ヨハネ福音書21章7,8節  (4)   魚の満ちたその網 | ヨハネ福音書20章 21章

ヨハネ福音書20章 21章

ヨハネ福音書をとおしてイエス・キリストを知る

7節
そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、
主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。

自分たちの頑張りによって、夜通し働いた時には、ただの一匹も取れなかった魚が、
「舟の右側に網をおろしなさい。そうせればとれます。」 と、言われた方の通りにすると、
おびただしい数の魚がとれた。という体験によって、彼らは何とも不可思議な感覚に、
襲われたのではないかと思います。小舟の上でユラユラ揺られながら。

それは、弟子として、イエスに付き従っていた時の感覚、感動、喜び。

“水が葡萄酒に変えられた時”
何とも言いようのない、不可思議な、この世の計算とは全く違う、
この世の言葉では言い現すことの出来ない、人の努力とか、頑張りとか、そのような事は、
まったく受け付けない、神側の圧倒的な現実を見せつけられた、あの時の感覚、感動、喜び。

重い皮膚病がいやされた時も、生まれつきの盲人がいやされた時も、悪霊に牛耳られ、重症な精神の病におかされた人が、イエスのことばによって、完全にいやされ、敬虔な信仰者として、イエスの前にひざまずいた時も、神の国を宣べ伝えられた時も、旧約聖書を解き明かされた時も、自分たちの内側は、感動と喜びで満ちたではないか。

弟子たちは、網に掛かって、ピチピチはねている沢山の魚を見ながら、何とも言えない、
不可思議な感覚に、おそわれていたと思います。

そんな時、イエスに特別に愛されているという、あの弟子が、「主です!」 
と、ガリラヤ湖での漁を決行したリーダー、ペテロに向かって大声で叫んだのです。


7節 
“すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、
湖に飛び込んだ。”

シモン・ペテロは、ヨハネのように、イエスを目で見て確認したのではなく、ヨハネの言った
「主です。」この声を聞いて、つまりヨハネが言ったことを、自分の目で確認もせず、湖に飛び込んだのです。

ペテロにも、分かっていたんでしょうね。
「舟の右側に網をおろしなさい。そうすればとれます。」
と言われた方が、主イエスであることを。
もしかしたら、三年前の、同じような出来事を思い出して、ヨハネが言うよりも先に、
主だと、気づいていたかもしれません。

でも、ハッキリと自分の目で確かめる勇気がなかったのです。
しかし、ヨハネの確信に満ちた「主です。」 と、自分に向けて言い放った言葉を聞いた途端、
反射的に湖に飛び込んだのではないでしょうか。

しかも、裸であったのに、わざわざ服を着て、飛び込んだ、と書かれています。

ここに、ペテロだけが抱え持っていた、イエスへ対する、心の闇があったのではないか、と、
私は考えます。つまりペテロは湖に飛び込むことによって、また裸であったのに、上着を着込むことによって、自分の本当の姿を、イエスからとっさに隠したのではないかと思いました。

創世記3章で、アダムとエバが、サタンに誘惑されて、善悪の木の実を食べた後、二人の目が開かれて、一番初めにしたことは、自分たちが裸であったことを知り、それぞれ、いちじくの葉をつづり合わせて自らを隠し、更に、主なる神の声を聞いた時には、園にある木の間に、身を隠しています。

この時のペテロは、余りにも愛と聖さに満ちた神、復活のキリストのみ前に、余りにも罪深い、
余りにも不信仰な、余りにも汚れた自分の姿を、隠せざるを得なかった、のではないでしょうか。

イエスの宣教活動の初期に、ペテロは今回の出来事と、類似していることを、
個人的に体験しました。

ルカ5章1節に書かれていますね。

やはり一晩中、肉の頑張りの結果、何ひとつ取れなかった、という体験。
そのシモンに向かってイエスは、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」

イエスのことばに従った時、網が破れそうになるほどの、大漁を経験しました。
ペテロは、弟子としての初期と最後に、同じような体験をしています。

初期では、イエスの足元にひれ伏して、「主よ、私のような者から離れてください。
私は、罪深い
人間ですから」と言った。

そして、弟子としての最後の章では、無言で上着を着て、水の中に飛び込んだのです。

どちらの行為も、イエスを全能の神、主なる神、と認めたがゆえの、ペテロの行動でした。
ペテロは、自分の目の前に、イエスがその実体をもって現れた時、何とも言えない程の罪深さ、
不信仰さ、罪責感、無力さを、自分の中に見たのでしょうか。

信仰生涯の中で、イエス・キリストを、「私の主、私の神」として従い続け、礼拝し続けることができるのは、神から見た、どういう自分を受け取っているか、なのです。

ヨハネは、「主に特別に愛されている弟子」 というイエスの思いを受け取りました。
ペテロは、「主よ、私のような者から離れてください。私は罪深い人間です。」
と、自分の心を受け取ってしまいました。

このペテロに向かってイエスは、個人的に語りかけられるのが、15節です。
主は、このペテロに向かって、「わたしを愛しますか。」 と聞かれるのです。

21:8
しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやってきた。
陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。

21:6には、
“おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。”と書かれています。

全能の神がなさることは、人の力では、どうすることもできないことが書かれています。
それで彼らは、水の浮力を使って、小さな舟で、おびただしい魚を、やっとこさっとこ、
陸地まで引いて来たのです。

おびただしい魚で満ちたその網とは、これから始まる、復活のキリストの、力あるみことばに
よって、世の人々のたましいの大収穫を、現実にこの世にもたらすための、圧倒的な力に満ちた、
聖霊の働きを象徴するものでした。

弟子たちはこれから、水の浮力によってではなく、聖霊が力強く働かれる、主の臨在の中で、
霊的浮力によって、多くのたましいを、主のみ元に運んでいくのです。

でも弟子たちは、そんなこと、全く夢にも思っていない。

しかしイエスは、おびただしい魚で一杯になったこの網に、これから、この弟子たちの、
宣教の働きによってかかっていく、イエスの愛する、ひとりひとりのたましいを、
見つめておられたのです。

ヨハネ3:16
“神は実に、そのひとり子をお与えになるほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。”