ヨハネ20:10
それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。
弟子たちは、何度、神の出来事に見切りをつけて、また、自分たちのところへ帰ってしまったことでしょう。
自分の所に帰ったのは、これで何度目でしょうか。
また、自分たちの所に帰っていった。というこのまた、という言葉が、耳に痛く聞こえませんか?
彼らにとっては、「イエス様は大事、一番大事。でも、イエス様抜きでも、取り敢えず、存在拠点はあるし、帰る場所もあるし、仕事もあるし、そこそこ生きていける。」
このような信仰生活を送ってきた人は、耳が痛くありませんか?
そう、弟子たちにとって、イエスは最も大切な最優先順位だった。
しかし、その次の第二、第三、が歴然とあったのです。
イエスぬきでも生きていける、帰るべき自分たちの居場所があったのです。
20:11
しかし、マリヤは外で墓のところでたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んでいた。
弟子たちは自分たちの所に帰っていった。しかし と言って、ヨハネは、彼らとは全く相反する、マリヤの行動を大きくクローズアップしました。しかし、マリヤは墓の所に立ち続け、泣き続けていたと。
弟子たちはイエスから目を離し、自分たちの所に帰って行った。ではマリヤは?
マリヤには帰るべき場所はなく、イエスが葬られた墓に立ち続けていたのです。
そして墓の前でひたすらやっていたことは、目の前に立ちはだかる大問題のど真ん中で立ち往生し、絶望のあまり、号泣していたのです。
からだをかがめて墓の中をのぞき込んでいた、というこの行為は、この大問題に首を突っ込み、
更なる痛みと悲しみと絶望を確認して、またその悲しみに浸っていた。その悪循環。
更に問題を自分で大きくし、そして押しつぶされ苦しみ悶える。この悪循環。マリヤはこれをしていたのです。
神不在の信仰者の姿ですね。過去の私の姿とダブります。