ヨハネ福音書21章1,2,、3節 (1)     私は漁に行く | ヨハネ福音書20章 21章

ヨハネ福音書20章 21章

ヨハネ福音書をとおしてイエス・キリストを知る

ヨハネ21:1、2
この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。
その現された次第はこうであった。
シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、
ゼベダイの子たち、他に二人の弟子が一緒にいた。

テベリヤ湖畔というよりガリラヤ湖、といった方が、馴染み深いですね。
イエスはもう一度、ご自分を弟子たちに現された。と書かれています。
どうしても、もう一度、弟子たちに直接会う必要があったのです。

マルコ16:7にはこう書かれています。
“ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなた方がより先にガリラヤへ行かれます。
前に言われたとおり、そこでお会いできます』と言いなさい。”

彼らはイエスのことばを聞き、「ガリラヤへ行けば、再びイエスに会えるんだ。」
そんな思いを抱きながら、何日間かの道のりを徒歩で旅をし、やっとガリラヤまでたどり着いた。
1節にはそんな状況が書かれています。そして、ガリラヤに着いた途端、
彼らの目の前には、懐かしき我ふる里、ガリラヤ湖が広がっていたのです。

主が弟子たちに言われたのは、「あなたがたより先にガリラヤへ行っている。」

だから彼らがガヤガヤ、おしゃべりをしながらガリラヤ湖へやってきた時には、もうすでに、
主が、そこにおられたのです。それはイエスが弟子たちに、十字架と復活を予告された
後に語られていた、イエスの約束だったのです。

イエスは復活されてから、肉眼では見えなくても、主はここにおられる
という訓練をしてきました。トマスの時もそうでした。トマスは嫌というほどの大失敗をして、
目には見えなくても、主はここにおられる。という大切な霊的真実を学んだはずです。

イエスがガリラヤ湖でなさろうとした弟子たちへの訓練も、イエスが語られたことばをしっかりと握って、
肉眼では見えないけれど、確かに主がここにおられる。 という神側の現実を握り、
主の実際の現れ、神の時を待つ、という、これからの働きのための重要な訓練。
これが、主が昇天する前に、絶対にしておかなければならない訓練だったのです。

しかしながら、彼らはガリラヤに到着した途端、何を一番初めにしたのかが、
3節に書かれています。

3節
シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く」
彼らは言った。「私たちも一緒に行きましょう。」
彼らは出かけて、小舟にのりこんだが。しかし、その夜は何もとれなかった。

マルコ16:7で、何で“お弟子たちとペテロ” というように、弟子とペテロを
セパレーツしたか、ここではっきりと分かりますね。
ガリラヤ湖にすでにおられる主に出会うために、つまり、神側の事実を受け取るために,
“待つ”という大切な訓練を主がしようとしているまさにその時に、

肉のリーダー、シモン・ペテロ(ここにもシモン・ペテロ)が、主の訓練より先んじて、
登場したのです。 どうですか、このシモン・ペテロ。以前と何も変化してない感じですよね。

ペテロは、「あなたがたより先にガリラヤに行っている。」と言われたイエスのことばなど
すっかり忘れて、すでに三年前に捨てた網を持ち出し、捨てた小舟に乗って、
捨てたはずの職業をするために、「漁に行く。」 と、行ってしまったのです。

すると他の弟子たちも、「俺も、俺も・・」って、シモン・ペテロについて行ってしまった。
本当に情けない弟子たちですね。

2節に、シモン・ペテロの次に書かれているのが、デドモと呼ばれるトマスです。
弟子たちの中で二番目にトマスの名が書かれたのは、初めてではないでしょうか。

何でトマスが二番目に書かれたのでしょうか?  トマスは、わずか何日か前に、
「私の主、私の神」と告白し、パーソナルな関係の中で、復活のキリストを礼拝したのです。感動的な場面でした。

本当にそうだ。トマスのように礼拝しなくちゃ、と我々に思わせた、そのトマス。
そのトマスだけは、暴走するシモン・ペテロに対し、「いや、俺は主に再び出会うために、
ここで待っている。」 と、そのようなこと、言ってもよさそうなものでしたよね。

