柑橘の神様・高橋郁郎 | 囲炉裏端のブログ

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柑橘の父、戦中・食糧増産のためミカン園伐採に抵抗
  高 橋 郁 郎(一八九二~一九八一)
       (永岡 治著「群像いず」・松本晴雄編集)

「柑橘の父・高橋郁郎」(高橋柑橘顕彰会刊・昭和五十七年四月発行)がある。全国的なミカン学者として尊敬されている人物である。その寄稿文の見出しを列記すると、「熊本県最初の技術者、忘れ得ぬ人、師弟の絆三四年、博学であった偉大な先生、大きな船、天父なる御神のもとに、あらゆる面での指導、世界柑橘界の権威、ミカン栽培の神髄をご教示、感服させられた勇気ある直言、信念の人、鳥取県の果樹発展の恩人、戦後日本の果樹復興への貢献、議論を闘わした想い出、先生と私、公人としてきびしさと私人としての優しさ、生涯忘れ得ぬご鴻恩、ミカンを守る鬼、作られる人と作る人の心のつながり、『先見の明』に敬服、土にかける情熱、一直線の人、信念の人、情熱の人、盤根錯節の利器を失う、日本の柑橘は高橋、高橋は柑橘なり、晩霜害防止の先覚、先生の追憶、全国果樹農家の木鐸、偉大な先生、先生との出会い、娘からみた父、父の追憶、病院の日々、叔父から学んだ深い人生への思索、「思い出の研究論文」=温州ミカンに対する施肥時期試験の成績、柑橘の苦土欠乏症、日園連三〇年の回顧、がある。このことから郁郎の人柄、柑橘への貢献ぶりが解ろうというものである。なお郁郎の長女・高橋百合子は愛知県立看護短期大学教授、長男・高橋裕は東京大学工学部教授である。

  一、生まれ、修業
 明治二十五年(一八九二)、賀茂郡岩科村(現松崎町)雲見に生まれた。地元の小学校から県立中泉農学校(現磐田農校)に進み、四十二年に同校を卒業すると、農商務省農試園芸部興津支場の見習生となった。
 
  二、「柑橘栽培」の大冊を著す
 見習生終了後、同支場に残り助手となった。郁郎は無類の研究熱心で、大正二年(一九一三)二十二歳のとき、はやくも「柑橘栽培」という大冊の著書を出版した。

  三、園芸技師として熊本県、中央で柑橘栽培研究
 大正六年(一九一七)園芸技師として熊本県に招かれ、果樹栽培技術の指導に当たった。同十年七月、農商務省園芸試験場の技師となり、以後十五年間、中央で柑橘栽培の研究に没頭した。昭和六年(一九三一)には、前著を大幅に改訂した「柑橘」を世に送り出した。「温州ミカンは世界一という自信を持つことだ」と説いたこの本は、柑橘栽培指導書の決定版といわれ、広く全国のミカン農家に愛読された。

  四、静岡県柑橘専任技師、柑橘試験場創設
 昭和十年(一九三五)、静岡県柑橘専任技師となる。そのころ、静岡ミカンは先進地の和歌山に追いつき追い越した。郁郎は「日本一のミカン産地である静岡県には、県柑橘試験場がぜひ必要だ」と提唱し、その実現のため奔走した。そして同十五年、ついに県立柑橘試験場を創立させ、初代場長に就任した。ここで、施肥、土壌改良、消毒法など数々の技術改革の成果をあげた。

  五、食糧増産のためのミカン園伐採に抵抗
 戦争が激しくなった昭和十八年、時の県知事今村治郎が「ミカン園をすべて伐採して、麦畑、芋畑にせよ」と命令しようとした。これに対し郁郎は身体を張って抵抗、「平地の少ない本県の農家は、ミカンで生きるしかない」と主張し、静岡ミカンの絶滅を未然に防いだ。

