ヨハネ福音書20章19節 平安があなたがたにあるように (11) | ヨハネ福音書20章 21章

ヨハネ福音書20章 21章

ヨハネ福音書をとおしてイエス・キリストを知る

ヨハネ20:19

その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、
ユダヤ人を恐れて戸が閉めてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。
「平安があなたがたにあるように。」

マリヤが復活のキリストに出会ってから、随分と時間が経過していることが、まず、記されています。

朝早く、まだ暗いうちにマリヤが墓に行ったことから始まった出来事が、
19節ではすでに夕方になってしまったのです。

ユダヤ暦は日没から始まり、日没で終わると聞いています。

週の初めの日とは、日曜日であり、イエス・キリストが、ご自分が語った通りに復活された、
人類史上最大の、最も驚くべき神側の出来事がこの地上に起こった日です。


“その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。”

ユダヤ暦は夕方の日没から次の日付がカウントされます。だからわざわざ、
その日、すなわち週の初めの日の夕方”、その日であるけれども、もう夕方になってしまっていた。

何が言いたいかというと、キリストが復活したその日が、あと少しで終わろうとする、
ギリギリの時が迫っていたのです。

あとちょっとで日没が始まり、次の日が目前に迫っている。でもまだギリギリ、
キリストが復活した、その日である、という時の緊迫感が、
19節には記されているように思います。

弟子たちは、時間的にはのんびりと、隠れていたのではないでしょうか。

しかしイエスだけは、週の初めのその日に、ご自分が約束どおり復活した出来事を,
復活したちょうどその日に、ほんのちょっともずれることなく、
弟子たちの前に,復活の姿を顕すことを決めておられた。

その日がもうすぐ終わろうとしているのに、相変わらず弟子たちは隠れていた。

復活のキリストを証する宣教師としてのマリヤが伝えたイエスの伝言を、
弟子たちはどう受け取ったのでしょう。

そもそも、なぜこんなにも強烈に隠れるようになったのか。

イエスが逮捕されて以来、ヨハネ(十字架の下にいた)だけは例外で、他の者たちは、
ずっと隠れ続けていたではありませんか。って、言いたいですよね。
なぜ、イエスが復活されたその日に限って、こんなにも厳重に隠れまくっていたのか。

それは、イエスの遺体が無くなっていたからではないでしょうか。

ペテロとヨハネは、イエスの遺体が無くなっていた、というこの出来事を、最悪な出来事、
不吉な出来事として受け取り、何か悪いことが自分たちにも及ぶのではないか、
という心配に更に打ち震えて、筋骨隆々の海の男たちが、小さな部屋で、
ブルブル震えて隠れていたのではないかと、想像されます。


時間的にはギリギリの、もうすぐ、日没が始まる直前の、その日の夕方
彼らの恐れが、隠れ家の扉にも壁にも振動しているようなそんな所に、
イエスは入って来られたのです。

なんということでしょう!