医者ともあろうものが | S.H@IGTのブログ

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大阪府泉佐野市にある、ゲートタワーIGTクリニックの院長のブログ

医者ともあろうものが



『医者ともあろうものが』は私の尊敬し敬愛する見川鯛山先生が書いた本の題名であり、断じて言うが、私の友人やスタッフが私に向かって言った言葉ではない。


私が医者になった頃、とある製薬会社の情報誌に見川鯛山先生がエッセイを書かれていた。

このエッセイを一冊の本にまとめたのが『医者ともあろうものが』である。

毎月発行されるこの情報誌の他のところは全く覚えていないが、見開き1ページのこのエッセイだけは一字一句大切に、何度も何度も読んだ。

鯛山先生は那須温泉郷の長い坂を登りきった所で診療所を開いておられた。

季節の神様が織りなす那須高原の大自然の描写に始まり、そこに生きる人々と鯛山先生との人間味あふれた交流とその人々の心の中のろうそく一本の温かさ、どうしようもなく哀しい人間の性を素朴なクレパスタッチで描いた至極のエッセイであった。

挿絵は、おおば比呂司氏の絵で、鯛山先生と阿吽の呼吸で描かれた絶妙のとぼけた温かい絵であった。


いつしか私は、見川先生を訪ね、お話を聞くことを夢見るようになり、とうとう鞄いっぱいに見川先生の10何冊の全著書を詰め込み、大阪から那須高原まで日帰りで出かけた。

丁度福島に住んでいた私の弟をそそのかし、福島空港から那須高原まで運転してもらい、那須高原への長い坂をたどった。

那須高原の麓には見川先生の心を悲しませていたパステルカラーのペンション、レストランがカタカナ文字の看板を道にまで張り出しながら立ち並んでいたが、登り詰めた坂の上にはエッセイに出てくる景色、雰囲気をそのままに残した古い温泉街が広がっていた。


見川先生のご自宅を探し出し、二人のどちらが呼び鈴を押すかジャンケンで決めたりした。

突然の怪しい男二人の訪問にも拘らず、温かく迎え入れていただき、掘り炬燵で家族のように話をさせていただいた。

決しての話の弾む人ではなかったが、馬で往診していたころ、開拓部落で往診中に馬が勝手に家に帰ってしまった話などエッセイにはないお話を聞かせていただいた。

息子さんが医院の後を継いでおられたが、都会から帰ってきた若先生が心電図を見て診断するより、見川先生が脈を取って診た方が患者さんが安心するという話には、すっかり医者の仕事の奥深さを感じさせていただいた。

その日、ずっしりと重たい十数冊の本のすべてに見川鯛山先生のサインが入り、光り輝く私の宝物となり、頂いた色紙は私の勉強部屋の壁の真ん中、目の高さに掲げてある。



一年後、同じように読者であった無二の友人と再び那須を訪ねた。今度は、包み紙におおば比呂司氏の絵が描かれている京都の“おたべ”を何箱も持って行った。着いたのはお昼頃だったが、朝寝坊の鯛山先生を起こす勇気はなく、お土産を置いてそっと退散した。ありがたいことに直ぐにお礼の葉書をいただき、その葉書は鯛山先生の色紙の横に自慢気に貼ってある。


しばらくして奥さんがお亡くなりになり、ほどなく出版された本の題名が、『見川鯛山、これにて断筆』であった。

見事な人生の完結と言うほかはない。

その後、平成178月に88歳で亡くなられたという。



私は血管造影装置やCTなどの高度の医療機器に囲まれて医者の仕事をしているけれど、私は鯛山先生の生き方と全く違う生き方をしているけれど、色紙と葉書は、日常の忙しさの中で何処かに置き忘れてきた医者としての何かをいつも思い出させてくれている。


大切に何度も読み続けたこのエッセイが私の医者としての人生の方向を導いてくれているのかも知れない。


私はこの本を名著の極みだと思っているのだが、残念ながら何故か絶版になってしまった。『医者ともあろうものが』、いよいよ私の宝物である。






追記:訪問した時にもうひとつ大切なものを頂いた。ご近所に配られた叙勲の挨拶状である。勝手に公開してはいけないものかも知れないけれど、見川鯛山先生をご存じない方に先生のユーモアに溢れた温かさを知ってほしいと思うばかりです。




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