イエスが言われたことばをそっちのけにして、バリバリの、生まれつきの性質シモンモードで
突っ走っている彼を、唯一、止めることのできる最善の位置にいたのはトマスです。
この時は、ナンバー2だったのですから。しかしそのトマスさえ、「俺も行く。」って、
シモン・ペテロついて、漁に行ってしまったのです。

イエス、お一人を、その場にのこして。

どうですか、この弟子たち。
あなたがイエスだったら、カンカンに怒って、「もう天に帰る!」 と、
怒って帰ってしまいませんか。

でもイエスは、最後の最後まで、彼らを見放さず、関わりを持ち続け、深い愛と赦しの中で、
彼らを育んでいかれるのです。この弟子さえ見放さないのなら、
自分もイエスから見放されることは絶対にない。

って、思いませんか。弟子のように、失敗や裏切りや様々なことを、
日々しでかしてしまう自分でも、イエスからは、絶対に見捨てられることはない、って、
安堵しませんか。

私はそう思います。
私ごとで恐縮ですが、私が初めて教会に行ったのは、18歳の時、近所のおばちゃんに誘われて、(今の私はおばちゃん以上の年ですが・・)近くの教会に行きました。クリスマスが近かったのか、処女マリヤからイエスが誕生したことを壇上で牧師が話されていました。

その時の私は、「そんなこと絶対にあるはずない。」と思い、あたりをキョロキョロ見回すと、皆、真剣にその話を聞いているではありませんか。それで、隣に座っているご年配のご婦人に、「本当にこんな話、信じてるんですか?!」って聞いたのです。
するとその方は、ニコニコしながら、「信じてますよ。」 

私は、「みんな狂ってる~」って心底、思いました。
でも、ふと、「どうしたら、こんな話を信じれるんですか?」と聞くと、
「洗礼を受けたら信じれますよ。」 と、言われたのです。

私は、その洗礼、ってやつ受けてみよう。と思ったのです。
「本当にこんな馬鹿げた話、洗礼を受けたら信じれるようになるのかな。」
と、ある意味、期待して洗礼を受けました。

ところが、ビフォーアフター、何も変わっていなかったのです。
ただひとつだけ、自分がすごい罪人だ、という事がわかりました。
そして、イエス様という方は、きよい、きよいお方で、ずっと遥か遠くにいて、
私にとっては、「とても敷居の高い存在だぁ。」

ということだけを自分勝手に理解し、牧師に「私には無理です。」 と言って、
さっさと教会を辞めてしまいました。何の自責の念に縛られることもなく。

その後、今度は意気揚々と、学生運動にのめり込んで、徹夜でガリ版をすっては、
ビラを配り、デモをし、街頭で原水爆禁止運動の募金活動などを連日、やっていました。

ある日、父の車を借りていつもの活動に出かけ、友人の家で一泊し、朝、家に帰る途中、
居眠り運転をしてしまいました。ハッと目が覚めた時は、すでに車線を超え、
右側にある電柱に、ぐんぐんと車が近づいて行ったのです。

その時、ハンドルを握っている私の手の上に、薄水色の、やわらかそうな衣服の
袖から出ている手が、私の手の上に重なるように置かれていました。

「こっちに来れば助かる。」という確かな声が、仰天している私の耳元で聞こえ、
スローモーションでその手が左にハンドルをきると、私の手もそれに合わせるように
スローモーションで動き、右方面にまっしぐらに向かっていた車が、元の左車線に戻った時、
その手は、いつしか消えたのです。

居眠り運転する前は、自転車や乳母車やバスや人が、たくさん通行していた、
曲がりくねった道が、その瞬間は、人っ子ひとりいなかったのです。

そんな、今考えても不思議な体験をしてさえ、それがイエス様の出来事だとは当時、
考えなかったのです。その後、何年かして、人に誘われ、宗教を転々とするようになりました。

洗礼を受けた直後、自分勝手に教会を辞め、その後、学生運動に走り、その中で、
命を救われる奇跡を体験したにも関わらず、宗教を転々としたのです。
有り得ない、不信仰の極み。トマスの上を行く、かたくなな、不信仰と
裏切りの極みでした。