  六、日本果実協会を創設
昭和二十一年(一九四六)静岡県柑橘試験場長を辞し、日本果実協会(日本園芸農協連合会の前身)を創設し、その専務理事となる。そして全国を駆けめぐって、荒廃したミカン園の復旧、生産性向上と品質改善、消費拡大、海外輸出再開などの諸課題に取り組み、戦後の日本ミカン産業発展の原動力になった。昭和二十八年、海を渡ってアメリカ、カナダの柑橘産業を視察した。

  七、執筆活動
 昭和三十七年五月、日園連(旧日本果実協会)専務理事として在職期間満十七年で退職した。この間、雑誌「果実日本」の編集長兼主筆を務め、原稿執筆と全国への講演旅行に明け暮れた。講演は通算八百回にものぼった。著書は前記のほかに、自伝「果実と共に半世紀」(昭和三十九年刊)など。また主著「柑橘」は五次にわたり改訂増補され、昭和四十七年まで続けられた。
 主な著書に大正二年「柑橘栽培」。大正十五年「柑橘」五次にわたって改訂、増訂二十六回。昭和二十四年「日本の果実産業」。昭和三十年「柑橘の苦土欠乏症」。昭和三十九年「果実と共に半世紀」。「果樹農業改善新設」。「果実日本」編集。

  八、堤達男が胸像制作、高橋柑橘顕彰会設立される
昭和三十七年、静岡県柑橘試験場の玄関前に、長年の功績をたたえて郁郎の胸像が建てられた。胸像作者は、西伊豆町出身の堤達男。
 昭和五十六年(一九八一)享年八十九歳で死去。没後に「高橋柑橘顕彰会」が設けられ、この顕彰会によって次の追悼文集「柑橘の父高橋郁郎」が刊行された。

  九、その人となり(「柑橘の父高橋郁郎」より抜粋)
◎日園連会長理事・後藤松太郎「先生は、試験場時代、民間の時代を通じて多数の人材を養成し、現在その弟子たちは日本国内はもちろん、海外でも活躍されておりますし、先生が蘊蓄を傾け、健筆をふるわれた名著『柑橘』、また毎月発行される『果実日本』などによって勉強した栽培家は無数でございます。なお、先生が私財を投じて設けられた高橋柑橘賞は、受賞者三十九名におよび、その受賞の名誉は中堅果樹指導者の励ましになっており、あこがれとなっています」。
◎元経済企画庁長官、衆議院議員・倉成正「先生の果樹振興に対する燃えるような情熱と高い認識については、万人の等しく認めるところでありましたが、私にとって格別忘れることのできないのは、先生の慈父のような大きく、人々を包み込む思いやりの深い暖かいお人柄と、ユーモアに富んだご性格でありました」。
◎元東京農業大学教授・松原茂樹「高橋さんは研究に篤実であるのみでなく、それを世に伝えるための文章の巧みでありました。多年の研究なり、内外の文献を集録して著述された『柑橘』を大正十五年に出版されると、非常な歓迎を受け、改訂・増訂遭わせて三十版近くにおよび、この種の農業書では例を見ない売れ行きでありました。むろん版を重ねるごとに訂正・加筆されたことは述べるまでもありません」。

◎静岡柑橘試験場長・野呂徳男「当時私は、静岡県柑橘試験場伊豆分場に勤務したばかりの、かけだしの時代でございました。先生が分場に「おいでになるということでバス停までお迎えに行き、バスから降りられた大先輩、試験場初代場長である先生に、道々、このときとばかり、日ごろ疑問に思っているいくつかの問題点について、矢継ぎ早に質問をいたしました。先生は、この若僧のこの質問に一つひとつ、例のゆっくりとした歯切れのよい言葉で、いろいろとご教示されたことを、昨日のことのようにはっきり覚えております」。

◎熊本県三角町農協組合長・岩崎守「対談記事収録の折、先生は、『どういう産地が残るかといえば、経営規模が十分で、農道が整備されていて、機械化が容易なところ、すなわち環境の良いところが残る。もう技術改善では追いつかなくなった。施肥でもせん定でも共同化できてね。摘果も個人任せではダメですね。できることなら農協で請け負い的にやることです。このようにしてはじめて生産費を下げる途が開けてくる。農協のあり方も、積極的生産の共同化推進役の協同組合、これは専門農協の役目なんだ』と」。

