お寺の若い僧が、「坊主はお経を配達しているだけではあきまへんな。」と読経してはすぐに次の家に向かう自分自身に、自省を込めたつもりでお話をしたら、それを聞いていたある坊さんが
「あんた、ほんまに配達していると言うだけのお経をあげてますんかいな」と問われたそうです。
新聞を配達したら、配達された人はいろんな出来事を知ることができる。牛乳を配達したら、受け取った人は美味しく牛乳が飲めるし、栄養も取れる。
あなたは「お経を配達するだけ」と言うけれど、本当にお経を配達してますか?相手に何かしら届いてますか? と問われたのである。
またある法事でお経をあげていると、いつもと違ってとても後ろの参詣の方が騒がしい。
「まったく最近の人は嘆かわしい、ほんの少しの間も黙ってお経に身を浸すこともできないし、子供を静かにさすこともできない、嘆かわしいものです」
と、ある長老の僧侶に口説くと
「あなたはそのとき何をお勤めしていたのですか、もったいないことです」と長老は言ったそうです。
- アーティスト: 井上陽水, 平井夏美, 星勝, 奥田民生, 井上陽水奥田民生, 佐藤準, バナナ-U・G-カワシマ
- タイトル: GOLDEN BEST
以前テレビで仏式の葬儀の模様を映していました。その国の僧侶は棺(ひつぎ)を隔てて遺族の人に向かって座り、お経をあげています。ナレーターは「お経は死んだ人のために説かれるものではなく、この世に生きあぐね、嘆き悲しんでいる人にこそ説かれるものなのです」と解説します。
つまり、棺に向かってお経を唱えるのではなく、身近な人とのお別れを悲しむ遺族に向かって仏様の教えを説いている。
だから向かい合っているのだ。という内容の解説です。
ではわれわれ真宗の僧侶はなぜ一緒に阿弥陀佛の方に向いているのでしょうか?
それは、われわれ坊主も、遺族と同じく生きあぐね、嘆き悲しむ者の一人として座っているからだと思います。
他の人に説教を聞かせてあげる為にでもなく、いい声でお勤めしていい気持ちにさせるためでもなく。共に仏の説法を聞くために座っているのです。そこを忘れると自らお経配達人と卑下したり。後ろの人ばかり気になって本来のお勤めにも集中できないことになってしまうのでしょう。
私の場合「わすれもの」をしているような、なにか居心地の悪い気持ちになるようです。
「忘れているぞ!」「何か忘れてるぞ!」と仏様が私が見失っている「わすれもの」を届けてくれているのかもしれません。
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