有岡城の紹介1 歴史と戦い | みどりの木のブログ

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最近、 油圧機器大手「KYB」(東京都港区)と同社子会社による免震

・制振装置の検査データ改ざん問題で、不良品を設置されたビルの所

有者の了解が得られず、一部しか公開されませんでした。有名なビル

もあるとかで不安になりますね。この問題が発覚したのは、下請会社

の従業員の告発だそうですが、その方に不利益がないように、マスコ

ミも見守る必要がありますね。

 

今回から有岡城の紹介です。

2018年9月18日に訪問しました。

 

有岡城跡は猪名川の西岸にある伊丹段丘のへりに位置します。

もとは伊丹氏が南北朝時代から戦国時代にかけて伊丹城を築い

ていたところです。

1574年11月に、織田信長の家臣荒木村重は伊丹氏を破って、

伊丹城に入城しました。城の名を有岡城と改めて大改造をおこな

いました。城だけでなく町屋も堀と土塁で囲んだ惣構の城としての

価値を認められ、昭和54年12月に国の史跡に指定されました。

 

これらの石垣は新しい模擬復元です。

下合成図②の所です。

 

有岡城跡主郭部の史跡公園整備は、昭和58年度から始められ、

平成5年度に完了しました。土塁の石垣や建物・井戸・堀跡などが

復元され、市民の歴史学習や憩いの広場として活用されています。

 

現地にあった有岡城の縄張図です。

 

グーグルより引用の主郭部周辺地図です。

主郭部のはぼ中心を東西に道が通っています。

伊丹城とある所が有岡城の主郭部です。

縄張図主郭部分を拡大して、グーグル地図に重ねると

 

縄張図を上に重ねました。(上が北)

主郭部の範囲が分かります。

主郭部の東半分はJR福知山線の

伊丹駅建設時に破壊されました。

画面右上に少し見えるのが猪名川

です。

 


主郭部を上図①から見たところです。丘になっているところが主郭部です。中央に道があります。


城主だった荒木村重の解説板です。

 

荒木村重の肖像画と花押です。(伊丹市立博物館蔵)

父義村の代から池田城主の池田家に仕えていました。

 

1573年に槙島城の戦いで信長に味方して、足利義昭と

      戦い戦功を上げます。

      信長に対面して、信長から刀を口に差し込まれ

      ますが、耐えて家臣になり、摂津守護にしてもら

1573年12月に伊丹氏を破ります。     

1574年に伊丹城を有岡城と改名して本拠地とし、信長

      に尽くします。

1578年に信長にそむいた別所長治を三木城に攻めます。

      しかし、10月に荒木自身も信長にそむいて、毛利

      ・石山本願寺と同盟します。このとき、黒田官兵衛

      が、信長方に戻るように説得に行き。主郭部辺り

      に幽閉されました。11月に信長は安土城から出

      陣して、5万の大軍で有岡城を取り囲みます。

      荒木軍も1万数千人いるので、12月の総攻撃を

      退け、籠城戦となりました。

1578年9月に村重は数名の家臣とともに、尼崎城主の

      長男の所に移り、毛利・本願寺・雑賀への援軍

      派遣を要請しますが、思うようにはいきませんで

      した。10月には上臈塚砦より信長軍が侵入して、

      侍町に火が放たれて、11月に落城しました。  

             逃げられずに捕まった、家臣とその家族のうち

      数百名が処刑されました。木村村重は毛利方に

      逃げています。

 

この合成図の③から北方向は

 

③から北た方向です。

駄六川があり、堀代わりになっています。

そして、今イオンモールのあたりは沼地でした。

 

寛文年間1669年の古地図です。駄六川を水色で塗りました。

 

上の写真の左側は

 

上図④の石垣が見えます。

模擬復元の石垣です。

東側からは攻めにくい地形になっています。

道と鉄道で主郭部の丘が削られています。

 

有岡城の構造

 



有岡城は城である「主郭部」と家臣団の住む「侍町」、そして一般町人の住む「町屋地区」

に分かれています。主郭部は伊丹段丘が東に突出した位置に築かれ、西側と南側に人工

の堀を設けていました。

そして,侍町と町屋地区を含む東西800m・南北1700mの範囲を、堀と土塁で囲んだ、

「惣構(そうがまえ)」の城としました。また北・西・南の要所には、それぞれ「岸の砦」「上臈

塚(じょうろうづか)砦」「鵯塚(ひよどりづか)砦」の3つの砦を築いていました。

天正8年に、信長の家臣池田信輝の嫡子之助(ゆきすけ)が入城しますが、天正11年に

は美濃へ移り、伊丹は秀吉の直轄領となりました。その後大名は置かれず、いつしか城

は放置され、江戸時代には地元の人々から「古城山」と呼ばれるまでになりました。

 

重ね図⑤にある石碑です。

 

江戸時代に主郭部の所有者夫婦が、古城跡を守り

明治34年に上の石碑を建てました。

 

焼け残った町屋地区を中心に伊丹の町は酒造りで発展し、15ヵ村一続きの“伊丹郷町”

として繁栄しました。明治に入ると,川辺馬車鉄道や阪鶴(はんかく)鉄道(いずれも現在

のJR宝塚線の前身)の建設工事により主郭部の東半分が失われました。


発掘調査と史跡指定

国鉄伊丹駅前の整備事業にともない、1975年から主郭部の発掘調査が始まり、北部

の金光教跡からは本丸跡の石垣や建物跡が、駅西側の荒村寺跡からは庭園遺構が見

つかるなど、予想以上によく遺構が残されていることがわかりました。その結果、駅前再

開発計画の再検討がおこなわれ、遺跡のうち主郭部の一部(伊丹1丁目地内)と「きしの

砦」が置かれていた猪名野神社境内、そして、惣構の輪郭線である水路と道路敷きの、

一部が国の史跡に指定されました。また、その後の発掘調査により確認された堀跡につ

いても、追加指定を受けました。有岡城跡・伊丹郷町遺跡の発掘調査はその後も続いて

います。

なお、有岡城跡・伊丹郷町遺跡からの出土品の一部は、市立博物館の常設展示や市立

伊丹郷町館で見ることができます。

 

今日はここまでです。明日に続きます。

 

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