◎山形県果樹協会常務理事・大石隆=「先生は果実日本の編集責任者で縦横に執筆、日本農業の将来、なかんずく果樹産業の方向付けについて国際的視野に立って主張され、ガイダンスされていたのでした。その内容は、当時の日本では考えも及ばないところのアメリカを中心とする世界の果樹産業の動向をとらえ、将来の日本園芸農業、とくに果樹産業の指標を明確に示されたことが強く印象深く、私の生涯の心の糧となり、その後の人生・生業の道標となったのである。(略)体は大きくないが人品いやしからずの言葉通りで、清潔そのものという感じの方であり、一度口を開けば内外情勢に精通され、政治・経済・学会・業界・全国生産者団体と、さらに海外との触れ合い・交流に至るまで、きわめて広範にわたる話題の豊富さに驚かされたものである。(略)その後、山形県にも青果連の会議やリンゴ、ブドウ、西洋ナシなどの全国研究大会に必ず講師と出席され、日本農業・農政のあり方、日本の果樹園芸産業の進路を常に明確に方向付けし、国際社会のなかで誤りのない確かなものとするためのご指導を願ったことは、終生忘れ得ない思い出であり、先生の偉大さ、学者としての技術者として、かつまた在野の人としての人間臭い節操を曲げない堅い信念、理念を貫かれた人生哲学(観)と業績は高く評価され、これからも生き続け、日本の果樹産業の健全な伸長、発展を見守って下さることを信じている」。

◎ 日園連顧問・大石芳久「朝食は絶対、漬け物も絶対食べられなかった。暇さえあればペンをとっていた。昼はきわめて簡単なものであった。タクシーはあまり使わず、電車、地下鉄のほうを利用された。急ぎの公文書になると自分で書かれ、謄写版原紙もよく書かれた。東京へ移ってから、毎朝の出勤は必ず九時前で、窓をはたき、ホウキ、ゾウキンを持たれて、自分の部屋を片付け、掃除され、窓ガラスまで拭かれた。電話の時間はきわめて短く、サッサと切っていた」。

◎元広島県瀬戸田町農協常務理事・大谷清「先生の話では、アメリカの報告書のなかにヒ素鉛を散布することによって、柑橘の酸が減じて甘くなるという記事が出ていたということであった。それにつけても、よく先生がアメリカのたくさんの英文の報告書を読んでおられたことに感心したわけで、何の試験も研究もせずに回答が出たわけで、今さらながら感心させられた」。

◎前熊本県果樹試験場長・大浜博「『農協の統合問題には、誤った指導が多いようである。大きくなればよい、取扱額が多くなればよいとの、作物の種類の異なった農協の統合が推進され、それが特産農業の弱体化を促すことになる。また県農協連合会における共通役員制度の如きはものは、農業の進歩と分化に無知なものの計画であり、専門連合会の去勢の手段にほかならない』と、先生は暑さのなかで汗を流し、全国の例をあげながら諄々と説かるのだった」。

◎牧師・岡田勉「先生はご自身の信仰については一度もお話しになったことはなかったが、私の推測するところ、百合子さん(長女)が、ミッションスクールである静岡英和女学院の生徒であったこと、奥様の身近の方が牧師であられたこと、興津キリスト教会の宣教師ミス・アンドリュース氏と懇意であったことなどから、少なくともキリスト教に深い関心をお持ちであったことは容易に理解することができる。(略)私にとっては、もっとも尊敬する先生ご夫妻の霊を、天父なる御神のもとにお送りすることができたことは、光栄の至りである。「神は愛なり」先生もまた愛の人であった」。

