ヨハネ福音書20章 30,31 節 復活のキリストのいのちを得る(16) | ヨハネ福音書20章 21章

ヨハネ福音書20章 21章

ヨハネ福音書をとおしてイエス・キリストを知る

ヨハネ 20:30節

この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行われた。

ヨハネ福音書は、これだけのボリュームの中で、奇跡の記事が6つしかありません。男5千人の給食を除いて、すべてヨハネ福音書だけに書かれた記事です。

① 水を葡萄酒に変えた。(2:1~11)

② 王室の役人の息子のいやし。(4:46~53)

③ ベテスダの池で38年伏せっていた男のいやし(5:1~14)

④ 男5千人の給食(6:5~13)

⑤ 生まれつき盲人のいやし(9:1~7)

⑥ ラザロのイエスによる究極の蘇生(11:1~44)

ヨハネ福音書は、奇跡の記事を多く書く事よりも、イエスがなされた奇跡が、神の側でどのような意味を持つのかを、イエスが表現されたことばによって、とても詳しく書いています。

例えばヨハネ6章の男5千人の給食を記した後、6章26節から58節までの紙面を使って、
天から下ってきた,いのちのパンについて、イエスが語られたことばを通して、
神の国を解き明かしています。

ヨハネ福音書は、4福音書の中で、最後に書かれたそうです。
なので、重複を避け、イエスがなさった奇跡を厳選して、イエスが語られたことばを通して、
深い神の真理を具体的に、しかも豊富に解き明かしていると思います。

31節
しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

私ごとで恐縮ですが、最初に、このみことばが与えられて、ヨハネ福音書を始めることにしたのです。
すべてが、このみことばによって始められた事を思い出します。

イエスのいのちを得る。復活のいのちを受け取り続けていく。これが二番目のない、
クリスチャンとして、最重要なことであることを、その時、深く、思わされたのでした。

イエスが神の子、キリストであることを信じ、受け取った私たちクリスチャンが、一番大事なことは、イエスの御名によって、つまり、十字架と復活を成し遂げられた、キリストの実態、実質によって、一対一の、個人的な関係をとおして、復活のいのちを受け取っていく

ヨハネ福音書は、私たち一人一人が、イエスの御名によって、いのちを得るために書いたのだと、
明確に書かれています。これを否定することはできないでしょう。

なんというシンプルさ、ではありませんか。

人間の考える、複雑怪奇な、キリスト教的批判思考から比べたらです。

人間の肉の考えは無数です。宗教ひとつにしても、人の数だけ作ろうと思えば作れます。
聖書に対して批判的な考えや言葉も、人の数だけあります。すべて、自分を特別にする、無数の思索、無数の複雑さです。

聖書の真理は、シンプルです。しかし肉は絶対に寄せ付けないのです。

イエスが神の子であり、救い主キリストであることを個人的に信じ、
イエスの御名によって、復活のいのちを受け取ること

イエスの復活のいのちを受け取ったものは、絶対に、複雑な思索に陥ってしまうことはありません。
イエスの復活のいのちを受け取った証拠は、イエスとの関係が日々、深まっていくのです。

生ける神との、生ける、いのちの営みは、関係の深まりだからです。

ヨハネが自分のことを、「主に愛された弟子。」と全世界に向かって紹介しました。
そのヨハネが書いた福音書を、学んでいるのです。

この福音書が、最終的に、キリストのいのちを得るため、と言われたのですから、
聖霊によって、そのことが、実現していくように、祈っていきましょう。

これで、ヨハネ20章は、終わります。