その後、プロフィールにも書きましたが、長男の非行という大問題に出会い、27年後、
再び教会へと導かれました。30年、40年も真面目にコツコツと
信仰生活をおくってきた人にとっては、洗礼を受けてから宗教を転々とするなど、
救われない。と言います。

しかし、生ける主だけは、そんな私を見捨てることなく、なおも導き、
いやし、赦し、愛し、再び受け入れてくださったのです。 
ある聖会に出席していた時、突然、やわらかい毛布のようなものに、
全身を包まれる感覚がありました。「イエス様だ。」とはっきり知りました。

その暖かい毛布のような主のみ胸で、今でも、オイオイと泣くことがひんぱんにあります。
それは、悲しみの涙でもなく、嬉しいからでもなく、主のいのちの中に、
私の命が一体となって交わっていき、私の内側の深みから不思議な涙が溢れ流れるのです。

私の過去、現在、未来のすべてを愛し、赦し、抱きしめてくださる主。
私の行動には一切左右されず、ただ、一方的な愛と赦しのゆえに、決して私を見放さなかった。
だから今、主の愛の中で生きる私がここにいるのです。

主に直接出会ってから後、主の愛と赦しによって、真実の悔い改めへと幾度も導かれました。
悔い改めとは、過去を反省することでも、もう絶対にしない。ということでもなく、
真の悔い改めは、生ける神の方向に向かって主と共に、一歩、勇気を持って
歩き出すことだと分かりました。自分の生きる方向を主にだけ向けて、
そこに向かって歩み出すことを決意する。

その時に、主の、私への個人的な計画が、少しずつ、少しずつ、
主とのいのちのやり取りの中で少しずつ、現れ出てくると思います。

では、3節に戻りましょう。

“しかし、その夜は何もとれなかった。”

彼らは、イエスを待つ、ことより先に、自分たちの出来る世界を選択し、
そこに突入していきました。
自分たちの出来る世界で、自分の能力を精一杯注ぎ込み、できるだけのことを、
やれるだけのことをやり尽くしたのです。その熱心さは、夜通し続いたのです。

しかし、彼らは、たった一匹の魚も得ることはできなかったのです。
何度も何度も、網を投げ入れたでしょう。今度こそ、今度こそ、という熱意の中で、
頑張りの中で、一匹も取れない、という現実を突きつけられ、腕の良い漁師として、
激しい行き詰まりを彼らは体験したのです。行き詰まる、という
体験したのです。

なぜ、一匹も取れなかったのでしょうか。

それは、ただの魚なら、頭があって、えらがあって、背びれがあって、ウロコがあって、
しっぽのある魚、人が、パクパクっと食べる、あの魚なら、左側に網を投げたって、
沢山取れるでしょう。現に、ヤコブとヨハネの父ゼベダイは、その世界で
多くの使用人を使って成功しています。

では今、彼らはなぜ、一匹も取れなかったのでしょうか。

それは、今の彼らは、魚を取る漁師ではなく、人間を取る漁師になっていたからです。
もちろん、彼らはそんなこと、夢にも知りません。なぜならこれは、神の側の現実だったのです。

ヨハネ20章の19から22節の箇所には、
復活のキリストが彼らのいる所に現れ、「平安があなたがたにあるように。」と2回言われました。
2回目の時には、「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
こう言われた後、“彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」”

もう彼らは、元の漁師には戻れないのです。元の取税人にも戻れないし、
元の男達には戻れないのです。なぜなら、復活のキリストが、ご自分の働きを継承するために、
彼らを神の息によって、聖別したからです。"人間をとる漁師として。"

マルコ1:17
イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」

この行き詰まりは、人間をとる漁師として彼らを育てるための、重要なレッスンだったのです。

この行き詰まりが無かったら、彼らは自分自身で、人間をとる漁師になれると、
思い込んだことでしょう。イエスのみことばに徹底的に従うことを通して、
全能の神の能力によって、神の出来事、人間をとる漁師に、イエスがするのです。

ヨハネ17章6節
わたしは、あなたが世から取り出して、わたしに下さった人々に、あなたの御名を
明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。
彼らはあなたのみことばを守りました。

主の祈りです。深く、味わいたいですね。