◎元興津園試柑橘担当研究員・長田実「高橋さんといえばすぐ柑橘を連想するが、「ミカン」のみではなかった。熊本県庁在職中にナシの晩霜被害を防ぐ指導を実施せられ、その効果が非常によく、被害を免れてナシ栽培者の喜びは一方ならず、金時計を贈って謝意を表したということを聞かされ、私どもはいろいろの面で羨望の的であった。熊本県三角町にある猿渡氏の柑橘園の栽培指導に当たり、防風林の設置を力説され、園主もようやくこれの実施に踏み切り、数年後、暴風雨の際にこの防風林のお蔭で被害が非常に少なく、防風林の効果を深く認識せられて以来、高橋さんを敬服する念がいっそう深まり、神様の如く尊敬したと聞いています。(略)また、即時即興の上手な人でもあった。園芸試験場職員一同で、沼津海岸で地引き網会を催したことがあった。獲物を肴に宴を開き興に乗ったときに、海岸から一片の木片を拾い上げ、これに鉛筆で『大酒院泥酔乱舞居士』と書かれ、茶目式悪戯をされたことがある」。

◎アルゼンチン農業・賀集九平「高橋さんの一生を考えると、公人として社会人として、また世界の柑橘界に尽くされた功績は、偉大といわなければならない。アメリカのスイングル博士とともに、世界の柑橘界の権威者であることは、万人の知るところである」。

◎元愛媛県出海園芸農協理事・河合八十一「先生の第一印象は、とても気さくで親しみを感じる人だなと思っていたが、その反面、思ったことはなんでもズバリと言われ、気さくななかにもなかなかの気骨を感じた。(略)昭和三十一年再度私の園に来られた時、私はすでに草生栽培を手がけており、春秋には園地を中耕し、夏場のみ草をはやす方法をとっていた。また施肥面では有機肥料の徹底施用を基本とし、部落内の者からいろいろ批判された面もあったが、先生はこの栽培方法について『基本さえ守っていれば、園地の条件に合わせた個性ある栽培もよかろう』ということで今なお続けており、自分なりの栽培方法に自信を持ったものである。そして『芳果秀山海』の鮮やかな墨痕を残して先生は当地を去られた。とくに先生は地域住民にミカン栽培の心髄を教えていただいたような気がする」。

◎徳島県青果連理事・木下孝夫「昭和三十八年、徳島県に先生を招聘し、「ミカンの現況と将来について』と題して講演会を開いた。当時、ミカンは売り手市場で、市場も缶詰工場からも引く手あまたで、まさに飛ぶ鳥を落とす盛況の絶頂であった。その時、先生の講演内容はまことにきびしいものであり、聴講した生産者は、現実を無視した将来のミカンへの警鐘を吐露した講演内容に不満続出で、ある意味では不評な講演会で終了した。内容的には①日本の果実販売は必ず国際競争の立場に立つ。②現在の増殖傾向は異常で、将来生産過剰となる。③ミカン振興に対する行政の考え方に諸経費、とくに労賃の高騰を甘く試算した基本的欠陥がある。④加工原料は今でこそ一㎏当たり五十円もしているが、三十円以下十五円程度に下落する。などというものであったと思う。その後、先生の著書にも生産費高騰による所得低下の問題点や、輸入果実との競合など、国際感覚から得た知識とデータに基づく将来の達観が、いかに正確であったか感服のほかはない」。

◎静岡県農業・小泉兵一「高橋さんは非常に温厚で、人の批評とか悪口はけっして言わない人で、また非常にきれい好きで、試験場内でも圃場でも、いつもきれいにしており、几帳面な方であった。それに奥さんを非常にだいじにする人であった。西式健康法を高橋さんにすすめたのは花沢君であるが、西式健康法を始めると同時に、奥さんを別の部屋に寝かせて、自分は真冬でも雨戸を開けっ放しで……。何かそういう信念の人とという感じであった。

◎島根大学名誉教授・高馬進「昭和三十三年七月、第九回全国ナシ研究大会が島根県で開催された。その折、日園連の高橋専務理事にお願いし、快諾をいただいた。島根県の果樹発展にお世話になった方として感謝したい」。

◎前東一東京青果㈱社長・寒川孝栄「昭和二十一年に『果実日本』が機関誌として発刊され、その創刊号からの論説において、先生は穀物を中心としたわが国の農政について鋭い批判を浴びせ、特に米麦主体のわが国の農業経営は、明治以来の誤まれる軍国主義的農業政策であって、速やかに転換をはかるべきであると、声を大にして警鐘を発せられたのである」。

