きく変わってくるのかなと。


犯罪も一部ではその制限をかいくぐるために考えられてる部分もあります。

法の網目をくぐるとか。

そういうのは間違った知識の使い方であったりもしますが、制限の境界に気づいてその制限に引っかからないためのアイデアと言うのを考え付いた人がいるわけです。


制限と効くとネガティブな印象を受けたりもしますけど、受け取り方で随分と印象が変わってきますし、一方で目に見える制限があったり、もう一方で目に見えない制限があるもんなんだなと。

何もかも自由だ!という環境に身をおくことは、実はかなり不自由な場合もあるでしょう。

何を自由に使えばいいのかが見えにくいですし、これが俺の自由だと声高に叫んでも、実はものすごく狭い範囲でしか、表現や時間を使っていなかったと言う場合もあったりします。


制限があるからこそ気づくこと、制限が無いから見えにくいもの。

制限と言うのは、境界線を浮き彫りにしてくれるものですから、返って便利に使える場合もあるのだな、と感じたりします。

自由であるから、自由な表現ができるんだという場合だけでなく、制限があってその中で如何に自由な表現を行うか、と言うことも考えてみるべきことなんじゃないかなと思います。