◎元青森県りんご協会専務理事・渋川伝次郎「あなたは生産量の増強と安値に苦悩していた青森県リンゴの状況に対し、日園連発行の『果実日本』で生産制限をすべきだと提言されたのに対し、私は不可とする立場から、リンゴ生産者大衆の前で立会講演会を申し込んだ。まさしく果たし状の突き付けである。あなたはこれに対して『果実日本』誌上で論陣を張ろうではないかと……。だが交渉は不調に終わった。あきらめきれない私は、昭和三十三年九月二十四日、青森県りんご協会主催のりんご祭りの記念講演会で、『リンゴ生産制限批判』を課題に、あなたの『果実日本』誌に掲載の所説を読みあげ、宮下利三、的場徳造両氏に見解を求め、当時、果樹業界の話題になったことであった。(略)青森県の私たちが、戦後一番苦労した問題の一つに、占領軍の指令による試験研究機関の統合があった。ヤリ玉にあがったのは、藤崎町所在の農林省園芸試験場東北支場と青森県りんご試験場のことで、当時の情勢では、青森県りんご試験場廃止の気配が濃厚であった。私らは全力を尽くしてGHQに迫り、青森県りんご試験場の存置にこぎつけたが、農林省園芸試験場東北支場を手放さざるをなかった。あとであなたに東京でお会いした際、この件について『渋川君よ、あなたは依然と策がない人だ。せっかく手元にある有益な研究機関をむざむざと手放すなど、私ならばそれこそ策を弄すると言われても、二つの機関を保持する対策をたてるよ』と言われた。高橋さんは視野の広い政治性をお持ちだったのであろう。私は青森県のリンゴを中心に育った関係で見解が狭かった」。

◎静岡県柑橘試験場西遠分場長・竹田康治「公人としてのきびしさと、私人としての優しさは生涯忘れることはできない。あまりにも大きな業績とともに、そのお人柄を後代に伝えることで、万分の一のご恩返しにしたいと思いつつ追憶の記といたします」。

◎元長崎県果樹園芸課長・田島十良「先生の実施された柑橘に関する試験研究は、枚挙にいとまのないほどであるが、当時お手伝いした記憶の試験項目には、柑橘に対する三要素適量試験、種類別有機質肥料の効果試験(醤油樽八十本使用)、温州ミカンの系統(全国の産地優良園より蒐集)試験、柑橘台木の種類試験、柑橘樹の地上下部の伸長調査、各種試験樹の果実分析、場外試験で、井上公の別荘の柑橘園でのせん定試験などの記憶がある」。

◎前国際柑橘学会長、玉川大学農学部教授・田中彰一「高橋さんがクリスチャンであったことを私は知らなかった。私は若いころアメリカン人宣教師の家にシンパとして寄寓したこともあり、キリスト教とは縁が深い。その私が気付かなかったほど臭みのないクリスチャンだったのだ。ご自宅での密葬の日、故人愛唱の讃美歌を私は声を張り上げて歌った。切なる哀惜を込めて……。高橋さんをミカンの神様と呼んでもよいが、その位は田道間守に譲り、私はこの人を「ミカンの鬼」と呼びたい。そのほうがピッタリの感じである。初代若乃花を「土俵の鬼」と称えた同様に畏敬の念を込めて……」。

◎彫刻家・堤達男「日園連専務室のドアーを開けた。先生は逆光を背にして、大きな机の前に黙然と腰かけておられた。何か山のような感じだが、恐る恐る来意を告げ、私も仁科の出身であることを語ると、途端に和やかな親しみある表情に変わられ、伊豆のことや雲見のことを話されたが、その中に『雲見は気候もよいし日当たりのよいところだ。傾斜地が多いがミカン栽培をやれば必ず成功するんだが…』などと話された。私はミカン栽培のことはまったくわからないので感心して聞いていたが、何でも柑橘の結びつけて考えてしまう『柑橘の鬼』のような人だと思った」。

◎小田原市長(前神奈川県柑橘連合会長)・中井一郎「昭和二十六年一月から私は、愛媛県青果連会長桐野氏と二人で四十五日間、カナダ、アメリカへ缶詰ミカンと生ミカン輸出のため日園連から派遣された。この際両国の各都市の街頭で果実を搾って販売しているのを見て、帰りに手動搾汁器を買ってきて先生に話したら、日本でもこれからジュースにすれば生果の数倍の消費量になるから、ジュース産業の発展に努力しようとのことであった。(略)今日、あらゆる果物のジュース産業が発展し、近年外国へも輸出されるようになったことは、今昔の感ありで感慨無量である。これも高橋先生の先見の明によるものと、心から敬服、感謝申し上げる次第である」。

◎三重県一志農業改良普及所次長・野呂雄次「(略)書斎に移り、いろんな状勢の変化についてお話しをうかがったのである。果樹園の土作りのだいじなこと、先生はテンポロの理論を中心に『果実日本』別冊『土は生きている』を示されながら、お考えを話されたのである」。

◎元静岡県柑橘連生産部長・花沢政雄「先生は静岡県農務課に技師として大手を振るわれることになったが、問題となったのは、先生が興津で試験を設計し、未だその途中の醤油樽植えの早生温州三百鉢の処分であった。その管理だけでも容易ではなかったのであるが、当時の庵原郡・清水市柑橘同業組合の責任をもって、清水市小芝町に高橋柑橘試験園を設けることになったので、鉢植え温州の試験にも管理にもまったく支障はなく、それどころか、むしろその内容は充実されたのである。それを知って年とともに遠近の参観者は多くなるのみであった。(略)直線型の先生は、もっとも幸せな先生であったと思う。天にあっても日本の柑橘の大黒柱として君臨し、指導していただきたいことを祈るのみである」。

◎日本果物商業協同組合連合会長、㈱ハヤシフルーツ社長・林政市「戦後の荒廃した柑橘園の復興と生産技術の普及、ミカン産業発展のために果たされた先生の役割は実に偉大なものであったと思う。(略)信念の人であり、情熱の人であるので、自分の意見は常に通そうとされるため、小売りの立場との意見の異なることなど数多くあったようである。その都度、自分で研究されて必ず答えを出されるなど、責任を持っておられたのに感心している」。

◎元興津園試落葉果樹担当研究員、現九鬼肥料工業㈱技術顧問・本多舜二「今や日本の柑橘界も、所得弾性値をタテに増殖計画の樹立、推進をはかってきたのも束の間、一転して伐樹、原産に踏み切らざるを得なくなった今日、外圧の如何にかかわらず、正に盤根錯節(竹や樹木の根が、こんがらがっている中)の時代を迎え、高橋さんの如き利器(人材)を失ったことは、まことに残念千万である」。

◎元鹿児島県農会園芸部長・増田一雄「高橋さんは、試験場の研究畑から青果団体の職域にかけ第一線を実に幅広く、かつ奥行き深い面を開拓された行動家であった。とくに興津の園芸試験場在勤時代は名著『柑橘』はもちろん、『園芸家必携』、『園芸の研究』、日本果実協会から日園連にわたっての『果実日本』誌の刊行事業は、強大な根性を要するもので、その業績は高く評価すべきである。日本の柑橘は高橋、高橋は柑橘なり、とする標語ならざる標語は、高橋さんその人によって築かれたものであろう」。

◎元熊本県錦町西農協組合長・丸小野松吉「晩霜対策は、共同作業で取り組んだため、お互いの連絡、意見交換ができるようになったことも大きな収穫であった。しかし、失敗もあった。暖熱用燃料に古タイヤ、油を使用したため、翌日の朝はススで顔が真っ黒になり、風に流れた黒煙は樹体まで真っ黒にし、女性がナシ園に入るのを嫌ったといった笑えない話もあった。ナシ栽培も、永年のこの防霜防止の体験から園地が選定されるようになり、適地適作でそれ以前のような晩霜の被害は受けなくなった」。

◎愛媛県青果連生産部長・水谷恒雄「ヘリコプター散布の先鞭をつけられたのも高橋先生である。愛媛県での試験散布は昭和三十七年で、翌年から実用化した。一時は七機を長期間にわたってチャーターし、散布面積は五千ヘクタールあまりにおよび全国一であった」。

◎鹿児島県果樹試験場長・宮迫一郎「先生は果実貿易も深い造詣と強い関心を持っておられたが、輸入秩序の維持と関係農家保護について、昭和四十一年秋、行政管理庁長官に陳情された時の先生は、簡潔明解で理路整然と次元の高い言動は、古武士と紳士を兼備した風格と併せて誠にりっぱで、十分間の予約が三十分を超過しての意見交換があり、長官は国務大臣の立場からも善処を確約されたことを記録しておく」。

◎元大分県津久見柑橘試験場長・薬師寺肇「先生が五十年前に作られた柑橘施肥基準は、現在でもりっぱに通用している。試験研究というものは金(予算)や物(設備)ではなく、研究する人の熱意と識見であるということを、私は先生から学んだのである」。

◎前和歌山県青果連参事・山崎祐夫「『紀州ミカンは天下に名声を博している。これは良い意味の共選場ごとの切磋琢磨、人より高いものを作る意欲が現在まで続いているからよい。これから小さい組織では、どうにもならない時代がきた時、現在では流通の対応は大きなものを要求しつつある以上、組織の改善が急務であり、その組織が新しくなった時、生産者の考え方がどのように変化してゆくかがみものだ。りっぱな生産者は多いが、時代とともに目先だけにとらわれ、生産意欲は減退、創造性が失われてきそうな気がする。そんな時、指導者はだんだんむずかしくなってくる。君はよそ者、良くも悪くも対象とされる。これからは思い切って若者、若い指導者を叩き上げて遅れをとらないようにしろ』といわれた」。

◎長女(愛知県立看護短期大学教授・高橋百合子「私は小学校二年ごろまで正科である水泳は、まったく不得手であった。父はある日、私を海辺に誘い、ボートならぬ小舟に乗せ、舟を漕ぐ父の手の動きを眺めていた。父の目的は、一度で私に水泳を体得させることであった。突然、小舟から私を海の中へ放り込み、私は無我夢中で泳いだ。たいへん苦しかったが、こんなことがなかったら浅瀬の少ない興津の海では水泳の習得はなかったであろう。これも父独自の指導技法で、計画的に実践する勇気ある性格の一面でもある。類似する指導方法や生活態度が多かったが、一般的には意のあるところは理解されず、誤解と化す場合も多かったのではないだろうかと推察する」。

◎長男(東京大学工学部教授)・高橋裕「興津にいるころ、父はよく海岸に出かけ私に水泳を教えつつも、雲見を眺めては懐かしむようであった。父は小学校時代、その雲見から毎日二里近い道を通った。なにせ明治三十年代のことである。先輩や同僚の悪童が待ち伏せして、通学の邪魔をしたことが多かったという。そんな時、小舟を漕いでは海路学校へ行ったことがしばしばあったという。そのころ、父の家にはカツオ舟や小舟が何艘かあった。小学校から帰ると、毎日庭に干してあったなまり節を、一つずつおやつに食べた。幼いころの味が忘れられなかったのか、生涯を通して父の大好物はカツオであった。それも身の引き締まった塩焼きと中落ちをもっとも好んだ。しかし、白身の魚はほとんど食べなかった。(略)小学校のころ、美術学校へ行きたかったという父は、講演用の図表を墨でていねいに、かなりの時間をかけて書いていた。著書『柑橘』のすべての図面も自分でていねいに墨で書いたものである。こういった面では、まことに緻密で丹念なものであった」。

◎裕氏夫人・高橋利子「『孫といられることはいいことだ。孫のいない生活は寂しいだろうな』と、折あるごとに話しておられました。不出来な嫁であったと思いますが、孫を通して、実の両親になし得なかった親孝行をしたと自負しています」。